◆飛騨川バス転落事故(1968年)

 飛騨川バス転落事故は、1968年(昭和43年)8月18日に発生した。死者104人という大惨事である。

 厳密に調べたわけではないが、バス事故というカテゴリーで死者104人というのは世界規模で見ても最悪クラスのもののようだ。ひょっとすると死者数は世界一かも知れない。これが本当なら、航空機事故でも世界最高の死者数を記録したことがある我が国は、些か不名誉なワールド・レコードを2つも保有していることになる。

 まあ他にも、日本は「個人が浴びた放射能の量が世界一」とか「ひとつの山での遭難者数が世界一」とか、ろくでもない世界記録が他にも色々とあるんだけどね。その辺りはいずれお話する機会もあろう。

   ☆

 さてバス転落事故だが、これは少し角度を変えればバス事故ではなく「豪雨災害」あるいは「土砂災害」と見ることもできる。実際、災害関係の本を何冊か紐解いてみると、この事故はどのカテゴリにも跨る形で紹介されている。

 観光ツアーに来ていた数台のバスが、豪雨に見舞われて引き返すことになったのである。だがその引き返しの途中で2台が土砂崩れに巻き込まれ、増水した飛騨川へ転落したのだ。

 現場は岐阜県加茂郡、白川町地内の国道41号である。

 もともとこの日の岐阜県は、台風の影響による集中豪雨に見舞われていた。時間雨量149ミリという地方気象台始まって以来の規模で、これによって県内ではバス事故以外にも14名の死者が出ている。

 事故に遭ったのは「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティ」なるツアーに参加していた人々だった。

 これは名古屋市で無料新聞を発行していた「奥様ジャーナル」と名鉄観光が組んで企画したツアーで、700人以上が参加した。

 計画では、夜中に犬山市の成田山へ集合し、そこから片道160キロの乗鞍岳へ出発する。そして車内で睡眠を取ってから早朝に登山をし、山頂で朝日を見る……という予定だったらしい。

 当初、ツアーは予定通りに出発した。しかしあまりの雨の酷さと道路状況の悪さから、主催者と運転手たちはツアーを一週間延期することに決定。全てのバスはもと来た道を戻ることにした。

 そして午前0時20分頃。5号車の運転手が消防団員に呼び止められた。白川口駅近くにある、飛泉橋という橋でのことだ。

「この先は危険ですよ。飛騨川の水位が上がるかも知れない。落石の可能性もある」

 そう言われて運転手は考えた。

「しかし1号車から3号車はすでにここを通過している(4号車はゲンを担いで存在していなかった)。通行規制もまだ実施されていない。まあ、通過したって大丈夫だろう。名古屋まではもう2時間以内に着く距離なんだし……」

 こうして5、6、7号車は危険地帯を突破することにした。

 後になって考えてみれば、これがまさに運命の別れ道だった。この時点でもまだ敷かれていなかった交通規制、バスに対して強硬にストップをかけなかった消防団員、そしてバスの運転手の甘い判断――。これらの要素が重なり合って、危機を逃れる最後のチャンスは見逃されたのである。

 さて前方で走っている1、2、3号車も含めたこの合計6台のバスは、左は崖下で増水している飛騨川、そして右が絶壁という道路を進んでいった。

 そしてこの6台は、途中で何度か小規模な土砂崩れに遭遇している。まあこれは手作業で土砂を取り除いて先へ進むことができたのだが、ところがさらに進んだところで、もっと規模の大きい土砂崩れが発生。完全に道を塞がれて、遂にいかんともしがたくなってしまった。

 こりゃイカン、さすがに引き返すしかないよ――。

 すると間の悪いことに、今度は後方でも土砂崩れが発生。バスやその他の乗用車は前も後ろも土砂に挟まれてしまい、進退窮まった。

 このように、現場周辺では大小取り混ぜた土砂崩れが複数発生していたのだった。考えてみれば実にとんでもない状況だったわけだが、バスにとって「とどめの一撃」となったのは、午前2時11分に発生したものだった。

 高さ100メートル、幅30メートル、推定740立方メートル、ダンプカーにして250台分――。こんな量の土砂が押し寄せてきては、もはや人間になす術はあるまい。立ち往生していたバスのうち、5号車と6号車がこれの直撃を受けた。2台は、増水した飛騨川へあっと言う間に転落していったという。

 それ以上の土砂崩れがなかったのは不幸中の幸いだった。バスの運転手たちは、残りのバスの乗客たちを、急いで比較的安全な場所に避難させてから、救助を求めて一路ダム見張所へ向かう。ようやく第一報が齎された時には、事故発生から3時間以上が経過していた。

 ちなみに8号車以降のグループは、消防団の警告に応じて白川口駅前広場で待機したことで難を逃れている。

 さて救助活動だが、これが困難を極めた。

 なにせ犠牲者たちは大半がバスから投げ出され、増水で荒れ狂う激流に飲まれたのである。事故翌日には知多半島にまで遺体が漂着し、捜索範囲は岐阜・愛知・三重の3県に跨ることになった。

 救助のための人員数は最終的に3万人にも上り、一時はダム湖を空っぽにして捜索活動が行われたという。それでも最終的には9名が行方不明のままになった。

 転落したバスには総数で107名が乗っており、助かったのは3名だけだった。家族連れツアーだったこともあり、一家全滅や、あるいは家族一人だけが生き残ったケースなどもあったらしく痛ましい限りである。

 事故の責任問題は、そう長くかからずに解決した。最終的には国を相手取った訴訟にまで展開した上に、争点が「天災か人災か」という判断の難しいものだったにも関わらず6年で結審しているのには感心する。

 まあ、ここまで見て頂ければ分かると思うが、具体的な責任主体を特定するのが非常に難しい事故である。コトは土砂崩れという自然災害であるし、そもそも当日の天候も予測が困難なものだった。ツアー主催者側だって出発前には気象台に問い合わせ、「天気は好転し翌朝は晴れるでしょう」という予報を聞いたからこそツアーを決行したのである。その1時間後に注意報が、さらに2時間後には警報が発令されるとは誰が考えただろう?

 では、消防団の警告を無視して危険地域に入り込んだバスの運転手の責任はどうか。しかしこれも、進退窮まった段階ではちゃんと引き返す判断をしているし、二次災害の回避に全力を尽くしてもいる。裁判では無罪となった。

 だが、遺族側としてはそれで収まるはずもない。主催者と観光会社を相手取って損害賠償を請求し、こちらでは示談が成立。さらに道路の管理を怠っていたとして国に対しても国家賠償を請求、粘り強く訴え続けて最終的には控訴審で全面勝訴している。天晴れという他はない。

 104名という死者数がものを言ったのか、それとも国の側に明らかな落ち度があったのかはよく分からないが、この事故に関しては国側はかなり譲歩しているようにも見える。控訴審判決に対して上告していないし、一度は拒否された自賠責の適用を、当時の運輸省の判断で撤回させている程だ(この時の運輸省の閣議報告の論理がなかなか面白いのだが詳細は割愛)。

 とにかく、最終的に国を相手取った訴訟にまで発展しているだけに、当時の首相や運輸省までをも巻き込んでスケールの大きい話題になっている。

 ところでこの事故が「自然災害」ではなく「バス事故」と呼ばれるようになったのは、恐らく104人という死者数ゆえだろうと筆者は想像している。

 もしも土砂崩れに巻き込まれたバスが1台だけで、それに乗っていたのが運転手1名だけであったなら、それはバス事故ではなく「バスが被害に遭った土砂災害」と呼ばれただろうと思う。

 だが土砂災害や自然災害といったカテゴリーに分類してしまうと、恐らく具体的な責任主体をはっきりさせるのが、文脈上、難しくなる。104人も死んだ以上、これはあくまでも自然災害ではなくバス事故と呼ばなければいけない――そうした重力がどこかで働いたのではないだろうか。

 こうした「重力」があったとすれば、それが発生したのは、被害者遺族の大半がマンションの住民だったので、そこで強い結束が生まれたからではないだろうか。あくまでも想像だが、筆者はそんな物語をイメージしている。

 ちなみにこの事故は、その後、現場付近に慰霊塔が建立されている。石碑とモニュメントからなる「天心白菊の塔」という名前で、道路に案内表示が立てられるほど有名な場所だったのだが、これは2021年に解体されることになった。

 事故現場を含む国道を、さらに安全なものにするための工事に伴う解体である。ただ石碑は別の場所に移動し、今後も法要は行う予定だという(2021年11月現在)。


 2021年は、コロナウイルスの影響で慰霊の営みも中止となり、そんな中での慰霊碑解体である。ちょっと残念な気がしないでもないが、おそらくどこの事故災害現場も、コロナウイルスの影響で慰霊の集まりは中止や規模縮小となっているのだろう。

   ☆

 ところで、この事故の話は正直あまり書く気がしなかった。

 もちろん事故そのものは興味深いのだが、ウィキペディアで既に詳細な内容が解説されているのだ。あれを読むと、今さら自分が書く意味ないじゃん、という気持ちになる。書いているのが事故の関係者なのか研究者なのかは不明だが、この事故の記憶を風化させまいと努めている方がおられるようである。

 それでも今回この記事を書いたのは、三河島事故の記事と同様に「この事故のことを書かなかったら片手落ちだろう」という気持ちがあったからだ。よってここでは大まかな内容の紹介にとどめてある。もっと詳細を知りたい方はインターネットで検索して頂きたい。

<補足>
 この事故について筆者が驚き、なおかつ興味深く思ったのが、コメントの多さである。

 当『事故災害研究室』は、現在のように電子書籍化する前は、ブログ上の手作りのいちコーナーとして存在していた。この「飛騨川バス転落事故」もそこで一度公開しているのだが、「ブログコメント」という形で、事故の関係者の方からメッセージを頂く機会がもっとも多いのがこの事例なのである。

 それも、例えばひとつの事例につきいつも3つのコメントをもらっていて、飛騨川バス転落事故は5つ、というようなバランスではない。突出しているのだ。事故災害ルポにコメントを頂くこと自体まれなのに、この事故だけは3つも連続するから驚いた。

 先述したような「重力」の気配が感じられる点といい、ウィキペディアの詳細情報といい、つくづくこの事故には、他の事故とは一線を画す格別さがある。

 折角なので、以下では、この事故のルポに対して頂いた「コメント」をご紹介させて頂こうと思う。もともとが「公開コメント」なので問題ないとは思うが、もし自分の書いたコメントがここで公開されるのは困る、という方がおられたら、言って頂けると幸いである。

■33歳の娘より (CHIE)
2010-05-26 21:50:49
私がこの記事・ブログを検索した目的は、実はこの事故で被害に合ったバスのすぐ後ろのバスに祖母・両親が乗っていたからです。
この事故の話は、子供の頃から何度となく聞かされてきました。
またこの現場を通る時、父が何度も手を合わせるのを見てきました。
長い年月が過ぎ、この事故を語るのは父しかいませんが、違う方向からこの事故を知る事ができよかったと思います。
書いてくださって ありがとう。

■Unknown (spock)
2010-07-18 00:27:31
当時中学生だった私は思春期ということもあって家族で行動することはいやだったのでそのツア-には参加しませんでしたが、父母、妹が参加していましてちょうど7号車に乗っていたんだと思います。父が後から聞かせてくれたとこによると前のバスの赤いテ-ルランプがゆっくりと川のほうへ落ちていったと。もうその父はなくなり、大正生まれの母も高齢になりました。
(中略)
当時私たちは幸心住宅というところに住んでいて事故の日は確か日曜日だったと思うんですが、昼過ぎまで大曽根あたりをふらついていて家に帰ると叔父から電話があり大変なことが起きた、なんで知らないんだ?って怒られたことを覚えています。

■Unknown (いつのゆめ)
2011-08-24 21:04:58
初めまして。飛騨川事故を検索していて、読ませていただきました。当時6歳で、大幸住宅に住んでいてました。バスが出る日の夕方まで友達と遊んでいて「夜に旅行に行くから早く家に帰るね」と別れたその子達は全員事故にあってしまいました。団地の子供会で子供だけの葬儀?お別れ会もありました。事故から40年以上になりますが、色々な場面が鮮明でいまだに忘れていません。記録として・・とコメントされていますが書いて下さってありがとうございます。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆『日本消防史』国書刊行会

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