◆新朝日ビル(SABホール)事故(1971年)

  1971(昭和46)年12月24日のことである。

 大阪市北区中之島二丁目の「新朝日ビルディング」の前の歩道で、少年少女たちがずらっと列をなしていた。彼らは午前10時頃から並び始めており、午後1時過ぎにはその行列は60メートルほどに達していた。

 この、新朝日ビルディングは1958(昭和33)年4月に朝日新聞大阪本社の向かいで開業したもので、地下2階、地上13階建て。屋上にはヘリポートがあり、朝日放送の本社やラジオ部門が入居していた時期もあった。

 そして12月24日のこの日は、ビルの地下一階の「SABホール」で公開生放送が行われることになっており、行列の少年少女たちの目指す場所もそこだった。

 「SABホール」について少し説明しておこう。このホールは以前はABCホールという名称で、新朝日ビルの竣工にあわせてラジオの公開放送用のホールとして造られたものだった。その後の1966(昭和41)年の朝日放送の移転にあわせて名称も変わり、「Shin Asahi Building」ということでSABホールという名前になっていた。

 この日、同ホールでは子供たちに討論させる視聴者参加型のバラエティ番組『4時だぜ!飛び出せ!!ワイワイワイド』の公開生放送が行われる予定だった。前年に放送が始まった人気番組である。

 ホールの入り口前で行列を作っている小中学生たちは、誰もがこの番組が目当てである。彼らは一様に会員証を手にしており、開場を心待ちにしていた。

 ビル側でも、大勢が来ても対応できるよう準備していた。入口には会員証をチェックする係の女性が二人、さらにホール内の整理と誘導のためにテレビ局の社員一人とアルバイトの学生が二人、待機することになっていた。

 待機する「ことになっていた」と書くぐらいだから察しがつくと思うが、この時、彼らは食事などに行っていて現場にはいなかった。

 さて、小中学生たちも黙って並んでいるうちは危険でも何でもなかったのだが、これが動き出した途端に混乱が起きた。係の者が行列を30名ずつに区切って、会員証を確認しながら入場させようとした時のことだ。後続の子供たちが急に列を乱し、ビルの地下へと通じる階段に殺到したのだ。

 子供たちは階段を駆け下りてホールへ向かう。「止まりなさい!」と警備員がメガホンで呼びかけるが効果はなし。ホールの入り口の階段は幅2.45メートル、段数は26段。勾配はゆったりしたものだったが、駆け込みが危険なことには変わりない。

 この時点で、すでにちょっとした騒ぎだったようだ。喧噪を聞きつけて、近くのテナントの従業員が駆け付けてきた。資料によると、この従業員は現場の混乱ぶりを見かねて、殺到する子供たちに真正面から体当たりする形で押さえつけたという。

 これで、場の混乱もちょっとは鎮まったのだろう。警備員は階段の上に回り、殺到する小中学生を一人ずつ引きはがしにかかった。だがその状態も長くはもたず、群集を支えていたテナント店員は力尽きてしまった。

 で、事故発生である。約50名が一気に倒れ込み、これにより33名が重軽傷を負った。このうち12~14歳の男子8名と女子1名が重傷を負った。

 事故発生で大騒ぎになったと思うのだが、主催者側は「おわびショー」と称して番組放送を続行した。最高責任者だったテレビ局の幹部は現場の状況についてまったく把握していなかったようで、事故については「当日はアルバイトの学生が整理に当たっていたはずだ」とだけコメントしている。

 その後、SABホールは1989(平成元)年の改装を機に「リサイタルホール」という名前に変わった。

 また、朝日新聞グループは2007(平成19)年4月に、新朝日ビルを含む三つのビルの老朽化が進んだのでこれらを二棟の超高層ビルに建て替える「大阪・中之島プロジェクト」を発表。こうして新朝日ビルは2012(平成24)年11月6日に「中之島フェスティバルタワー」の東地区棟へと生まれ変わった。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
オズモンズ・osmonds・ファンクラブ・活動日記 1969~
◆Weblio辞書