◆三河島紀行(フィールドワーク)


 三河島へ行ってきた。

 筆者は、常々「鉄道は嫌いではないが、別に鉄ちゃんではない」と公言している。だがさすがに今回のように事後現場巡礼までしてしまうと、「事故鉄」と呼ばれても仕方ないかなと思う。


 まずは、三河島駅に降り立った。

 それから事故現場目指してしばらく歩いた。天気もよく、まさしく巡礼日和であった。

 実は、筆者の父は、むかーし荒川区に住んでいたことがある。それで三河島のあたりというのは街並みが独特だと以前から聞かされていたのだが、今回歩き回ってみて納得した。なにが特徴的って、家々の密集の度合いが半端ではないのである。

 否、密集というよりもむしろ、街の一画一画それぞれが固まってひとつの集合住宅になっているような印象を受ける。ギチギチに詰まっているのだ。

 筆者の住んでいる山形県では、いくら家が隣同士とは言っても、必ず建物と建物の間に隙間がある。しかし三河島にはそれがないのである。これは驚きだった。 

 とにかくギチギチに住居がひしめいている中で、ちゃんと改築されたらしい小奇麗な家もあれば、昔ながらの古びた住宅もある。それらが、並んで建っているというよりもはや「食い込み合っている」とでも言いたくなるような形になっているのである。

 道路の幅は、ほとんどが車一台通るのがやっとである。一体、住宅の改築の時にはトラック等の車はどうやって入ってきたのだろう? と不思議になってくる。

 それでも、街を歩いていると、住民の乗用車は狭い狭いスペースにきちんと車を押しこんで駐車したりしている。きっと三河島に住む人々というのは、昔から車を停めるコツを心得ているのだろう。

 この街は、東京から見るといわゆる「周縁」に属する地域なのだと聞いたことがある。たとえば朝鮮の人たちがこの周辺には多く住んでおり、屠刹場も多くあったと聞く。まあそれは断片的な情報ではあるのだが、そうした事柄が街の独特の雰囲気を形成しているのだと考えると納得のいく部分もある。

 父いわく、三河島あたりに住んでいる人々の連帯意識はとても強かったという。地域の連帯意識ということでいえば、筆者の住んでいる山形県の田舎などももちろんそうだ。だが三河島はそれに引けを取らないほどだというから、人の心は似たり寄ったりなのだなと思ったりもする。所変わっても品変わっても変わらない心はある。そうした心が、遠い時代の、遠い場所の、凄惨な事故の記憶によって共鳴するのである。

 さあ事故現場が近付いてくる。正面にいる2人は筆者の友人である。

 そしてこれが事故現場である。

 この高架のほぼ真上で、あの伝説の三重脱線事故は発生した。

 動画で観て頂くと分かるが、当時の三河島事故の現場は土手の上である。その土手が、今はこのような高架になっている。

 さすがに、高架上に行けるような階段はない。よって下から撮影するしかない。事故現場の正面には小奇麗なマンションが建っているので、建物の後ろから覗き込むようにパチリ。

 昭和37年5月3日、上野行き上り2000H電車はここから脱線・転落したのである。

 ついでに反対側からもパチリ。

 次は慰霊碑である。三河島駅から徒歩で3、4分の場所にある浄正寺という場所にあると聞いているので、さっそく向かう。

 不思議なことに、線路を越えると街の様子が一変する。三河島地区はものすごい住宅密集地域だったが、こちら側はごく普通の住宅街といった趣だった。線路一本挟んだだけでこうも違うのかと少し驚く。

 到着。

 こんな案内板もあった。

 三河島事故の説明もちゃんと書いてあり、きっと遺族以外にも筆者のようなマニアが来たりするのだろうと思う。事故の説明もあった。


 慰霊碑である。

 犠牲者の冥福をお祈りします。本当に心からお祈りします。日本の文化を陰から支えている多くの事故死者たち。戦後日本の裏歴史に刻み込まれたすべての英霊たち。それら全てに祈りを捧げます。

 卒塔婆に、お寺の写真。

 どうも都会のお寺は狭苦しい。

 ちなみに、同行してくれた2人の友人は鉄道事故にはまったく興味のない人間である。よって終始「きうり氏、一体なにが面白いの?」という顔をしていた。

 だから筆者もなんとなく悪い気がして、想像していたほどじっくり三河島地区を見物することはできなかった。今思うと、駅のそばの公園で井戸端会議をしていたお婆ちゃんたちにでも話しかけて、事故当時の話でも聞ければ良かったと思う。

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