◆トライアングルシャツウエスト工場火災(1911年・アメリカ)

 今から100年ほど前にニューヨークで発生した火災である。

 言うまでもなく、ニューヨーク市と言えば今では押しも押されぬ大都市で、産業・商業・情報等の分野における最重要都市である。だがその成長の歴史は意外に短く、当時のニューヨーク市はまだ他の街との合併を果たしたばかり。大都市としては駆け出しもいいところで、成長はこれから――という時期だった。

 そして、日本の例を挙げるまでもなく、こうした都市の成長の陰では多くの人々の犠牲がつきものである。婦人用古着再生工場だったこのトライアングルシャツウエスト工場で発生した火災は、その分かりやすい実例のひとつだといえる。

 さらにこの火災は、その社会的・歴史的な影響のため、災害史のみならずアメリカ史全体においても大きなインパクトを残している。

 当時、アメリカでは労働運動が盛んで、多くの工場で労使間の対立と和解があった。その端緒となったのが他でもないこのトライアングル社であり、そして最後まで決着がつかなかったのもトライアングル社だったのだが、火災が発生し多くの女工が死亡したのが、こんなグダグダの状態のさ中だったのである。彼女たちは文字通り劣悪な労働環境の犠牲になったのだ――ということで、労働環境の是正がより一層求められるようになったのだ。

 これから火災の経緯を記すが、その前にひとつだけ。この「トライアングルシャツウエスト工場」という名称についてなのだが、実は最初、資料によって「トライアングルシャツウエスト」だったり「トライアングルウエストシャツ」だったりと、まちまちだったので困った。

 で、しばらくの間分からないままで放置していたのだが、読者の方からいただいた情報でやっと分かった。これはアルファベットでは「Triangle Shirtwaist」らしい。筆者は最初、ウエストはwestだと思っていたのだが、実際にはwastで「腰」のこと。そしてシャツウエスト(shirtwaist)で一つの名詞となり、これはシャツブラウスのようなものなのだとか。

 だから、Triangle Shirtwaistの工場というのは「シャツウエストを作っているトライアングル社」、もしくは「トライアングルシャツウエスト社という名の会社」のいずれかの工場、という意味なのだと思う。

 とりあえずそんなことを踏まえつつ、本文では現場の建物については省略して「トライアングル工場」と表記させていただく。「トライアングル社」と表記されているのは、工場ではなく本社という意味である。

   ☆

 日本では明治44年にあたる1911年、3月25日のことである。

 ワシントン・プレースとグリーン・ストリートが交わる交差点、その北西の角にアッシュ・ビルという10階建ての高層ビルがあった。

 トライアングル工場は、このビルの上から3階分のフロアに施設を構えていた。8階と9階が工場で、10階は事務室である。

 工場での就労時間が終わる午後4時半のことだ。終業ベルが鳴ると、その日の労働を終えた女性たちは帰り支度を始めた。縫製会社とあって、従業員のほとんどが女性である。

 会社の守衛たちもまた、盗難防止のために、社員たちのハンドバックを調べる準備を始めた。

 外は快晴、清々しい天気である。

 しかしこの直後に異変が起きた。8階にいた裁断係の男性が、布の切りくずが入っている箱から出火しているのを見つけたのだ。グリーン・ストリート側の窓のそばにテーブルがあったのだが、その下の箱が火を噴いていたのである。

「うわっ火事だ! 水持ってこい水。支配人にも知らせろ」

 知らせを受けて、9階だか10階だかにいたらしい生産担当支配人、サミュエル・バーンスタインも駆け下りてくる。おお、本当に火事だ。だけど心配ご無用。俺、2週間前にもボヤを消し止めたもんね。さあバケツ持ってこい――!

 そんなに頻繁に火事が起きてたんかい、とツッコミを入れたくなるところだが、それはさておき、バーンスタインは他の男性社員とさっそく水をかけ始めた。この男性社員も、2週間前に一緒に消火活動を行っていた。

 この工場、実は防火設備に関しては意外にしっかりしていた。各階に消火用バケツや屋内消火栓が備え付けられており、それを用いた消火が試みられたのだ。だが火は消えなかった。

 工場内の環境も悪かったのだ。出火場所の周辺には、木綿生地やたくさんの紙型がぶら下げられていた。その上、ミシンからの油漏れのため床は油で汚れており、とどめに予備のミシン油の樽が壁にずらり。洒落にならん。

「くそっ消えない、みんな逃げろ!」

 避難指示の言葉を英語でどう言うのか知らないが、とにかくバーンスタインは、消火活動を行いつつ従業員に避難と脱出を促した。

 こうして8階での混乱が始まった。もともと、この階にいた225人(275人とも)の従業員は、グリーンストリート側のいつも開いているドアから帰宅しようとしており、皆がそこから脱出を始めた。

 同時に、バーンスタインは機械工のルース・ブラウンにこう指示を出した。

「もうひとつドアがあるだろう、そっちの鍵も開けろ」

 そっちというのは、ワシントン・プレース側に出られるドアである。こちらは窃盗とサボり防止のために常に施錠されており、ブラウンはさっそく解錠しようとした。

 ところがこのドアが曲者だった。当時(今はどうなのか不明だが)のニューヨーク州の労働法第80項では、「工場のドアは可能な限り外開きでなければならない」と定められていたのだが、ドアの向こうの踊り場があまりにも狭すぎたため、これは内側に向かって開くように作られていたのだった。

 結果、どうなったか。怯えて脱出をあせる労働者がドアに押しかけたため、内側に向かって開けることができなくなったのである。笑い話のようだが本当にそうなのだ。

 ブラウンは当時のことを、このように語った(意訳)。

「ドアを開けるために、彼女らを押し戻さないといけなかった。ドアにびっしり押し寄せているんだもの。俺が全力でドアを引っぱると少しは開くんだけど、彼女たちはドアに押し寄せてくるからまた閉じる」

 ゾッとする話である。それでもやっとこさドアが開かれ、20インチ(50センチほど)の幅のドアから一人ずつ逃げ始めた――。

 8階からは、こうして大半が無傷で脱出することができた。ところが問題はそのさらに上階である。

 当時、8階にいたダイナ・リフシッツは、社内電話を使って、10階の電話交換手メアリー・オルターに通報している。少し海外ドラマの翻訳風に、当時のやり取りを書いてみよう。

ダイナ「ハーイ、メアリー。大変なのよ、今8階が火事なの! お願いよ、10階と9階の人たちに知らせてくれる? 今8階もパニックで、交換手のあなたに頼むしかないの。お願い」
メアリー「え~? ちょっと待ってちょうだい、それ本当なの? じゃああたしたちも早く逃げないと!」
ダイナ「駄目よメアリー、その前にみんなに連絡して! そうでないと大変なことになるわ、メアリー、メアリーったら!」

 もちろん想像上の会話である。だが大体こんな感じだったのではないだろうか。この交換手のメアリーが交換台をほったらかしにして逃げたため、9階にいた260名~300名の従業員はまったく危険を知らされなかったのだ。

 10階にいた人々は、全員が無事に脱出できた。だが9階にいた従業員は、フロアの窓の外が炎と煙に包まれるまで火災にまったく気付かなかった。

 もともと、アッシュ・ビルの壁はレンガ造りだった。そして窓枠などの部品も金属が用いられており床もコンクリだったので、炎が壁や床を突き抜けることはなかった。しかし8階の窓から噴き出した火炎によって、9階もたちまち火の手に包まれたのだった。

 さあ、9階フロアは大混乱である。トライアングル工場で働いている身内の名を呼ぶ者、縫製機械のそばで呆然と動かなくなる者、即座に逃げ出す者などがいたという。

 逃げ出したグループは、さらに二手に分かれた。8階の従業員たちと同様に、グリーン・ストリート側と、ワシントン・プレース側のドアへ向かったのだ。

 結果、グリーン・ストリート側のドアからは100人ほどが無事に脱出。こちらの螺旋階段は幅33インチ(約84センチ)という狭さでしかも急勾配だったが、避難には充分使えたようだ。

 だがこの階段も途中から使用不能に陥った。火炎のため通れなくなってしまったのだ。

 またワシントン・プレース側のドアは、これも8階と同じように施錠されており使えなかった。不幸にして、解錠できる人間がこの階にはいなかったらしい。

 こうして脱出し損ねた従業員たちは、慌てて別の避難経路を探す。残るは屋外にある非常階段と2基のエレベーターだけだ。

 運命の二者択一である。だがもはや、どちらも安全な避難経路とは到底呼べない状況だった。

 まず屋外非常階段だが、これは幅が17インチ(約43センチ)とひどい狭さだった。しかも避難する人々の重みと、ビルからの火炎の熱でもって、人々が避難している最中に階段そのものが崩壊してしまった。

 次がエレベーターだ。これはワシントン・プレース側に設置されており、運転員もいた。当時の避難の様子について、この運転員はこう証言している(意訳)。

「従業員たちは、私の髪の毛を引っぱって、頭上に飛び込んできた。私も人々の頭の上に人々を詰め込んだ。エレベーターの屋根によじ登る者もいた」

 またこんな証言もある(エレベーターの運転員は2人いたと思われるが、この2つの証言が同一人物のものかどうかは不明である)。

「9階でエレベーターのドアを開くと、避難者の大群がいた。そのすぐ後ろは物凄い炎と煙だった。私は何度かエレベーターを行き来させて人々を脱出させた。そして3回目に9階へ上った時には、もう周辺は火炎だらけ。多くの人が逃げ場を失い、窓枠に立っていた」

 鮨詰めのエレベーターは、こうして数回に渡って上下階を行き来し、多くの被災者を救っている。最後の数回は、実に定員の2倍の人数を輸送したという。

 しかしこの2基のエレベーターも、やがて停止した。一台は火災の熱でエレベーターの通路が歪んだためだった。またもう一台は、炎を逃れようと通路へ飛び降りた者が多数おり、その重みで箱が動かなくなったからだ。

 上階にはまだ逃げ遅れがいたのだ。やがて、停止したエレベータの箱の上に、彼らが飛び降りてくるドシンドシンという音が響いてきたという。後に消防士が確認したところ、エレベーターの箱の上には計19の遺体があった。

 エレベーターが2台とも停止したのが4時45分。火災が発生してから僅か15分のうちに、従業員たちは9階から脱出するすべを失ったのだった。

 不運だったのは、ちゃんとこのビルには火災用の避難口があったのに、大半の者がそれを知らされていなかったことだろう。従業員たちは防火訓練を受けておらず、建物内のいつも見慣れたシャッターの向こうにそれがあることなど、思いつきもしなかった。

 飛び降りも、数え切れないほど発生した。非常階段が崩壊したことは先に述べたが、それ以外にも多くの人が窓から落下している。

 エレベーターの運転員はこう証言していた――「多くの人が逃げ場を失い、窓枠に立っていた」と。つまりこの、「窓枠に立っていた」従業員の末路が「飛び降り」となってしまったのだ。

 当時、現場周辺は野次馬でごった返していた。火だるまになった犠牲者が高層階から落下してくる姿を、大勢が目撃している。

 野次馬の一人の証言。

「最初は、オーナーが高級な製品だけを窓から外に投げているのかと思った。だがよく見ると、それは窓から飛び降りる従業員たちだった」

 また、たまたま近くを通りかかった『ニューヨーク・ワールド』(雑誌か何かだろうか?)の記者はこう証言している。

「500名ほどの群衆が、いっせいに怯えた声をあげた。風で衣服を巻き上げながら落下してきたのは、若い女性だった。彼女は街頭に叩き付けられて即死した。群衆が、なにがなにやら分からずにいると、もう一人の若い娘が窓枠に飛び上がった。彼女は、拳を固めて窓を叩き破ったらしかった。頭髪も衣服も燃えていた。一瞬、両腕を突き出して窓枠で制すると、すぐに落下してきた。同時に、別の窓からも3名の女性が身を投げ、あとからも別の女性たちが窓枠へしがみついていた。息をあえがせ、このまま室内で死ぬか、眼下の歩道や側道で死ぬか、決断しようとしていた」

 なんだか、さすがに筆者も書くのが苦痛になってくる光景である。あまりにも凄惨だ。

 ともあれ、この落下によって46~60名以上が死亡。辺りは死屍累々たる有様だった。消防士の救命網も、高層階からの飛び降りには役に立たなかった。

 消火活動は難航を極めた。梯子が届かない上に、犠牲者が次々に飛び降りてくるので危険極まりなく、消防隊も警官も近寄れない。難航を極めたというよりも、もはや消火活動は「できなかった」というのが本当のところだろう。とにかくボトボト人が降ってくるものだから、エレベーターで無事に脱出した従業員すらも、危なくてビルの外には出られなかったという。

 それでも、消防が到着してから30分以内には鎮火しているようだ。ほほう、なかなか手際がいいね……と言いたいところだが、喜んでなどいられないのである。この1時間弱の火災で、なんと死者は146名というべらぼうな数に上ったのだ。
 
 工場内から救助された者は、一人もいなかった。

 最初、遺体は道路に積み上げられていたが、警官たちは大急ぎで棺を調達。そして、東26番ストリートの埠頭に臨時の遺体安置所を作った。

 一部の犠牲者は、賃金を大事に服にしまっていたり、あるいはその手に握り締めたりしていたという。

 また、娘の死を目の当たりにして、埠頭から身を投げようとした母親も十数名いた。警官は彼女たちを止めるのにもひと苦労だった。

 さて、裁判である。この悲惨極まりない事件の責任者は誰なのか?

 これについて、当時ニューヨーク・タイムズはこう書き立てたという――「この恐るべき失態は、何者かが引き起こしたのだ。しかし難しいのは、これだけの人命が失われたことの責任の所在を突き止めることだろう」。

 面白くもなんともない予言だが、これが的中した。アッシュ・ビルと工場の管理に携わった者たちは、誰も彼もが互いに責任をなすり合ったのだ。いわく、

1・州知事「俺じゃねえよ! 悪いのは建築局だ」
2・地方検事の主張「俺じゃねえよ! 悪いのは州の労働局、共同住宅局、水道局、警察だ」
3・トライアングル社のオーナーのアイザック・ハリスとマックス・ブランク「俺たちじゃねえよ! 悪いのは建築基準法だ」

 素人の印象では「会社が一番悪いんじゃないの?」と感じるところだが、しかしここで注意しなければならないのは、トライアングル工場は法令違反をまったく行っていなかったという点である。

 例えば避難階段も、熱式火災報知システムも、各階の水バケツも、屋上タンクも、屋内消火栓もあった。また外部からの送水も可能だったし、地階の散水設備も充実していた。数十年後のどこぞの国のホテルや旅館やデパートに比べても余程しっかりしているし、またこれは当時の法令の示す基準にもきちんと合致するものだった。

 つまりトライアングル工場火災は、「これだけの設備があれば火災が起きても大丈夫だろう」という行政の予測を遥かに越えていたのである。うんざりするような言い方になるが、いわゆる「想定外」だったというわけだ。

 行政にも、決して落ち度がなかったわけではない。消防設備について言えば、梯子は届かないし放水の水圧も足りなかった。また市の建築課も、アッシュ・ビルの欠陥を認識していながら放置していたフシがあった。

 それでも、結局最終的に起訴されたのは、トライアングル社の2人のオーナーだった。先に名を挙げたアイザック・ハリスとマックス・ブランクである。

 法廷では、遺族からの報復を防ぐため、被告人には常に警備がついていたという。

 裁判では、問題を単純化するべく、死亡した1人の女性について争点が絞り込まれた。ワシントン・プレース側のドアが施錠されていたことが、犠牲者の発生に繋がったのではないか――?

 審理は3週間の長きに渡り、証人は155人に上った。

 そして陪審員が、1時間50分の協議の末に出した結論は「無罪」。

 146人の死者が出た事件で無罪の結論を出すというのも、勇気があるというかなんというか、頭の下がる思いである。「あいつら気に入らないからとりあえず有罪にしちまおう」などという判断は下されなかったのだ。

 だがこれは、当時のアメリカ人にとっても意外な結末だったようだ。民衆は怒った。死んだ従業員たちは犬死になのか、冗談じゃないぞ――そしてこの怒りこそが、アメリカの労働政策の改善に繋がっていくのである。

   ☆

 さてここからは、この火災がアメリカ社会に与えた影響について記していくことにする。地味な歴史記述になるので、退屈になりそうな方はここで終わりにして頂いても構わない。

 時間を少し遡り、時は1909年。

 トライアングル社の凄惨な大火災が発生するよりも、2年ほど前である。

 この時期は、シャツブラウスという衣服が女性に人気だった。デザイナーによる魅力的なデザインと、一人一人に寸法を合わせる技術のおかげである。ちょうどこの頃は、女性がどんどん社会進出を果たしており、シャツブラウスはそんな彼女たちの標準的な衣装だった。

 さてそんな中で、トライアングル社は業界でも最大大手のメーカーだった。安っぽくもなく、無駄に高級志向でもないバランスの取れた品質と、それに大量生産の技術がこの会社を成功させたのだった。

 ところがこのトライアングル社、職場環境は劣悪もいいとこだった。工場内は不衛生、サボりや盗みの防止のために窓やドアは釘付け。湿度も高く、そんな中で社員たちは週6回、合計56時間働かされていたのだ。

 また賃金は余分に出ることはなく、縫製ミスがあれば賃金から差っ引かれる。さらに私語、喫煙、鼻歌だけでも罰金を取られるという「ヒジョーにキビシー」状況だった。

 そんな中、ひとつの出来事があった。社員の女性が、労働組合を結成する会合に参加したのである。

 これが、トライアングル社のオーナーのアイザック・ハリスとマックス・ブランクの耳に入ったからさあ大変。会合に参加した女性たちは、職場から閉め出されてしまった。ロックアウトである。

 これに対して、社員の女性たちはさらに反発。ユダヤ系の女性もイタリア系の女性も、この時ばかりは民族の壁を越えて一致団結しストライキに参加した。

 これが、大規模な労働運動に火がつくきっかけとなった。11月には、ニューヨーク市全域の集会場で労働組合の会合が行われ、ストは全ての縫製産業に拡大。今までにないスケールでほとんど冬の間中続けられたという。

 もちろん、雇用者のほうだって黙っちゃいない。当時は「組合潰し」はごく当たり前のことだった。特にトライアングル社のハリスとブランクについて言えば、彼らには警察も味方についている。戦いの準備は万端だった。

 それでも、労働者の抗議活動は止まらない。新聞記者、ソーシャルワーカー、学者から、果ては社会主義思想家やラビなどの僧侶までもがこの運動を擁護。さらに女性労働者によるデモ活動ということで、裕福な女性層も運動を後押しした。

 おそらく、この運動は一部の労働者の単なる思い付きではなかったのだろう。当時の労働者の不満は頂点に達しており、運動が起きるのは当たり前、時代の趨勢だったのだ。

 というわけで、雇用者側も時代の要請に押される形で妥協案を提示した。調停でもって、多くの工場と労働組合が仲直りをし、1910年2月15日にはストライキもほとんど終了した。

 ところが、労使双方の主張がいつまで経っても平行線で、ちっとも示談に至らない会社が13社あった。どれも1,000名以上を雇用する大企業で、その主たるものがトライアングル社だったのである。当時、ある雑誌ではこう書かれた――「トライアングルで始まったストは、トライアングルには勝てなかった」。

 火災が発生したのが、それから1年余り経った頃のことである。

 やるせない巡り合わせだ。労働運動盛んなりし頃はストを潰すために躍起になっていた警官たちも、この火災では労働者たちを弔う側に回ったのだった。

 彼らは、路上に散らばった焼死体が通行人に踏みつけられるのを防ぎ、救急車でもってそれらを運ばせ、それぞれの遺体を棺に入れたのである。彼らの心中にはどんな思いがよぎっていたことだろう。

 そして、裁判で雇用者の2人が無罪とされたことで、市民のやるせない思いは社会運動のほうへと振り向けられることになった。

 ここで登場するのが、フランシス・パーキンスという女性である。トライアングル火災の後、ニューヨークでは工場調査委員会なるものが設立されたのだが、この執行委員に選任されたパーキンス女史は、その後の労働政策に大きく関わっていくことになる。

 この工場調査委員会は、州内におけるあらゆる労働問題の一掃を試みた。とにかく、女性が午前5時に出社して10時間交代勤務していたり、5歳の子供が缶詰工場で働いていたりするこんな社会状況はなんとかしなければいかん、と考えたのである。

 また公聴会を開き、一部の機械の危険性や、適切なトイレ設備が欠如していること、さらに児童労働や病気の蔓延などの問題も証言。そして忘れちゃいけない火災対策についても防火局を設置し、防火安全規則を更新させた。

 こうした流れが、最終的にはアメリカ一洗練された新・労働法の完成へとつながっていき、これは他の州でもお手本にされたという。

 改革に一役買ったパーキンス女史は、さらに州労働局では局長のポストに就き、10年間勤務している。そして、最初はいち執行委員として所属していただけだった工場調査委員会においても局長へと押し上げられたのだった。

 この「押し上げ」を行ったのが、当時はまだニューヨークの州知事だったフランクリン・ルーズベルトである。どうやら、彼はパーキンス女史に絶大な信頼を寄せていたらしい。自分が大統領になると、さっそく彼女を労働長官に任命した。これは女性閣僚としては初めての抜擢だったという。

 ルーズベルト大統領が打ち出したニューディール政策は、かの大恐慌を克服し、アメリカ経済を蘇生させるための一大プロジェクトだった。その中には労働者の待遇改善という問題ももちろん含まれており、ニューディール政策そのものの成否は兎も角としても、パーキンス長官はこの政策の推進のためになくてはならない人材だったのである。

 さてその後、一躍労働長官へとのし上がったパーキンス女史は、講演でこう語っている。

「我々はニューディール政策を公約しているルーズベルト大統領を選んだ。しかしこの政策は、1911年3月25日の恐るべき火災で、哀切極まる犠牲者を多数出したというニューヨーク州の経験がその基盤になっているのである。彼らは犬死したのではない。我々は決して彼らを忘れないであろう」

 火災の犠牲者が、まるで名誉の戦死を遂げた兵士のように語られている。

 実はパーキンス女史は、トライアングル工場火災の惨状を目の当たりにしていたのだ。当時の彼女は、働きながらコロンビア大学の大学院に在籍していたのだが、そんな彼女の目の前で、アッシュ・ビルが火を噴き、そして女工たちがボトボト落下する光景が繰り広げられたのである。これは確かに、政治活動にでも昇華しない限りトラウマになりかねない体験だったことだろう。

 というわけで、もうお分かりであろう。トライアングル工場火災が、その後のアメリカの労働政策に大きな影響を与えたというのは単なるこじつけではない。この火災事故は、その後の国家政策の源流そのものだったのだ。

 そんなこともあってか、この火災事故は今でもかの国で語り継がれている。

 例えば事故の50年後には、今はニューヨーク大学となっているかつての現場に「全国女性縫製労働組合同盟」とやらがブロンズの額を設置している。また、火災の最後の生還者だった女性が107歳で死亡したことも、ニュースで取り上げられたという。

 こういった情勢を見ると不思議に思ってしまうことがある。なぜ日本人は、身内に降りかかった事故災害について、ああもたやすく忘れてしまうのだろう。

 例えば、日本初の高層ビル火災は白木屋火災ということになっているが、これについて語り継がれているのはせいぜい「当時の女性従業員はノーパンだったから避難できなかったらしいよ」というデマばかりである。

 こうした傾向は実に嘆かわしい――と言ったらなにを偉そうにと怒られそうだが、まあでも、やっぱり変えられるものなら変えるに越したことはないよね。こういう精神的風土。

 まあそのへんは、文化や民族性の違いということになるのだろう。アメリカ人にとってはリメンバー・パールハーバーならぬ、リメンバー・トライアングルシャツウエスト・ファクトリー・ファイアといったところなのかも知れない。

「長すぎてタンコブが引っ込んじまったよ!」

 ――というオチをつけられそうな気がしたところで、お後が宜しいようで。

【参考資料】
◆『火災教訓が風化している!①』近代消防社
◆アレン・ワインスタイン、デイビッド・ルーベル『ビジュアル・ヒストリー アメリカ―植民地時代から覇権国家の未来まで』(2010年・東洋書林)

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