◆呉市山林火災(1971年)

 山林火災――いわゆる「山火事」の中でも、戦後最悪とされる事例である。死亡者は全て消防隊員という、かなりショッキングな内容だ。

   ☆

 1971(昭和46)年4月27日、午前11時10分頃のことである。広島県呉市野呂山の一部である大張矢山(おおばりやさん)の民有林から火の手が上がった。

 もっと具体的に言うと、そこは「門の口用水地」という場所の付近だったそうな。当時、そこでは災害復旧工事が行われていた。作業員が火を焚いて湯を沸かしていたところ、近くの枯れ草に燃え移ったのだ。

 悪いことに、この日は乾燥注意報が出ていた。2日前から火災警報も発令されている。風も非常に強く、最大瞬間風速14メートル。炎は休耕中の農地に飛び火し、みるみる火勢を増した。木の枝などの燃えカスが舞い上がり、麓の町に降り注ぐ――。

 午前11時18分、消防に通報が入った。

 駆け付けたのは、呉市消防局東消防署の第一小隊16人。さっそく消火にあたったが、火勢が強すぎてどうしようもなかった。また当時の消防は、現代に生きる我々から見ると信じられないくらいに装備が不足していた。自治体でも重要視されておらず、予算を回してもらえなかったらしい。延焼を防ごうにも、使えるものは草刈鎌とナタとスコップくらいという有様だった。

 また、少々特殊な事情もあった。この市は昔から温暖で雨も少なく、山火事も多い。「山火事銀座」などというひどい呼び名もあったとかなかったとか。よって頻発する山火事への対応でてんてこまいで、人手も足りなかったのだ。

 人がいないんだから仕方がない。先述の16人の他にも、勤務明けで休んでいた職員や、非番だった者も特別召集された。その数18名。彼らは午前11時35分に第二小隊として編成され、現場に向かった。

 この18名が「全滅」することになる。

 現場に第一・第二小隊が集合すると、署長は第二小隊に指示。消火作業に向かわせた。

 この時、火災は掲山(あげやま)という山へ延焼しつつあった。このままでは、市街地に影響が及ぶ恐れもある。消防としては何としても防止線を作る必要があり、署長も第二小隊も急いでいたようだ。

 命令を受けた第二小隊。彼らは稜線を下り、谷の入り口へと入っていった。

 だが、そこで悲劇が起きる。突如として火炎が勢いを増し、予想だにしないスピードで第二小隊に押し寄せたのだ。

 それは「急炎上(flare up)」と呼ばれる現象だった。斜面の角度が40度を越える急斜面では、下っていく火炎のスピードが、その数倍に跳ね上がることがあるのだ。

 また、参考資料『なぜ、人のために命を賭けるのか』によると、この時に風向きが急激に変わり、ちょっとした竜巻のようになったらしい。

 第一小隊がいる位置からは、火炎が押し寄せるさまが俯瞰できた。彼らは色をなくし、第二小隊に向かって叫ぶ。

「第二小隊、戻れ、戻るんだ!」

 彼らが駆け下りていった方面には、伐採後の枝木や枯れ草、廃材、薪などが積み上げられていた。そこに火がついたらもう逃げられない――。

 レシーバーに向かって必死に呼びかける第一小隊。しかし応答がない。もうなすすべはなかった。彼らの見ている目の前で、谷の一帯が猛火と猛煙に呑み込まれていった。

 なぜレシーバーは応答がなかったのだろうか。これは、何かにぶつかってスイッチがオフになっていたのではないか、と考えられている。おそらく当時はそういうことが結構あったのだろう。今はネジ式だというレシーバーのスイッチ、当時は簡素なレバー式だった。

 谷が炎に包まれていく間、上空を飛んでいたヘリはその一部始終を見ていた。記録によると、飛び火によって林が一瞬にして焼き尽くされたのが14時45分のこと。そして15時49分には、現場に遺体が散在しているのが確認できたという。

 第一小隊が救助にあたったものの、16時2分には13名が遺体で発見。さらに19分には1名が重傷を負った状態で発見(後に死亡)、続けて、残る4名も遺体で見つかった。

 18名もの将来有望な消防士たちの命を奪っておいて、なお火災は鎮まらない。

 最終的に駆け付けた消防局職員は84名、派遣された消防車は109台、消防団員は400名に及んだ。さらにそこへ陸自隊員、海自隊員、営林署職員なども加わって、総勢1,900名がこの火災の消火活動にあたった。

 幸い、人家に延焼することはなかった。だが鎮火までには丸一日かかったという。雨のおかげもあってようやく落ち着いた頃には、すでに国有林115ヘクタール、市有林85ヘクタール、民有林140ヘクタール、合わせて340ヘクタールが焼き尽くされていた。

 死亡者総数18名。戦後の山林火災では最悪の数字である。しかも犠牲者は皆ベテランの消防士であった。

 実は、呉市消防局は、2年前の1969(昭和44)年にも山火事で消防士2人を失っていた。立て続けに仲間を失った消防隊員たちの悔しさたるや、想像するに余りある。

 この呉市山火事は大きな教訓を残した。まず、消火活動においては、局地的な気象条件も考慮に入れなければならないということ。そして地上からの消火は危険すぎるため、上空からの消火活動を可能にしなければいけない、ということである。

 こうして、全国の山間には風力計や湿度計が設置された。さらにまた、大規模な山火事においてはヘリの出動が常識となったのである。

 当時、こうした上空からの消火活動は一般的なものではなかった。呉市山火事においても、消火のために出動したのは民間機が一機だけであったという。

 現在この火災は、消防庁では「呉市林野火災」、また呉市消防局では「大張矢山林火災」などとも呼ばれている。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社・2004年

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