◆山陽本線特急列車脱線転覆事故(1926年)

 昔は、大惨事の記憶を「歌」によって残そうとする習俗があったのだろうか。今回ご紹介する事故も、以下のような形で歌われている。いつもの『事故の鉄道史』に載っていた。

列車転覆の歌
作詞 秋月四郎(地元の歌人)

一、ああ大正は十五年 時は九月の廿三夜
      山陽線は安芸中野 聞くも哀れな大惨事
二、知るや知らずや黒けむり 特急列車は轟然と
      数多(あまた)の旅客を打ち乗せて 全速力で進行中
三、如何なる神の戯れか にわかに豪雨が襲いきて
      かの恐ろしき激流に 無慚(むざん)や列車は転覆す
四、狭き車内の負傷者は 阿鼻叫喚の修羅の声
      親は子を呼び子は親を 呼びつ呼ばれつ雨の中
五、救いを求むる哀れさに 中野の村の人々は
      村長三戸松初めとし 救助の道を施せり
六、数多旅客のその中に 鹿児島市長上野氏は
      ひとり子篤孝諸共に 無惨な惨死を遂げにけり
七、上り下りの汽車の笛 ひとと哀れを告げにけり
      三十余名の霊魂は 中野の村雨とこしえに

 余談だが、作詞した秋月四郎という人は、かの「ヨサホイ節」を全国に広める火付け役となった人らしい。何者だろう。

 ともあれ、こういう事故である。人呼んで山陽本線特急列車脱線転覆事故は、1926(大正15)年9月23日、山陽本線の安芸中野駅~海田市駅間で発生した。

 この年は、風水害の当たり年でもあった(※)。特に9月は、11日に広島市で集中豪雨による甚大な被害が出るなど、ひどかったらしい。「らしい」というのは、さすがに90年以上前の出来事とあって、ネットで調べた程度では記録がほとんど見つからなかったからだ。まあ地元の郷土資料などにあたれば詳細も分かるのだろうが。

 (※参考資料『事故の鉄道史』によると、この年、愛知県豊橋市では某小学校の校舎が水害によって倒壊し、児童15人が死亡した事故が紹介されている。大変気になる事例である。この事故が起きたのが事実なら詳細を知りたいのだが、とにかく情報がない。どなたかご存じでないだろうか……。)

 今回ご紹介する事故も、この風水害の影響で発生した。しかしこの事故だけはしっかり記録に残された。それほどの重大事故だったのだ。

 事故が発生したのは23日。その前日の22日には、事故の現場となる地域でも雨が降り出し、これが午前2~3時頃に豪雨に変貌した。この雨で、周辺地域の畑賀村(現在の安芸区畑賀)で36名が、中野村(現在の安芸郡府中町)で3名が亡くなっている。

 災禍に見舞われることになる下り特別急行列車第一列車が、東京駅を出発したのは22日午前のことだった。資料によって、9時半とか8:45分とか書いてある。これは28977号蒸気機関車が11両の荷物車と客車を牽引する形で走っており、以下のような経路を辿っていった。

 22日、20時12分に大阪駅に到着。20分発。
 23日、広島県の山陽本線糸崎駅を午前1時46分に出発して広島駅へ。
 広島県安芸郡中野村にある、安芸中野駅を、定刻よりも3分遅れの3時28分30秒に通過――。

 そして、列車はこの後に脱線転覆してしまうのだが、実は事故直前に、安芸中野駅の少し先の方では、畑賀川の増水により、溢れた水が線路を支障しているのが発見されていた。水が線路の築堤に溜まり、盛土が崩れ出していたのだ。これを見つけたのは、地元の中野村消防組(当時の消防団にあたる)のHである。

「これはヤバイ、安芸中野駅に知らせなければ!」

 彼は駅へ駆け出した。

 そこへ、3時28分に安芸中野駅を発車したばかりの特急列車がやってきた。ヘッドライドがこちらに驀進してくる……。提灯を持っていなかったHは、差していた番傘を必死になって振った。しかし見えるはずもない。

 こうして午前3時30分、特急列車は脱線転覆した。Hが、事故の瞬間そのものを目の当たりにしたかどうかは定かでない。

 実は、このたった5分前には、貨物列車が何事もなく現場を通過していた。盛土が崩れたのはその直後だったのだ。実に不幸なタイミングである。もしも、事故った列車に3分の遅れがなければ、惨劇は起きていなかったかも知れない。

 Hは色を失い、安芸中野駅に向かって走った。すると駅の手前で安芸中野丁場線路工手組頭の男性と出くわした。以下は、時系列を分かりやすくするためのエア会話である。

H「大変だ、この先で列車が脱線した!」
組頭「なんだと。今の時刻だと、貨物列車と特急列車が続けて通過したはずだが、どっちもか?」
H「いや、脱線したのは特急列車の方だけだ。貨物列車は無事に通過している。その直後に線路の盛土が崩れたんだ!」
組頭「なんてタイミングだ! 俺は今、川の増水について駅に報告に来たところだったんだ。危険な場合は列車を止めようって決めたばっかりだったんだが。そういえば、俺が電話で話している3時24分には、貨物列車が通過したっけ。あれは無事だったってことか。そしてその直後に通過した特急が脱線した……」
H「で、あんたはどうして外に出てきたんだ」
組頭「駅長に言われたんだ、様子を見てこいって。特急列車が駅を通過して2分かそこらで、遠雷みたいなすごい音が聞こえたんだよ。あれが脱線事故の音だったんだな」

 豪雨で差し迫った状況の中、事故はタッチの差で発生していたことが分かる。

 鉄道関係者は即座に対応した。先のHと組頭は前後の列車の停車の手配と、上部機関への連絡を行っている。またHは機転を利かせて、駅の近くにある専念寺という寺で梵鐘を突いて仲間を呼び寄せた。非常時に通常使われる半鐘は、駅から距離が遠すぎたのだ。これにより、200名の消防組員が迅速に集まった。

 ところで。

 この事故に遭遇した特急列車だが、これは当時の時代状況を反映したかなり特殊な造りの車両だった。発生した事故そのものとは直接関係ないが、その出自は日本の近代史に深く関わっており、事故を少し広い視野で見るための豆知識にはなると思う。簡単にご紹介しておきたい。

 この特急列車の正式名称は「一、二等特別急行列車」といった。日本初の特別急行列車として、1912(明治45)年6月15日に運行がスタートしたものである。

 日露戦争後、日本は大陸への膨張政策を採り始めた。これに合わせて下関から釜山へ連絡船が運航され、それが朝鮮総督府鉄道とシベリア鉄道と連結し、中華民国・パリ・ロンドンに至ることで、国際連絡運輸の態勢が整っていた。先述の「一、二等特別急行列車」はこうした動きに対応すべく造られた超高級列車で、国際連絡の一翼を担う形で運行されていたのである。

 ちなみに、現在の公益財団法人日本交通公社の前進であるジャパン・ツーリスト・ビューローが設立されたのも1912(明治45)年のことだ。

 この特急列車がどれくらい豪華だったかというと、最後部の一等展望車には貴賓・高官用の特別室が設けられ、豪華な彫刻や飾りつけが外国人の目を引いたという。また、当時としては珍しかった「洋食堂車」が連結された上、接客は英会話ができる青年が行うなど、その設備やサービス内容は当時の最高水準ともいえるものだった。

 これが、無惨にも脱線転覆したのだった。

 先述の通り、列車は全11両編成。このうち、まず機関車が海側に倒れ、荷物車だった一・二両目も原型をとどめないほど粉砕された。そこへ、客車である三両目が食い込んで大破。続く四・五両目は折り重なって転覆大破し、さらにこの五両目に六両目が突っ込んだ。七両目以降は惨事を免れた(※)。

(※記録によると、一両目は「増」の荷物車。よって厳密には、事故った二~六両目は「1~5号車」として番号がふられている)

 大破した客車はいずれも「二等車」あるいは「二等寝台車」で、当時の乗客108名中75名がこれに乗車していた。そしてこのうち、即死者と、後に死亡した者を合わせて34名が犠牲になった。

 高級列車とあって、犠牲者の中には、当時の鹿児島市長や三菱造船常務取締役、日本メソジスト教会伝道局長など社会的地位の高い人物も多くいた。

 とにかくひどい惨状だったようだ。救援には、広島保線事務所から派出された約200名のほか地元の消防組、在郷軍人会、青年団など、あわせて2千名が駆け付けたが、手の付けようがないほど現場はめちゃくちゃだったのだ。

 また、広島運輸事務局からの連絡で、広島治療所の医師と看護婦、市内病院の医師、看護婦、開業医が救援列車で駆け付けている。さらに駅周辺の開業医や、その他の病院の医師も加わった。

 遺体は損傷がひどいものが多く、最寄りの専念寺へ収容された。事故発生直後に、消防組のHが梵鐘を鳴らしたあの寺である。

 負傷者や、無傷の者は広島へ送られていった。遺体収容は翌日24日までかかり、自宅に送られたものも、遺族の希望で広島で荼毘に付されたものもあった。

 復旧工事も進められた。広島や瀬野から、工具資材を積んだ復旧作業用列車が駆け付け、小倉や下関の工場からも技工が派遣されている。現場では転覆した車両をどかす作業が進められたが、食い込んで噛み合ってしまった車両を引き離すのはかなり難儀したようだ。その他、客車や炭水車はガス切断などの方法で分断されて回収されている。

 当時の鉄道大臣は、慰問と現地視察のため、26日の未明に第一特急列車で広島へ駆け付けた。また鉄道省は、翌月の10月初めには弔慰金の支出を決定。犠牲者の社会的身分を考慮し、死者には5千円を、負傷者には2千円を限度として個々に支出した。

 裁判では、以下の三名が起訴されている。

1・門司鉄道局広島保線区の主任事務取扱
2・広島保線区海田市駐在所の保線助手
3・海田市駐在所安芸中野丁場の線路工手組頭

 このうち1は、水害のあとで線路に応急工事を施したものの、その後は警戒の措置を何も講じなかった……とされた。

 また2は、22日の夕方に、3に対して、受け持ちの範囲内にある橋と線路の巡回を命じただけで自分は仮眠し、豪雨のため危険な状況になっていることに気付かなかった……とされた。

 そして3は、2の命令を受けて巡視警戒をしたり、手堤信号などで汽車を止めるべきだったが、電話連絡に手間取ってそれらの任務を怠った……とされた。

 参考資料『事故の鉄道史』によると、少なくとも1は大審院で破棄無罪となった、とある。これが昭和3年1月27日のこと。2と3がどうなったかは不明である。

 事故が発生した築堤は、その後、鉄路の安全確保のために工夫がなされている。盛土にすると大雨で崩壊してしまうので、ならば水の逃げ道を用意しよう、ということになった。築堤のかさ上げと合わせて、約20メートルの鉄橋が架設されたのだ。この鉄橋の写真はウィキペディアでも見ることができる。一見すると下に道路も水路もない奇妙な橋だが、洪水の際、下の空間から水が抜けられるようになっているのだ。

 何の情報もないまま見れば、ごく普通の風景写真である。しかしこの風景にも、34名が死亡した大惨事の歴史があるのだ。

 犠牲者を悼む慰霊碑は、遺体が収容された専念寺に建立されている。梵鐘の形をした慰霊碑の上に仏像があり、その仏像の台座に、犠牲者の氏名が刻まれている。

 さて、この事故は、日本の鉄道車両が「木造」から「鋼製」へと変わっていく大きなきっかけとなった。

 もともと、この事故が起きた頃というのは、鉄道の客車を、頑丈な「鋼製」へ変えていこうという機運が高まっていた時期でもあった。

 木造の車両は、はっきり言ってもろい。1920年代には、アメリカを始めとする鉄道先進国ではこのもろさが既に問題となっていた。ひとたび事故れば木材が裂けて死傷者が増えるのも問題だったし、車両の長さを伸ばして速度も向上させていくには、木造ではとても強度が間に合わない。鋼製車両への切り替えは世界の趨勢だった。

 よって日本でも、前々からそういうことは言われていた。ただ木造の方が軽くてイイという意見は根強くあったようで、そのためかどうか、当時の鉄道省は1927(昭和2)年度の新製車両計画において、もともとあった600台の客車のうち半分を半鋼製車にする予定を立てていた。全部、ではなかったのだ。

 ちなみに半鋼製車両とは、台枠、側構、外板が鋼製で、天井、内羽目などの車内の仕上げを木製にしたものである。それら全てを鋼製としたものを全鋼製車両というらしい。

 そこへきて今回の事故が発生し、ダメだ半分なんてケチケチせずに、一気に全車両を鋼製にしよう! ということになった。一般的には、事故がきっかけでいきなり木造車両の見直しが始まったかのように思われているらしい。だが実際にはそうではなく、前から案が出ていた鋼製への総とっかえを、この事故が後押しした形だった。

 このような経過を経て、車体を鋼製とした、いわゆる国鉄オハ31系客車などが誕生した。

 事故に見舞われた特急列車一・二列車はその後も運行され、1929(昭和4)年には鉄道省の公募により「富士」の愛称がつけられた。さらに翌1930(昭和5)年にかけて、それまでの木造車両は鋼製車両へと交換された。

 余談も余談なのだが、この時に作られた一等展望車の内装デザインには2種類あったそうで、そのうちの片方が「白木屋式」と呼ばれていたとか。なんでも、同じ時期に新築された白木屋百貨店の内装デザインとと似ていたらしい。事故災害のことをいろいろ調べて書いていると、なぜか白木屋百貨店の名前があちこちで登場するので驚く。

 「富士」は、その後もシャワールームが設置されるなど相変わらずの高級ぶりで運用され、輸送量の増大に伴って車両の規模もどんどん大きくなっていった。だが戦争の激化により一部の車両は輸送力増強のため通常使用がままならくなり、1944(昭和19)年には運行中止となった。儚い。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・網谷りょういち『事故の鉄道史-疑問への挑戦』(日本経済評論社、1993年)
◆ウィキペディア

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