◆イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)

 イノバシオン百貨店火災は、岡田正光氏による『群集安全工学』『火災安全学入門』2冊の本で紹介されている。このことからも分かる通り、火災+群集事故のコラボで大惨事に至った事例である。しかもデパート火災としては世界一の死者数だ。

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 1967(昭和42)年5月22日。ベルギーの首都・ブリュッセルにあるイノバシオン百貨店は、大勢の人でにぎわっていた。

 この百貨店は1919(大正8)年に創立。当時のベルギーの大手百貨店のひとつで、RC造6階建て、延床面積は9,500平方メートル。従業員は1,200人おり、パリにも店舗があったというから、かなりイケイケである。 

 時刻は13時半頃。店内には約2,500名のお客がいたと考えられている。特に、4階の食堂は350席あるテーブルがほぼ満席だった。

 日本人の感覚だと、「えっ、なんで昼休みの時間を過ぎてるのに食堂にそんなに人がいるの?」と思うところだ。どうも、ベルギーの生活時間というのはラテン系だそうで、それで13~15時が昼休みになっているのだとか。

 ここで火災が起きる。火元は2階だった。婦人服売り場の、天井近くにぶら下がっていた少女服のあたりが燻っていたのだ。発見したのは女性店員だった。

 いけない、火事だわ――! この店員は30メートル離れた消防センターという場所に行き、粉末消火器を持ってきた。周囲には紙製の吊り天井もあり、燃えやすいことこの上もない状況である。早く消火しなければ――。

 だが、時すでに遅し。この時点で、もはや消火器程度では手に負えないほどに燃え広がっていた。

 そこで彼女は消防センターに戻り、火災報知器と非常ボタンで火災の発生を知らせた。時刻は13時34分。初期消火も火災の報知も全部ひとりでやったのだから、大変お疲れ様である。

 この後、非常ベルで事態に気付いた2人の自衛消防隊員が、消火栓からホースを伸ばして消火にあたったりもした。しかし彼らの奮闘もむなしく、炎も煙もひどくなる一方。従業員たちは退却せざるを得なかった。

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 さて、2階で発生した炎は見る間に延焼した。火元のすぐ近くには吹き抜けと階段とエレベーターがあり、火炎も煙も伝播しやすい状況だったのだ。また、当時は「アメリカ週間」としてバーゲンセール中で、ポスターや旗などの燃えやすい飾りがたくさんあった。

 煙は、5~6分で全館に拡がった。信じられないほどの速度である。

 ところでこの建物、消防設備はしっかり整備されていた。消火栓96箇所、消火器450個、煙感知器144個、押しボタン式警報装置60個が設置されており、また消防専従の職員も16名いたという。頼もしい限りだ。しかし資料によると、火災発生直後に、従業員の多くがどのような行動を取ったかは「よくわからない」らしい。ただ、後述するが避難誘導については、店員たちは相当がんばっている。

 明らかな不手際もあった。ベルが鳴動する直前の13時半には、従業員の交代を知らせるベルが鳴っていた。よって、34分の非常ベルもそれと同じものと錯覚した従業員が、騒ぎ始めたお客を「なんでもない」となだめる場面もあったという。

 13時40分に消防の先発隊が到着。この時、既に2階以上は煙に包まれており、おそらく最上階にあったのであろう「吹き抜けのドーム」なるものからも煙が出ていたという。つまり天井に穴が開いたのだ。いわゆる煙突作用で、ますます火勢は強くなっていった。

 1階にいた人たちは全員無事で済んだ。中にはマネキン人形で窓を破った人もいたというから、それなりに難儀もしたのだろう。だがとにかく死者は出なかった。

 問題は火元の2階より上である。中でも、特に大量の死者が発生したのが、先述した4階の食堂だった。結論を先に言うと、この火災全体の死者数は325名に及んだのだが、そのうち8割は、この食堂で「群集事故的逃げ遅れ」により生じたものだった。

 出火当時、この食堂が満席だったことは先に記した。もう少し詳しく書くと、ここはセルフサービス式で、お客は入口から一列で中に入り、カウンターで好きな料理の皿を取って代金を払うというシステムだった。食後は食器をコンベアに置いて、出口から退室する。

 この入口と出口は、部屋に一つずつしかなかった。しかも狭かった。それで濃煙が室内に侵入してきたものだから、お客たちは一気にこの狭い出入口に殺到したのだ。結果、多くの人が人混みに遮られ、出入口に到達する前に煙あるいは有毒ガスを吸ってしまった。死因は、大部分が窒息死だった。

 この階での死者数は260名。参考資料によると、「客は袋のねずみ」状態だったという。

 当時、4階にいて助かった人もいた。部屋の隅に避難用のハシゴがひとつだけ取り付けられており、そこから25名が難を逃れている。また、事務室の方を通って脱出できた者や、飛び降りて外に出た者もいたようだ(もっとも、4階から飛び降りた全員が無事だったとはちょっと考えにくいが)。

 そう、一応避難ルートはあったのである。だが助かった人によると、当時は猛煙で1メートル先も見えない状態だったという。よっぽど最初から避難ルートについて心得があるか、あるいは幸運に恵まれなければ、当時はおいそれと脱出できるような状況ではなかったのだろう。

 その他、参考資料には当時の悲惨な状況もいろいろ書いてある。パニックに陥った人々が、避難通路に殺到して折り重なって死亡したとか、バルコニーから12名が次々に飛び降りたとか、衣服に火がついて逃げ惑う人々がいたとか……。ただ、どれが何階での出来事だったのかはよく分からない。

 気が滅入るような大惨事だが、救助された人も大勢いた。2階のバルコニーに避難した約200名は、ハシゴ車で無事に助けられている。また、店員や消防隊員の中には、窓ガラスを破って突入したり、火傷も厭わずに熱く焼けた階段を通り、店内の人々を救出した者もいたという。

 さらに、隣接するビルのオーナーは、ロープを投げて約20名を救助。消防隊が建物の下で救助幕を広げた時は、多くの市民が協力した。

 そして、この百貨店の店長は殉職している。お客を非常階段へ誘導して25名を助けた彼だが、この誘導のために何度も往復しているうちに店内で死亡したのだ。従業員たちも、上役の指示で避難誘導につとめたというから、こういう場合のための社員教育はずいぶんきちんとしていたようだ。

 そうこうしているうちに、先述した吹き抜けドームが大音響と共に崩壊した。時刻は15時15分。さらに16時頃には、食堂のあるブロックも崩壊。延床面積9,500平方メートルのイノバシオン百貨店は、こうして完全に焼け落ちたのだった。現場は、夜になっても残骸から火炎が上がっていたという。

 ちなみに事故から遡ること31年前には、国立火災予防協会のブルーウェル氏(誰?)なる人は、当時既にこの建物の危険性を指摘していたらしい。参考資料にも、竪穴としての階段とエレベーターが区画されていれば、これほどの大惨事にはならなかっただろうとのことである。やり切れない。

 ただ、建物が造られたのは創立よりも20年ほど前の1901(明治34)年だった。さらに1904(明治37)年以降は5回にわたって改築され、ツギハギに増築。このため、全体の構造も統一性に欠けるところがあったようだ。

 その構造を、簡単に記しておこう。

 まず、本館は6階建てでRC造とSRC造が混在。中央部は最上階まで吹き抜けになっており、てっぺんはガラスの屋根がスライドして開くようになっていた。1~5階が売り場で、地下1階は倉庫と従業員用の控室。そして6階は管理部門である。

 この本館に、さらに4つの建物がくっついている。こちらはRC、鉄骨、レンガ作りが混在していた。

 筆者は建築物そのものの専門家ではない。よって、こうした構造が、火炎の拡大や避難行動においてどう影響したのかはよく分からない。ともあれ、こんな大百貨店も、ひとたび火災が起きればあっという間に消滅するのである。諸行無常。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆岡田光正『火災安全学入門―ビル・ホテル・デパートの事例から学ぶ』学芸出版社、1985年
◆ウィキペディア

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