◆南海電鉄列車転落事故(1967年)

  1967(昭和42)年4月1日のことである。午前7時30分頃、大阪府泉南郡泉南町(現在は泉南市)樽井の踏切に、一本の列車が差しかかろうとしていた。

 もう少し詳しく言うと、その踏切は南海電気鉄道南海本線の樽井9号踏切といい、男里川という川にかかる鉄橋の手前にあった。

 ところがこの時、踏切では異常事態が起きていた。一台の大型トラックがエンストを起こして立ち往生していたのだ。

 このトラックに列車は衝突。脱線すると、鉄橋から約15メートル下の男里川の河原へと落下した。

 落下したのは1・2両目で、3両目は鉄橋から宙吊りの状態で停止。衝突の原因となったトラックも炎上した。

 この事故で列車の乗客5名が死亡、208名が重軽傷を負った。死者の中には幼稚園児や高校生も含まれていたそうで、痛ましい限りだ。また重軽傷者の中には、一命を取り留めたものの重い後遺症を負った人もいたという。

 大事故である。当時、現場周辺はのどかな田園風景の広がる静かな地域だったそうで、道路状況や、消防・病院の体制もお粗末なところがあったようだ。よって事故への対応も大変で、周辺の泉佐野、貝塚、岸和田にも救急の応援を求め、負傷者は遠くは和歌山や大阪市内の病院まで運ばれたという。

 また、現場近くにあった工場の従業員が迅速な救助活動を行ったということで新聞に紹介され、話題になったとか。

 さて、事故が起きた踏切はとても狭く、しかし大型車に対する通行規制はなかった。とはいえやはり事故の直接の原因となった大型トラックの責任は重く、運転手の過失がまず指摘された。

 だが、列車の運転士も後でいろいろと言われた。この運転士、どうやら運転室に自分の三歳の長男を添乗させて列車を走行させていたらしい。

 で、事故が起きた時も、非常ブレーキをかけた後に乗客の避難を優先せず、その長男を抱いて客室側に逃げていたらしい。このことから、運転中も子供に気を取られて列車を停止させるのが遅れたのではないか? と邪推されたりもしたようだ。

(※もっとも、運転室があったはずの1両目は鉄橋から落下しているので、この「非常ブレーキをかけた後で長男だけを避難させた」という行動の流れもちょっと想像しづらく、彼がどこまで責められるべきかいまいちよく分からない。非常ブレーキをかけたあと、衝突直前に長男をとっさに運転室から避難させたのか、それとも非常ブレーキをかけて衝突して転落したあとで、負傷している乗客をほったらかしで長男を避難・救助したのかによって、ニュアンスは変わってくるだろう。)

 資料によると、鉄橋から宙吊りになった列車の三両目には、運転手の奥さんも乗り合わせていたという。よって、もしかすると父親の運行する列車に何らかの経緯で家族が乗ることになり、この日はたまたま子供がパパの仕事を見に行ったということだったのかも知れない。事故さえ起きていなければ、微笑ましいエピソードと言えなくもないのだが……。 

 そんなこともあって、事故に遭遇した南海電鉄は安全に対する姿勢が問われ、事故の再発防止と安全対策の充実・社内の体質改善を迫られた。

 この事故の経緯だけを読むと、どちらかというと電鉄側は被害者のように思われる。それでもここまで非難されたのには理由があり、実はこの事故と前後して、南海電鉄は1967~1968年にかけて箱作駅、天下茶屋駅でも立て続けに列車が側線に進入する事故を起こしていたのだ。全部ひっくるめて「南海三大事故」と呼ばれることもあるらしい。

 それらの案件は、国会で議題に取り上げられるほどだったという。また、鉄橋から列車が転落するという大事故になった本件でも、政府高官が現場視察に来ている。

 このように、あまりにも重大事故が頻発しているということで、この時期の南海電鉄は世間の批判を浴びて苦労していたのである。その後、安全確保のために踏切施設などの整備を優先していったことから、沿線開発も後回しになってしまったとか。

 当時の運輸省や他の鉄道事業者にとっても、この事故は大きな教訓になったようだ。もともと当時の鉄道全体の安全性には問題があり、それに対する批判を南海電鉄が一挙に引き受ける形になってしまったのだろう。

 事故が起きた踏切は立体化され、現在は道路がアンダーパス化されている。以降50年間、南海電鉄の路線では、多くの死傷者が出るような鉄道事故は起きていない。


【参考資料】
交通事故・交通違反相談所
おかあさんチョット ~1985年創刊 泉南地域情報紙~ おかチョ裏話
SKE48とエアバスA380超絶推し男のblog
◆ウィキペディア

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