◆弥彦神社事故(1955年)

 格式ある弥彦神社の、おそらく最大の黒歴史である。

 越後平野西部の弥彦山(標高634m)の山麓にあり、弥彦山そのものを神体山として祀っているこの神社。古代から多くの人に親しまれ、万葉集にもその名が登場する。

 今回ご紹介するのは、ここで1956(昭和31)年1月1日に発生した惨劇である。近代以降の、本邦の群集事故の中では最大の死者数で、その数たるや他の群集事故と比較してもケタ違いというシロモノだ。

 一体、この由緒正しい神社で何が起きたのだろう?

   ☆

 1955(昭和30)年の大晦日から1956(昭和31)年の元日にかけての時間帯、弥彦神社は大勢の初詣客でひどく混雑していた。

 特にこの時間帯、参拝客が集中するのには理由があった。弥彦神社では1931~1932(昭和6~7)年頃から「二年参り」という参拝方法が推奨されていたのだ。

 普通、初詣は一度参拝すれば終わりである。だが二年参りの場合は、旧年と新年に一度ずつお参りをする。大晦日のうちに旧年中の無事を感謝し、そして次に、除夜の鐘を合図に新年の無病息災を願うのである。

 信仰心のない人にとっては「二度手間」にしか見えないやり方だろう。だがとにかくこれこそが、弥彦神社の名物とも言うべき参拝方法だった。だから、日付が変わる前後に初詣客が集中していたのだった。

 また、神社側としても、大勢の参拝者は大歓迎だった。戦後に公的保護がなくなって以降、神社の経営も楽ではなかった。神社周辺の旅館、料理屋、土産物屋からも、「もっと参拝者誘致を!」と要望が出ていたのだ。

 そんな状況の中、神社はさらにあるイベントを企画していた。餅まきである。

 これは去年も行われており、結果は大成功だった。じゃあ今年も…というわけで、神社は前もって交通機関にポスターを配布するなどして、大々的に宣伝していた。

 しかし、課題もあった。前年の餅まきでは、神社の拝殿から広場に向かって餅をまいた。その結果、餅を奪い合って土足で拝殿に上がったり、餅を入れた三宝を持ち出そうとする不届き者が現れたのだ。

 というわけで、今年は餅まきの場所を変更したい。どこがいいだろう?

 弥彦神社には、参道から石段を上ったところに「随神門」という正面入口がある。この門をくぐると、「斎庭」と称する拝殿前の広場に出る。前回、餅まきが行われた広場というのがここである。これは東西47メートル、南北29メートルで面積は136平方メートルとかなり広い。

 最初は、この広場にやぐらを組んで、そこから餅をまくという案もあった。だが経費がかかる等の理由から却下。代案として、門の両側にやぐらを組み、そこから拝殿の方に向かって餅をまくことになった。

 かくして1956(昭和31)年元日午前0時、花火を合図に餅まきがスタートした。

 拝殿前の広場には、数にして約8千名の参拝客が集まっている。そこへ、やぐらの上から約2千個の餅がバラまかれた。

 8千名である、これだけでも事故が起きそうなものだ。実際、ちょっとした混乱はあって、悲鳴を上げる者もいたというが、餅まき自体は3分ほどで無事に終了した。

 問題はここからだ。餅まきも終わり、群集たちは帰路に着いた。人混みが一斉に動き始め、密集状態のまま、随神門を出て階段へと進む――。これが0時5~8分頃のことだ。

 多くの人々が急いでいたであろうことは、想像に難くない。バスで来た人は集合時間があっただろうし、また列車で来た人も帰りのダイヤが気になったことだろう。

 ところがそこで、反対方向から、到着したばかりの別の参拝客の一団がやってきた。

 折悪しく、ふたつの集団は石段の途中でかち合ってしまった。これが現代なら、往路は階段の右側を、復路は左側を…という形で区別して誘導していたかも知れない。だが当時は、群集をそんな形できめ細かに誘導するようなやり方は一般的でなかった。

 お正月カウントダウンどころか、ここからは惨劇に向かってのカウントダウンである。衝突した群集は押し合いへし合い、お祭り気分で飲酒していた者は面白半分に押す。中に挟まれた人は、逃げ場を失って場は大混乱に陥った――。

 ここからは、現場に居合わせた人々の証言を挟みながら経過を見ていきたい。なお、証言の文章は基本的に参考資料からの引用だが、ここに掲載するにあたり手を加えている。

 まずは、その場に居合わせた人の証言。

「花火の打ち上げが終わって5~6分経ったかと思われる頃、石段の下の方から異様な叫び声が聞こえ始めた」――。

 おそらくこの時、群集の衝突が始まったのだろう。

 次は、餅まき終了後に随神門から出ようとした人。

「12時40分の汽車に乗ろうと、門を出た。だが、出ようとする人と、入ろうとする人が階段の最下段あたりでぶつかった。石段を上ってこようとする人の顔が、最下段から参道にずっと続いていた」

「前後左右ぎっしりで身動きできなかった。押されながら3、4段下りたが、いくらもがいても体は自由にならない。胸が圧迫され、息が止まったかと思われた」

 一方、参拝に訪れて、反対に随神門に入ろうとした人の方はこう証言している。

「石段の下までたどり着いたが、立往生になった。後ろから押されて2、3段上ったが、また立往生。石段の上の方の人は、全員が下を向いていた」

「石段の途中で、両方向からの人波がぶつかって動きが取れず、胸を押されて息苦しくなった」

 この石段は15段。全体の高さは2.5メートルあり、幅は7.74メートルと比較的ゆったりしている。勾配も約17度とゆるやかで、普通ならばなんの問題もない造りだった。そう、普通の状況ならば……。

 石段の途中では、群集の圧力に耐えられず失神する人が続出。証言の中には「石段の上から押す者が多かった」というのもあり、力の加わりやすい最下段のあたりでも失神者が現れたという。

 そして0時10~15分頃、惨劇が起きる。大勢が折り重なって石段の下にダーッと転落したのだ。以下は、落ちた人の証言。

「足が宙に浮いたまま、3段くらい降りたかなと思ったとたんに、一斉に前の方へのめってバターンと倒れた。私の下にはたくさんの人がいた。みんなが悲鳴をあげていて、私も意識不明になった」――。

「後から押されて足が宙に浮いてしまい、2、3段降りると前に倒れた。下にも倒れた人が重なっていたので、下へ落ちたという感じはなかったが、後ろからも倒れてくるので挟まれて苦しくなった。苦しい苦しいという声も弱くなってきた。石段の下の方には人が一面に倒れて死んでいた」。

 なんとか脱出できた者もいた。

「上と下の両方から押されて苦しかった。前の方の人がどんどん倒れて折り重なり、一緒に倒されて死ぬかと思ったが、石段から飛び降りて脱出した」

「石段の中ほどの人たちが折り重なって倒れた。すぐ足を抜いて参道の脇に脱出したが、なおも押し合いが続き、石段には次から次へと人が倒れていった。その凄さはなんとも表現できなかった」

「上からの人波に押されて、石段の下に倒れた。だが起き上がって林の中に逃げ込んだ。石段の上から10人ほどの人が一度に落ちるのを2回ほど見た」

「石垣のそばの木に登ってみると、石段の下のあたりで人が3、4人くらい重なって倒れており、1.2メートルほどの厚みがあるように見えた」

「石段の下のほうでは人が一面に倒れて死んでいた」

 これだけで「もうたくさん」と言いたくなる惨状だが、実は事故が起きたのはこの石段だけではなかった。

 随神門を出てすぐ、石段との間には、左右に踊り場のようなスペースがあった。広さはそれぞれ奥行き2.3メートル、幅8.3メートル。そのスペースに入れば、随神門と石段を行き来する人をやり過ごすことができるような位置関係である。電車の待避線のようなものと考えてもらえればいいかも知れない。

 だが、この時はとてもやり過ごすという状況ではなかった。むしろ石段で人の流れが詰まったこともあり、この左右の踊り場の方へ押しやられる形になった人が多かったようだ。

 ここで事故が起きた。

 左右の踊り場には、玉垣があった。神社独特の設備で、ベランダの手すりのようなものである。その玉垣が、断続的な群集の衝突によってそれぞれ崩壊したのだ。

 この崩壊は、石段で転倒が起きたのとほぼ同じ、0時10~15分頃のタイミングと見られている。玉垣には鉄骨などの支えはなく、ごくシンプルな石造り。横から大きな力がかかるのは「想定外」だった。

 むちゃくちゃに膨れ上がった群集は、支えを失って高さ2.5メートル下に落下した。やぐらの上で餅まきをしていた人は、経過についてこう証言している。

「石段の付近は混乱状態に陥り、左右に膨れ上がった人波で玉垣が崩れた。転落した人の上に、密集から避難しようとする人々が飛び降りて、全く手のつけようもない状態になってしまった」

 以下は、現場に居合わせた人の証言。

「玉垣と一緒に2.5メートル下の地面に転落した人の上に、さらに人々が飛び降りてきて、人の山ができた」

「3~4人が重なって倒れており、足にすがって助けてくれという。引っぱっても抜けないし、大勢の人が頭の上を踏んでいく状況だった」

「倒れた人の山は高さ2メートル以上もあり、下になった人が死んだ」

 人々は地獄を目の当たりにした。石段には転倒した人の山。その両脇には、転落した人の山――。

 群集事故で恐ろしいのは、一箇所でこうした惨事が起きても、狂騒にすぐさまストップをかけることができない点である。

 当時、現場では照明設備も不足していた。また多くの警察官が交通整理の方に割り振られており、境内にいなかった。このため混乱は午前1時頃まで30~40分間も続いた。

 石段の上が大混乱になったのを見て、神社側では門(おそらく随神門だろう)の入口に梯子を横たえるなどの措置を取ろうとしたという。だが群集の罵声と暴行に妨害され、これは失敗した。

 こうして、わずか数分間の混乱で124名が死亡、77~91名の重軽傷者が出るに至った。死者のうち102名が窒息死。骨折や外傷による死亡は3名にとどまったという(残りは不明)。

 午前1時を過ぎた頃から、警察、地元の青年団、消防団などが救助作業を開始。負傷者は病院へ搬送、遺体は神社の拝殿や拝観所、また小学校の体育館などに安置された。

 正月のめでたさも一転、とんでもない大惨事になってしまった。原因は一体なんだったのだろう? これは資料によっていろいろ書かれている。以下で、簡単に箇条書きにしておく。

1・雪が少ない元日で、外出しやすかった。
2・前年が豊作で、経済的に余裕のある家庭が多かった。
3・公共交通手段が大きく発達し、遠方からの参拝者も多かった。
4・約1万3千人の参拝者に対し、警備の警察官は16人と少なかった(前年の参拝者は約1万人。ただし別の説では去年が2万人、事故当時は3万だったとするものもある)。
5・警察官がほとんど交通整理に回されていた(参道の雑踏警備に3人のみ配置されていた、とだけ書いてある資料もある)。
6・境内は照明が不足していた。
7・二年参りの習慣のため、午前0時を中心とする時間帯に群集が集中した。
8・餅まきを、危険な石段の近くで実施した。
9・列車が延着した。
10・一方通行の規制をしなかった。
11・事前に警察から、ロープや手すりを設置する提案があったが、神社はやらなかった。
12・参拝客が、現場の横の入口を使わなかった(使えなかった?)。

 この事故を受けて、国家公安委員会は、警備にあたった新潟県警察本部の責任を検討。その結果、県警本部長が引責辞任し、幹部たちも戒告・異動処分を受けた。

 また弥彦神社では、正宮司と権宮司2人が引責辞職している。

 最高裁の判決は、1967年(昭和42年)5月25日に下された(判例集 刑集第21巻4号584頁)。原文は長いので、趣旨を簡単にまとめるとこんな感じである。

「毎年たくさんお客が来るんだから、これからは足りるくらいの警備員を配置しなさい。あと一方通行にするとか、雑踏整理をすること。それから餅まきをするなら、時間と場所とやり方を工夫しなさい。そして最後に、お客が安全に帰れるように注意して、誘導とかするように」。

 今の時代から見ると、ごく普通のことを言っている気がする。

 逆に言えば、現在では「ごく普通」と思われている群集整理の措置は、こうした大事故の黒歴史を経てようやく整備され、そして一般化していったのである。

 以後、弥彦神社では、今日に至るまで餅まきは実施していない。

 また、参拝ルートも工夫された。まず中央の参道から入って参拝し、帰りは両側の小道を使う。そして境内では、所轄の西蒲警察署が参拝者の整理を行っているという。

 この神聖な神社で、こんな事故が起きることはもう二度とないだろう。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

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