◆アンドラウスビル火災(1972年、ブラジル)

 数ある高層ビル火災の中でも、ちょっと珍しい事例である。なにせ高さ100メートル・31階建ての超高層ビルが、丸ごと一本の火柱になって燃えたというのだから。

 1972(昭和47)年2月24日のことである。

 場所はブラジル、サンパウロ市でのこと。繁華街であるサンジョン通りに、アンドラウスビル(AndrausBuilding)は建っていた。竣工はちょうど十年前の1962(昭和37)年。地上31階建て、延べ床面積28,500平方メートル、高さは100メートルの超高層ビルである。

 中身は複合ビルで、1~7階が百貨店、8階以上が貸事務所だった。ここにはシーメンスやシェルなどの名だたる企業が入っていたという。日本企業で言えば、東京海上火災保険(株)のブラジル支店も10~24階の全フロアと6階の半分を所有しており、支店長以下、多くの職員がここで火災に遭遇することになった。

 なお、参考資料には、建物内部の造りについてかなり詳細に記してあった。せっかくなので書き写しておく。筆者は専門知識も何もないまま写しているだけなので読み飛ばしてもらっても問題ないが、建築関係に詳しい人ならより鮮明にイメージできるかも知れない。

【アンドラウスビル】
・基準階面積……930平方メートル
・天上高……3メートル
・階高……3.23メートル
・屋上……タイル貼り
・パラペット……高さ55センチ
・鉄筋コンクリート造り
・妻壁は20センチ厚の鉄筋コンクリートでタイル貼り
・ファサードは開放可能な全面スチールサッシでガラスは6ミリ厚
・スパンドレル(腰壁)はなかった
・床スラブは鉄筋コンクリートだったが、木製の仮枠が天井裏に残っていた(これが火災の被害を大きくしたとされる)

 さらに火災に関係する事柄を書き足しておくと、内装材の多くは可燃性だった。オフィス階の間仕切りの壁は木製パネルが主で、天井は木造下地の繊維板。床は寄木貼りだった。事務室とエレベーターホールの間仕切りも木造で、フローリングの上にカーペットを敷いたところもあったという。いかにも燃えやすそうだ。

 また、1~7階の百貨店部分には階段が4カ所あったが全て開放型で、区画された構造ではなかった。それ以外の階の階段は一カ所だけで、しかもその幅は1メートル程度しかなかった。また、パイプシャフトやダクトスペースもなかった。

 ちょっと面白いのが、屋上がヘリポートだったという点である。実はサンパウロでは、屋上にこうした設備が設けられたのは初めてだったらしい。ただ照明設備に不備があり正式なものとしては使えなかったらしいのだが、しかし結果として、救助活動においてこのヘリポートは大いに役に立つことになった。それについては後述しよう。

 さて出火場所だが、これは百貨店の4階とされているが、はっきりとは分からない。2階の衣料品売り場だったという説もあるし、いやいや3階だよという説もあるらしいが、とにかく4階にあった材料置場(何の材料かははっきり分からない)のような場所の電気系統がいかれたせい、というのが通説になっている。

 火災が発覚したのは、午後4時頃のことである(午後3時半頃という説もあるらしい。はっきりとは分からない)。百貨店の店員が、4階の外部の、中庭っぽい倉庫のような場所(どういう場所なのかはっきりとは分からない)の窓の向こうで、何かが燃えているのを発見したのだ。

 大変だ、消火しなければ――。消火器で消そうと、店員は窓を開けた。しかしそれが仇となった。そこから炎が室内に進入して天井に燃え移ったのだ。

 基本的に、火炎が天井に及ぶと、素人にはもうどうしようもない。店員は、買い物客と一緒にその場から逃げ出した。

 この30分後には、火炎は早々と最上階まで達することになる。

 まず、炎は衣料品広場に広がっていった。全面サッシのガラスは割れ、吹き抜けのある階段を通って延焼し、強風にあおられて窓から火炎が吹き出す。この炎が一気に6~7階に届くほどの火柱となり、結果、上階へは主として外部から燃え広がっていくことになった。

 アンドラウスビルが燃えやすい造りだったことは先述したが、他にも、ビル内には火勢を助長するような要素がいろいろあった。まず百貨店フロアの売場や湯沸かし場にはLPガスのボンベが、また2・3階には塗料のサンプルの大量のストックがあった。また、商品を含めた大量の可燃物があったし、オフィス階の机やキャビネットも木製がほとんどだった。

 4時10分頃には、火炎は13階まで広がり、この頃からビル内のLPガスが次々に爆発。さらに風速7.6m/秒の強風にあおられて、火勢はさらに強くなっていった。

 いよいよ、4時30分には炎がビル全体を包み込み、屋上よりも高く燃え上がった。強風にあおられたせいもあり、なんと外壁から17メートルも道路側に噴き出したというから恐ろしい。筋向いにあったアパートにも延焼した。

 さて、このビルの防災設備はどんなだったかというと、自動火災報知機、警報装置、誘導標識、消火用の送水管などの設備が……残念なことに、揃っていなかった。

 ただ、各階の階段室内に消火栓が、また各階に消火器が数個ずつあったし、消火栓ポンプも25馬力のものが地下室に設置されていたという。しかし消火訓練の類いは行われたことがなかったようなので、おそらく使用方法はほとんどの人が知らなかっただろう。

 また各階が区分所有となっていた上に、館内での連絡システムも整備されていなかったため、上層階にいた人々は炎や煙を見て初めて火災に気付いたという有様だった。

 この日、ビル内には総勢で千~千500名はいたとされている。買い物客はもちろん、平日(木曜日)とあってオフィス階への出勤者だっている。彼らの一部はエレベータで避難したが、大部分は、ビル内で唯一の階段に殺到したという。

 それで避難できた人はよかった。だが5階の階段室のドアの隙間から熱気と煙が漏れてきて、避難に間に合わなかった人たちは屋上へ逃げ始めた。

 で、ここで大変なことが起きた。約300人ほどが屋上に出た時点で、誰かが屋上に通じるドアを閉めてしまったのだ。「はあ!?」である。誰がなんで閉めたのかは、はっきりとは分からない。屋上は面積的には800平方メートルとかなり余裕があったのだが、人がいっぱいになることを恐れた誰かがいたのかも知れない。

 これにより、数百名が階段室に閉じ込められることになった。

 「おいおいどうなっちゃうの!?」という読者諸賢の心の声が聞こえてきそうだが、まずは話を進めていこう。ここからは消火と救助活動の話になる。

 火災が起きたアンドラウスビルから最寄りの消防署までは、わずか1.6キロの距離しかなかった。だが道路が混雑していたため到着が遅れ、先発隊が到着した時には、すでに手のほどこしようがなかった。とにかく火勢が強かった。

 消防車は次々に到着するが、ハシゴ車が届くのは8階まで、放水が届くのは4階までと、なにもかもが足りない。もはや消防隊にできるのは、周辺の建物への類焼を防ぎつつ、ビルが燃え尽きて自然に鎮火するのを待つことだけだった。

 一方、屋上に脱出した人々は、噴き上がる火炎と煙に追われて800平方メートルの屋上で逃げ惑っていた。そのうち床までフライパンのように熱くなってきて、中には錯乱状態になり靴を脱いで飛び降りた人もいたという。

 ロープで降りようとする者もいた。しかし長さがとても足りず、途中で墜落した。

 ひどい状況である。事態がようやく動き始めたのは17時15分頃のことだった。なんとか炎が収まってきたので、ヘリコプターで救助することになったのだ。そう、最初にご紹介したヘリポートを活用しようというわけだ。

 実際に最初のヘリコプターが出動したのは17時30分のこと。当初は、火災による気流と煙のため近付くことすらできなかったが、今ならなんとかなりそうだ。州政府所有のものが1機、市所有のものが2機、民間のものが各種あわせて8機、合計11機が動員された。

 各ヘリに乗せられる人数は、それぞれ2~8人が定員である。軍用の大型機が用意できればよかったのだが、ビルの強度や屋上の面積のことを考えると小型が主体になるのは仕方のないことだった。

 コントロールタワーから航空管制を行なうのは空軍の指揮官である、消防局は地上3カ所に着陸地点を用意して、救助を試みた。

 とはいえ、全てが順調に進んだわけではない。ヘリが屋上に接近して救助隊員が飛び降りようとしたところ、屋上にいた人々は髪を振り乱しながら絶叫し、腕を伸ばして我先にとヘリに殺到したという。

 おいおいちょっと待ってくれ! まず着陸のためのスペースを確保しなくちゃいけないんだ~~~!! ――しかし、火炎に追い詰められた人々にはそんな声は聞こえない。このまま無理に着地したら怪我人が出て機体が壊されるおそれもある。というわけで、ヘリは着陸をあきらめて一度引き返した。

 ――で、次に来た時は、ヘリには武装した兵隊さん4名が乗っていた。彼らは銃剣でもって群集を「整理」し、ようやく着地場所を確保した。さらに、人々の中からボランティアを募ってパニックを防ぎ、負傷者、女性、男性の順で救出を始めた。

 ヘリコプターによる救出作戦は4時間にわたって続けられた。3分おきのピストン輸送で、最終的に400人を屋上から教出した。日が暮れる頃には、屋上に残った人々はライトを使ってヘリの到着をサポートしたという。

 また、救助で役に立ったのはヘリコプターだけではない。隣のビルとの間が7メートルほどだったので、ハシゴを渡すことができたのだ。というわけで、15・16階と隣のビルの窓と窓の間にハシゴがかけられ、ここでは3時間かけて約100名が救出された。

 しかし残念ながら、一人だけ、恐怖のためかハシゴの上で心臓麻痺を起こして死亡した人がいた。また、火災の熱のためハシゴが熱くなり、この方法を最後まで続けることはできなかった。

 さて、屋上からドアのカギをかけられてしまったせいで、階段室に閉じ込められた人々がいたことは先述した。彼らの命運やいかに――。

 結論を先に言うと、彼らは全員が救助された。

 建物内部に入った救助隊が、偶然発見したのだ。階段室で大勢がすし詰めにになっており、中には火傷を負った人、怪我をした人、一酸化炭素中毒で意識不明の人もいた。

 アンドラウスビルの燃え方は前例がないほど強烈なものだった。だが階段室が風上側だったのが幸いし、彼らは火炎と煙の被害を免れることができたのだ。

 そこからとりあえず100名ほどが屋上に押し上げられて救出。また、約50人ほどは、火災が収まった後で階段を下りて外に出ている。これが大体20時頃のことだった。

 救助作業が終わったのは22時30分。完全に鎮火したのは23時30分で、出火から7時間が経っていた。

 この火災で、最終的に男性12名、女性4名の合計16名が死亡した。負傷者は375名にのぼり、原因は煙を吸ったことや骨折だった。死者の詳しい内訳は次の通りである。

・焼死2名(20階)
・焼死7名(14階)
・飛び降り5名
・ハシゴの上で死亡1名
・病院で死亡1名

 大規模施設で、しかも建物内にいた人々も多く、さらに言えば防災設備も貧弱だったわりには死者数が少なめである。だがこれは運が良かっただけらしい。資料によると、特に風向きや敷地の状況がよかったらしいのだが、詳しいことははっきりとは分からない。

【参考資料】
◆岡田光正『火災安全学入門―ビル・ホテル・デパートの事例から学ぶ』学芸出版社、1985年

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