◆東北本線・古間木-下田駅間列車正面衝突事故(1916年)

 大正5年(1916年)11月29日の夜のこと。

 この夜、青森県三沢市の古間木駅(現在の三沢駅)に勤務していたT助役は、電信掛のNと共に、駅前の旅館で酒宴の真っ最中だった。ちょうど、しばらく列車の発着がない時間帯だったのだ。

 おいおい、勤務時間中になにやってんの。

 古間木駅にいたY駅夫は、頃合を見て二人を呼びにいった。「くそう、あいつら自分ばっかり飲みに行きやがって」と悪態をつきながら夜道を駆けていった、かどうかは知らないが、実はこの直後、電信掛のNは入れ違いに古間木駅に戻ってきたのだった。

 下田駅側の通票閉塞機の電鈴が鳴ったのは、このNが戻ってきたタイミングでのことだった。

 細かい説明は省くが、この「電鈴」というのは、下田駅が古間木駅に向けて「今から下り列車がそっちに行くぞ」という呼びかけの意味を持っていた。そしてNはいつもの習慣に従って、「了解した」という合図を送った。

 さてこの後、Nが何をしていたのかは、資料の文献を読んでも不明である。帰宅したのか、はたまた泥酔して寝てしまったのか……。とにかく彼がここで「了解した」という合図を送ったことが誰にも伝えられなかったことで、事故は起きてしまうのだった。

 はい、てなわけでNは退場。

 そして次に古間木駅に戻ってきたのが、酒宴から戻ってきたT助役と、彼を迎えに行ったY駅夫の2人である。

 酒宴から戻ってきたT助役は、駅舎で居眠りを始めた。すると間もなく上りの貨物列車が古間木駅に到着し、Y駅夫は助役を起こしにかかる。

Y「助役、起きて下さい。上り列車が着きましたよ」
T「うーんむにゃむにゃ、もう食えねえ」

 ああダメだこりゃ。俺がかわりに上り列車を通過させなきゃな……。と、このような次第で、Yはこの上り列車に通行許可を出すことにした。

 さてここで問題になったのが、さっきNがいじった通票閉塞機である。

 先述の通り、Nは「下り列車がそっちに向かうぞ」という電鈴を受けて「了解した」という返事をしている。それでこの通票閉塞機も、いわば「下り列車が古間木駅に向かってきているモード」になっていた。

 この閉塞機の状態だけを見ると、下り列車がこちらに走ってきていることになる。しかしこの日この時刻に下り列車が来るなんて、Y駅夫はまったく記憶になかった。どうなってんの?

 しばらく首をかしげた彼が下した結論は、こうである。

「ははあ、さてはこの機械また壊れやがったな!」

 そう、この通票閉塞機は前にこんな感じで故障したことがあったのだ。Yはその時の裏ワザを思い出した。そうそう、こういう時はT助役がコイツに針金を突っ込むと直るんだっけ。よしよし。

Y「助役、また閉塞機が壊れちゃいました」
T「むにゃむにゃ。仕方ないな、俺がやってやりるれろ」

 まだアルコールの抜け切らぬT助役は、いつものように針金を曲げて機械に突っ込む。そうして、上り列車が古間木駅を通過できるようにしてしまった。

 かくして古間木駅には平和が戻った……かのように思われたが、それは錯覚であった。上り貨物列車が通過した直後に、一本の電話が入ってきたのだ。それは下田駅のO助役で、「下り列車が古間木に向かうぞ」という電鈴を送った張本人だった。

O「もしもし。なんだ、やっと電話が通じたぞ」
Y「すいませんね、ちょいと取り込み中だったもので。どうかしました?」
O「いやなに、さっきウチのほうから下り列車を通過させるって電鈴を送っただろう? あれが14分遅れでさっき通過したから、念のために連絡をと思ってね」
Y「なにを言ってるんです? 下り列車って、そんなの時刻表にないでしょう」
O「こらこらなに言ってるんだ。今日は23時13分に下りの臨時列車が発車してそちらに行くことになってただろう」
Y「ぐはっ、臨時列車!?」

 そんなの聞いてねえ! 真っ青になるY駅夫。その様子を不審に思ったO助役は、T助役に電話を代わらせた。

T「むにゃむにゃ。おはようございます」
O「なんだ酔っ払ってるのか? なあTくん、今夜こっちから臨時列車がそっちに向かうって話は聞いてたよな? それがさっき通過したから連絡したんだが」
T「ぐはっ、臨時列車! 忘れてた――!」

 たちまち酔いがさめたT助役は、さっきの通票閉塞機のことを思い出したに違いない。あの通票閉塞機は壊れてなどいなかったのだ!

 しかしY駅夫とT助役が気付いた時にはもう遅い。下田駅から走ってきた下り臨時列車は、うっかり古間木駅を通過させられてしまった上り列車と正面衝突してしまった。

 下田ー古間木間は単線で、線路は一本だけだった。つまりこの路線を通れるのは常に上りか下りのどちらか一本だけで、本来は2つの駅で連絡を取り合い、かわりばんこに列車を通してやるべき区間だったのである。

 つまりYとTは、古間木駅でしばらくの間上り貨物列車を待機させるべきだったのである。そして反対方向からやってきた下り列車が古間木駅に到着した時点で上り列車を発進させる。そうすれば駅ですれ違う形になり、上りも下りもなんの問題もなく進むことができたのだ。

 それにしても、コトが発覚してからのYとTの心中は一体どれほどのものだったのだろう。きっと処刑を待つ時のような心地だったのではないだろうか。

 やがて、古間木駅に、自分たちがさっき送り出した上り貨物列車の後部16両が逆戻りしてきた。

 2人はそれを見て事故発生を知った。正面衝突の衝撃で、この後部16両分は連結器からちぎれてしまったのだ。

 死者29名(ネットで検索すると34名、とも)、負傷者171名。下り臨時列車には弘前市の第八師団に入営する予定の壮丁たちが619人乗り込んでおり、その3分の1程が死亡した計算である。

 さてその後の経過だが、とにかく通票閉塞機を不正操作したのは悪質だということで、T助役とYは実刑を食らった挙句に懲戒免職と懲戒解雇の憂き目に遭った。また兵隊の候補者達が多数犠牲になったということで陸軍省も事後処理に大きく関わり、話が相当でかくなったようである。

 ちなみに参考資料『事故の鉄道史』によると、この事故について「通票閉塞機を不正操作したのはT助役である」とはっきり書いてある公式資料は数えるしか存在していないらしい。ものによっては不正操作をしたのが誰なのかがボカしてあったり、ひどいのになるとYに全部罪を擦り付けているのもあるのだとか。

 歴史というのはあちこちで改竄されたり捏造されているものなんだな……と最後に思わされる事故事例である。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

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