◆磐光ホテル火災(1969年)

 かつて、福島県郡山市熱海町には、磐光ホテルという宿泊施設が存在した。

 住所も、福島県郡山市熱海町熱海3丁目とはっきりしている。資料によると、どうやらこれは、後年のバブル期に乱立したリゾート施設の先駆みたいなものだったらしい。

 それが完成するまでの経過を簡単に書くと、まず1965(昭和40)年に鉄筋コンクリート4階建ての本館が建てられた。そしてそれを皮切りに、今度は10億円規模の資本が注ぎ込まれた「新館」と「別館」が次々に建設された。


 さらに1968(昭和43)年5月にはレジャー施設「磐光パラダイス」という娯楽施設が建設され、同年9月にはホテルニュー磐光が隣接地に落成。ちなみに磐光パラダイスの内訳はキャバレー、温泉プール、映画館、外人ホステスクラブ、それにゲームコーナーと、なんでもありだ。

 これらを総称した磐光ホテルのキャッチフレーズは、「来て見てびっくり」。こっちは調べてびっくり、である。

 最終的には全体の客室が220室、収納可能人数は1,300人(220の客室に1,300人をどう詰め込むのか、少し不思議ではあるが)という巨大娯楽施設の出来上がりである。イイ感じにひなびた磐梯熱海温泉街に、突如として出現した不夜城だった。

 だが、こんな天国のような娯楽施設も、ひとたび火がつけば灰燼に帰すのだから儚い。運命の女神は変なところで公平で、磐光ホテルの最期を彩ったこの火災は、今では数あるホテル火災の典型的な一事例として記録されているに過ぎない。

   ☆

 1969(昭和44)年2月5日、午後9時過ぎの出来事である。

 その日、磐光ホテルの外は猛吹雪だった。この悪天候のせいでホテルでは停電も相次いでいたという。

 後述するが、この時福島県は豆台風とでも呼ぶべき強風に見舞われていた。昔ながらの温泉街のほうはこの嵐が立ち去るのを静かにじっと待っていたのだが、磐光ホテルは宴もたけなわ、停電なんてなんのその。1階の大広間では、当ホテルの目玉イベントである「金粉ショウ」が行われるところだった。

 筆者は金粉ショウなるものを実際に見たことはないが、なんか体中に金粉を塗った踊り子が、火のついた松明を使って踊ったりするものらしい。

 それでこの時、ダンサーたちは舞台裏の控室で準備を整えていた。

 ところが、そのショウで使う予定だった松明が、石油ストーヴから引火したからさあ大変。松明にはベンジンが染み込ませてあったのだが、それを火気のそばに置いておいたのが運の尽きだった。

「まずいぞこれ、早く消せ!」

 てなわけでダンサーたちは消火を試みた。そうそう、火災は初期消火が大事なのである。

 ところがここからが問題だった。ステージの向こうには大勢のお客が詰めかけている。騒ぎにしてはまずい、ここは自分たちだけで手早く消火してしまおう――彼らはそう判断したのである。それで急いで中幕を下ろすと、その裏でこっそり消火を始めた。

 まあそれで本当に火が消えれば良かったのだが、なんとここで採られた方法が「口で吹き消す」という、ショウの時とまったく同じやり方だったから「あ~あ」である。火勢はさらに拡大。そのうち、舞台の緞帳にも燃え移った。

 それまでにも、煙がステージの方に流れ出したりしていたらしい。だがそれは金粉ショウの演出と勘違いされており、当初は誰も騒がなかった。それでもさすがに緞帳が燃え出したところで、舞台に立っていた歌手が異変に気付き、マイクで一声。

「火事だ~!」

 これが最初の火災覚知となった。

 資料によると、これによって大広間は大混乱になったという。人々は一気に出口へ殺到した。まあ当然そうなるわな。

 だがまあ、ここでホテルの従業員たちはわりと的確に動いていたようだ。大部分のお客は、避難誘導によって脱出に成功した。この点は、他のホテル火災やデパート火災に比べれば遥かに感心する。

 だが100点満点をあげるわけにはいかない。この火災の死者30名のうち、少なくとも25名はこの大広間からの逃げ遅れだったとされている。

 もともと、火事のきっかけになった金粉ショウは3階のホールで行われる予定だった。だがこの日は強風で屋根が壊れたとかいう理由で、開場が急遽1階の宴会場に変更されていたのである。炎を扱う催し物があったことを考えると、これは消防法上も問題のある措置だった。

「3階よりも1階のほうが、外に逃げやすいんじゃないの?」

 という声も聞こえてきそうだ。しかし1階には土産物の売店やゲームコーナーがあり、これが避難の邪魔になったのである。煙によって視界も利かなくなっていた。

 さらには、火災報知機のスイッチも切られていたのだ。停電のたびに鳴るのでうるさい、というのがその理由である。よって2階以上の階のお客らは避難が遅れ、多くはなんとか救助されたものの、最終的に3階の2名が死亡している。

 当時、このホテルは全館で暖房が利いており、それで乾燥し切っていた。そのため、火炎が上階や他の施設にまで簡単に延焼したのだった。

 この他にも、ホテル火災にありがちな防災面での欠陥が多くあったようだ。非常口の扉が針金で固定されていたというし、また防火扉はないわ防火シャッターも動かないわでもはや防火区画もへったくれもなく、延焼し放題だった。

 もちろん、それらは見過ごせない過失である。だがこの磐光ホテル火災について言えば、これほどの悪条件にも見舞われた火災もちょっと珍しい気がする。

 その悪条件とは、天候である。

 いやもう本当に、これについては運が悪かったとしか言いようがないのだ。まず当時、外が猛吹雪だったことは先述した。5日と6日は中部・関東地方以北で強風が吹き荒れていたのである。この少し前に、台湾沖と日本海の西部で発生した2つの低気圧のためだった。

 暦で言えば立春の時期である。だが5日の朝には福島県下には大雪・強風注意報も出ており、参考文献によると、現場の付近では大型バスが転倒する事故も起きていたらしい。

 もともとこの地域では、強風が風物詩みたいなところがあった。猪苗代湖と磐梯山の方向から吹いてくる風がぶつかり合い、風速計が使い物にならなくなることすらあるという。それが冬場なら、吹雪でなおさらひどいことになるわけだ。で、火災時の風速は平均20メートル。人間の手で延焼を防ぐすべなどなかった。

 そこでようやく、消防の登場である。

 しかし、消火活動も救助活動も難航した。いや、もはや難航とかいうレベルではなく、混乱の上乗せみたいな結果になってしまったのだった。

 まずは風である。消火しようにも、とてつもない強風のため放水した端から飛び散ってしまう。しかもマイナス7度という気温のため、建物にかかった水も片端から凍った。これでは、屋根に上って消火活動をしている隊員もいつ転倒するか気が気でない。あげくその屋根が熱で膨らんで破裂したり火を噴いたりするのである。もう悪条件の揃い踏みである。

 もちろん、ホテルの従業員たちも手をこまねいていたわけではない。以前から自衛消防隊とやらを組織しており、この時も自主的に消火活動を行っていた。しかしやっぱり強風と凍結のため、せっかく伸ばした屋外消火栓も全然使い物にならなかったという。戦力外である。

 またさらに、この頃の消防の設備はお粗末もいいところだった。ポンプ車はおんぼろのポンコツ、防毒マスクは濡れタオルと大差ないおもちゃ同然の代物。梯子車だって高層階には届かない。おまけに水利も悪いと来ては消火も救助もまともにできるわけがなく、なんと消防自らが、やむを得ず被災者に屋上からの飛び降りを促す場面もあったという。

 こんな調子なので、ほどなく消防隊員の中にも疲労と低体温症でぶっ倒れるものが出た。暖を取るために、火災現場の一部の炎を消さないでおく必要すらあったというから、これはなんとも笑えない喜劇である。

 そんなこんなで、ようやく鎮火したのが翌朝の午前6時30分。消防が到着してから9時間後のことだった。

 磐光ホテルの当時の宿泊人数は295名。死亡者数は、先にもちょっと書いた通り30名(31名という資料もある)で、負傷者も41名に上った。

 ホテルは完全に焼き尽くされ、焼損面積は15,511平方メートル。そして損害金額は10億9,826万円。面積も金額も数字が大きすぎ、筆者などにはどうもピンと来ないのだが読者の皆さんはいかがであろうか。しかもこれは1969年当時の金額である。

 資料によると、火災の翌日には、出火の原因となった粗忽者のダンサーが、重失火と重過失致死容疑で逮捕されたという。

 だがさらに資料を辿っていくと、実際に起訴され有罪とされらのはホテルの総務課長の方だったらしく、こちらは禁固2年、執行猶予2年の判決となっている。ダンサーの逮捕からこの判決に至るまで、一体どんな経緯があったのだろう? また遺族への補償はどうなったのだろう? 気になるところである。

 これについては「調べて書けよ」という声が聞こえてきそうだが、資料が見つからないので仕方がない。だって山形県立図書館に、この火災の判決文が載ってる判例時報、置いてないんだもん。

 現場となったホテルは解体され、その後、名古屋鉄道に買収されて「磐梯グランドホテル」として再建している。あわせて「磐光パラダイス」も復活して平成になるまで営業を続けていた。

 だが、2000(平成12)年には全施設が閉鎖となり、現在は更地である。

   ☆

 最後にこれは余談だが、参考資料『なぜ、人のために命を賭けるのか』によると、当時現場に駆け付けた消防士の一人が「この火災では30人が死ぬ」という不吉な予言をしていたという。

 それで本当に30名が亡くなっているので、ちょっと読んだ限りだとこれは神秘的な予言という感じがする。

 んで、この消防士だが、引退後に回顧録として「磐光ホテル火災」という文章を書き、2002(平成14)年に脱稿しているという。

 もしこんな予言があったのが事実ならば、この回顧録は是非読んでみたいところだ。しかし2011(平成23)年10月22日現在、この文章がどこで読めるのかは不明である。

 ネットで公開されているのだろうか。あるいは、どこからか出版されているのだろうか。副題がまたケッサクで、「私は火災発生と死者数を予言し、的中してしまった」というふざけたものらしいが、もしこの文書をどこかで見かけた方がおられたら、是非教えて頂きたい。

 まあ実を言えば、筆者はこの予言うんぬんのエピソードは全部デタラメだと考えているのだが。

 『なぜ、人のために命を賭けるのか』は極端に消防の活躍を美化して描いた書物である。よってこのエピソードは、消防側の不手際をごまかすために著者が捏造したものだろう。「この火災では消防が火災に完全敗北した。しかしそれは予定調和の出来事であったのだ」――というわけだ。

 捏造というほど強烈な意図はなかったとしても、消防側の不手際を、文学的表現で薄めようとしたところはあると思う。

 だからおそらく、先に述べた「磐光ホテル火災 ~私は火災発生と死者数を予言し、的中してしまった~」というタイトルだけで爆笑ものの回顧録はどこにも存在していないと思う。

 この火災は、消防の完全なる敗北譚である。だがこれを端緒とするいくつかの敗北があったからこそ、現在の消防設備はあれほどまで整備されたのだ。こうした歴史の経緯をごまかしてはいかんよ。必死の思いで消火作業にあたった消防士たちはもちろん、亡くなった人に対しても失礼だ。

【参考資料】
◆ウィキペディア他
◆消防防災博物館-特異火災事例
◆中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社2004年