◆玉栄丸(たまえまる)爆発事故(1945年)

 ちょっと前に一世を風靡したNHKの連続ドラマ『ゲゲゲの女房』で、「第三丸爆発事故」というのが登場する。そのモデルになったのが、今回ご紹介する玉栄丸(たまえまる)爆発事故である。

 発生したのが鳥取県の境港市だから――というわけではないだろうが、まるで妖怪のように捉えどころのない不気味な事故だ(念のため言っておくと、境港市は水木しげるの生まれ育った町)。発生したのが終戦直前だったため大々的には報道されず、原因も長らく分からずじまい。事故のあった事実だけが民間伝承のように語り継がれてきたのだ。

   ☆

 1945(昭和20)年4月23日の朝のことである。鳥取県西伯郡境町大正町(現・境港市)で、接岸していた一隻の貨物船から荷物の陸揚げが行われていた。

 この貨物船が玉栄丸である。建造されたのは1917年、総重量は1,000トン弱。まあ特別大きいというわけでもない平凡な汽船だ。そこに当時は火薬が山と積まれていたのだった。

 んで午前7時40分頃、これが大爆発を起こした。船に積まれていた火薬に、どこからか引火してしまったのだ。

 どぼずばああああああん。

 この最初の爆発からして凄まじかった。なにしろ100キロ先の建物にまで聞こえるほどの大音響で、近所の住民の中には地震と勘違いした者もいたようだ。

 さっそく地元の警防団、消防隊、警察官、軍関係者が駆け付けて消火活動が行われた。野次馬も大勢やってきて、その様子を遠巻きに見ていたという。

 ここで第二の爆発が起こったから目も当てられない。港の岸壁にあった火薬倉庫に延焼してしまい、今度はこちらが大爆発を起こしたのだ。これが8時30分頃のことで、消火作業中だった人々も、野次馬も巻き込まれてしまった。

 結果、境町の市街地の3分の1が焼失。死亡者115名、負傷者309名、倒壊家屋も431戸に上った。直接間接を問わない被災者の総数は、最終的には1,790人にも上っている。これは、第二次世界大戦中に山陰地方で発生した火災としては最大のもので、なんか爆発事故プラス「境町大火」とでも呼びたくなるような趣である。爆発事故だって、広い意味でいえば火災の一種だしね。

 そして、事故の記録はいったんここでストップする。軍に関するスキャンダルということで報道管制が敷かれたのだろう、大々的に報じられることもなく、爆発の原因も不明のまま、この事故は闇に葬られる形となった。

   ☆

 さてそれで、ここからが「解決編」である。玉栄丸はなぜ爆発したのだろうか?

 これ、現在はちゃ~んと答えが分かっている。なんと煙草のポイ捨てによる引火だったのだ。それも下手人は一般人ではなく軍関係者だったというから呆れる。この真相が明らかになるまでは「あの爆発は軍に対するなんらかの謀略だったのではないか」という説も囁かれていたようだが、もう台無しである。

 この事実が判明したのはごく最近のことである。事故直後に聞き取り調査を行っていた一人の男性が手記を残しており、そこにぜんぶ書かれていたのだ。

 この手記は1985(昭和60)年に書かれたもので、かつての軍関係者のサークルの会報に寄稿されていた。よって内々では知られていたのだろうが、その情報が、2007年になってから新聞社に持ち込まれたのだ。

 その手記によると、こうである。

 事故直後の調査中に、一人の不審な上等兵と出くわした。彼はなんだか落ち着かずおどおどしていたそうで、まあ不審者の見本みたいな様子だったのだろう。それで追及したところたちまちゲロしたのである。以下、その自白内容の一部を抜粋させていただく。

「陸揚げの途中で休憩があった。煙草に火を付けて一服吸い、無意識に吸い殻を投げ捨てた。ところが、そこらにこぼれていた火薬に引火し、パッ! パッ! と火が走り出した。数秒の後、いきなりドカン! ドカン! と大爆音、その時、大爆風で前に倒され、背中に火傷を負った」

 涙ながらの自白であったという。

 この上等兵が具体的に誰かのかは分かっていない。少なくとも手記にその名前は記されていなかったという。

 問題はこれが本当なのかどうかだが、信憑性はわりあい高いようだ。事故当時、一般人の中にもこれと同様の話を耳にした者がいたのだ。どうやら噂話程度には広まっていたらしい。

 普通に考えれば、事故原因が判明してスッキリするところである。だが遺族としては複雑な心境であろう。60年経ってようやく明らかになったかと思えば「軍関係者の煙草のポイ捨て」だったのである。しかもその真相は隠蔽され続けて、誰の処罰も謝罪もないままうやむやにされてしまったのだから。

 まあ噂になっていたほどだし、軍関係者の中には、この真相を知っている者も多くいたに違いない。だとすればこれは、当世風にいえば明らかな「不祥事隠し」であろう。

 うーん、こういう書き方をするとお堅い話になってしまうけど、国には謝罪と賠償の義務があるんじゃないかなあ(個人的意見)。

 この事故は、現地に慰霊碑も建てられている。現在も、事故が発生した毎年4月23日には献花式が行われているという。

 蛇足じみた話だが、その献花式で、市長がこのように述べたことがあるという。ちょっとご紹介しておこう。

「今の時代に生きる者として二度と悲惨な歴史を繰り返さないよう、平和の尊さを後世に語り継いでいく責任がある」。

 なんでやねん、とツッコミたくなったのは筆者だけだろうか。これ、事故の真相が判明した後の言葉なのである。事故原因はただの煙草のポイ捨てであり戦争とは関係ないのだから、この言葉は明らかにピントがずれすぎであろう。

 おそらくこの言葉には「慰霊」の意味があるのだと思う。この事故の犠牲者たちは、不祥事隠しのせいでまるきり「浮かばれない」状態にある。そこで、軍イコール戦争という図式を持ちこんで、犠牲者をむりやり「英霊」に祭り上げて丸く収めようとしているのだろう。

 でもあえて書かせて頂くと、この事故から導かれる教訓はやはりただひとつだと思う。「煙草のポイ捨てはやめよう」――これだけだ。なにもわざわざ犠牲者を英霊扱いしなくとも、そっちを徹底して事故の再発防止に結び付けていくほうが、筋としては通っている気がするのである。

【参考資料】
◆ウィキペディア
個人ブログ『歴史~飛耳長目~』
ウェブサイト『近代化遺産ルネッサンス 戦時下に喪われた日本の商船』

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