◆ホディンカの惨劇 (1896年・ロシア帝国)

 1896(明治29)年5月29日の夕方のことである。有名作家のウラジミール・ギリャロフスキーは、モスクワの「ホディンカ」に到着した。

 ホディンカというのは、どうやら原っぱのような場所らしい。資料によっては「遊歩道」とおぼしき書き方もされている。当時のモスクワ守備隊の演習場でもあったそうで、たぶん当世風に言えば「イベント広場」みたいなものだったのだろう。

 そこにはすでに大勢が集まっていた。翌日の5月30日に、ロシア帝国の新皇帝であるニコライ二世の即位を祝う大イベントが開かれることになっていたのだ。

 アレクサンドル三世が1894(明治27)年に亡くなったのを受け、息子のニコライが2年後の1896年(明治29)年5月26日に戴冠。ウスペンスキー大聖堂で戴冠式が行われ、そのお祝いを30日に催すのである。

 ホディンカでのイベントの準備は、ニコライの叔父であるモスクワ総督、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公が担当した。

 ホディンカは、お祭りの準備も万端。仮設劇場が建てられ、20の飲み屋が設置され、150の屋台が出店していた。また一万樽ものハチミツが用意され、ビールは三万樽、それにパンやソーセージやジンジャーブレッド、お菓子とクルミ、ニコライのモノグラムが入ったスパイスブレッド、モスクワの有名なパン屋「フィリッポフ」のロールパンもある。新帝のモノグラムが入ったエナメルの記念マグカップを配布する用意もできていた。

 到着したギリャロフスキーは、そんなホディンカの様子を見渡す。ほほう、これはすごい。新皇帝の即位を祝うのにふさわしい大盤振る舞いだ――。

 しかしひとつ気付いたことがあった。来場者へのプレゼントが置いてあるテーブルは、街の端っこから郊外の墓地までずらっと並んでいる。そのテーブルと並行する形で、深い溝があったのだ。

 この溝は、以前、粘土と砂を採取するために使われたものだった。幅は約64メートルで傾斜は垂直。テーブルからの距離は20~30歩ほどだった。

 また先述したように兵士の演習場としても使われていた関係から、塹壕もあった。

 さらによく見てみると、ホディンカはあちこちが穴だらけで、つまずきやすい地形である。一応、板で覆われて平らになってはいるが……。

 おいおい大丈夫なのか? こんな場所でイベント開いちゃって、怪我人が出るんじゃないの?

 事故の後、ギリャロフスキーは「やっぱりあの溝が被害を拡大させたのではないか」と思い当たったという。

 彼は有名作家であると同時にジャーナリストでもあった。以前から火災や事故のレポートを書いたりしていたというから、ホディンカを訪れたのも取材のためだったのだろう。彼はとりあえず、近くにある競馬場のバルコニーから様子を観察することにした。

 ホディンカに続々と一般参賀の人々が集まってくる。

 プレゼントの配布が行われるのは、翌日の午前10時の予定である。だが人々は魅力的な物品や食べ物が欲しくて、29日の昼からどんどんホディンカに集まっていたのだ。

 群衆の間では、こんな噂が流れていた。「プレゼントを包んでいるスカーフには、それぞれ家、牛、馬が描かれているという。それはニコライが別の祝儀をくれるという目印なのだ」――。

 あるいはこんな噂も。「参加者が多すぎて食べ物が足りないらしいぞ」――。

 ご祝儀欲しさに集まった人々の、期待と焦りが伝わってくるようだ。

 やがてギリャロフスキーもホディンカに下りていき、人混みの中で出くわした知人とおしゃべりを始めた。

 深夜になっても、まだまだ人はやってくる。

 30日の午前5時には、わずか一平方キロメートルの広さしかないホディンカに、少なくとも約40万人が集まっていた。ちょっと目を疑う数字だが、どうやらモスクワのみならず周辺の村からも人が来ていたらしい。

 この時の様子について、イベントの準備人だったセルゲイ大公の副官であるウラジーミル・ジュンコフスキーは、「野原全体が群衆で立錐の余地もなかった」と話している。主催者側は、明らかに来場予定者数を過小評価していた。

 それでもギリャロフスキーは、その状況に対してさほどの危機感は抱いていなかったようだ。ふと、競馬場のパビリオンに煙草入れを忘れてきたことに気付き、戻ろうとした。

 戻るには、まず人混みを脱出しなければならない。

 ところが人が多すぎて動けない。彼は後にルポで「腕でかき分けることも、身動きすることもできなかった」と書いている。

 やばい、こいつはしくじったぞ。どうするギリャロフスキー。

 群集は彼と正反対の方向に押しかけてくる。流れに逆らって進むどころか、動くことすらできず彼は立ち往生した。

 それでも人々は押し合いへし合いしてくる。たぶん誰かが「押すな」と叫んだりしたのではないかと思うが、なにせ40万人では、後ろから押してる人に声が届くはずもない。

 かなり危険な状態である。子供たちは群集の頭の上に押し出され、中には大人の頭を歩いて安全な場所にたどり着いた者もいたという。

 やめてくれ、押すな。つぶされる。痛い、苦しい――。ついに来場者の中から失神する者が出始めた。とはいっても、倒れる場所がないのでそのまま立っているしかなかった。

 ホディンカの上空に濃霧がかかる。しかしそれは霧ではなく、群集の人いきれなのだった。

 ギリャロフスキーはこの時の状況について「どうにも耐え難かった」「私は完全に意識を失い、喉がカラカラだった」と記している。

 それにしても、こんな状況になっても主催者側は対策を講じなかったのだろうか。そして、来場者たちもプレゼントのテーブルの前でぎゅうぎゅう詰めになりながらじっと大人しく待っていたのだろうか。そこはちょっと疑問だが、とにかくこの状況が大きく変わった――最悪の事態が起きた――のは、祝賀会の職員が起こしたアクションがきっかけだった。

「はい皆さん、それでは今からプレゼントを配りますよ。まずは前の列の方からどうぞ~」

 という言い方だったかどうかは不明だが、最前列の来場者にプレゼントを配り始めたのだ。

 後列にいた人たちもこの動きに気が付いた。すると皆が一気にテーブルに殺到し、人混みはますます圧力を増した。そして将棋倒しが発生した。

 人が倒れ、他の者がそれを踏みつける。

 するとそこで、職員たちは用意していたプレゼントを群衆に対して放り投げ始めた。お祭りの餅まきじゃあるまいし何をやってるのかとツッコミたくなるところだが、たぶん群衆が一気に迫ってきたので一人ひとり手渡しするのは無理だと判断したのだろう。あるいは身の危険を感じて、狙われているものを別の方向へ捨てる作戦に出たか。

 いずれにせよ状況は悪化した。我先にと人々がプレゼントに殺到したことでパニックが起きて、その流れで大勢が次々に溝や塹壕に落下した。また地面を覆っていた板も重みで壊れ、ここにも人が落ちる。倒れた人たちは踏まれ、押しつぶされ、窒息した。

 人々は逃げて助けを求める。そこへ今度は数十人のコサック騎兵がやってきて群衆を蹴散らし始めたものだから、かえって混乱に拍車がかかった。

 ギリャロフスキーもまた、この狂乱の真っただ中にいた。彼は長身で体力もあったことから、なんとか脱出して安全な場所に避難することができた。

「私はフェンスの近くで倒れた。そして、草を引き抜いて貪り食った。それで喉の渇きが和らぎ、私は気を失った」

 それでも脱出直後に失神するほどの凄まじい事態である。

 結論を言うと、この事故の最終的な死亡者数は1,389人で、負傷者は約1,300人にのぼったとされている。当初、モスクワ当局は犠牲者たちのほんの一部しか数えていなかったという。

 事故発生を知ったセルゲイ大公は、よりにもよって部下にこう命じた。

「惨事の痕跡をただちに取り除け」。

 つまりは隠蔽である。

 ニコライと妻は、その日の午後二時にホディンカに到着する予定だった。それまでにすべてを正常に戻しておかなければならなかったのだ。

 現場から一気に遺体が運び出された。ホディンカの溝から、穴から、周辺の畑から亡骸が拾われていく。井戸の中では26名が亡くなっていた。

 またホディンカから遠く離れた場所でも遺体が見つかったという。資料によると、彼らは事故のショックのあまり負傷を感じず、遠くまで逃れたところで力尽きたらしい(そういうこともあるのか?)。

 遺体は主にヴァガニコフスコエ墓地に運ばれた。

 隠蔽工作は進んだものの、新帝であるニコライはすでに情報を得ており、ひどく動揺していたという。妻とともにホディンカに向かう途中では、荷車で死者と怪我人が運ばれているのを目撃していた。

 後に、彼は日記で、大量の圧死者が出たことを「大罪」だと書いている。

 それでも、ニコライは予定通りにお祭りを続けることにした。

 ホディンカでは惨劇の痕跡は全てかき消されていた。讃美歌が演奏され、そこにいた人々は皇帝夫婦を歓迎した。この時出席していた人々の中には、事故があったこと自体知らなかった人も多くいたとか。

 ニコライはその夜、フランス大使モンテベロ主催の舞踏会に出たが、会場からはすぐに立ち去ったという。セルゲイ・ウィッテ大臣はその様子について「明らかに大惨事が陛下に強烈な印象を与えていた」と書いている。ニコライが自分の意志だけで決められたなら、全ての祝賀行事を取りやめていただろう、と彼は確信していたようだ。

 実際には、一連の祝賀行事は、ニコライの一存だけで中止にしたりできるようなものではなかったのだろう。行事には国賓も訪れるし、出席しなければ外交紛争につながる恐れもある。皇帝とはいえ、ニコライにもプレッシャーはあったようだ。

 犠牲者とその遺族が無視されたわけではない。新皇帝と皇后は、事故の翌日には病院の負傷者のもとを訪れているし、また見舞金も支払われた。

 それでもやっぱり、ニコライの権威は損なわれてしまった。大勢の死傷者が出たのに素知らぬ顔でお祝いを続けた……と人々の目には写っていただろうから、それも無理からぬことだった。彼はロシア国民、特に貧困層からかなり恨まれたようだ。

 さて、取材のためにホディンカを訪れてひどい目に遭ったギリャロフスキーだが、彼は当日かあるいは翌日に『ルースキエ・ヴォドモスチ(ロシア報知)』に短いルポルタージュを掲載し、ホディンカの惨状を伝えた。本当にものすごい体力である。

 また、後になって『モスクワ・ガゼートナヤ』(新聞のモスクワ)と題した回想録もものしており、「ホドゥインカ原の悲劇」はこちらにも掲載されたようだ。

 事故当日、モスクワにはロシアと外国の特派員約200名がいた。だがその中でもホディンカの群衆事故に巻き込まれて、その凄まじさを身をもって体験したのは彼一人だった。

 ちなみに、ホディンカでの事故に関するルポルタージュは、彼が書いたもの以外は存在していないらしい。というのは、この一件について書くことは基本的に禁止されていたからだ。イベントを主催したセルゲイ大公も唯一先述の『ルースキエ・ヴォドモスチ』だけに執筆の許可を出したのだという。

 よって、多くの外国特派員が、情報を求めてギリャロフスキーにインタビューした。

 ギリャロフスキーは先述の回想録の中で、「この陛下の治世は何も良いことはあるまい!」という一般市民の言葉を記している。まあ、それは回想録なので、後付けで書こうと思えばなんとでも書けるだろうが。

 だが、ニコライとその家族たちのその後の運命を思うと、やっぱりこの新皇帝には何かの呪いでもかかっていたのではないかと考えずにはいられない。

 いつしか、「ホディンカ」という言葉はロシアで不吉な事態を表す隠語になったという。またイベントを主催したセルゲイ大公も「ホディンカ公」というあだ名をつけられた。ニコライもまた、「ニコラス・ザ・ブラッディ」と呼ばれたとか。

※作者注※
 かなり昔のロシアの事故ということで資料に乏しく、しかもその資料の内容もあやふや、時に矛盾すらしており、時系列や事実関係について曖昧な書き方にせざるを得なかった。どこかおかしいところがあるかも知れないので、当記事の内容は「大雑把な概要」程度に考えて頂ければと思う。
 また、資料では「ビュッフェ」と書かれていた箇所を、イメージしやすいように「テーブル」とするなどの書き替えも行っている。これも改変と言われても仕方ない気はする。
 この事故のことをきちんと詳しく知りたい方は、できるだけ正確な資料を自力で探してもらった方がいいと思う。

【参考資料】
ホドゥインカの大惨事:大群衆の将棋倒しで終わった戴冠式
ホディンスコエ・ポジェディ
NEVERまとめ
◆ウィキペディア