◆済生会八幡病院火災(1973年)

 1972(昭和47)~73(昭和48)年というのは火災の当たり年だったらしい。とにかく当研究室でご紹介したものだけでも千日、大洋、北陸トンネル、高槻ショッピングセンターと、戦後の火災史の中でも有名なものがこの時期に集中している。この八幡病院火災もそのひとつだ。

 1973(昭和48)年3月8日のことである。現場は福岡県北九州市、八幡区春の町。日付が8日に変わって間もない深夜、済生会八幡病院も夜の静けさの中にあった。

 同病院は地下1階から最上階5階まである大規模施設で、当時も入院患者235名を抱えていた。さらに3階には屋上庭園もあり、当時は増築工事もしていたというから人気があったのだろう。

 しかしそんな大病院で火災が起きる。原因は、一人の人物の「お酒によるやらかし」だった。

 その人物というのは、産婦人科の39歳の医長である。彼は、当番医というのか宿直というのかよく分からないが、とにかくそういう夜勤の当番みたいな役目で詰めていたらしい。で、彼は、午前3時を回る頃まで同僚と飲酒していたのだった。

「ウイーヒック飲みすぎちまった。さて寝るか!」

 おそらくそういう感じのノリで、彼は外来用のベッドに倒れこんだ。そこは自分の縄張り、産婦人科の外来診察室だった。

 少し経って再び目を覚ましたのが午前3時21分。彼は、足元がやけに熱いのに気付いた。なんだ? せっかくいい気持ちで寝てたのに……。しかし目の前の光景は驚くべきものだった。なんと診察室のカーテンが燃えていたのだ。

 原因は、寝る直前に彼が仕掛けた、季節外れの蚊取り線香だった。

 彼はまず上着で叩いて火を消そうとした。だが、かえって煽られる形になり火勢は拡大。さらに洗面器に水を汲んで消火を試みたがこれも失敗し、ここでようやく助けを呼ぶ。

「火事だ、消すのを手伝ってくれ!」

 当直の医師や看護婦や婦長、さらに事務員や守衛などが集まって、皆で消火にかかったが駄目だった。すでに状況は「初期」消火と呼べるようなものではなく消火器も消火栓も役に立たなかった。

 午前3時51分、ついに婦長によって消防へ最初の通報がなされた。時刻を見れば分かる通り、すでにカーテンへの着火が確認されてから30分も経過していた。

 実はこの直前、近所の住人も「病院の4階から煙が出ている」と通報している。火元の診察室は壁から天井に至るまで合板が張り巡らされており、炎はそれを伝って既に天井裏から伝播していたのだ。関係者が初期消火のつもりで奮闘している間にも、煙は少なくとも4階まで上っていたのである。

 消防が到着した時は、守衛が階段の下で放水していたという。おそらくこの時点で、もう現場の診察室には入れない状態だったのだろう。

 現場は混乱した。どうも病院側からの情報提供が適切でなかったらしく、一時、一か所に救助隊が無駄に集中したこともあったようだ。

 救助活動も難航した。梯子車やスノーケル車も駆けつけたのだが、増築工事が行われていたこともあってそれらの緊急車両は半分くらいしか使えなかったという。

 各階の、入院患者の救助の内訳は以下の通りである。

・2階……51名中、31名を看護婦が救出。残りは消防隊が救出。
・3階……患者たちは屋上庭園に避難し(誘導があったかは不明)、そのうち64名が屋外階段で脱出、残り27名がスノーケル車で救助。
・4階……24名が自主避難(うち9名は雨樋を伝って脱出)。58名を消防隊が救出。

 こうして見るとかなりの人数が助かっている。しかし4階の333・335・338号室では避難も救助も間に合わなかったらしく13名が亡くなっている。内訳は1名が飛び降り、1名は救出されたものの病院搬送後に死亡、残りは逃げ遅れだった。亡くなったのは、自力での避難が難しい老人や子供だった。

 二桁の犠牲者を出してしまった八幡病院だが、実は防火体制については「優等生」と言っても差し支えないほど整備されていた。防火対策委員会と自衛消防隊が組織されており、どちらも医長がトップとなって指揮系統が確立されていた。

 さらに、このうち自衛消防隊は250名の隊員で編成されており、昼夜の交代態勢で時間ごとの人員配置まで決められていたという。また避難訓練も行われていたし防火扉だってあった。割合として、助かった人が多いのはこうした体制のおかげもあったのかも知れない。

 もっとも、増築工事をすることになった際、消防からいろいろと指摘されていたようだ。5階には避難器具がないとか(ただし5階は研究室で患者はいなかった)、防火区画と耐火区画の区割りに不備があるとか、煙探知機と放送設備が基準に適合していない等々……。それらの不備が、被害が拡大する要因になったのかどうかは分からない。

 それにしても、千日デパート・高槻ショッピングセンター・大洋デパートなど、1972(昭和47)年~1973(昭和48)年に起きた大規模な高層建築物火災は、なぜかどれも工事中に発生しているのが興味深い。

 工事中の建造物は、平常の状態とは異なっている。よって普段は閉め切られている場所が開け放たれていて煙が伝播したり、普通なら通れるはずの通路が通れなくなっていて避難が遅れたり、設備によっては一時的に電気が通らなくなっていたり――ということもあるかも知れない。そこで火災が起きれば、なるほど大変なことになるだろう。


【参考資料】
消防防災博物館 特異火災事例
災害記録
国立情報学研究所論文ナビゲータ「済生会八幡病院火災時における 患者を中心とした避難行動 : 病院建築の防火・安全計画に関する研究 その2 : 建築計画」

back