◆アイブロックスの惨事その1(1902年・イギリス)

  「アイブロックスの惨事(Ibrox disaster)」は、イギリスのサッカー競技場で起きた群集事故である。

 Disasterは災害、惨事を意味する。ヨーロッパでは、サッカーやフットボールにまつわる事件・事故にこのDisasterという言葉をつける習慣があるようだ。一方で、普通の試合にもこの単語をつけて「悲劇的な試合」と呼ぶ習慣もあるらしく、このへんの感覚はよく分からない。

 ちなみに、今回ご紹介するIbrox disasterは、ネットで検索すると例外なく「アイブロックスの惨事」と訳されている。それなのに後年起きたHeysel disasterとHillsborough disasterがそれぞれ「ヘイゼルの悲劇」「ヒルズボロの悲劇」と訳されているのもよく分からない。どれもサッカー競技場での群集事故という点は同じなのだが、同じDisasterでもニュアンスの違いで「惨事」と「悲劇」に分かれるのだろうか。

 まあ、そんなのは些細なことである。松田鏡二ならきっとこう言うに違いない、「細けえことはいいんだよ!」

   ☆

 1902(明治35)年4月5日のことである。

 場所はスコットランドのグラスゴー。この日、アイブロックス・スタジアム(旧称はアイブロックス・パーク)で、サッカーの国際試合である「ブリティッシュ・ホーム・チャンピオンシップ」が開かれることになっていた。

 戦うのは、スコットランド代表対イングランド代表である。この一戦はサッカーファンの関心も高く、大勢の人が集まった。どのくらい集まったかというと、聞いて驚け68,114人である(ちなみに東京ドームの収容人数は55,000人)。これは公式の来場者数ではなく推定の数だとする資料もあるが、とにかく68,000名以上が集まったのは間違いないらしい。

 これだけの人数を収容できるんだから、アイブロックス・スタジアムはさぞかし広かったんだろうな……と思うところだが、オチを先取りして言えば、その人数を無理やり収容したら床が抜けてしまったという話なのだ。広ければいいってもんじゃないのである。

 事故が発生したのは西側のスタンドだった。英語版だと「ウェストトリビューンスタンド」と表記するようだが、とりあえずここでは西側スタンドで統一する。

 そこは立見席で、席は階段状になっていた。席と言っても立見だからもちろん椅子はなく、階段が左右に長く伸びているだけのものだ。

 地上からの高さは約15メートル。コンクリ製の基礎に鉄製の支柱が立てられ、その上の梁に木製のデッキが敷かれているという構造である。

 もっと詳しく書くと、ステップは合計96段あり、一人当たりの最低スペースは満員時で40センチ×36センチだった。観客はそこで立ち見をしながらスタジアムを見下ろす形になる。

 もともとスタジアム側は大勢が来ることを見込んで、直前に西側スタンドの立見席を増築していた。

 ちなみにこのスタジアムを設計したのは、著名なスコットランドの建築家アーチボルド・リーチである。彼はイギリスの有名なスタジアムをたくさん造ったことで知られており、事故災害関係の話で言えば、後に凄惨な群集事故を引き起こしたヒルズボロ・スタジアムも彼の手になる。

 さて、くだんの西側スタンドは試合開始前からすでに人があふれんばかり。なんと全体の観客の半分がそこに押し込められる形になっていたという。この段階で不吉な予兆も起きており、立見席を支えていた支柱が観客の重みでグラグラ振動していたという。

 いよいよ試合スタートである。今シーズンのブリティッシュホーム・チャンピオンシップの最終戦、スコットランドとイングランドの因縁の対決は午後3時30分に開始した。

 ところが、試合開始後2~3分が経ったところで惨劇が起きた。西側スタンドで大きなひび割れと木の板が裂ける音が響き、十数か所の接合部が壊れたのだ。そして後方の床が約20ヤード(約18メートル)にわたって抜け、数百人が15メートル下の地上へと落下した。

 床が抜けたのにはいくつかの理由があった。観客が多すぎたのはもちろんだが、試合に出ていた選手の一人がドリブルする姿を見ようと、群集が一気に動いてしまったのだ。

 さて西側スタンドが崩壊したことで、会場はパニックに陥った。無事だった観客たちも観客席から脱出して競技場へ逃げ込む。こうなっては試合どころではない。選手たちも何が起きたか分からないままプレーの中断を余儀なくされ、控室へ引っ込んだ。

 事故現場は凄惨そのものだった。落下した人々が崩壊したスタンドの下に積み重なり、人によっては梁に引っかかって宙ぶらりんになっていたという。

 運び出された死傷者は地元の病院へ搬送され、190人ほどが入院したとされている。また近くの警察署の独房が緊急治療室として利用されたりもした。

 死傷者が緊急に運び込まれたのはスタジアム外の施設ばかりではなかった。事故発生を受けて控室に引っ込んだ選手の一人アレックス・レイズベックは、後にこう話している。「私はそこの光景を決して忘れないだろう。ほんの少し前にスコットランドの選手たちがいた席に、遺体と、うめき声をあげる男たちが横たわっていた」。

 資料を読んでいると、死傷者の搬出作業じたいは短時間で素早く行われたようだ。ちなみに落下現場では、全ての人々が運び出された後に瓦礫がほとんど残っていなかったいう。なぜなら、砕けた金属や木材はことごとく間に合わせのタンカとして使われたからだった。

 死者は25名。168名が重体となり、重傷者は153名、軽傷者は173名にのぼった(軽傷者は171名説もある)。死因の大部分は落下の衝撃によるものだった。

 さてこの日の試合だが、事故発生で大混乱に陥ったにも関わらず続行されることになった。これには理由があった。下手に中止してサポーターが一斉に外に出たら、救助活動が妨げられてまたパニックになるかも知れない、と関係者が危惧したのだ。

 選手や関係者の一部は反対したが、結局20~30分ほどの「休憩」を経て試合は再開されている。その頃には死傷者は全員運び出されていたが、それでも試合のさ中、事故の負傷者などがフィールドに出てきたりして、かなりやりにくかったようだ。

 フリーキックをするため、警官に「どいてくれ」と移動を求めなければならないシーンもあったという。一部の選手は泣きながらプレーした。

 試合は1-1の引き分けで終了し、翌日、地元紙は「試合続行するなんて不謹慎だ」と書き立てたという。事故の被害者はもちろんだが、選手たちも気が進まない試合を無理やりやらされた挙句に新聞には怒られて、不憫すぎる。

 さて事故後の処理だが、こういう、スポーツ関連で死者が出た事故というのは同国では初のケースだった。実際かなりレアな事例のようで、その後、英国のスタジアム事故は1946(昭和21)年のバーンデン・パークでの事故までは起きていない。当然、世間の注目を集めたことだろう。

 「犯人探し」で起訴されたのは、崩壊したスタンドの建設にあたって木材を提供していたアレクサンダー・マクドゥガルである。だが彼は後に無罪となった。

 この事故をきっかけに、スタジアム建設にあたり鉄骨のフレームに木製のフレームワークを使うという技法は採用されなくなった。かわりにイギリス全土のスタジアムは全て鉄筋コンクリ製になり、木製の段々になった観客席は姿を消していった。

 FA(スコットランドサッカー協会)は、事故直後に続行された試合について、一応1-1の引き分けで終わったものの「未完(unfinished)」とすることを宣言している。

 また、これとあわせてFAは、事故の被害者とその家族のための「アイブロックスパーク災害基金」を設立。手始めに500ポンドを寄付し、4週間後の1902年5月3日にはリプレイマッチを開催してその収益も全て基金に寄付している。ちなみにこの試合の結果も2-2の引き分けだった。

 基金は解散するまで約2年間運営された。負傷者に約18,000ポンド、死者の遺族に5,000ポンドが支払われた。

【参考資料】
◆ウィキペディア

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