◆大東館「山水」火災(1986年)

 ここまで数々のホテル火災や旅館火災の事例をご紹介してきた「事故災害研究室」であるが、それもどうやらここでひと段落となりそうである。宿泊客が何十人も死亡するような大惨事は、年表上ではこれが最後だ。

 静岡県伊豆町、熱川(あたがわ)温泉にあるホテル大東館は、本館「月光閣」と旧館「山水」、それにロイヤルホテルの3つの建物からなる大旅館であった。特に「山水」はテレビドラマ・細うで繁盛記に登場したことで、全国的にも高い知名度を誇っていたようだ。

 この「山水」は昭和初期に建てられた3階建ての古い木造建築で、延べ面積720メートル。古い建物である。そのせいで廊下が狭いとかきしみ音がするとか、また壁が薄いとか暖房が効かないとか、そんな苦情を宿泊客から受けることもしばしばだったという。それでもホテル側は、本館が満室の時はこちらのオンボロ旧館へ宿泊客を回していた。

 1968年(昭和61年)2月11日、この「山水」から出火した。

 最初に火災を発見したのは、夜間勤務をしていた従業員だった。待機中のナイトフトロントと夜警員の2名である。

 時刻は午前2時6分。宿直室でテレビを観ながら雑談していたところ、夜警員が不審な物音に気付いた。それでフロント係がガラスドア越しに外を見ると、山水の1階の南側の窓に、赤い明かりのようなものがあった。

 それは建物の中央にある、配膳室のあたりだった。フロント係がさらに外へ出て目を凝らしてみると、紛うことなき火事である。炎が上がっているのだ。

「火事だ! 俺は消火してくるから通報を頼みます!」

 フロント係は、夜警員にそう告げると、若干もたつきながらも消火器を2本取り出し、「山水」へ通じている地下道へと下りていった。

 地下通路を進んでいる途中では、ゴーッバリバリという火炎の燃え盛る音が聞こえてきたというから恐ろしい話だ。このフロント係、さぞ生きた心地がしなかっただろう。

 彼は間もなく山水の上がり口に到達した。だが廊下で聞いた音からも分かる通り、山水の火災はもはや宴もたけなわ、手の付けられない状態であった。さらに地下通路も煙で塞がれており、消火するのも命懸けときてはどうしようもない。フロント係はたまらず消火器を置いて引き返した。

「ああもう手が付けられないよ、とりあえず上司に電話だ!」

 多くの火災事例を見てきた読者諸君ならば「もっと他にするべきことがあるだろう」と突っ込みを入れたくなるところだろうが、とにかくフロント係は上司に連絡。その時に改めて山水のほうを見ると、見える範囲の窓は全部割れており、そこから炎が吹き出していたという。

 フロント係が電話でどのような指示を受けたかは不明である。だが彼は次に、とにもかくにもスイッチが切られていた火災受信機を操作した。このホテルの火災報知機は、誤報が多くて困るということで、例によって普段はスイッチを切られていたのだった。

「よし、これでお客様に火災を知らせられるはずだ!」

 でも作動しなかった。

 冷や汗タラリのフロント係は、次に非常用放送設備のアンプをいじってみる。しかしこれも動かない。

「あああ、どうすればいいんだ」

 まったく哀れなほどの動揺ぶりである。彼はアンプのスイッチを入れ忘れていた。

 そうこうしている内に、山水はもう炎に包まれていた。火炎は旧館のみならず本館にまで届きそうな勢いである。彼は、とにかく本館のお客だけでも逃がさなければ、と判断し火事触れをして避難誘導を行った。

 この火災、出火時刻は午前1時半頃と見られている。火事が発覚するまで実に30分もの時間を要していたのだった。しかも当時は乾燥注意報までもが出ており、火災時の対応について指導も教育も不充分だったホテルの従業員にとっては、もはや手に負えない状況だったのである。

 ちなみに消防への通報を頼まれた夜警員だが、電話の「ゼロ発信」というもののやり方が分からず、4回も通報を試みて失敗している。結局、最終的に通報したのは近所の焼肉屋さんだった。

 火炎は瞬く間に、山水と、隣接する従業員寮を呑みこんで行き、さらに隣の「熱川グランドホテル」も半焼。消防が駆け付けた時には救出活動など夢のまた夢という状況で、延焼防止と鎮火とで精一杯だったという。

 何から何まで手遅れだったのである。この夜、旅館の近所の人々は、宿泊客が助けを求める声などを一切聞いていないという。山水での死亡者のほとんどが客室で亡くなっていることを考えると、彼らは助けを求める間もなく、かなり早い段階で死亡したものと思われる。

 ただ静かに、不気味に山水は燃え落ちたのだ。

 皮肉なのは、大東館の本館(月光閣)は全く無傷だったことである。

 火災に気付いたフロント係が、山水での避難誘導はもはや不可能と判断したのは先述の通りである。彼は本館の宿泊者に対してのみ火災を知らせていた。だが結局のところ本館に延焼することはなく、一方の山水は宿泊客のほぼ全員が逃げる間もなく室内で死亡したのである。これを皮肉と言わずして何と言おうか。

 ちなみに「ほぼ全員」というのは、唯一、ひと組の夫婦だけが屋根伝いに脱出しているからだ。

 最終的は死者は24名。そして負傷者はゼロであった。この火災はまさに生きるか死ぬか、オールオアナッシングの恐るべきものだったのである。

 死亡者には、夫婦で温泉旅行に来ていた者、会社の同僚らでゴルフ旅行に来ていた者、大学のクラブ仲間で遊びに来ていた者など、様々な人がいたという。また、かなり前から大東館に予約していたにもかかわらず、本館ではなくオンボロ山水に部屋を宛がわれたという不運な者もいた。

 後の現場検証では、出火の原因は配膳室の壁の中にあったベニヤ板だと結論づけられている。ステンレス製の壁が長期間加熱されたことで、壁の奥のベニヤが蓄熱炭化しひとりでに火がついたのではないかというのだ。

 どうも素人には俄かに想像しがたい出火原因だが、読者の方からいただいた情報によると「低温発火」という現象が確かにあるらしい。

 裁判では、ホテル内の設備不良と宿泊客の死亡との間に因果関係があるかどうかで争われている。よって検察側としては、出火や延焼に関する事実の究明をしっかりしておく必要があったことだろう。

 火災がきっかけとなり、ホテル大東館の不正や体勢の不良は次々に暴かれていった。

 たとえば「適マーク」。

 これは防災設備などがしっかりしているホテルや旅館に与えられる称号で、これがあれば安全ということを意味する。大東館は本館はこのマークを受けていたが旧館の山水はそうではなく、その点を曖昧に誤魔化しながら経営していたフシがあった(ちなみにこの適マークは今は廃止されている)。

 他にも火災報知機が切られていたとか、夜間の従業員が少なすぎだとか、つっつかれるタネには事欠かなかったようだ。

 ただ設備全体を見ると、この旅館ではハード面での手落ちはあまりなかったように見える。考えうる限りの防災設備は揃っていたらしいし、あからさまな法令違反も無かった。火災が引き起こされたのは、完全にソフト面での過失が原因であろう。

 1988年には、このホテルの専務と、「名ばかり防火管理者」だった内務部長とやらが業務上過失致死で逮捕された。

 裁判は、少し揉めたものの、第一審にてあっさり有罪が確定している。

 実質的な経営責任者で、防火管理者として認められた専務には禁固2年の実刑判決が下っている。過去の宿泊施設火災の判例に照らしてみると実刑判決というのはなかなか重く、裁判官は「被告人に対してはその刑の執行を猶予する余地はない」と述べていた。

 その他、この火災に関しては「火災警報器が鳴動する状態であれば1名の犠牲者も出さずに済んだ」等、裁判所はかなり厳しく断じている。

 一方、内務部長は禁固1年、執行猶予3年の判決だった。

 ところでネット上での噂話を読んでいると、この2人の被告人が逮捕されたのは「シッポ切り」だったのではないかという説もあるという。この大東館、実質的には社長が旅館の経営管理を取り仕切っていたのだが、県議会との繋がりが深い人物だったから起訴されずに済んだのではないか、とかなんとか。

 当時のことはよく分からないが、この社長は火災直後に報道陣の前に姿を現して傲岸不遜な態度を取ったりもしていたらしい。議会との繋がり云々の真偽はともかく、そういう態度を取っていたのでは、まあそのように書きたてられるのもむべなるかな、であろう。

 そういえばこの火災は、先に書いた川治プリンスホテルや蔵王温泉観光ホテル火災のように、ホテル側と遺族が気持ちよく和解したような雰囲気があまりない。一応、裁判上裁判外ともに和解交渉が進められて、遺族には総額15億5760万円の和解金等が支払われたとはいう。だがそれで遺族が減刑の上申をするでもなく、むしろこの裁判では遺族感情は刑を課す根拠にすらされている。

 こういった事柄を踏まえて総合的に考えてみると、大東館の経営体質というのは反感を買われやすいものだったのかも知れないな、とも思う。

 さてこの大東館、その後も色々あったようだ。

 まず、火災の直後に数億円の費用を注ぎ込んで改装工事を行い、営業を再開したのは逞しい限りである。ただその時、消防に返上していた適マークを「早く寄越せ」とあの社長が催促したとかで、これもまたマスコミに叩かれている。社長、油断しすぎ。

 さらに、もらい火で半焼してしまったお隣のホテルだが、自分のところが改修できないままなのに大東館だけが営業再開したので頭に来たようだ。損害賠償を起こしている。

 この損害賠償の顛末がどうなったのかは不明だ。重過失によるものでない限り、こういう「もらい火」の火災は損害賠償の必要がなかったと思うが、この事例ではどういう判断が下されたのだろう。

 そんなこんなでなんとか延命していた大東館は、平成5年には火災の補償もひと段落し、翌6年には「ホテルセタスロイヤル」をオープンさせている。地上11階、地下1階、収容人数237名という一人前のホテルだ。

 だが平成6年くらいとなると、もうバブル景気も思い出話の域に入ろうとする時代である。その上伊豆沖地震の影響などもあり、売り上げは思うように伸びなかったとか。ついこの間の2009年には倒産し、民事再生法の適用を受けている。

 ホテルセタスロイヤルは、今でも熱川温泉に存在し営業を続けている。伊東温泉には大東館という名前の温泉旅館もあるが、これは無関係である。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆サンコー防災株式会社ホームページ
◆消防防災博物館「特異火災事例」
◆判例時報 1510号
消防庁消防大学校消防研究センター「低温発火とは」

back