◆白木屋火災(1932年)

 白木屋百貨店で起きた火災は、日本で最初の高層建築物火災である。

 寺田寅彦は「火事教育」という文章の中でこう書いている。

「旧臘(きゅうろう)押し詰まっての白木屋の火事は日本の火災史にちょっと類例のない新記録を残した。犠牲は大きかったがこの災厄が東京市民に与えた教訓もまたはなはだ貴重なものである。」

  時は1932(昭和7)年1216日、午前915分~18 分頃のこととされている(もう少し早かった、という説もある)。現在の東京都千代田区にあたる、東京都日本橋区銀座本通りにあった白木屋百貨店で火災が発生した。

 火元は、4階の玩具売場である。

 この日は午前9時に開店し、店内では歳末大売り出しに加えてクリスマスセールが行われていた。その中で、一人の男性従業員が、踏み台に上って飾りの豆電球をいじっていた。そこは開店前の点検で調子が悪かったのだ。ところがここでソケットと電線が接触してスパークを起こし、火花が近くのクリスマスツリーに飛び散った。

 さらに、クリスマスツリーのそばにはキューピー人形が、また少し離れたところには200メートルに渡っておもちゃが並んでいた。悪いことにこれらは全てセルロイド製だった。戦後にかけて幾度となく火災を引き起こし、ついには規制対象となったあの恐るべきセルロイドである。

 炎はこれらに燃え移りあっという間に拡大。この階には当時、従業員と客あわせて55名がおり彼らは急いで避難した。

 時代が時代なので、防火扉やスプリンクラーなどという気の利いたものは存在しない。エレベーターや階段を伝わって、程なく火元の4階から最上階の8階までが猛煙と熱気に包まれた。

 店員による消火活動も行われた。各階で、合計19カ所の屋内消火栓が使われたが、とにかくセルロイドの燃え方が激しかったのと、うまく使いこなせなかったなどの理由から初期消火は失敗した。

 寺田寅彦は、さらにこう書いている。

「実に幸いなことには事件の発生時刻が朝の開場間ぎわであったために、入場顧客が少なかったからこそ、まだあれだけの被害ですんだのであるが、あれがもしや昼食時前後の混雑の場合でもあったとしたら、おそらく死傷の数は十数倍では足りず、事によると数千の犠牲者を出したであろうと考えるだけの根拠はある。」

  寺田の言う通りである。出火したのが開店直後だったので、店全体で見てもお客が100名前後しかいなかったのは不幸中の幸いだった。だが火元の4階よりも上には呉服売り場があったことから多少はにぎわっていたというし、従業員は全館で千六百名いたという。なんにしてもかなり危険な状況だったのだ。

 ちなみに、寺田の「予言」が的中した事例が、白木屋火災の約40年後に発生した太洋デパート火災である。さすがに数千とまではいかなかったが、死傷者は確かに白木屋の数十倍に及んだ。

 さて、消防への通報は出火から7分後のことで、資料によると925分だったという。同時に、日本橋消防署の望楼勤務員もこの火災を発見している。

 署はただちにポンプ車など5台を出動させた。途中、千代田橋を渡る頃には4階以上の各階から黒煙が吹き出し、現場に着くと窓から炎が出ていたという。

 この後もポンプ車20台以上とハシゴ車3台、消防官約600名が出動した。さらに近衛連隊から35名の軍隊と軍用機7機も現場に駆け付けた。

 だがしかし、白木屋百貨店は地上8階地下2階、延床面積34,300平方メートルという当時としては最大規模の高層建築である。そんな場所での消火・救助活動は誰にとっても初めてのケースだった。先発隊が進入するも階段は4階止まり。上階へホースを伸ばしていく作業は手間取り、頼りのハシゴ車による救助やポンプ車による放水も45階までが限界。手に負えない。にもかかわらず、各階のバルコニーでは大勢の人が助けを求めている――

 消防隊は人命救助に注力することにして、ハシゴ車、救助袋、救助幕、ロープを活用し最終的に395名を助け出した。また、これ以外にも階段を使って自力で脱出した人は1171名。さらに雨どいや旗竿、反物、帯、ロープ、避雷針のワイヤー、煙突などを伝って脱出を試みた者は43名いたが、このうち8名が失敗して墜死した。窓から飛び降りた者も5名おり全て死亡している。

 出火後の店内はどんな様子だったのだろうか。まず、防火区画などが存在しない開放的な造りだったことから、炎と黒煙と有毒ガスが一気に上階~屋上へ及んだのは上述の通りである。当時の建築雑誌はこの状況について「建物全体が一つのカマドであった、山積みした無数の商品は極めて高価な燃料であった」と表現したという。

 もう少し詳しく書くと、各フロアは平均1015分ほどで火の海になり、46階はトイレを除いてほとんど全焼。7階は食堂が全焼したものの、それ以外は消火活動が奏功し内装と商品が焼けるにとどまった。

 避難者の行動についてはかなり詳しく調査が行われている。火元が4階だったことから3階以下の従業員は余裕があったらしく、消火や救護を手伝ったり商品や書類を整理したりしてから避難している。

 火元の4階では、火災発生現場に居合わせたあの男性従業員が初期消火中に死亡した。それ以外で4階以上にいた人々の多くは、階段でただちに地上へ避難するか、いったん屋上へ逃げてから地上へ降りるというルートで脱出したようだ。

 最終的な死者数は14名、負傷者数は130名に上った。

 もう少し詳しく死者の内訳を見てみよう。まず、このうち8名は女性で、これは先述した「脱出中の墜死や飛び降り」と重なる。中でも大の仲良しだったという2名は、煙に追い詰められたところで名前を呼び合って投身したという。

 この他、3名は帯などを結び付けた命綱でもって脱出を試みたが、煙に巻かれて落下。2名はロープを使ったものの、途中で建物のブリキに引っかかったり火災の熱で焼き切れるなどして落下した。1名は雨樋を伝っていったが途中で力尽きている。

 真偽のほどは定かでないが、当時の野次馬の中には「激励」して投身を促した者もいたらしい。寺田はこれを「白昼帝都のまん中で衆人環視の中に行われた殺人事件」と憤りを込めて非難している。

 火災がほぼ制圧されたのは午前11 40 分頃で、12 30 分には鎮火した。出火後、23時間半で鎮火したわけだが、当時は「遅い」と批判もあったとか。戦後の高層建築物火災の例と比べれば異例の速さのような気がするのだが。

 この火災によって、いくつかの問題点が浮き彫りになった。参考資料『火災安全工学』で挙げられている内容は以下の通り(少し省略して手を加えている)。

 

耐火構造といっても必ずしも耐火的ではなく、全面火災になりうる。

当時は防火区画の概念も法的規制もなく、建物の間仕切の多くは木造だった。一部に設けられていた防火扉やシャッターも白木屋では閉鎖されなかった。階段室の多くも煙道となって避難の役には立たなかった。

白木屋は火災の2週間前に防火避難の訓練を行なっているが、実際には初期消火に失敗している。訓練の内容か消火栓の設置規定のどちらかに問題があったのではないか。

警報設備や避難器具がなかったのも、多くの死亡者を出す要因となった。

消防はハシゴ車、放水銃など消防機材の用意が不十分。

 

 以上の点を踏まえて、建築学会は機関誌『建築雑誌』に詳細な記事を特集し、火と煙から防護された避難階段やスプリンクラーの必要性を強調した、という。

(実を言えば、『火災安全工学』の記述だけだと、上述の問題点が指摘された時期や『建築雑誌』で特集記事が書かれたのが当時のことなのか戦後のことなのかよく分からないのだが)

 

   

 

 さてここで話は変わるが、白木屋百貨店の火災と言えばすぐに「女性の下着」に関するエピソードを思い出す方も多いと思う。曰く、

「明治以降の日本で、女性が下着を履くようになったのはこの火災がきっかけだった」

 というやつである。

 どういうことかというと、当時の女性たちは和装が主だった。よって腰巻を使うことはあっても現代の「パンツ」にあたる下着をつける習慣はなかった。白木屋火災で亡くなった女性従業員たちは、地上の野次馬から陰部を見られるのを恥ずかしがってロープから手を離したのだ。で、この火災がきっかけで、世の女性たちはパンツを履くようになったのである――。という話である。

 まあ都市伝説のたぐいである。先に書いたのを読んで頂ければ分かる通り、亡くなった女性たちの中に「野次馬から覗かれるのを気にして転落した」という者は一人もいない。少なくとも伝説を裏付ける証拠はない。

 とはいえ、火のないところに煙は立たぬ。この都市伝説はどうして生まれたのだろうか。

 この謎については、井上章一が『パンツが見える。羞恥心の現代史』で解明を試みている。そこでの検証内容をかいつまんでまとめると以下のようになる。


命からがら脱出した女性たちに、覗かれることを気にする余裕はあっただろうか? 比較的低い階にいた女性たちならば避難中にも気持ちの余裕があったかも知れず、両者がごっちゃになったのではないか。

当時の白木屋の責任者が、後に「死者が出たのは下着をつけていなかったせいだ」とコメントしてさり気なく責任逃れを図っている。これが誇張されて後世に伝わったのではないか。

もともと、当時は女性の服装が和服から洋服へと移行し始めた時期だった。その時代状況と、たまたま発生した白木屋火災の噂がうまく結びついたのかも知れない。

「ノーパンの女性が恥じらいのあまり転落死した」というエピソードは印象に残りやすい。


 ――とまあ、こんな具合である。ちなみに、別の資料によるとパリにも全く同じ都市伝説が存在するそうだ。

 筆者としての考えを思いつくままに書くが、実際のところ、事故や災害によって人々の意識が変わることは多い。だから火災時に起きたことの真偽はともかくとしても、この火災事故から生まれた都市伝説が無意識のうちに女性たちにインプットされて、それに洋装の流行が重なったことで、後になって「女性の下着文化」が生まれた……ということはあり得ない話ではないと思う。

 また、事故災害史をだらだら調べていると「どういう失敗によって事故が起きたか」はよく記録されているが、「この事故によってどういう設備が設置されたか」とか、「どういう法律が制定されたか」「どういう良い習慣が広まっていったか」ということは、意外と記録されていないことが多い。記録はあっても、片隅に記載されているだけとか、一部の専門家が覚えているだけというケースがよくある。

 井沢元彦の『逆説の日本史』には「過去の時代に当たり前だったことはわざわざ記録には書かれない」という考え方が出てくる。確かにそうだ。すると、事故災害によって世の中に生じた「良い変化」も、時代を経て「当たり前」となって、ついには起源が忘れられて記録にもほとんど書かれなくなってしまうものなのかも知れない。

 だから筆者は、白木屋火災にまつわる都市伝説が本当なのかどうか――よりも、仮に本当だとしてもそれがもはや都市伝説化しており確認のしようもない、という構造の方に興味が湧く。これは事故災害による「教訓」やそれに基づく「改善」が歴史的にあったとしても、その事実はいずれは忘れられる運命にあるということを示しているのではないか。

 もっとも、「教訓」「改善」だけが忘れられるわけではない。過去の事故災害事例じたいが、基本的にはどんどん歴史の流れの中で埋もれて忘れられていくものだ。で、たまたま思い出した人や興味関心を持っている一部の方は、ときどき当研究室を覗きに来てくれるということなのだろう。

 白木屋火災とパンツの都市伝説のつながりはまあどうでもいいのだが、単なる「事故災害史」だけではなく「事故災害による世の中の改善史」というのがあったら面白いと個人的には思う(もうあるかも知れない)。

 

   

 

 最後に、白木屋百貨店にまつわる話をいくつか。

 もともと白木屋は江戸時代から続く呉服屋の老舗で、大名や奥方なども利用する由緒正しい大企業だった。

 しかし昭和に入ってからはこのように火災が起きたり、一部の強欲な実業家から株を買い占められて乗っ取られそうになるなど、その後はけっこう苦労している。

 そんな経過があり、最終的には東急グループに吸収され「東急百貨店日本橋店」としてしばらく営業していたが、1999(平成11)年にはこれも閉店し、ついに創業以来350年の歴史に幕を閉じた。

 で、今ちょっと書いた、白木屋を乗っ取ろうとした「一部の強欲な実業家」というのが誰なのかというと、これが横井秀樹氏なのである。後年に大火災を引き起こしたホテルニュージャパンのオーナーだった人物だ。この人も、なんだかやけに火災に縁のある人生である。

 あと、これは火災とは無関係だが付け加えておこう。

 白木屋火災からさかのぼること約6年、1926(大正15)年923日に、山陽本線で特急列車が脱線転覆するという事故が起きた。

 この事故を起こした「特急列車一・二列車」の車両が、4年後の1930(昭和5)年に木造車両から鋼製車両へと造り替えられたのだが、この時に一等展望車の内装デザインのひとつとして採用されたのが「白木屋式」と呼ばれるものだったらしい。白木屋百貨店が建てられたのがちょうどこの頃で、建物の中で似たデザインを使っていたのだとか。

 火災に都市伝説、いわくつきの実業家との関係、ホテルニュージャパン火災、大正時代の鉄道事故……。白木屋は、さまざまな案件とゆるいつながりがある奇妙な企業である。見方を変えればそれは、この企業がかつて誇っていた知名度の高さや影響力の大きさを示しているのだろう。

 日本で最初の高層建築物火災を引き起こし、後世まで教訓と都市伝説を残したのも、そんんな白木屋なればこそ、なのかも知れない。

【参考資料】
岡田光正『火災安全学入門ビル・ホテル・デパートの事例から学ぶ』学芸出版社、1985
井上章一『パンツが見える。――羞恥心の現代史』朝日選書、2002
『寺田寅彦全集』岩波書店、1976
ブログ『真があって運の尽き「白木屋火災で逃げられなかったのはノーパンだったから……ではない!」』
ウィキペディア

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