◆北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)

 襟裳岬からみて、国道336号線を北西へ走っていくと、海沿いに平宇という地域がある。

 北海道様似郡様似町平宇――。

 今回ご紹介するのは、この町で発生した事故である。終戦直前のタイミングだったため、おそらく中央ではほとんど報じられることのなかった「知られざるバス事故」だ。

   ☆

 1945(昭和20)年3月21日のことである。

 お昼を少し過ぎた頃、一台のバスが、北海道様似村(現在の様似町)平宇の国道・省営自動車日勝線を走行していた。

 このバスは当時の鉄道省が運営していた、いわゆる省営バスである。営業が始まったのは昭和18年8月1日と、ついこの間だった。

 終点は、幌泉村の庶野という地域だ。地図で言えば、様似村から襟裳岬の北側を横断するルートである。

 さて、このバスの状態が問題だった。定員29名のところに、乗客乗員合わせて48人が乗り込んでいたのだ。完全に定員オーバーの鮨詰め状態で、まずはここからしてアブない雰囲気である。

 こんな乗車率になったのには理由があった。バスの運行時刻に遅れが出ていたのだ。

 少し詳しく書くと、もともとは、幌泉からの上りバスが本様似まで来て折り返して、それで下り便となり、幌泉行き日勝線旅客第5便に切り替わるというのが本来のダイヤだった。だがこれに遅れが出てしまったため、下りバスが急遽手配されたのである。この下りバスが途中で上りと出くわせば、乗客に乗り換えてもらうという手筈だったそうな。

 ではその上りバスの「遅れ」はなぜ生じたかというと、その原因は戦時中ゆえの物資不足にあった。当時はろくな燃料がなく、ガソリンよりもはるかに馬力の劣る「ガス」でバスを動かしていたのである。

 それでも、ガスボンベでも搭載していれば少しはさまになったかも知れない。ところがこの当時のここいらのバスは、車両後部で薪を焚き、そのガスで走行するという代物だったのである。いわゆる代用燃料車だ。

 この代用燃料車の馬力のなさといったらもう笑ってしまうほどで、バス会社の開業初日からしてトラックで牽引しながらエンジンをかけたほどだったという。また坂道では乗客が押すこともあったとかで、これではダイヤに遅れを出すなというほうが無理な話だ。

 とことん、モノが不足していた時代だったのだ。燃料の問題はさておいても、バスそのものも故障続きだったというから、こういっちゃなんだがもともと不良品というか粗悪品だったのだろう。

 このような事情もあって、ようやく準備された下りの代行バスに、待ちかねた乗客たちは我先にと乗り込んだのだった。人々の中には、出征兵の送別客も大勢いたという。

 これだけでも、いつ大事故が起きてもおかしくない状況である。だが問題は他にもあった。当時このバスには、当研究室の読者ならば「あ~あ」といいたくなるようなブツが搭載されていたのだ。

 そのブツとは、映画のフィルムである。

 どうもこの頃のバスは、こうした物品の運搬も請け負っていたらしいのだ。当時のことを知る方の話によると、法律で決まっていたかどうかは不明だが、限られた物品をバスで運ぶことは確かにあったという(また戦後の一時期も、手荷物程度のものならば切符を切って運搬することもあったそうだ)。

 そして、これは「こち亀」でも描かれていたことがあるが、戦前から戦後にかけて使用されていた映画のフィルムというのは、発火しやすい危険な素材でできていたのである。これの発火による事故事例は、当研究室でもいくつかご紹介してきた。

 このとき運搬されていたのは、35ミリフィルムが18巻。浦河大黒座から、幌泉の松川座へと運ばれる予定だった。

 フィルムは、平素は運転手の左横の位置に積まれ運ばれていた。だがこの日は先述の通り大勢の人がドッと乗ってきたため余裕がない。そこでこんなやり取りがなされた。

 駅の係員Tさんは言う。
「車掌さん、フィルムの積み込みをお願いしたいんですけど~」

 だが車掌のSさんはそれどろじゃない。
「あーもう忙しくて余裕ないよ! 運転手に積んでもらって!」

 この二人は女性で、しかもどちらも19歳という若さだった。物資どころか、みんな出征して人材も不足していたのだろう。
        
 一方、運転手は20歳の男性である。上位職なので「何やってんだ早く持ってこい」と声を荒げたか、あるいは女性二人の困っている様子に「オオ、どらどらもってこい持って来い」と様似弁で引き受けてくれたか……。

 ともあれ、運転席側の窓を通して、フィルムは受け取られた。そして積まれたのが運転席右横のバッテリーの上だった。

「なんでそんなところにバッテリーが?」

 その疑問はもっともである。そう、バッテリーは普通ならそんな場所にはない。このバスにおいても、本来ならば床下にあるべきものだった。だが当時は度重なる故障と修理のため、たまたまそこに裸で置かれていたのだ。

 また、フィルムの状況もよくなかった。普段は麻布袋で梱包されるところが、この時は映画ポスターでくるまれ、荒縄で十文字に縛られただけだったという。つまり熱を通しやすい状態でバッテリーの上に置かれてしまったのだ。

 この時の措置について、救出された車掌は後になって「先に新聞を積めばよかった」と回顧したという。「フィルムが安全な所に置かれたのを確認しないで『発車願います』と言って出発させた私が一番悪かった」――。

 こうしてバスは出発し、惨劇が起きたのは平宇を過ぎたあたりでのことだった。おそらく爆発音だろう、「大きな音」と同時に、フィルムが入れられていたブリキ缶が吹き飛んだのだ。梱包していた紙も燃え出した。

 わわわわ、こいつは大変だ! ――運転手は、慌ててフィルムを外へ投げ出そうとした。手掴みでやろうとしたのか、そのへんは不明だが、とにかくバスをきちんと停止させる余裕もなかったのだろう。ハンドルを取られてバスは横転、国道の築堤からはみ出すと、1メートルほどの高さを海浜に落下した。

 車内に乗客の悲鳴が響き渡る。さらに、横転のため脱出が困難になっていた車内では、発火したフィルムが蛇のように飛び散った。一部の乗客は衣服に着火し、たちまち煙が充満。この世の地獄である。

 鉄道事故の項目で安治川口ガソリンカー火災を紹介したが、あれと似た状況である。あのケースも、車両の横転に火災が加わったため大惨事になったのだ。

 事故を最初に発見し、通報したのは近くで遊んでいた子供たちだった。石蹴りをして遊んでいたところ、バスが黒煙を上げて燃えていたのだ。

 ただちに大人たちが駆け付け、救助活動が行われた。

 ちなみに、この事故の情報を筆者に提供して下さったIさんという方がおられるのだが、その奥様が当時現場にいたという。小学3年生で、第一発見者の子供たちの一人だった。救助活動の修羅場の中で立ち竦んでいたのを今でもご記憶されているそうだ。

 また、当時やはり子供だったIさんご自身も、病院での惨状を目の当たりにしている。そこは現場から4~5キロ離れた本様似の病院で、怪我人たちがかつぎ込まれていたのだった。その時の状況について、せっかくなのでメールで頂いた言葉をそのまま引用させていただく(文法的なところでちょっとだけ修正した)。

「太田、高田両病院の待合室、廊下はおろか玄関口まで30人の重傷者があふれ、爪や髪の毛の焼ける臭い、焼け焦げた衣服、熱さと痛さに耐えられず震え、痙攣を起こし、体を折り曲げてうめき声を発している阿鼻叫喚の惨状を記憶しております。」

 悲惨極まりない。たくさんのバス事故を紹介していると、事故事例それぞれの個別の悲惨さについてつい忘れがちだが、それを改めて自覚させてくれるような証言である。

 最初に火災に気付き、フィルムを投げ捨てようとした運転手も、ひどい火傷を負った。彼はそれでいながらも乗客の救助にあたり、翌日に亡くなっている。

 最終的には17名が死亡、13名が負傷した。国鉄の年表によっては死者13名と記録されているのもあるそうだが、これは死者が増える過程での数字だったか、あるいは負傷者数と間違えたか。

 さて、気になるのは補償である。

 一応、事故直後にはそれなりに支払われている。内訳は札幌鉄道管理局から50円、浦河駅長の名で20円、退院時の付き添い料が400円というものだった(被害者たちに一律に支払われたのかどうかは不明)。

 またさらに、それでは納得いかないと、10年後の昭和30年に被害者の一人が補償交渉を行っている。しかし国鉄様似自動車区に乗り込んだはいいものの「水掛け論」に終わってしまい、追い払われる形になってしまったとか。

 事故の情報をご提供下さったIさんも、またその周囲におられるという関係者の皆さんも、裁判が行われたという記憶はないそうである。

   ☆

 冒頭に書いた通り、筆者はこの事故のことをまったく知らなかった。中央の新聞で報道されていなかったためだ。

 だが一切報じられなかったわけでもない。Iさんから頂いた情報によれば、当時の北海道新聞の昭和20年3月23日付の記事で、「様似、幌泉間で満員自動車顚覆死傷者30名」という見出しで以下のように報じられているという。

「(札鉄局発表)21日12時50分省営自動車日勝線旅客第5便様似より幌泉方面に運転中車内に発火し急拠制動手配したるも右方にそれ高さ1メートルの築堤から海浜に横転し即死3名負傷者27名を出せリ、運転手は負傷したるも付近の部落民と協力救出につとめたるのち目下危篤状態にあり、原因取調中」

 記事にはさらに「5名死亡」という小見出しがあり、「右事故による重傷者は様似村太田、高田両病院に収容手当て中である死者次の如し」そしてその5名の住所と氏名が続いているという。

 よって、地元では知られているのだろう。「北海道の平宇でこういう事故があったよ」とIさんから指摘を頂いたのだった。これがなければ、筆者は永久にこの事故を知らなかったかも知れない。

 Iさんによると、赤旗新聞の付録として発行されていた「様似民報」に、この事故のドキュメントが連載されていたのだという。

 これは森勇二という郷土史研究家がまとめたもので、連載は1985(昭和60)年3月から2年に渡っていた。Iさんは図書館でそれを確認しながら当時の記憶を解きほぐし、筆者へ情報を提供して下さったのだった。

 ご協力頂いたIさんには、この場を借りて御礼申し上げたい。少しでも、事故の記憶の風化防止に役立てば幸いである。

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