◆聖母の園養老院火災(1955年)

 本邦ではここ数年で特別養護老人ホームでの災害が相次いでいるが、その先駆けのような火災事故である。

 1955(昭和30)年2月17日の未明のことだ。通報を受けて消防が駆けつけてみると、その建物からは既に炎が噴き出していたという。そして見る間に建物は猛火に包まれていき、ものの20分で全焼に至った。

 その燃え広がるスピードも当然と言えば当然だった。この「聖母の園養老院」は老朽化した木造2階建てで、しかも防火設備や避難設備は全く整っていなかったのだ。

 もともとは海軍衛生学校の建物だったものを、カトリック系の社会福祉法人「聖母会」が譲り受けたのだという。そして敷地内に養老院、聖堂、修道院を建てたのだが、この時の火災はそれらを全て焼き尽くしたのだった。

 聖母会側も、決して建物の老朽化をよしとしていたわけではない。ただ建物を中途半端に造り変えるのではなく、取り壊して丸ごと建て直すつもりだったのだ。だから防災設備も避難設備も皆無だったのである。

 また、丸焼けになった責任の全てを養老院側に求めるのも酷であろう。火災現場はこれでもかというほど水利が悪かった。なんと、水を引いてくるのに1キロ離れた貯水池までホースを繋げる他なかったのだ。必要なホースの本数は、数にして消防車6台分だったという。

 これは確かに、ホース繋げている間に余裕で燃えるわ。

 消火活動に携わった者の人数は200名。こうして消防と警察が懸命に消し止めにかかったものの、養老院の800坪ぶん、修道院と聖堂の70坪ぶん、そして肥料小屋1棟の全てが焼け落ちた。鎮火は朝の6時過ぎだった。

 聖母の園養老院は、焼け落ちるまでの間、不気味なほどに静まり返っていたという。

 そして遺体の収容作業が始まったのだが出るわ出るわ、もともと聖母の園養老院にいたのは皆、戦災で身寄りを亡くした60歳以上のおばあちゃんたちだった。よってその中には耳の聞こえない者や足腰の立たない者もおり、焼死者が多く出るのも当然と言えば当然だった。

 その後、生存者の証言などから出火前後の状況が明らかになった。

 出火したのは17日の午前4時34分頃である。場所は1階の「ペテロの間」で、原因は不明だが、懐炉の火の不始末か漏電ではないかと言われている。この施設では寝るまでの間は火鉢を使い、就寝後は湯たんぽと懐炉で暖を取るという方法をとっていたのだ。

 この時階上には80名、階下には63名がいたという。もちろん大半は就寝中だったことだろう。最終的な死者数は99名に及び、負傷した者も8名いた。

 余談だが身元不明の遺体も2体あったらしく、これはちょっとしたミステリーである。養老院の中に誰かこっそり忍び込んでいた者がいたのだろうか。

 やり切れないエピソードもあった。比較的元気な者が動けない者を助けようとしている間に逆に逃げられなくなってしまったとか、あるいは90歳代のおばあちゃんが「自分はどうせ助からないから」と火を食い止めて仲間を逃がした、ということがあったらしい。

 それにしても、死者99名という数字はかなりヤバイ。あと1名で死者数が3桁に至るところだったのだ。戦後、死者数が100名以上を記録するのは1972年の千日デパート火災を俟たねばならないわけだが、この聖母の園養老院火災はもうちょっとでそれに先駆けるところだったのである。

 まあ、もう少し詳しく言えばこの火災は戦後の非商業施設では最大の死者数……と言えるわけだが、この「○○としては最大の死者数」という言い方は記録者としてあまり好きではないので蛇足程度に留めておこう。いちいちあんな言い方をしていたら、何でもかんでも死者数が最大ということになってキリがない。死者数の多さを誇る記録者なんて頭がどうかしている。

 火災直後に駆けつけた遺族はほんの少しであったという。犠牲者は本当に身寄りのない人々ばかりだったのだ。

 追悼ミサは湘南白百合学園で行われ、遺体は焼け跡の裏の林に葬られた。

 また、生き残ったものの施設から焼け出された形になった48人のおばあちゃんは、全員がそれぞれ別の施設に移された。

 火災の翌日には、現在の消防庁の前身にあたる国家消防本部が、「社会福祉施設も火事に強いようにしなくっちゃね~」と通達を出している。と言ってもその実現のために国が補助してくれるようになったのは更に8年後のことで、当の聖母の園養老院は火災があった年の11月には鉄筋ブロック平屋建ての形で建て直された。宗教的使命感のなせる業……と言っては的外れだろうか、悠長な行政に比べると実に迅速なものである。

 火災があったのは神奈川県横浜市戸塚区原宿町。今も同じ場所に老人ホーム・修道院・保育園・医院が存在している。

 ところでこの火災の話は、中井英夫の『虚無への供物』にも出てくるらしい。オペラ「蝶々夫人」の制作に協力した元イタリア公使夫人の奥さんがこの火災で亡くなっており、そのエピソードが用いられているのだそうな。

 虚無への供物を読んだのは中学の時なのでさすがに覚えていない。ただ洞爺丸沈没事故の話などが登場していたのは覚えているので、事故災害を調べる上では再読しておいた方がネタになるかな、とも考えている。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆ウェブサイト「誰か昭和を想わざる」
◆『日本消防史』国書刊行会

back

スポンサー