時刻は午前11時30分頃。一台のバスが、横浜市神奈川区子安通にある滝坂踏切に差しかかっていた。
このバスは三菱電機大船製作所の宣伝バスで、少年養成工たちが乗り込んでいた。正確な人数は不明だが、なにやら工場対抗のマラソン大会とやらが行われていたそうで、その応援に向かう途中だったという。
彼らが出発したのが午前7時30分ということで、まあ長旅お疲れさんというところである。だが4時間もだらだらとバスに揺られたあげく事故に遭遇したのだから、これは実に不運な話だ。
この時、滝坂踏切では設備の工事だか試験のようなものが行われていた。それで通行禁止になっていたのだが、運転手はそれを無視。堂々と踏切に乗り入れてしまう。
この後、どういうことになったかはもうお分かりであろう。ここに折悪しく架線試験の機関車が通りかかりドガチャーン、たちまち目も当てられない大惨事である。乗っていた少年8人が死亡、他にも10人がけがを負った。
ここまで読むと「なんてひどい運転手だ!」と思われるかも知れないが、当時この踏切は遮断機も上がった状態だったという。当時の細かいことは分からないが、もしこれで立入禁止の表示が分かりにくければ、ひどい運転手でなくともきっと乗り入れてしまうのではないか。
あと、遮断機が手動だったか自動だったかによっても、評価は分かれるであろう。どうだったのかな。
ただ蛇足めいた話だが、実はこの時代というのは意外にモラルの荒廃が著しかったのである。踏切工事現場での対策の杜撰さ、あるいは乗り入れ禁止表示の無視など、そういうことがあっても不思議ではないかもなという気もするのだ。
「三丁目の夕日」の時代などというと人の心も温かそうだが、実際には凄まじい時代だったのだ。生活環境の悪化、公害の発生、神風タクシーの横行、交通事故の死者数の増加、猟奇犯罪の発生(これも今以上に多かった)、大事故の頻発などなど、現代の方がよほどマシな状況だったのである。
ちなみに、この時期の大事故といえばなんといっても1962(昭和37)年の三河島事故と、1963(昭和38)年の鶴見事故だが、実は今回の事故の現場である滝坂踏切は鶴見事故の現場の目と鼻の先である。鶴見事故のことが語られる際には必ず出てくる踏切だったりする。不吉な場所だ。
【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
◆『都市の暮らしの民俗学〈1〉都市とふるさと』新谷尚紀・岩本通弥 (編集)吉川弘文館 (2006/09)
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