◆七里ヶ浜『真白き富士の根』ボート遭難事故(1910年)

  『真白き富士の根(もしくは嶺)』という曲がある。メロディーだけならば、耳にしたことがある人も多いだろう。今回ご紹介するのは、この元ネタとなった事故である。

 時は1910(明治43)年123日。惨劇は、12名の子供たちがボートに乗り込んで海に出たところから始まる。

 この12名というのは、神奈川県逗子開成中学校の生徒11名と、それに小学生1名という面子だった。彼らは「ギグ」と呼ばれる7人乗りの船を学校に無許可で持ち出し、ドウショウ(海鴨)撃ちをするべく出航したのだ。目指すは江の島である。

 海に出る直前には、地元の消防士が心配して声をかけている。

「おいお前たち、なにやってるんだ! 子供たちだけで危ないだろ!」

 ところがやんちゃ小僧たちは平気の平左。天気は明朗で波も高くないからと出発したのだが、おそらく沖で突風にあおられたのだろう、ボートは転覆して全員が海に投げ出されてしまった。

 当時の天候は穏やかだった。だが、彼らが遭難したと言われる七里ヶ浜の行合川の沖あたりは気象が変わりやすく、突風も吹きやすい場所だったのだ。

 彼らの遭難が判明したのは15時頃のことである。遭難した少年の一人が漁船に救い上げられたのだ。

 彼の体は冷え切っており、焚き火で暖めながら水を吐かせて人工呼吸を施した。だが彼は言葉を発することなくただ海のほうを指差すばかりで、それでようやく遭難が発覚したのだった。

 さっそく学校、警察、それに漁師たちが総出で残りの少年たちの捜索にあたった。この捜索活動には、学校の要請を受けて二隻の駆逐艦までもが出動した。トラブルに「軍」が出動するなどというとまるで外国の話のようだが、かつては日本でもそんな時代があったのだ。

 だが残念ながら、最初に救助された少年も含めて全員が帰らぬ人となった。遺体が全て発見されたのは、事故発生から四日後のことだった。

 この年の26日には、中学校で追悼の式典が営まれた。式典の際、冒頭で挙げた歌が鎮魂歌として披露されたという。

 もう少し詳しく解説すると、この歌はもともとは讃美歌だった。それに歌詞がつけられて『七里ヶ浜の哀歌』という鎮魂歌になり、しまいにはレコードまで売り出されるに至ったのだ。『真白き富士の根』というタイトルは、後年にこの事故を題材にして造られた映画の題名でもある。

 その後、1931(昭和6)年には七里ヶ浜の海岸に木製の供養塔が建てられたが、一度は朽ち果てた。

 そしてその後、有志によって新たに記念像が建てられたのが1964(昭和39)年のこと。この記念像の台座には以下のような文言が記されているという。

 みぞれまじりの氷雨が降りしきるこの七里ヶ浜の沖合いでボート箱根号に乗った逗子開成中学校の生徒ら十二名が遭難転覆したのは一九一〇年(明治四十三年)一月二十三日のひるさがりのことでした。

 前途有望な少年達のこの悲劇的な最期は当時世間をさわがせましたがその遺体が発見されるにおよんでさらに世の人々を感動させたのは彼らの死にのぞんだ時の人間愛でした

 友は友をかばい合い、兄は弟をその小脇にしっかりと抱きかかえたままの姿で収容されたからなのです

 死にのぞんでもなお友を愛しはらからをいつくしむその友愛と犠牲の精神は生きとし生けるものの理想の姿ではないでしょうか

 この像は「真白き富士の嶺」の歌詞とともに永久にその美しく尊い人間愛の精神を賞美するために建立したものです
改行等は筆者による)

 今の時代から見るとだいぶ時代がかった文体だが、当時の人々がこの事故をどのように受け止めていたかが読み取れる。「兄は弟をその小脇にしっかりと抱きかかえたまま」云々というのも本当のことで、遺体となって発見された少年たちの中には、弟を抱きかかえたままの格好の者がいたりして当時の人々の涙を誘ったのだ。

 こうした事柄のインパクトもあってか、この事故については「記念物」が実に多い。先述した記念像もそうだし、『真白き富士の根』もそうだろう。また開成中学校の敷地には1963年に「ボート遭難碑」なるものが建てられている。

     

 ただ、この事故は若者の暴走事故のようなもので、今の時代から見るとあまり同情の余地がないように感じられる。悲劇的な事故の話が美談にすり替わっているように感じるのは、おそらく筆者だけではないだろう。

 なぜ当時、犠牲者の少年たちはここまで英霊のごとく扱われたのだろうか。このあたりは、その頃の時代の空気に関する歴史感覚がないと、ちょっと理解しにくい。正直、筆者も完全には想像がつかない。

 歴史の話になるが、この疑問を考えるうえでヒントになると思われるのは、明治時代から戦前までの日本人の深層心理には、常に不安や哀しみが付きまとっていたのではないかという見方である。批評家の小浜逸郎は『日本の七大思想家』の中で、以下のような観点を打ち出している。

  後知恵的な言い方になるが、日本人の深層心理の中には、もともと、日本が後発近代国家であったこと、内政面での矛盾を未解決にしたまま、常に背伸びしながら近代化を進めたこと、開国に踏み切った後、西洋からも他のアジア諸国からも乖離した一小国家であることを深く自己発見せざるをえなかったこと、ナショナリズムの健全な発展の前に、国際的孤立を招くような性急な心拍数で軍事に偏向したナショナリズムを形成しなければならなかったこと、これらにまつわる深い哀しみが「予感」されていたのだ。

小浜逸郎『日本の七大思想家』 より

  この傍証として、有名な日本の軍歌は、ほとんどが士気を高める効果よりも「死」を予感させる哀調を帯びたものが多い、と小浜は述べている。

 こうした考え方がどこまで正鵠を射ているのかは分からないが、この論考を読んだ時、筆者はなるほどと思った。ならば、いわば暴走事故の形で命を落とした少年たちが英霊のごとく扱われたのは、哀しみを哀しみのままで終わらせまいとする時代の空気が作用したのかも知れない、と考えた。


【参考資料】
◆ウィキペディア
逗子開成中学校・高等学校ホームページ「真白き富士の根(連載)」

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