◆京都駅将棋倒し事故(1934年)

 1934(昭和9)年1月8日、時刻は22時前後。京都市下京区の京都駅は異常な興奮と熱気に包まれていた。数千人の人が構内に詰めかけていたのだ。

 とにかく凄まじい狂騒ぶりだった。集まった人の多くは飲酒しており、ホームでは、我先に良い席をゲットしようと、停車している列車に窓から無理やり乗り込もうとする者もいる。超満員ぶりに改札口も大混乱で、これはたまらんと駅側は入場券を発売停止し改札を制限しようとした。すると今度は人々は激昂し、改札口を乗り越えあるいは破壊し、駅員に怒鳴りつけた。「俺たちにケチをつける気か!」

 何これ暴動? いやいやそうではない。その証拠に、駅の中ではブラスバンドが「君が代」や軍歌を演奏しているし、集まった人々は旗や上り、提灯などを手にしてバンザーイ、バンザーイ! 歓声を上げている。そう、これはお祭りなのだ。人々は、新兵たちの入営を喜ぶためにここへ集まったのである。

 広島県呉市の海軍海兵団に、新兵715名(資料によっては717名とも)が入団することになったのだ。それに加えて、付添人が約300名。彼らは今夜、臨時列車で京都を発つ予定だった。それを見送るために、さらに多くの見送り人が駅を訪れたのである。

 今となっては、当時の空気はよく分からない。ただおそらく、軍への入団・入営というものが生み出すめでたさは相当なものだったのだろう。

   ☆

 少し時間を巻き戻そう。21時頃には、五分刈りの新兵や、紋付を着て提灯や日章旗を手にした親族、在郷軍人や青年団などの関係者たちで、京都駅はすでに混雑していた。臨時列車の出発時刻は22時22分で、入場改札は21時半からの予定だった。

 とはいえ、他の列車の発着もあるので、駅の改札は閉鎖されているわけではない。結局、定時よりも前に入場した者も多くいたようだ。すでに改札口(中央口)に面した1番ホームは、立錐の余地もないほどの大混雑だった。臨時列車が発車するのは第3ホームなので、駅員や警官たちは、跨線橋を通ってそちらへ向かうよう誘導した。筆者は京都駅には行ったこともないが、この第3ホームというのは現在の4・5番線にあたるらしい。

 ところが、第3ホームに通じる跨線橋の階段も、既に超満員状態。そうこうしているうちに、改札の外では式典が終わり、お偉いさんの訓示を受けた新兵たちが入場してきた。時刻は21時40分頃である。

 こうして冒頭の混乱に至る。ドッと流れ込んできた新兵と付添人と見送り人たちを第3ホームへ誘導するも、跨線橋は既に見送り人でいっぱいである。ホームの南側では、ちょうど臨時列車の編成が整ったところで、軍楽隊の演奏に万歳の叫び声、列車に乗り込んだ新兵とあいさつする者、軍歌を歌う者、拍手する者と、歓送の気勢は最高潮。ごった返しもいいところだった。

 そんな状態なので、見送り人もホームになかなか入れず跨線橋の階段の途中でもたもたしている。警察官はなおも群集を誘導し、別のもう一つの跨線橋を利用する者も出てきたが、それでもまだ不十分だった。駅の待合室には、まだ入場できずにいる者が大勢いた。

 そして魔の22時を迎える。第3ホームと跨線橋では、もはや混乱とか危険を通り越して、不穏な空気が漂い始めていた。まずホームの真ん中でケンカが起きた。それから階段の下では、倒れそうになる人を警官が救助。この頃になると、群集の中にも身の危険を感じる者が出てきたようだ。助けを求める婦女子の悲鳴がところどころで上がり、警官や在郷軍人が協力して引き上げたりしている。

 だが、ついに跨線橋の階段で人の流れがストップしてしまった。それでも後ろから人は来る、前へは進めない――で、階段の上下から押し合いへし合いの流れが発生する。人の波が、西から東へグワーッと揺らいだ。かと思えば今度は、押し返しの波が反対の西側へグワーッと揺らぎ返す。そこで女性の声が上がった。

「あれえ、あたしの息子が!」

 50代くらいの女性だったという。彼女はそう叫ぶと、倒れた子供を起こすべく身を伏せようとしていた。それがきっかけで後続の者がつまずいたのか、あるいは空間ができたことで支えを失ったのか、将棋倒しが発生した。悲鳴と共に人が転倒し、そこへさらに雪崩のように人間が折り重なって、たちまち人間の山ができた。

 目撃者の一人は、当時の状況について「大根を押し重ねたように人が積みあがった地獄絵そのもの。物凄い叫びは、まだ耳に残っています」と証言したという。

 しかし狂騒は止まない。群集事故の恐ろしいところである。階段で地獄絵図が発生したにも関わらず、少し離れた場所の人々はそれに気付かずにいた。それどころか、列車に遅れてなるものかと、わめきながらなおも押し寄せてくる。ホームでは軍楽隊の演奏と万歳三唱だ。

 「人が倒れた! 上の者は止まれ!」警官や憲兵が必死で呼びかけて、ようやく群集を制止した。

 時刻は22時5分頃。周辺警察署の警察とその救護班、憲兵、在郷軍人会、青年団、医者などが応援や非常招集で駆け付けて救助を行った。現場の階段では、百~二百数十人が下敷きになっていた。現場周辺では「毒ガスでもばら撒かれたのではないか」などとデマを口にする者もいたとか。

 大混乱の状態だったが、入団兵とその付添人を乗せた臨時列車は、定刻通りに――万歳の大歓声を受けながら――出発したという。

 それにしても犠牲者が多すぎた。既に冷たくなった者は駅員用の休憩所と第1ホームに並べられ、息のある者は人工呼吸が施されたり水をぶっかけられたりした。彼らは長椅子や戸、扉などを使った急ごしらえのタンカで運搬され、構内の自動車や市バス、円タクに片っ端から押し込まれて搬送された。この甲斐あって、23時半頃には全ての者を病院へ収容できたという。

 死者77名、負傷者74名。死者の中には、海兵団への入団予定者も数名含まれていた。また、原静枝という若手女優も巻き込まれて死亡している。

 現代ならば、京都駅や警備の人々の責任が追及されそうだ。だが少なくとも当時は、こうした事故はすべて個人の責任とされたらしい。よって鉄道省や駅では責任を認めなかった。

 後の調査では、この事故の主な原因は大体以下の通りとまとめられている。
・乗車時刻が迫っていて、一気に大勢が入場したこと。
・酒気帯びで熱狂していた者が大勢いたこと。
・入場制限の不適切さ。
・跨線橋を下りてすぐの車両に、乗客が集中したこと。
 これを受けて、関係団体による事故防止対策協議会では、その後の将兵の見送りについて再考することになった。

 被害者やその遺族などには、天皇陛下からの下賜金と、京都府からの弔慰金などが送られた。

 事故の現場となった東跨線橋は、1981(昭和56)年の地下通路の完成により取り壊されたという。ちなみにもう一つの西跨線橋は、現在の南北自由通路の場所にあったとか。当時の面影をしのぶものは、もはや現地には無いようだ。

【参考資料】
◆岡田光正『建築人間工学 空間デザインの原点』オーム社2015年
近代京都の歴史
何かのサイト
◆ウィキペディア

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