2012年6月28日木曜日

◆玉栄丸(たまえまる)爆発事故(1945年)

 ちょっと前に一世を風靡したNHKの連続ドラマ『ゲゲゲの女房』で、第三丸爆発事故というのが登場する。そのモデルになったのが、今回ご紹介する玉栄丸(たまえまる)爆発事故である。

発生したのが鳥取県の境港市だから、というわけではないだろうが、まるで妖怪のように捉えどころのない不気味な事故である(念のため言っておくと、境港市は水木しげるの生まれ育った町)。発生が終戦直前だったため大々的には報道されず、原因も長らく分からずじまい。事故のあった事実だけが細々と語り継がれてきたのだ。



1945(昭和20)年4月23日の朝のことである。鳥取県西伯郡境町大正町(現・境港市)で、一隻の貨物船が接岸しており、荷物の陸揚げが行われていた。

この貨物船が玉栄丸である。建造されたのは1917年、総重量は1,000トン弱。まあ特別大きいというわけでもない、平凡な汽船だ。そこに当時は火薬が山と積みこまれており、これの陸揚げ作業が行われていた。

で、午前7時40分頃のことである。この、船に積まれていた火薬が引火して、いきなり大爆発を起こしたのだ。

どぼずばああああああん。

まずこの最初の爆発からしてすさまじく、100キロ先の建物にまで音が聞こえるほどの大音響だった。近所の住民の中には地震と勘違いした者もいたようだ。

さっそく地元の警防団、消防隊、警察官、軍関係者が駆け付けて消火活動が行われた。野次馬も大勢やってきて、その様子を遠巻きに見ていたという。

ここで第二の爆発が起こったから目も当てられない。港の岸壁にあった火薬倉庫に延焼してしまい、今度はこちらが大爆発を起こしたのだ。これが8時30分頃のことで、消火作業中だった人々も、野次馬も巻き込まれてしまった。

結果、境町の市街地の3分の1が焼失。死亡者115名、負傷者309名、倒壊家屋も431戸に上った。直接間接を問わない被災者の総数は、最終的には1,790人にも上っている。これは、第二次世界大戦中に山陰地方で発生した火災としては最大のもので、なんか爆発事故プラス「境町大火」とでも呼びたくなるような趣である。爆発事故だって、広い意味でいえば火災の一種だしね。

で、この事故の記録はいったんここでストップするのである。

これは、玉栄丸の乗組員のほぼ全員が死亡した上に、軍に関係するスキャンダルということで情報統制が行われたためだろう。長らく事故の詳細は不明、爆発の原因も不明とされたのだった。

一説として、軍に対するなんらかの謀略だったのではないかという見方もあったようだ。



さてそれで、ここからが「解決編」である。玉栄丸爆発事故はなぜ発生したのだろうか?

これ、現在ではちゃんと答えが判明している。なんと煙草のポイ捨てが原因だったのだ。それも一般人ではなく、軍関係者の仕業だったというのだから開いた口がふさがらない。

この事実が判明したのはごく最近のことである。当時鳥取憲兵分隊に所属していた一人の男性が、手記を残していたことが分かったのだ。

この手記は1985(昭和60)年頃に書かれたものだった。かつての軍関係者のサークルの会報に寄稿されていたのだが、その情報が2007年になってから新聞社に持ち込まれたのだ。

その手記によると、こうである。事故直後、執筆者の憲兵の男性が聞き取り調査を行っていたところ、なんだか落ち着かずおどおどしている上等兵に出くわしたのだ。この、不審の見本みたいな兵士を追及してみたところ、たちまちゲロしたのである。以下、その自白内容の一部を抜粋させて頂く。

「陸揚げの途中で休憩があった。煙草に火を付けて一服吸い、無意識に吸い殻を投げ捨てた。ところが、そこらにこぼれていた火薬に引火し、パッ!パッ!と火が走り出した。数秒の後、いきなりドカン!ドカン!と大爆音、その時、大爆風で前に倒され、背中に火傷を負った」

上等兵は、この内容を涙ながらに語ったという。名前が書かれていなかったため、この上等兵が誰なのかは分かっていない。

問題はこの証言と手記が本物なのかどうかだが、信憑性はわりあい高いようだ。事故当時、陸揚げ作業部隊と関わりがあった市民の中には、これと同様の証言を聞いたことがあるという者もいた。

まあ普通に考えれば、事故原因が分かってスッキリするところである。だが犠牲者の遺族などは、事故発生から60年以上が経って明らかになったこの真相に、きっと複雑な思いを抱いていることだろう。なにせ事故原因は軍関係者の不注意による煙草のポイ捨て、しかもその真相は隠蔽され続けて、誰も処罰されないままうやむやにされてしまったのだから。

これは推測だが、軍関係者の中には、この真相を知っている者がかなりいたのではないだろうか。だとすれば、当世風にいえばこれは明らかに「不祥事隠し」である。それもとんでもないスケールの、だ。ひどい時代もあったものだ。

この事故は、現地に慰霊碑もちゃんと建てられており、今も毎年4月23日には献花式が行われている。その中で市長がこう述べたことがあるそうだ、「今の時代に生きる者として二度と悲惨な歴史を繰り返さないよう、平和の尊さを後世に語り継いでいく責任がある」と。

これ、どうにもピンとこないのは筆者だけだろうか。なぜか市長は、戦争中のひどい時代だったからああいう事故が起きたと言っているようだ。だが戦前だろうが戦中だろうが戦後だろうが、火薬や危険物を扱う場所で煙草を吸っちゃいけないことにかわりはない。ましてポイ捨てなどもってのほかである。

これはおそらく、犠牲者を慰める意味もあるのだろう。この事故の犠牲者たちは、軍の不祥事隠しによってついに謝罪もなされず、まるきり「浮かばれない」状態である。そこで、軍イコール戦争という図式を無理やり当てはめることで、犠牲者をいわば「英霊」として祭り上げて丸く収めようとしているのだ。ちょっと無理やりな気もするが。

でもあえて書かせて頂くと、この事故から直接的に導かれる教訓は、やはり究極的にはたったひとつだと思う。「煙草のポイ捨てはやめよう」――これである。なにもわざわざ犠牲者を英霊扱いしなくとも、これだって戦争の撲滅と同じくらいの重要事だと思うのだ。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆個人ブログ『歴史~飛耳長目~』
http://saint-just.seesaa.net/article/43614503.html
◆ウェブサイト『近代化遺産ルネッサンス 戦時下に喪われた日本の商船』
http://homepage2.nifty.com/i-museum/index.htm

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