◆ヘイゼルの悲劇(ベルギー・1985年)

 1985(昭和60)年5月29日。この日、ベルギーの首都ブリュッセルで起きた、通称「ヘイゼルの悲劇(Heisel Stadium Disaster)」は、世界のサッカー史上に残る大惨事として知られている。

 この年の「欧州チャンピオンカップ(現チャンピオンズリーグ)」決勝戦の会場がヘイゼル・スタジアムだった。

 決勝進出を決めたのは、当時イタリアで最強と言われていたチーム「ユヴェントス」と、イングランドの「リヴァプール」。この2チームの試合が、くだんのスタジアムで開催されることになった。

 決勝戦とあって、サポーターたちも超興奮。彼らは前日からブリュッセル入りし、街中で気勢を上げていたという。実際に何をしていたかは不明だが、後から考えてみれば、この盛り上がりっぷりが惨劇の予兆だったのかも知れない。

 ここで、「フーリガン」について説明しておこう。

 サッカーのサポーターの中には、時として暴力的に熱狂する者がいる。そういう連中はフーリガンと呼ばれ、1960年代頃から、彼らのやんちゃぶりは問題視されていた。なにせこ奴らは試合にかこつけてスタジアム内外で大暴れし、破壊活動を行うのだ。もはや存在自体が社会問題である。

 で、このフーリガンの中で特に厄介なのが、イングランドのサポーターたちだった。彼らは通称“コップ”と呼ばれ恐れられ、当時すでにフーリガンの代名詞的な存在でもあった。選手に危害を加えることもあり、奴らが来るとなると相手チームも震え上がったという。

 さあ大変、今回は彼らがブリュッセルに遠征だ。

 イングランド国内では、こういうならず者への対策がきちんと取られていた。だが、国外の試合ではさすがにどうしようもない。奴らは、旅の恥はかき捨てとばかりに暴れるだろう。イギリスの警察は、事前にベルギー側に協力を申し出ていた。

「うちのフーリガンどもが暴れ出したら大変だ。国民の不始末は国家の不始末。協力しますよ!」

 ところが、ベルギー側はこれを断った。理由は不明である。当研究室のルポを読み慣れた方にとっては、「あ、このへんから暗雲が立ち込めてきたぞ」といったところだろう。

 不安要素はこればかりではなかった。試合当日、スタジアムの応援席は、ユヴェントスとリヴァプールのサポーター席、そして一般向けの応援席が整然と分かたれていた。ところがダフ屋や偽造チケットの横行のため、実際には無秩序状態になっていたのだ。

 特に、両サポーターの応援席をあらかじめ区別しておき、その間に中立の一般応援席を挟みこむことには大きな意味があった。サポーター同士が隣り合ってしまえば喧嘩になるからだ。

 それなのに、実際には一般応援席やリヴァプール応援席に、ユヴェントス側のサポーターが多く入り込む事態になっていた。その結果、両チームのサポーターが、フェンス一枚を隔てて隣り合う場所が出てきた。これが悲劇を呼ぶことになる。

 一応、少しだけ補足すると、「一般応援席」は中立のベルギー人のためのものだった。だがベルギーにはイタリア系移民も多い。よってユヴェントスびいきの観客も多くいたと思われる。応援席の混乱がなくとも、こういう火種はもともとあったのだ。

 さて、イベントスタートである。

 時刻は午後6時。まずはエキシビジョンマッチだ。ベルギー人の子供チームによる紅白戦が行われた。

 この時の、ユヴェントス側のゴールキーパーの証言。

「試合数時間前までは何もかもいつも通りだったんだ。ピッチでは子供たちが何かパフォーマンスをやっていて、そのときはフェスタの雰囲気さえ感じていた」――。

 応援席で不穏な空気が漂い始めたのは、紅白戦が後半戦に入った午後7時頃のことだった。一部のサポーターが、相手側のサポーターに嫌がらせを始めたのだ。

 場所は、例の、両チームのサポーターが隣り合ってしまったあたりである。酔っ払ったリヴァプールサポーターが、隣のユヴェントスサポーターに爆竹やビン・缶を投げつけたり、フェンスを揺さぶったりしたのだった。

 もちろんユヴェントス側も黙ってはいない。なんだコラ、やんのかコラとばかりに応戦し、投擲合戦が始まった。一体何しに来たんだ、こいつら。コートでは本戦もまだだというのに、こちらは既にキックオフである。

 話の途中でなんだが、ジョークをひとつ思いついたので披露しておこう。サッカーの試合の前に、応援席のサポーターたちに運営側がアナウンスをひとつ――。「会場の皆さんにお知らせします。試合時間は7時からです。喧嘩はそれまでに済ませて頂きますようお願いいたします」。

 ――なんていうジョークで済めばいいのだが、事態はさらにエスカレートしたから、やっぱり悲劇である。小競り合いの果てに、リヴァプールサポーターがお約束の暴徒化と相成った。フーリガンの面目躍如である。彼らは警備の隙をついて、応援席を隔てていたフェンスを破壊。レンガや鉄パイプを手に、一斉にユヴェントスサポーターの側になだれ込んだ。

 漫画のような話である。レンガや鉄パイプって、そんなものいつどうやってなんの意図があって持ち込んだのだろう? 最初からやる気満々じゃないか。

 乱闘が始まった。ユヴェントスサポーターをはじめ、多数の観客が驚いて逃げ出した。

 しかしスタジアムは超満員で壁に囲まれており、逃げ場はほとんどない。一部の観客は壁をよじ登ったり、フェンスを乗り越えたりしてグラウンドへ脱出した。だが残された数千人(!?)の観客は、壁際へ追いやられ包囲されてしまった。 

 ここで壁が倒壊した。

 場所を具体的に説明すると、それはメインスタンドと一般観客席の間にある、高さ3メートルのコンクリート壁だった。追い詰められ、押し寄せたユヴェントスサポーターの圧力に耐え切れなくなったのだ。

 この倒壊により、多くの人々がメインスタンドへ転落。落下しただけなら怪我で済んだかも知れないが、壊れた壁の破片や、後から落下してきたサポーターたちの下敷きになる人が続出した。

 もはや試合どころではない。グラウンドや、陸上競技用のトラックは、数百人の負傷者や避難者で溢れかえった。重傷者はロッカールームへ運び込まれ、心肺蘇生措置が行われたのち病院へ搬送。すでに息絶えた者については、さしあたりスタジアム正面入口の仮設テントに並べられた。

 先に結果を述べておくと、この騒ぎによって負傷者は400人以上、死者は39名に及んだ。死傷者の大多数はイタリア人、つまりユヴェントス側のサポーターである。死因は主に圧死や、物を投げつけられた外傷だった。

 さて、凄惨な事故が起きたというのに、暴動は収まらなかった。サポーターたちは興奮して衝突を繰り返す。両チームの監督が呼びかけようが、場内放送で冷静になれとアナウンスしようが、焼け石に水。警官隊も出動したが、人数が少なく多勢に無勢、逆に石をぶつけられるなどの憂き目に遭った。
 
 また資料によっては、警官たちはフーリガンの扱いに不慣れで、暴動をただ傍観するしかなかった――とも書かれている。どうやら総括して、警官たちは「手も足も出なかった」と表現して間違いなさそうだ。

 騒ぎが鎮圧されたのは、約1時間後のことだった。警官隊700人と軍隊1,000人が動員され、やっとこさ落ち着いたらしい。これは翌日の話だが、ベルギー内務省は、この騒ぎでイギリス人12人を含む15人を逮捕したと発表した。

 ところで、気になる試合の結果だが……。

 え? 何を馬鹿なことを言っているのかって?

 こんな騒ぎの後で、試合が行われたはずないだろうって??

 ところが、行われたのだ。

 それを聞いて目を丸くする読者もいそうだ。実際、資料を読んでいて筆者も驚いた。

 だが、この期に及んで試合を続行したのには理由があった。試合が中止になれば、サポーターたちがまた街中で暴れかねない。だから主催者側は、スタートを大幅に遅らせながらも試合を決行したのだ。

 当時の会場の空気を想像すると、実にやり切れない。大勢の死傷者が出たばかりなのだ。それなのに、スカポンタンの頭を冷やすためだけに、試合は行われたのである。

 勝ったのはユヴェントスだった。優勝カップは、人目につかない更衣室で渡された。

 最後にPKを決めたユヴェントスの選手の一人は、「もうサッカーやりたくねえ」と話し、罪悪感にさいなまれながら2年後に引退している。

 ついでに言えば、この人こそ、サッカーファンから「将軍」と呼ばれ、2015年12月現在、欧州サッカー連盟(UEFA)会長、国際サッカー連盟(FIFA)副会長、フランスサッカー連盟(FFF)副会長を勤めているミシェル・プラティニである。

   ☆

 さて、このヘイゼル・スタジアムでの事故が、これ程の大惨事になったのは何故だったのか。

 もちろん、一番悪いのはフーリガンの連中に決まっている。だが競技場の老朽化も看過できない。当時リヴァプール側のキャプテンだったフィル・ニールはこう話している。

「あのスタジアムの設備は最悪だった。両サポーターを隔てる壁は、10歳の子供でもよじ登れるほど貧弱なものだった。当時のイングランドのスタジアムは今のように近代的ではなかったが、それでもあのヘイゼルに比べれば数段良かった」。

 これは、崩落した壁そのものについての証言ではないのだが、まあ老朽化についての傍証と言えるだろう。

 事故が起きた当時、ヘイゼル・スタジアムは建設から55年が経過していた。その間、改修がどのくらい行われたのかは不明だが、いくつかの資料の文脈から察するに、ほとんどほったらかしだったのではないかと思われる。

 またこのスタジアムは、非常口の数も極端に少なかった。いざというときに、咄嗟に逃げることができない造りだったのだ。

 過去には国際大会の会場になったこともある、収容人員6万人を誇る実績あるスタジアム――。しかしそれは、実際にはいつ事故が起きてもおかしくない状態だったのだ。

 このたびの大会を主催していたベルギーのサッカー協会には、「カップ戦の決勝戦の開催地となる権利の剥奪」という処分が下されている。

 また、処分ということで書いておくと、この事故により――事故というよりもはや「事件」だと思うが――イングランドのクラブは、国際大会への出場の無期限停止を食らった(※)。

(※筆者はまるきりサッカーに疎いので申し訳ないのだが、この「クラブ」というのは、選手チームのことなのかなんなのか、いまいちよく分からない。とりあえず別の資料には、リヴァプールチームも無期限の出場停止となって、この停止期間はその後7年に、そしてさらに5年に変更された――とも書いてあるので、クラブ=チームのことなのかも知れない。だがそれとは別に、別の資料には「欧州サッカー連盟 (UEFA) は制裁措置としてリヴァプールに対して6年間の」UEFA主催の国際試合への出場停止処分を下した、とも記されていた。)

   ☆

 さてその後、リヴァプールとユヴェントスは、親善試合の機会はあったものの(それも企画倒れだったとする資料もある)、しばらくの間、公式戦で顔を合わせる機会はなかった。

 因縁の両チームの対戦が再び実現したのは、事故からちょうど20年後の2005(平成17)年のことである。スイス・ニヨンの欧州サッカー連盟(UEFA)本部で3月18日、「欧州チャンピオンズリーグ」の準々決勝の抽選会が行われ、そこでこの組み合わせが決まったのだ。

 もちろん、事故のことは記憶に新しい。関係者はサポーターたちに冷静な対応を呼びかけ、また両クラブ(チーム?)も「友好的な試合にする」ことを誓ったという。

 引退したミシェル・プラティニも、この時は欧州サッカー連盟(UEFA)の次期会長と呼ばれる存在になっていた。この試合について彼は、「あの時の犠牲者の冥福を祈るために、2試合とも現地で観戦するつもりだ」と話したという。

 そしてさらに5年後、2010(平成22)年5月29日には、会長の座についたプラティニさんは、トリノで行われた記念式典に出席。犠牲者たちに教会で祈りを捧げた。またこの日はブリュッセルとリヴァプールでも同じく追悼式典が開かれた。アンフィールドでは、追悼の記念碑の除幕式も開催されている。

 で、さらに書くと、事故から30周年となる2015(平成27)年3月には、リヴァプールとユヴェントスの記念試合が開催された。場所はトリノのユヴェントス・スタジアムである。

 この時、イングランドサッカー協会は、30周年を記念するモニュメントとして、リース(花輪)の設置を提案した。しかしユヴェントスはそれを拒否。試合開催だけに留める意向を示したという。

 想像だが、おそらくこれは恨みゆえの「拒絶」ではないだろう(と思いたい)。ユヴェントスとしては、そっとしておいてくれ、という気持ちだったのではないだろうか。

 30年である。生まれたばかりの赤ちゃんが、中年に差しかかる程の歳月だ。事故を忘れないようにするのは大切だが、節目のたびにやれ記念だウン十周年だと言われ続けては、逆に思い出しちゃって試合に差し障る部分もあるだろう。

 事故の現場となったヘイゼル・スタジアムは、その後は陸上競技のみに使用された。事故の10年後には再建・改修され、かつての国王の名を冠した「ボードゥアン国王競技場」という名称で蘇っている。これはサッカー用グラウンドと、陸上競技用トラック、フィールド競技用の設備を兼ね備えた施設であるという。

   ☆

 ヨーロッパ人にとって、サッカー競技にまつわる事故やアクシデントには、独特の意味合いがあるらしい。あっちの国の伝統だと思うのだが、試合中の選手の失敗から乱闘、暴動、事故に至るまで、多くが「○○の悲劇」という名称で呼ばれている。

 資料を読んでいて感じたのだが、この「ヘイゼルの悲劇」は、そうした数々の「○○の悲劇」の中でも、特に忘れがたい悪夢として今もサッカーファンの記憶に焼きついているようである。

 だが恐ろしいことに、悪夢はこれだけでは終わらない。欧州では、サッカー場の群集事故として有名な事例がもうひとつ存在する。それが、ヘイゼルの悲劇から4年後に発生した「ヒルズボロの悲劇」である。

 それについては、またいずれ。 

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
「サッカーで大切なこと」
「サッカー名言集」
ウィキペディア
「We Are Red's #リバプールを心の底から応援するブログ。」

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