◆犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)

 1985(昭和60)年に起きたこのバス事故は、「犀川(さいかわ)スキーバス転落事故」「笹平ダムスキーバス転落事故」などの名称で親しまれて――失礼――呼ばれている。まあ別に名称なんてどっちでもいいのだが、ここは両取りで「犀川・笹平ダムスキーバス転落事故」と表記することにしよう。これぞ漁夫の利というやつである(違う)。

 犀川という河川は全国に数あるが、今回の事故の舞台となったのは長野県内を流れるほうだ。

 笹平ダムは、水力発電用にと1952年(昭和27年)に犀川に造られた。管理しているのは、今をときめく東京電力である。治水機能はなく、洪水の原因になるとして周辺住民から批判を受けたこともあるという、なかなか曰くつきの代物だ。

 このダムが形成する人造湖にて、事故は起きた。

 1985(昭和60)年1月28日の早朝。おそらくまだ夜も明けていなかったであろう、午前5時45分のことである。犀川にかかる大安寺橋という橋に、3台のバスが差しかかった。

 事故を起こしたのは、この3台のうちの最後尾のバスである。

 このバスは三重交通の貸切バスで、くだんの3台目には日本福祉大の学生ら46人が乗車していた。この大学では26日に後期試験が終わったばかりで、28日から30日までの間、体育の授業の一環としてスキー教室を行う予定だったのだ。目的地は北志賀高原の竜王スキー場。深夜の移動ということで、学生たちはバス内で休んでいた。

 問題はこの、大安寺橋のあたりの道路状況である。この道路は国道19号線で、幅は9メートルと決して広くない。そして前日から雪が降っており積雪量は15センチ。冷え込みも激しく、路面は凍結し切っていた。北国の路面状況としては、もっとも恐るべきパターンである。

 にもかかわらず、バスの装備は充分とは言いがたかった。当時はすでにスパイクタイヤが普及していたはずだが、このバスは前輪・後輪ともに普通タイヤ。チェーンは一応巻かれてはいたが、ダブルタイヤのうち外側だけにしか装着していなかったという。

 はい、ここまで説明すればもうお分かりですね。

 事故を起こすことになった最後尾のバスは、橋の手前の直線コースからS字カーブに入ったところで曲がり切れなくなってしまった。しかもそこは緩い下り坂で、ハンドルももう利かない。ガードレールをぶち破り、厳寒のダム湖へダイビングしたのである。

 ガツン、ドーン! 学生諸君が眠りにつき、静かだった車内に突如として異音が響き渡る。なんだなんだと騒ぐ余裕もなく車内灯は消え、バスは6メートル下のダム湖へ落下していった。湖面の一部には氷も張っていたという。

 車体がボチャリと浸かるのと同時に、割れた窓ガラスから凍てつくような湖水が流れ込んできた。ダム湖の水深は4~5メートル。たちまち水没していくバスから、学生たちは命からがら脱出を試みた。湖面には赤、黄色、青などの派手なアノラックや荷物が散乱し、なんとか脱出して湖岸へ泳ぐ者たちの顔は血まみれだったという。地獄絵図だ。

 バスは最終的に、後部がわずかにしか見えなくなるまで水没した。前方から飛び込む形でダイブしたのだろう。

 ただちに救助活動が行われた。当時ダムの近くには、修繕工事を担当していた前田建設工業の作業員が宿泊しており、まず彼らが救助を行い、それから長野中央署、長野南署、機動隊も駆けつけ、凍えるような寒さの中で必死の捜索活動が行われた。

 ちなみにこの時、ひとりの全盲の学生が無事に救助されたことで話題になっている。彼は極めて冷静に「心の目」でもって脱出経路を確認し、無事に岸に泳ぎ着いたのだ。

 とはいえそんなのは奇跡的なエピソードである。乗客46名のうち、大学生22名と引率の教員1名、運転手2名の計25人が脱出できずに水死した。また救助された21名のうち、少なくとも8名は重軽傷を負っている。

 現場の道路には、15メートルのスリップ痕が残っていた。制限速度は50キロと定められていたが、しかしそこは地元の人が「魔のS字カーブ」と呼んでいたとかなんとか(新聞記者が勝手に名前をつけただけのような気もするが。地元の人はせいぜい「危険なカーブ」程度の言い方をしたのだろう)。

 というわけで責任の追及である。裁判である。悪いのは誰なのか?

 まず一番に悪いのはバスの運転手で、これは動かしようがない。この事故は実に典型的なスリップ事故で、要するに運転ミスによって引き起こされたのだ。しかし、当時バス内で交互にハンドルを握っていたという2名の運転手はすでに死亡している。直接的な責任は問えない。

 というわけで、今度はバスの運行管理をしていた三重交通である。さっそく調べてみたところ、運転手に休みなしの「過密勤務」を強いており、それを黙認して勤務表を作っていた実態が明らかになっていったのだ。ビンゴである。運転手は過労状態にあり、おそらく居眠りかなにかで正常な運行能力を欠いていたのだろう。

 死亡した運転手は、事故の前には2週間も休みをもらえず、深夜の長距離バス運転で働きづめだったという。筆者はその2週間分の勤務状況までは入手できなかったが、事故直前の3日分ほどは分かったので記しておこう。

 ●1月24日:新潟県の赤倉温泉スキー場へお客の送迎。
 ●1月25日~26日:早朝から、通常の路線バス業務。
 ●1月27日:3時間の休憩後、長野県の竜王スキー場へ送迎。ここで事故る。

 いやあ、これは死ぬよ。この調子で、この倍以上の時間も働かせてたんかい。

 当世ふうの言い方をすれば三重交通は「ブラック企業」で、死亡した運転手は「社畜」だったということだろう。

 ちなみに柳田邦夫によると、事故がもっとも起きやすい時間帯というのがあって、それが早朝の4時から5時にかけてだという。この事故はなにからなにまで典型的な過労事故でもあった、といえそうだ。

 バス会社には運行主任という役職があるらしい。それで三重交通四日市営業所の路線バス運行主任は、運転手の勤務実態を知りながら無茶苦茶な勤務表を作ったのだった。そして会社もそれを黙認していたのだ。

 ちなみに三重交通は、これより前の3月の時点で中部運輸局による行政処分を受けている。「罪状」は輸送の安全確保に手落ちがあったというもので、8台の観光バスについて14日間ずつ、つまりのべ112日間の使用停止を食らったのだった。これはバス会社に対する行政処分としては当時最高のものだったそうだが、この記録は今も破られていないのかどうかが気になるところである。

 さてしかし、裁判は意外な展開を辿った。

 まず長野県警と長野中央警察署は、以下の内容でそれぞれ長野地方検察庁に書類送検(※1)している。

 ●運行主任:道路交通法75条違反(過労運転の命令)
 ●三重交通:道路交通法123条違反(両罰規定)
 ●死亡した運転手:業務上過失致死傷罪と道路交通法66条違反(過労運転)

 事故から半年以上が経った、1985年9月4日のことだった。

 ところが、である。長野地方検察庁は1986年6月30日、「運転手の過労を科学的に立証するのは困難」だという結論を下したのだった。不起訴処分である。

 おそらくこれは、誰にとっても意外な結論だっただろう。事故の被害者や遺族はこれを不服として、7月28日に長野検察審査会へ審査申し立てを行った。だがそれも、翌年の4月28日には「やっぱり不起訴でいんじゃね」という回答が出されている。

 まあ確かにね。運転手が死亡している以上、その疲労度を具体的に確認するのは難しいところであろう。解剖すれば体内からポコンと証拠が飛び出してくる、というわけでもないだろうし……。

 また同じ疲労度でも、事故を起こす人と起こさない人もいるだろう。もちろん普通の感覚ならば「2週間も徹夜で働かされて疲れない奴がおるかい」と、もの申したいところではあるが。

 ただし津地方検察庁は、上述の路線バス運行主任と三重交通本社・四日市営業所を、労働法違反ということで四日市簡易裁判所へ略式起訴(※2)している。

 (※1)ちなみに豆知識だが、書類送検というのは「逮捕しないで起訴する」やり方であり、(※2)略式起訴というのは「簡単な裁判」と考えて頂ければよろしい。争う必要がなく、罰金や科料で済む程度の簡単な事件はこれでもって処理されるのだ。この事件に関しては、略式起訴された3者は、労働法に関する罰金と、営業停止の行政処分で済んだということである。

 こうして、犀川・笹平ダムスキーバス転落事故は一応の完結をみた。

 1987年9月13日には事故現場に慰霊碑が建立され、今もダム湖畔にはこれが静かに佇んでいるという。事故が起きた道路そのものはまだ残っているが、バスが渡るはずだった大安寺橋はその後撤去された。現場では、慰霊碑のみが事故を偲ぶ手がかりとなっているようである。

 とはいえ事故当時、25名の遺体を収容した正源寺では、今も命日と盆には遺族会と三重交通と日本福祉大による法要が営まれている。

 さらに日本福祉大では事故のあった1月28日を「安全の日」と定め、慰霊行事を行っている。ウィキペディアによると、この行事は2005年以降は不定期になったと書かれているが、確認してみたところ2011年はちゃんと1月28日に執り行われていた。

 この大学のキャンパス内には、当時犠牲になった学生と同じ数の桜が植えられているという。桜の成長のスピードがどれくらいなのかはよく知らないが、20数年も経てばそれなりの大きさになっていることだろう。どうやらこの事故で、現在もっとも簡単に触れられる「慰霊碑」は、この桜ということになりそうだ。

 さしずめ「慰霊樹」とでもいったところか。

 名古屋まで行く機会はなかなかないけれども、見て手を合わせてみたいものだと思う。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆山形新聞
◆日本福祉大ホームページ

back