◆長崎屋火災(1990年)

 子供の頃に事故災害のニュースを見て、「大量死の不気味さ」とでも呼ぶべきものを強烈に感じたことが何度がある。その中の一つがこの長崎屋火災である。

 これが発生したのは筆者が10歳の時。当時、家から比較的近い場所にも長崎屋の店舗があったせいか、とにかくこの火災は妙に身近で不気味なものとして感じられた。

 今からほぼ20年前、1990年3月18日のことである。

 兵庫県尼崎市神田中通4丁目(中央四番街)に「長崎屋尼崎店」はあった。どうも正式名称は「Big・Off長崎屋尼崎店」とかなんとかいったらしいが、とりあえずここでは長崎屋で統一する。

 ちょうど昼時の12時半頃のことだった。火元は4階のインテリア売場で、そこで売られていたカーテンがなぜか火を噴いたのである。

 店内ではたちまち非常ベルが鳴り響いた。

 過去の旅館やホテルの火災事例を見ていると、非常ベルを切っていたせいで火災に気付かず大惨事に至ったというパターンが多い。その点、長崎屋はちゃんとベルが鳴っただけマシと言えるが、しかし最初店員たちは気にもとめなかったという。実はこの店舗の非常ベルは以前から誤作動が多く、鳴動しても誰も信じてくれない「狼少年」状態だったのだ。

 ネット上で2005年の神戸新聞のコラムが公開されており、そこに火災の経過が時系列で記してあるのだが、非常ベルが鳴ってから実際に店員が火災を目にするまで5~6分もの時間がかかっている。この数分が命取りになり、火災はもはや手の付けようのない有様だった。

 以下は、当時の店員の証言である。

「連絡を受けて4階に上がると、商品のカーテンが燃えていた。このくらいの火なら消せるだろうと思ったが、突然煙が吹き上げ、煙があっという間に広がった」

 また別の店員によると、火災を認めた時にはすでに火柱が天井まで上がっていたという。通常、そのような状態になったらもはや一般人に消火は不可能で、逃げるしかない。

 当時の店内には58人の従業員と買い物客100人以上がいた。だがお客と従業員の多くは階段やエスカレーターを使って1階まで下り、無事に避難できた。また119番通報と店内放送も「きちんと」行われている。

 こうした店側の行動が功を奏したと言えよう、鉄筋5階建て・地下1階のこの建物において、4階から下では死者は1人も出ていない。

 問題は5階である。

 致命的なのはおそらく店内放送の不手際だろう。先に筆者は店内放送は「きちんと」なされたと書いたが、実はこの「きちんと」は火災が発生してから10分以上も経過してからのことだった。遅きに失したもいいとこで、火災の煙はものの数分で5階の逃げ道を塞いでいたのである。

 5階にはゲームコーナー、従業員食堂、放送室などがあった。当時、従業員食堂で昼食中だった清掃員Nさんはこう証言している。

「火事だ、という声が食堂に響いた。食堂には他に5人くらいいたと思うが、とにかく煙がすごかった」

 次に、隣の事務所に勤務していた女性従業員の話である。

「誘導の館内放送をした後、階段に出て屋上に上がろうとしたが、煙で廊下に出られなかった」

 また同じ5階にあったゲームコーナーは、この時は小中学生で賑わっていた。その中で1人で遊んでいた会社員は、「千円ぐらい遊んだところで煙にまかれ、気が付いたら病院のベッドだった」と後に証言している。

 煙に追い立てられながら、人々はこぞって従業員食堂へ逃げ込んだ。この部屋には大きな窓があり、人々は猛煙にまかれながら必死に助けを求めていたという。

 消防は4、5分で現場に到着している。最終的には梯子車が57台出動し、約300人の消防隊員が動員された。

 しかし現場は尼崎駅からほど近い繁華街である。ビル、酒屋、アーケード等がどうにも邪魔で、消火活動は難航したという。

 当初、消防隊員たちは突入を試た。しかし4階は既に猛火に包まれており入れない。自然、救出活動は外から行われることになり、隣の家具店の屋上から5階の窓に梯子を渡すなどの方法がとられた。先に証言者として登場した清掃員Nさんなどは、これでもって助け出されている。

 また、ゲームコーナーにいた子供達の中には、気丈にも窓から飛び降りて一命を取り留めたのが2人もいた。それに放送室は煙が入ってこなかったため、そこにいた女性従業員も無事に助け出された。

 それでも死者は15名に上った。全員が5階の従業員食堂で倒れており、ほぼ全員が窓際で力尽きるように連なっていたという。死因は全て窒息死。中には、ゲームコーナーに遊びに来ていた小学生の兄弟もいた。

 筆者は実際に映像を見たことはないが、レスキュー隊員が窓に手を伸ばした先で力尽きて倒れた女性もおり、それは当時テレビ中継で放送されていたという。何から何まで悲惨すぎる話だ。

 さて、いよいよ責任追及タイムである。火災がほぼ収まった16時頃には捜査本部が設置され、犯罪事件としての捜査が開始された。

 ところで、この建物には「マル適マーク」というものが授けられていた。
 このマークは、当時の防火基準をきちんと満たした建造物に与えられるものだった。よって、これがある以上は火災が起きても死者が出るなんてありえないはず……なのだが、現に15人も死んでいる。一体どういうことだ、と早速原因究明がなされた。

 4階から突然出火した原因は、今日に至るまで不明である。まあ火の気の有り得ない場所から突如として炎が上がっているので、放火というのが定説のようだ。

 だとするとやはり、建物の設備や従業員の火災対応が悪かったに違いない。それで調べてみるとああやっぱり……で、この店は避難通路や防火扉の前に荷物を山積みにしていたのだ。当事故災害研究室の読者であればもはや言うまでもないであろう、通りゃんせ通りゃんせ、ここは煙の抜け道じゃ♪ というわけである。 

「バブル経済の好景気で、避難通路にも商品の入った段ボールを平然と積み上げていた。防災より収益。客の命を預かるという意識に欠けていた」

 これは、元従業員の男性が新聞社の取材に対して語った言葉である。事故から15年ほど後のことだ。

 この、荷物を山積みにしていたことを除けば、この店の避難体制はなかなか優秀だったのである。防火訓練は半年に1回は実施されていたし、火災報知機、屋内消火栓、連結散水装置など防災設備も完備されていた。

 それに多少もたついてはいるものの、館内放送もお客の誘導も行われている。あとほんのちょっとだけ平素からの注意があれば大惨事は避けられた筈なのだ。まことに残念な話である。

 だが責任を店側だけに求めるのも酷であろう。この建物にスプリンクラーが皆無だったのも問題だった。当時の消防法でスプリンクラーの設置義務が課せられていたのは、延べ床面積6,000平方メートル以上の建物だけに留められていた。長崎屋は5,140平方メートルと、それに僅かに足りなかったのだ。

 15人という死者さえなければ、警報装置の故障や避難誘導のお粗末さまであげつらわれて被告らが有罪判決を食らうこともなかったかも知れない。事故から3年半後の1993年9月、被告席に立った元店長ら2人は禁固2年6月・執行猶予3年を言い渡された。神戸地裁尼崎支部でのことである。

 長崎屋尼崎店は無期限営業を余儀なくされ、そのままいつしか閉鎖・解体された。その後、2004年には跡地にマンションが建設されている。

 また2005年には放火についても公訴時効を迎えた。今では尼崎市に事故の面影はほとんどないが、事故のあった3月18日を尼崎市は防災の日として定め、商店街では毎年消防訓練を行っているという。

 また、大型商業施設で10人以上が死亡したのは大洋デパート火災以来ということもあり消防庁も法改正に乗り出した。スプリンクラーの設置基準を強化し、大型店は年2回以上の消火訓練を行うよう義務付けたのである。

 そしてこの火災は、2000年の「株式会社長崎屋」そのものの倒産の遠因にもなった。

 子供の頃、筆者の身近にあった長崎屋も今はもうない。そのかわり秋田や鶴岡に行った際にはあの看板を見かけたことがあり、火災事故を思い出すのと同時に懐かしい気持ちになったものだ。どういう匙加減なのかは知らないが、一部の店舗は残っていたり、長崎屋という名称を使わずに営業したりしていたようである。

 株式会社長崎屋は、このようにいったんは倒産したものの、後にはまた再建している。今はドン・キホーテの連結子会社という位置付けらしく、そのドン・キホーテでも火災死亡事故が出た時には、きっと長崎屋の従業員は生きた心地がしなかったことだろうと筆者は勝手に想像してしまうのだが……。

 まあとにかく、長崎屋には今後とも頑張って頂きたい。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆山形新聞
◆神戸新聞「検証「尼崎・長崎屋火災」」
◆消防防災博物館-特異火災事例

back

スポンサー