◆横浜港ドイツ軍艦爆発事故(1942年)

 戦時中、横浜港で起きた大惨事である。

 あの場所で、港が完全に壊滅するほどの爆発事故があったのだ。軍部による情報の隠蔽がほぼ完璧に行われたため、戦後はすっかり「忘れられた事故」となってしまった事例である。

 1942(昭和17)年11月30日、13時40分頃のこと。神奈川県横浜市の横浜港、新港埠頭内で爆発が起きた。

 どぼずばああああああん。

 火を噴いたのは、八号岸壁に繋留中だったドイツ輸送用艦船「ウッカーマルク号」である。なんだかジェッターマルス(知ってる?)みたいな名前だが、これは北ドイツの地名らしい。

 爆発したのは艦橋の甲板だった。その後も小爆発が続き、船首の甲板上では、多くのドイツ将兵が逃げ惑っていたという。以下は、当時の将兵のうちの一人の証言である。

「午後二時ごろだったか、突然大音響とともに爆発が起こり、船室の壁の鉄板が裂けて飛んで来て右足に当たった。ツーンと耳が痛くなった。同室の仲間の手を借りながら通路に出ると、そこは炎と煙が充満していた。夢中で階段を甲板に上がると、艦橋が吹き飛んで傾き、大きな鉄板が岸壁の倉庫との間に引っ掛かっていた」

 この将校は、ウッカーマルクの隣に停泊していた仮装巡洋第10号艦「トール」に乗り移った。

「私は右舷から隣接していた仮装巡洋艦第10号に移り、海に飛び込んだ。そして、降ろされたボートに拾われて、対岸の岸壁(山下公園側)へ逃れることができた。怪我もしていたが、興奮していたのでまったく寒さを感じなかった。その直後に10号艦の大爆発が起こった」

 そう、爆発は一度では済まなかった。最初の爆発から5~6分後――たぶんウッカーマルクから引火したのだろう――このトールも大爆発を起こしたのだ。

 もういっちょ、どぼずばああああああん。

 轟音とともに、天に向けて巨大な火柱が上がる。トールには魚雷や15センチ砲弾、60ミリ砲弾などが積まれており、最初のウッカーマルクよりもこちらの爆発の方が数段たちが悪かった。むしろこの「横浜港ドイツ軍艦爆発事故」は、これこそがメインと言っても良い。

 トールの爆発の規模は、TNT火薬換算爆発量に換算して49トン以上だったと見られている。ちなみに1974(昭和49)年に発生した三菱重工業爆発事件の爆薬量は、同換算で20キロ。ケタ違いもいいところだ。

 ウッカーマルクは甲板がえぐれるように吹き飛び、トールは隠されていた大砲がむき出しという無残な姿となり、火炎と黒煙に包まれていった。

 爆発は何度も続き、船の破片が宙を舞う。ウッカーマルクには重油が積まれていたため、船体から燃料が漏れ出して周囲は文字通り火の海となった。海流の関係で、海上の炎は山下埠頭と横浜造船所方面へ広がっていった。

 被害はどんどん拡大する。今度は七号岸壁にあった日本海軍の徴用船「第三雲海丸」と、同六号岸壁のドイツ汽船「ロイテン号」に引火し、次々に大爆発が起きた。この二隻は爆風のため座礁。間断なく続く爆発音は、港いっぱいに山彦のように反響したという。

 陸地もただでは済まなかった。岸壁に隣接して建っていた鉄筋コンクリ造りの七号倉庫は、ドミノ倒しのように全倒壊。付近の倉庫や波止場の上屋が破壊されて、火災は弾薬などに延焼した。いやはや、きっと山本リンダならこう言うのではないだろうか。もうどうにも止まらない! 燃えつきそう! と。

 現場から一キロ以上離れた市街地では、まるで震度4~5の地震かと思わせるような揺れが発生。爆風で、商店街のウインドウガラスは玉砂利のごとく砕け散った。また二キロ離れた山内埠頭や伊勢崎町のあたりでも、飛び散った鉄塊や鉄片などが落下してきたというから恐ろしい。

 横浜港に立ち上る黒煙はきのこ雲のようになって空を覆い、横浜港全体が夕暮れ時のように薄暗くなった。この世の終わりのような風景である。

 被災者たちは、血と重油の匂いでむせ返るような中で、めいめいが命からがら脱出を試みた。ある者は海を泳いで対岸へ。またある者は仲間たちと交代で肩車をして岸壁をよじ登った。彼らの多くは火傷や煤で真っ黒で、また無傷で脱出に成功しても、恐怖のあまり口も利けない状態だった。

 助からなかった者も大勢いた。山下埠頭先にはおびただしい数の遺体が流れ着いた。大桟橋の周辺には、腕を失って油まみれになった負傷者などが続々と引き上げられたという。

 関係組織は総がかりで対応にあたった。県警臨港署員に横浜憲兵隊、横浜特別消防隊、横浜国防衛生隊の医師40人などが現場に急行している。

 また神奈川県警は、管内の警察署員や警防団員を動員。現場につながる全ての道路や橋に、何重もの非常線を張って交通を遮断した。要所に視察員も配置し、「容疑者」の発見と逃亡防止にあたったという。

 「容疑者」という言葉からも、これがある種の事件と見なされていたことが分かる。時代が時代なので、爆発が何者かによる謀略という可能性もあったのだ。

 報道も禁じられた。事故発生直後に海軍省が緊急会議を開き、爆発事故に関する一切の報道禁止を申し合わせたのだ。ちなみに、当時の嶋田繁太郎海軍大臣は、事故の翌日に昭和天皇に事件を奏上したりしている。この記録は、かの木戸幸一日記にも記されているそうな。

 あわせて、警察は流言飛語を取り締まった。電話局では、交換手たちが、現場の港へ外部からの交換業務を行わないよう指示を受けたという。

 現場の消火活動は難航を極めた。海軍の複葉機が消火弾を投げ込んでも、爆発が次々に起きるので手に負えない。地上戦ならなおさらで、港なだけに水だけはふんだんにあるのだが、いかんせん火勢が強すぎて焼け石に水。そもそも危なくて近寄れないしで、消防隊は退避を余儀なくされた。

 こんな調子で、消火活動は翌日の12月1日の未明まで続いた。二度目の大・大爆発を起こしたトール以外の三隻は、なんとか夜半までには鎮火に向かったという。

 これと並行して、被災者の救助活動も行われた。現場周辺の目ぼしい施設は怪我人であふれ返り、山下公園の警友病院、日本造船山下病院、山手病院や各診療所はもちろんのこと、ホテルなどにも負傷者が担ぎ込まれた。負傷兵に対しては、当時横浜に住んでいたドイツ人たちも看護にあたったという。以下は、当時のホテルニューグランドの様子を述べた証言。

「ホテルのロビーから黒煙がもくもくと上がるのが見えました。外に飛び出す者、屋上に上がる者、従業員一同あれはなんだろうと大騒ぎになり、そうこうしているうちにドイツ兵の負傷者が運び込まれてきました。ボロボロの服、水浸しの靴が散乱しました。その数は60か70名。ホテル側も突然のことで対応ができず、着替えもなく、水兵はホテルのテーブルの白い布のカバーで身をくるんでいました」。

 この他、シーツを裂いて包帯の代わりにするなど、まるで野戦病院のような有様だったという。

   ☆

 火を噴いた四隻は全焼した。

 特に、弾薬や燃料油や石炭が積まれていたトールと第三雲海丸は完全な鎮火まで数日かかった。この二隻だけは、港でブイ(船の係留用の浮体)に引っかけて遠ざけられ、その間に他の消火活動や岸壁の復旧作業が行われたという。

 神奈川県の警察史によると、被害状況は以下の通り。

 ◆死者および行方不明者……102名以上
  (内訳)
  ・ドイツ海軍将兵……61名
  ・中国人労働者……36名
  ・日本人労働者、周辺住民……5名
 ◆物的損害……34,503,516円
  (内訳は、艦船、倉庫、上屋、その他の建造物や荷物など)

 被害の範囲はどれくらいにまで及んだのだろう。参考資料によると、爆発の影響で、爆心地から1.6キロの範囲で窓ガラスが割れたという。筆者は横浜の地理には疎いが、現在の地理関係に置き換えて爆心から1.6キロの円を描くと、次のような施設が円周上に乗ってくるらしい。

 紅葉坂の県立音楽堂、伊勢山皇大神宮、伊勢崎町の横浜松坂屋、横浜市庁舎、関内駅自覚の教育文化センター、中華街入り口の港中学、元町方面の横浜中央病院、山下公園付近のテレビ神奈川、横浜税関山下埠頭出張所――。

 これらを結ぶ線の内側の区域は、山下町地区のほぼ全域を包み込むそうな。現在の神奈川県庁や県警察本部、ランドマークタワーなどが、そこには入ってくるとか。つまり今同じ爆発事故が起きれば、少なくともそれらの窓ガラスは全部割れるということだ。

 当時、新聞報道はほんの少しだけなされた。12月1日付け神奈川新聞では約200文字程度の文章で伝えただけ。朝日新聞は社会面最下段のベタ記事扱いで、文字数はたったの160文字だった。

 当研究室では、いちおう「戦時中の事故災害だからって、なんでもかんでも軍が報道管制を敷いたわけじゃない」という立場を取っている。だが軍に関わるスキャンダルは話が別である。この事故はほぼ完全に隠蔽された。

 その反動か、現地ではデマが飛び交った。複数の地域でほぼ同時多発的に湧いてきたその内容は、興味深いことに、ほぼ一律で「爆発はスパイの仕業」というもの。デマの拡散の担い手は、主に子供たちだった。

 そしてその後の終戦のどさくさで、この事故のことはすっかり忘れられていったのである。その詳細が知られるようになったのは、横浜税関に残されていた当時の写真フィルムがきっかけだった。それを発端に神奈川新聞社が取材し、ようやく概要が明らかになったのだ。

 爆発の原因は不明である。

 ただ現在は、少なくともスパイ犯行説は現実的とは見られていないようだ。

 有力なのは「油槽への引火説」である。最初に爆発したウッカーマルクでは、油槽タンク附近で修理作業が行われていたのだ。そこに「何か」が引火したのではないか。その「何か」として考えられるのは、作業中の火花、あるいは……「タバコのポイ捨て」である。火元とみられる油槽の清掃員の中には、喫煙しながら作業していた者もいたというからあり得ない話ではなさそうだ。

 余談だが、タバコのポイ捨てが原因となった、あるいはその可能性が高い事故災害というのは驚くほど多い。日暮里大火、大日本セルロイド工場、玉栄丸……。また太洋デパートやかねやす百貨店もタバコ説が有力だ。今の時代はあまり聞かないが、かつては「タバコのポイ捨てで大惨事」というストーリーが極めて切実なリアリティを持っていたのである。

 さて最後に、救いようのないこの大惨事にも、少しだけ心温まるエピソードがある。それをご紹介しておこう。

 この事故に遭遇したドイツ将兵のうち、一命を取り留めた将校クラスの数名は無事に帰国できた。しかしそれ以外の将兵は、その後の戦局の悪化のため帰国もままならなかった。

 そんな彼らを、戦争が終結するまで世話をした人たちがいたのだ。箱根町の芦之湯温泉の旅館では、彼らは貸し切り状態で過ごすことができたという。また、旧山手居留地に住んでいたドイツ人の家庭や、日本人の家庭などでも、被災者を数人ずつ分散して預かったりした。

 当時、神奈川県には約600人、300世帯のドイツ人が在住しており、そのうち約430人、230世帯が山手地区には住んでいた。こうした人々の温かい気持ちが被災者たちを癒したのだ。

 どうも、戦時中の庶民の暮らし……と言うと暗いイメージを抱きがちである。当時日本に居留していたドイツ人などというと、筆者などは『アドルフに告ぐ』を思い出してますます陰鬱な気分になるのだが、しかしというべきか、だからこそと言うべきか、こういう素朴なエピソードには、こちらの気持ちまで癒される。

【参考資料】
◆石川美邦『横浜港ドイツ軍艦燃ゆ―惨劇から友情へ 50年目の真実』 光人社NF文庫・2011年
◆ウィキペディア

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