◆横須賀トレーラーバス火災(1950年)

 1950(昭和25)年4月14日のことである。

 場所は神奈川県横須賀市。もっと詳しく書くと、横須賀市林5丁目11番地の国道134号線でこの事故は発生した。午前11時30分頃、走行中の大型バスがいきなり火を噴いたのだ。

 このバスは京浜急行が運行する「トレーラーバス」と呼ばれる乗り物で、横須賀駅を出発して京急三崎口へ向かっていたところだった。火災発生時の乗客は50人ほどで、うち16~17人が即死した。『横須賀市史』では19人とも記述されているらしく、おそらく後で死者が増えたのだろう。

 生存者の証言から、出火原因はすぐに判明した。時代を感じる話で、乗客の一人が闇売りの目的でガソリン缶を持ち込んでいたのだ。これに、別の乗客がポイ捨てしたタバコが引火したのだった。

 当初、ガソリン缶には「こも」がかぶせてあった。また車内はなんとなくガソリン臭かったという。これに引火し、持ち主は慌てて缶を窓の外に捨てようとしたが、うまくいかず床へ落ちた。悪いことに車内は木造で、火炎はすぐに飛散した。

 当時、客車には車掌がいたし、運転席に連絡するためのブザーも設置されていた。しかし、半ば想像になるが、ガソリンによる火災となると火の回りもあっという間で、車掌も乗客もブザーを押す余裕がなかったのではないだろうか。運転手は火災に気付かず、火の車になったバスはしばらく街の中を走り続けていたという。

 通報を受けた警察、消防団、そして進駐軍が現場に駆けつけた。出火したバスはこの時すでに消し墨状態で、焼死者はもはや男女の区別も判然としなかったという。負傷者は、病院や交番や付近の民家に担ぎ込まれて治療を受けた。そして冒頭に書いた通りの犠牲者数となったのだった。

 ここまで被害が大きくなったのは、当時の交通・輸送の事情と、それにトレーラーバスそのものの構造にもその原因があった。

 ここで改めて「トレーラーバス」について解説しよう。あまり興味がないという方は、あとはすっ飛ばして本稿の最後の三段落だけ読んでいただければOKである。

 そもそもトレーラーバスとは何なのか。これは、運転席である先頭車両と荷台の部分が切り離せるようになっているタイプの「貨物牽引車両」の一種である。

 貨物牽引車両の具体例としては、セミトレーラーを想像してもらうと一番分かりやすいだろう。現在の日本の公道でも普通に走っている、運転席後ろの荷台部分に貨物を乗せて走るあのでっかい車だ。トレーラーバスもああいう感じで、先頭の運転車両が、車輪付きの客車や荷台をゴロゴロと引っぱって進むという乗り物だったのだ。

 今、筆者の手元には当時のトレーラーバスの写真がある。なるほど、犬の頭のようなボンネットトラック形状のトラクターヘッドが、電車の車両にしか見えない巨大な箱型の客車(トレーラー)部分を牽引しており、なかなかユニークな形である。

 現代の目線で見れば、ずいぶん変わった形態である。なんでこのようなバスが運行されていたのだろうか?

 終戦直後は、いかにスピーディに大量輸送を行うかが最重要課題だった。なにせ戦争により国土は荒廃し切っている。交通機関も同様だ。復興のためには少ない車両や船舶で多くの人や物を運搬しなければならないのに、戦時中の酷使と整備不良のため乗り物は何もかもボロボロで、しかも占領軍による物資統制のため修理もままならない。このような状況下で、バス製造業界は「大型化」という形で課題に応えたのだった。

 さっそく開発に乗り出したのが日野産業(現・日野自動車)である。当時の大久保正二社長が、アメリカ軍のトレーラートラックを見て閃いたそうで、旧日本陸軍が装甲車で使っていた「統制型」水冷6気筒ディーゼルエンジンとその改良型エンジンを流用し、トレーラートラックT10/T20型を開発したのだ。

 さらに、それをベースに1947(昭和22)年の秋頃には富士産業(現・SUBARU)がトレーラーバス製造を始めた。エンジン以外にも、軍用車両の部品がいろいろ使われたようだ。

 大量輸送時代のニーズに応える切り札の登場である。全長14m、出力115hp、100人乗り。輸送力は当時の一般的なバスの約三倍で、国鉄バス以外にも東京都や大阪、仙台、京都など主要都市の市交通局、さらには東急や小田急、京王、京阪、近鉄、西鉄などの鉄道系バス事業者がどんどん採用していった。

 トレーラーバスは、戦後の象徴と呼ばれてもおかしくない勢いでたちまち普及し、通勤通学客の大量輸送手段として全国で活用された。でかぶつの割に小回りが利くのも良かったし、フルエアブレーキのおかげで扱いやすく、巻き込み事故防止のため左ハンドルだったという。

 しかし、今回ご紹介した火災事故では、トレーラーバスの構造的欠陥が被害を大きくする結果になった。先述した通り、このバスは運転席にあたる車両が客車を牽引するスタイルで、両車は完全に分離している。よって、客車でトラブルがあっても運転手は気付きにくいのだ。火災発生後も、しばらくバスの運転が続いていたのはこのためである。

 その後、トレーラーバスは急速にその姿を消していった。歴史的には、単体型バス(運転席と客席が一緒の車両にある、今の形態に近いバス)の大型化が進んだことで、あまりにも特殊な造りだったトレーラーバスは次第に持て余されるようになった……と説明されているが、今回ご紹介した事故も間違いなく遠因の一つだっただろう。

 それでもしばらく需要自体はあったようで、1956(昭和31)年頃までは運用されていたらしい。10年という活動期間は長いんだか短いんだかよく分からないが、とにかくトレーラーバスは時代の徒花だったのだろう、記録もあまり残っていないという(補足になるが、今も西東京バスではトレーラーバスが運行しているらしい)。

 とはいえ、バスによる大量輸送をいかに効率よくこなすか……という課題は、時代を越えて今も引き継がれている。筆者も最近まで知らなかったのだが、令和の現代には「連節バス」というものがあるそうな。二台の車体が繋がることで倍の収容力を持つバスのことで、主要都市での運用が増えているという。これなんかは、トレーラーバスの子孫と言ってもいい気がする。

 また、ご紹介したこの火災事故は、関係法令の改正のきっかけにもなった。まずガソリン類を始めとする危険物を車内に持ち込むことが禁止され、さらに乗車定員が29人以上のバスには非常口の設置が義務付けられたのだ。この非常口は、今もバスに乗ると普通に見かける。

 しかし、その後も、バス内で危険物に引火して大事故に至るケースは後を絶たなかった。現在のように、人々が当たり前のように安全にバスを利用できるようになるには、もう少し時間が必要だった。

 現場には、事故発生から四か月後に「殉難者供養塔」が建てられた。バスを運行していた京浜急行の関係者が、今も慰霊法要に訪れるという。

【参考資料】
◆鈴木文彦『日本のバス年代記』グランプリ出版(1999年)
◆社団法人日本バス協会『バス事業100年史』(2008年)
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◆ウェブサイト『乗りものニュース』「戦後復興を支えた「トレーラーバス」なぜ消えたのか 小回り抜群 100人乗っても大丈夫!」
◆ウェブサイト『知の冒険』
◆ウェブサイト『三浦半島へ行こう!』
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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