◆東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)

 西南戦争が終結して間もない、1880(明治10)年10月1日の夜のことである――もはや日本史の教科書に出てくるような時代だ!――現在の兵庫県神戸市、阪神間鉄道の住吉駅東方で上り列車と下り列車が正面衝突、死者3名と重傷者2名の大惨事が発生した。

 これは鉄道の衝突事故としても、また鉄道における死亡事故としても本邦初のものである。ネットで検索すると本稿のタイトルのように「タンコブがひっこんじまったい」と言いたくなるような長ったらしい名称がつけられているが、文献によってはシンプルに住吉事故、などとも呼ばれている。

 まずは、当時の鉄道の様子を簡単に説明しておこう。

 当時は、西南戦争に参加した官軍の兵隊たちが帰還する時期だった。よって鉄道としては、普段よりも多く人員の輸送を行う必要があった。

 そこで、神戸駅からは、各駅停車の「定期列車」とは別に、大阪まで停車せずに一気に走る「臨時列車」が出ていた。今で言う快速や特急のようなものだろう。

 この「定期」と「臨時」の2本の列車が出る際は、いつも臨時が先で定期が後、と決まっていた。なぜなら各駅停車の定期列車に対し、臨時列車は停止なしで突っ走るので、臨時列車が後から追いかけていてはどんどん距離が縮まって追突してしまうからだ。

 そしてこの2本の列車は、大阪に到着すると今度はUターンし、神戸へ戻る。この時には、往路では「臨時列車」だった車両は空っぽになるので「回送」になる。そして神戸からは再び兵隊が乗り込む、という寸法だった。

 また、当時の鉄道はほとんどの路線が単線だった。一本の線路を一本の列車が通過することしかできず、いわば列車はかわりばんこに線路を走るのである。上りと下りの列車がすれ違えるのは駅だけで、しかも今のように信号機もないものだから、一方が駅に入ってくるのを確認してからもう一方は発車するというやり方になっていた(まあ、地方の路線では今でもそんな感じだけどね)。

 さてそれで当時は、神戸-大阪間を「上りの定期列車と臨時列車」と「下りの定期列車と回送列車」がかわりばんこに行きつ戻りつしていたわけだ。

 事故当時は雷を伴った豪雨だったという。そのため、当夜は上りと下りの両列車のいずれも遅れが出ており、臨時列車が大阪駅に到着したのは、本来なら後続の定期列車が到着しているはずの時刻だった。

 つまりこの時点で、上り定期列車はまだ線路を神戸から大阪に向けて走っていたのだ。

 しかし、大阪駅で待機していた上り回送列車の英国人運転士はそこで勘違いしてしまった。大阪駅に到着したのが「遅れた上り臨時列車」ではなく「定刻通りの上り定期列車」だと判断し、列車を出発させてしまったのである。

 それで正面衝突となった。

 その結果、回送列車の英国人機関士と、日本人の火夫(ボイラーの取扱担当者)は死亡し、大阪に向かっていた上り定期列車の日本人車長も即死。定期列車の方に乗っていた英国人機関士は右目を失明する重症を負った。乗客に怪我人がいなかったというのは不幸中の幸いであった。

 遺体の状況は凄惨なものだったという。後年発生した参宮線六軒事故もそうだが、蒸気機関車というやつは、ひとたび事故ると蒸気や熱湯で被害が拡大することがしばしばあるのだ。

 ところで面白いのが、当時の鉄道局長の報告書である。事故の責任は、誤って列車を出発させた英国人機関士にある、と決めてかかっているのはともかくとして、同時に「官軍の連中の乗車マナーがなっておらず、そのせいで時刻表が乱れた。それも事故の原因だ」と憤慨しているのである。ふうん、局長あなたひょっとして士族よりだったの? 

 ただ事故原因について言えば、英国人機関士の責任うんぬんよりも、そもそもなぜ彼が回送列車を発車させてしまったのかが問題であろう。この点について『事故の鉄道史』では、彼は当時、下り臨時列車の存在を完全に忘れていたか、あるいは全く知らされていなかったのではないか――という可能性も示唆されている。

 まあどのみちかなり古い事故で、資料も極めて乏しい。真相は藪の中という外はない。

 ともあれこの事故を教訓として、上り下りの列車がかわりばんこに走るこうした「閉塞路線」では、線路を走る時に必ず運転士が通行証を受け取るというやり方が確立されていったのである。

 この通行証を、いわゆる「タブレット」という。

 しかし人間というのは実に厄介なもので、だから事故が起こらなくなったかというとそんなことは決してないのである。このタブレットをいい加減に扱ったせいで逆に大事故に繋がった例もあり、それは別項の「東北本線・古間木―下田間正面衝突事故」に詳しい。

 西南戦争は、ひとつの時代の完全な終息を示す出来事だった。一方で、同時期に起きたこの衝突事故は、鉄道史のこれ以降の苦難の道のりの幕開けを告げる出来事だったのである。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

back