◆大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)

 読者諸君は「踏切番」という職業をご存じだろうか。

 何もかもが機械じかけで動く現代では信じられないような話かも知れない。昔は、交通量の多い踏切には「踏切番」という人がついており、ハンドルのようなものを回して手動で遮断機の上げ下ろしを行っていたのだ。そして白旗を振って列車を通過させるのである。

 そういえばドラえもんの秘密道具で、小さな遮断機のような形態のものがあったように思うが(「通せんぼう」だったか「ふみきりセット」だったか定かでないが)、たしかそれにはハンドルがついていたはずだ。子供の頃それを見て、なぜ遮断機にハンドルがついているのかと奇妙に感じたので覚えているのだが、今にして思えば、あれは「踏切番」がいた頃の遮断機をイメージして描かれたものだったのだろう。

 今回の事故は、その「踏切番」にまつわる事故である。

 時は1950年(昭和25年)12月18日に起きた。時刻は不明である。

 場所は埼玉県大宮市、土呂の原市街道という場所にあった東北線の踏切でのこと。大宮発、原市町行きの東武中型バスがそこを通過しようとしたところ、時速80キロでやってきた列車と衝突したのだ。

 この事故によってバスは200メートルも引きずられ、乗っていた13人が死亡した。当時乗っていたのは運転手と車掌を合わせて15人だったというから、ほとんどが死亡したのだ。情報の少ない事故ではあるが、バスは相当の衝撃を受けたものと思われる。

 衝突した列車は、郡山発上野行き122列車。詳細は分からないが、どうやらくだんの踏切番が遮断機の操作にもたついてしまったらしい。そこへバスがやってきて、遮断機の下り切っていないのをいいことに突っ込んでいった結果、大惨事となったのだ。当時このバスは発着時刻に遅れが出ており、運転手は焦っていたという。

 おそらくこの事故に触発されたのだろう、12月23日の産経新聞の朝刊には「危ない踏切の現状」という記事が掲載された。

 それによると、当時の踏切番というのは、多くの場合、家族と一緒に「踏切小屋」という小屋に住んでいたという。かつて列車の保線の仕事をしていた人が、年を取ってこの職に就くケースが多く「安月給」だった(※)。

(※)参考資料には「踏切番の仕事は安月給で勤続20年でも家族5人で手取り8000円」とあるが、現代の目線から見ると安いのかそうでないのかいまいちよく分からない。まず給与の相場が分からないし、家族全員で働いているのかも不明だし、金額も月給なのか年間手取りなのかが明示されていないからだ。

 また仕事内容も、なかなかの重労働だったと思われる。24時間勤務で2交代制、踏切では列車が近付いてくるとベルが鳴ることになっているが、鳴らないことも多かった。よって実際には立ちっぱなしで、列車が来るかどうかは肉眼で確認していた。

 そして多くの踏切番は、この仕事をしつつ内職も手がけていたという。

 こういう書き方はアレかも知れないが、踏切番というのはいわゆる「底辺の仕事」だったのだろう。

 もっとも現代は現代で、踏切ではなく駅のホームや駐輪場で、人材センターあたりから派遣されてきたと思しき「見張り」の方々をよく見かける。そこらへんは踏切番とはちょっと違うけれど、とにかく駅といい踏切といい、鉄道というのは常になにかしらの「見張り」を必要とするものなのかも知れない。

 いかん、踏切番の話をしていたら、バス事故よりも鉄道事故の話のようになってしまったな。

【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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