◆シンガポール航空006便離陸失敗事故(2000年)

 2000(平成12)年10月31日、日付が変わる少し前のことである。

 台北――中華民国台湾北部――近郊の、桃園県にある空港「中正國際機場」(※)は、台風20号の接近で強烈な風雨にさらされていた。当時は台湾全土が風速15m以上の強風圏に入っていたという。

(桃園(タオユエン)県は現在の桃園市。また、中正國際機場は現在の台灣桃園國際機場のこと)

 台湾はもともと「台風銀座」などと呼ばれるくらい、毎年3~4個は台風が直撃するらしい。えっ? 台湾に銀座はないよね? などというツッコミはこのさい止すことにしよう。とにかく当時、空港では欠航が相次いでいた。

 しかし、空港が閉鎖するほどの悪天候というわけでもなかった。強風が吹き荒んでいるとはいえ、まだ離陸不可能な風速というわけでもない。現時点で飛行機事故が起きるかと言えばまだ「確率はゼロ」と言っても差し支えない状況だった。

 では、離陸できなくなる風速はどれくらいかというと、これは「横風30ノット」(1ノット=時速1.852km)。ここまでくれば、さすがに離陸不可能となる。よって、航空機をスケジュール通りに運行したければ、この横風30ノットに至る前に離陸しなければならない――。

 そんな中でスタンバっていたのが、シンガポール発ロサンゼルス行き006便のボーイング747-412(9V-SPK、製造番号28023)である。運航しているのはシンガポール航空だ。

 エンジンを始動した同機は、管制官から「滑走路05L」へ向かい、離陸許可を出すまでそこで待機するようにと指示を受けた。同機はこれに従い、空港内でタキシング(航空機が地上を移動すること)を始めた。

 問題はここからである。

 当時、台北国際空港には「滑走路05L」と並行する形で「滑走路05R」が存在していた。そしてこの「滑走路05R」は、以前から工事中で使用禁止の状態だった。

 006便は、悪天候で視界が悪い空港内で、ゆっくり慎重に「滑走路05L」へと進んでいく――。

 ちなみに航空ジャーナリストの青木謙知は、この移動中に交わされた「緊張感を欠いた雑談」が、数分後に発生した事故の一因になったと述べている。ボイスレコーダーに録音されていたその会話というのは、以下の通り。

23時14分47秒(機長)
「オーストラリアでは、『次』は、ここなんだ。『最初』が『次』だからこれが『次』になる、知ってた?」
23時14分50秒(副操縦士)
「最初が次か」
23時14分51~53秒(機長)
「イェイ、ハハハ……オーストラリアさ。一番目、二番目というのが一番良い」

 何が面白いのかよく分からないが、とにかくこういう会話もあったということだ。

 006便はこうした状況の中で、直角のカーブを右へ曲がった。こうして同機は「滑走路05L」へ進入したはずだった。

 ところが、である。実はここで進入したのは「滑走路05L」ではなく、その手前の「滑走路05R」だった。006便は、目当ての曲がり角よりもひとつ手前で右折してしまったのだ。

 なんでこんな間違いが起きたのか、その理由は後述する。ともあれこのミスに気付き、修正するチャンスは一度だけあった。副操縦士が「何かがおかしい」ことに気付いたのだ。その時の会話は、以下の通り。

23時16分07秒(副操縦士)
「PVD(パラビジュアル・デイスプレー)が合わない」
23時16分10秒(機長)
「先に滑走路に合わせよう」
23時16分12秒(副操縦士)
「45度必要です」
23時16分15秒(副操縦士)
「了解、素晴らしい」
23時16分16秒(機長)
「イェイ」
23時16分23秒(機長)
「PVDがどうであっても気にしない。滑走路が見えているのだから、悪くはない。オーケー、まず機体を位置に置くことを優先。準備はオーケー、010で左から、オーケー」

 後になってから読むと、オーケーオーケーじゃねえよとツッコミを入れたくなるところだ。こうして006便は、誤った「滑走路05R」に進入した状態で着々と離陸準備を整えていった。

 この時、管制官は異常事態に気付かなかったのだろうか? 空港全体を見渡して航空機に離着陸を指示する立場にある彼らは、006便のミスをなぜ指摘しなかったのだろう。

 ――その答えは「よく見えなかった」だった。もともと管制塔から滑走路までの距離は1,600メートル。そして事故当時の管制官の視程は、台風プラス夜間ということでたったの600メートルだった。006便の誤った動きは全く見えていなかったのだ。

 そして管制官の当時の視認距離が600メートルなら、クルーのそれもたったの450メートル程度だった。どっちもよく見えていなかったのだ。たぶん当時はお互いに「あっちはちゃんと見てくれているだろう」と思っていたのだろう。

 管制官から離陸許可の連絡が入ると、それから約30秒ほどで、006便は「離陸決心速度」と呼ばれる速度まで加速した。ここまで加速すると、もはや離陸の中止はできない。中止しようものならオーバーランは必至だ。後に、フライトレコーダーの記録から、006便は1,243メートルまで滑走したことが確認されている。

 そして、それからわずか3秒後のことだった。機長が、滑走路上に障害物を発見したのだ。後になって判明するが、この障害物の正体は「滑走路05R」内の工事で使われていた掘削機やコンクリートブロック、工事用の車両などだった。

23時17分16秒(機長)
「何かあるぞ」
23時17分17秒:衝突音。
23時17分18秒(不明):
「ワーッ。」一連の衝突音。
23時17分22秒:録音終了。

 事故発生は2000(平成12)年10月31日午後11時17分18秒のことだった。

 衝突直前に、機長は操縦桿を引いている。おそらく障害物を避けるためにとっさに行ったのだろう、機体は2メートルくらいは上昇したようだ。それでも衝突は避けられなかった。

 バランスを崩した006便の機体は滑走路に墜落し、ぐるぐる回って大破。衝撃で大きく3つの部分に分断され、ロサンゼルス行きということで満タンだった燃料12万5千キロに引火して激しく炎上した。

 当時、同便には乗員20名、乗客159名の計179名が乗っていた。このうち、乗員4名と乗客79名の計83名が死亡し(なお邦人も1名含まれている)、80名が重軽傷。16名が無事で済んだ。火災そのものは事故後約45分で鎮火したものの、機首の部分はほぼ全焼。甚大な被害となった。

 検死や、生還した乗客などの話によると、墜落の衝撃による即死は免れたものの火災によって亡くなった人も多くいたらしい。よって、乗務員による避難誘導体制の不備も、後に指摘されることになった。

 「シンガポール航空006便離陸失敗事故」の発生だった。

   ☆

 シンガポール航空は1972(昭和47)年の創業以来、死傷者が出る事故を起こしたことがなかった。今回の事故は、同航空にとっては初の汚点となってしまった。

 事故直後に空港は閉鎖。しかし現場では50~60ノットの強風が吹き荒れ、すぐに現場検証を行えるような状況ではなかった。

 なんでこんな事故が起きたのだろう?

 当初、事故原因については様々な憶測が飛び交った。基本的に「パイロットが誤った滑走路に進入して事故った」などというのは、ほとんどあり得ないと言っていいほどのとんでもないミスである。だから最初はその可能性は低いとされ、台風による機体の横転説や、工事中だった「隣の」滑走路から建設資材が飛んできた説などが考えられていた。

 だが、台風がやっと落ち着いたところで調べてみたら、いくつか決定的な発見があった。

 まず、四方八方に飛び散った残骸の中から建設資材のパーツが見つかった。さらに「滑走路05R」には航空機の真新しいタイヤ痕が残っており、これらの証拠から、事故は人的ミスによって引き起こされたことが明らかになった。006便は、入ってはいけない「滑走路05R」に進入して離陸を試み、工事用の機材に衝突したのだ。

 一体なんでこんなミスが発生したのか、それは006便のコックピットクルーに聞くしかない。幸いにして三名のクルーたちは生存しており、事故直後から聞き取り調査を行うことができた。

 また、これと並行して、デジタルフライトデータレコーダー(DFDR)とコックピットボイスレコーダー(CVR)の、いわゆるブラックボックスの解析も行われた。この事故では、ブラックボックスは焼損を免れた機体後部にあったため回収はすぐにできたようだ。

 そして2002(平成14)年4月26日、台湾の最高機関たる行政院の飛行安全委員会は、パイロットが――特に機長が――滑走路をしっかり確認せず、誤って工事中の滑走路に進入したため今回の事故は発生したと結論を下した。

 事故調査報告書が挙げた理由は「プレッシャーによる判断ミス」。台風の中で安全に、かつ時間を守りながら飛行機を離陸させなければならない…という焦りのせいで、クルーはミスを犯してしまったのだ。

 クルーたちは決していい加減に操縦していたわけではない。ただ事故当時、彼らはそれぞれ別の作業に没頭しすぎてしまっていた。機長は低速でのタキシングに。副操縦士はチェックリストの確認に。そしてリリーフパイロットは横風の計算に……。その結果、航空機の正しい進行方向という一番肝心なものを誰もが見失ってしまったのだ。

 また、機長の安全運転が仇になった可能性もあった。

 通常、空港内でタキシングする場合は25ノットの速度で進む。だがこの時は悪天候だったこともあり、9ノットで「徐行運転」していた。

 これによって調子が狂ってしまった可能性があった。まだ短い距離しか進んでいないのに、走行時間が長くかかってしまったため、かなり先へ進んだと思い込んで「滑走路05L」に着いたと勘違いしたのかも知れない。実際にはそこは、もっと手前の「滑走路05R」だったというわけだ。

 もっと視界がよければ、こんなミスにはすぐ気付いたことだろう。

 また当時は、離陸間際になって順路の変更を管制塔から告げられたりしている。こうした変更自体は日常茶飯事ではあったが、他のことで頭がいっぱいだったクルーにとっては、大きなストレスだっただろう。

 もっともシンガポール側は、台湾側の調査結果に対してかなり不満だったようである。それも無理のない話で、台湾側の調査では、事故原因のほとんどがシンガポール航空のせいにされているのだ。

 それで、シンガポール側も独自の調査を行った。その結果、事故が起きた「滑走路05R」が、進入禁止にもかかわらず当時は物理的に閉鎖されていなかったことや、その誘導路の中心線で緑のライト(誘導灯)が灯っていたことなども事故の要因として挙げられた。要するに「空港にも責任がある」というわけだ。

 とはいえ、事故を起こしたクルーは、地図で事前に「滑走路05R」が工事中で使えないことを確認していたはずである。嫌な言い方だが「知らなかったでは済まされない」というやつだ。実際、そこでの工事はだいぶ前から行われており、同じ状況でも誤ってそっちの滑走路に進入した航空機はそれまで一機もなかった。

 こういったことを総合的に考えて、やっぱり機長の責任は大きいと思う。先述した「緊張感を欠いた会話」の件もあるし、また、誤った滑走路に進入した直後には、異常に気付いた副操縦士の指摘をスルーしている。この事故はほぼ純粋な人的ミスだと言われても仕方ないだろう。 

 誰にとっても不幸な事故ではある。それでも、事故機を運航していたクルーたちは厳罰に処され、機長と副操縦士は解雇された。

 この事故の教訓から、現場の空港には、悪天候時でも地上の様子を把握できるようレーダーが配備された。

 またシンガポール航空は、その後は死者が出るような重大事故を起こしておらず、現在も質の高いサービスと効率的な運航が売りとなっている。航空サービスリサーチ会社「スカイトラックス」は、世界で2番目に優れた航空会社として同社の名を挙げているし、2017(平成29)年に「AirlineRatings.com」は、世界の425の航空会社の中でも最も安全な20の会社のリストに同社を入れている。

【参考資料】
◆青木謙知『飛行機事故はなぜなくならないのか』講談社ブルーバックス、2015年
◆ナショナルジオグラフィックチャンネル『メーデー!:航空機事故の真実と真相 第10シーズン第3話「TYPHOON TAKEOFF」』
世界でもっとも安全な航空会社ベスト20
◆ウィキペディア

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