◆広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)


 広島県安佐郡(現在の安佐町)・飯室村(いむろむら)に存在する幕ノ内峠は、かつては人々にとっての「障壁」だった。

 とにかく道が悪かったらしい。あるのは粗末なただの山道ばかりで、それもカーブが多く交通の便が悪い。人々もこの峠は使わず、周囲の坊地峠や植松峠という場所を使用していたという。

(飯室村という村名と幕ノ内峠という場所の情報が、ちょっと検索した程度だと表示されないので想像で補うしかない部分もあるのだが)

 飯室村の人々にとっては、やり切れない話である。なにせ人が滅多に通らないから文化の交流も発展もない。明治時代になり、文明開化の波がどんどん地方都市に流れ込んできても、この峠の向こうに住んでいた人々はちっともその恩恵に預かれない。幕ノ内峠をなんとかしない限り、峠向こうの集落はいつまで経っても「隔絶された山村」「陸の孤島」「日本の秘境の地位に甘んじるしかなかった。

 当時のことを知る人たちは、幕ノ内峠の存在によって、峠向こうは10年から20年は文明から取り残された、と語ったという。

「よし、道路を整備するぞ!」

 現状に耐えかねた飯室村の村長が、このような声を上げたのが明治8年頃のこと。とにかく一にも二にも道路である。幕ノ内峠の悪路を改善しなければ地域の発展はありえない。村長は付近の集落にも連携を訴えて、山道の整備に乗り出した。

 とはいえ、実現には紆余曲折あったようだ。ブルドーザーもショベルカーもなかった当時のこと、技術的な問題もさることながら、農地を道路にされるのに反対する農民が竹槍で蜂起し反対運動を起こしたこともあったという。いやはや、ちょっとした羽田闘争である。

 そんなこんなで、ようやく幕ノ内峠に道路が作られたのが明治12年。計画を立ち上げてから4年の歳月が経っていた。

 この道路の全長は一里程度、メートルで言えば4,100ほどだったという。たかが4キロ、されど4キロ。全ての工事が人海戦術であった当時の人々にとっては、血と汗が滲む苦労の賜物であったことだろう。

 しかしこの道路も、昭和に入ると使い勝手が悪くなってきた。とにかく道があるぞ、ということで乗用車が通る。中には大型車もあるし、さらに台数も増えれば、これはもうお手製の山道では話にならない。

 そこで次に計画されたのが、峠にトンネルを通す事業であった。ここで、かつて山道を切り開くために協力し合った村々が再び手を携えることになる。村の指導者も代替わりした中、この工事には1億5千万の予算が注ぎ込まれた。

 おそらくこの山道、昭和に入ると単に交通の便が悪いというのみならず、さぞ事故も多発したのではないだろうか。なぜそう言えるのかというと、トンネル開削工事が進められる中で発生したのが今回ご紹介するバス転落事故であり、しかもその事故までの5年の間にも、すでに7件もの交通事故が発生していたからだ。

 バス事故があったのは1953(昭和28)年、8月14日のことだった。事故の規模としては、当研究室でご紹介しているものの中では地味な部類に入るであろう。だがこうした歴史的背景を知って改めて見てみると、その意味の重さを思わずにはいられない。

 時刻は午前12時15分のこと。70人の乗客を乗せた広島電鉄の大型バスが、幕ノ内峠にさしかかった時だ。極めてデリケートなハンドルさばきを必要とする七曲がりの山道の「魔のカーブ」でのことだった。あと400メートルほどで峠を越えるというところで、ハンドル操作のミスによってバスは転落したのである。

 八丁堀発、三段峡行きの予定だったこのバスは35~40メートルの高さの崖下へ転落。しかも、崖下にはトンネル工事の作業小屋があったというからゾッとする話だ。どうやら直撃は免れたようだし、また盆休みのため小屋自体も無人だったのだが、とにかくその点は幸運だった。

 それでも結果は即死者10名、重傷者38名、軽傷者21名という大惨事である。

 ちょうど盆の季節で、乗客のほとんどは帰省のためにバスを利用していた人々だった。現場には周辺地域の消防団員や機動部隊、さらには自動車会社の職員までもが駆け付け、救助活動が行われたという。

 トンネル開通によって「魔のカーブ」の危険性が解消されようとしていた、そんな矢先に起きた実に不運な事故だった。まるで、カーブに潜んでいた悪魔の断末魔のような惨劇だ。

 それでも――というべきか、それでなお、というべきか――幕ノ内峠のトンネル建設は極めて異例のスピードで行われ、ついに1年5カ月という短期間で完成。これが昭和29年12月1日のことで、これにより山道の危険は完全に除去されたのである。

 涙が出るような話である。筆者は「尊い犠牲」という言葉は、安易に使われがちなゆえにあまり好きではないのだが、このトンネル建設はまさしく「尊い犠牲の上に成り立っている」という言葉がふわしいと思う。生き残った者の努力があってこそ、死者は初めて英霊となるのだ。

 これまでにも、筆者は和歌山の事故や熊本の事故など、道路状況の劣悪さによって発生した事故のことをいくつか記述してきた。しかし、それらの事例を通して「垣間見える」という程度でしかなかった近代以降の地方都市の道路事情が、今回の広島の事故を調べたことで、ようやく少し分かった気がする。

「道路」というごくごく当たり前のありふれたものも、こんなにも多くの犠牲の上に成り立っているのである。そのことについて、我々はもっと思いを深くしてもいいと思うのである。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
ウェブサイト『亀山地域のあゆみ』

back