◆青木湖バス転落事故(1975年)

 1975(昭和50)年1月1日、午前11時20分頃のことである。62名のスキー客を乗せた一台のバスが、長野県大町平区の青木―神城線を走っていた。

 目指すは青木湖スキー場のホテルである。1972(昭和47)年に、東京都大田区の平和島観光という観光会社と長野県、それに地元の三者による合意を経て開発された観光地だ。バスは一日に14回、国鉄簗場(やなば)駅とスキー場を無料で往復していた。

 しかしこの日のバスには問題があった。乗客62名というのは完全な定員オーバーの状態だったのだ。出発時に乗った約30人に、途中で民宿から乗り込んだ約20人で車内は満杯。後に救助された乗客が「足の踏み場もなかった」と証言するほどだった。

 惨劇は、このバスが青木湖畔の急カーブに差しかかった時に起きた。幅四メートルの坂道でスリップしてしまい、曲がり切れなくなったのだ。バスは脱輪して高さ33メートルの崖から落下、杉や雑木をなぎ倒して青木湖へ突っ込んでいった。

 バスは数秒でいったん沈み、また浮上。それから五分ほどで完全に水没した。車内では悲鳴が響き渡る。乗客の何人かが「窓を開けろ」と叫び、何人かは夢中で脱出した。

 乗客の生死を分けたのは、落下の際の角度だった。前部を下にして落下したため、犠牲者はほとんどそちらに集中したのだ(もっとも運転手は助かっているが)。逆に、脱出して助かった者の多くは車体後部の乗客だった。

 結果、バスの乗員2名と乗客36名の合計38名がなんとか脱出。しかし事故発生直後には1名の死亡がすぐに確認され、さらに残る23名が行方不明だった。警察署、機動隊、消防団の500名あまりが出動し、厳寒の中で救出活動が行われた。

 まずはボートで犠牲者を捜索する。さらに、ロープで作った網と大型レッカー二台を使ってバスを引き揚げようとしたがうまくいかず、なかなか救出は進まなかった。

 そこで潜水夫6名の出番となった。事故が起きた1日の夜10時過ぎから、翌日の午前0時半までに2遺体を収容していったん作業を打ち切り、翌朝8時半から再び開始。夕方までには男女21名の遺体を次々に発見した。どの犠牲者もバスの下敷きになっていたり、車内に閉じ込められたままの状態だったりしていたという。

 皮肉なことに、死者24名というこの数字は、バスの定員オーバー分と一致した。

 遺体は大町市内の大沢寺という寺に収容された。乗車していたのは、ほとんどが正月スキーを楽しむために関東・関西からやってきた都会の若者たちで、彼らは夏頃から民宿を予約していたという。

 当時運転していたホテルのH運転手(36歳)は助かっており、事故の経緯を以下のように説明した。

「当時のバス内は乗客で鮨詰め状態だった。それで乗り降りする時のステップ部分にも乗客がいたため、運転席の左側にあるサイドミラーが見えなくなっていた」。

 これがよくなかった。H運転手は見えない左ばかりを注意するあまりバスを右へ寄せ過ぎ、いざ左カーブに差しかかった時にスリップして曲がり切れなくなったのである。当時、道路は未舗装でしかも凍結していた。

 また、運転そのものもあまり丁寧とは言えなかったようだ。無事に救助された乗客の一人は「いくら慣れた道とはいえ、乱暴な運転でハラハラしていたんだ」と新聞社の質問に答えている。

 この運転手は、事故が起きた1日の午後2時には業務上過失致死と道交法違反の現行犯で逮捕された。

 現在、この事故の慰霊碑は青木湖畔に建立されている。また、作家の久美沙織はこの事故を題材に『ブルー』という小説作品を書いており(とてもいい作品だった)、これもまたある種の慰霊碑、鎮魂歌のようなものかなと思う。

 青木湖スキー場は、もともとは京浜急行資本で運営されていたが2004(平成16)年にフューチャーズインベストメントに営業譲渡。その後は経営が行き詰まり、2009(平成21)年以降は休業状態である(2021(令和3)年現在)。儚い。

【参考資料】
◆山形新聞
◆ウィキペディア

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