◆青森県鰺ヶ沢村・雪泥流災害(1945年)

 1945(昭和20)年3月22日のことである。青森県青森県西津軽郡赤石村(現在の鰺ヶ沢町)の大字・大然(おおじかり)地区にて奇妙なことが起きていた。

村を流れる赤石川の水かさが、なんだかやけに少なくなっていたのである。

村の中には、この事態に気付いた者もいた。だがその意味するところまでは誰も思い至らなかったようで、村はそのまま夜を迎える。

そして運命の時が訪れた。その時刻は23時頃から、翌午前3時頃の間といわれている。

実は赤石川の上流では、この冬の豪雪が雪崩かなにかでダムとなり、水の流れを押し止めていたのである。さらに当夜は折からの豪雨で――と、ここまで言えばもう充分であろう。この大雨のため天然ダムは決壊し、大量の雪、土砂、水が村に襲いかかったのだ。

このような水流を、専門用語では「雪泥流」と呼ぶらしい。

直撃を受けた集落は、家も住民も押し流された。大然では13戸、佐内沢という集落では7戸が一瞬にして流されて88名が死亡(87名という記録もある)。内訳は男性が41名、女性が46名。遺体は7月11日になってようやく全て発見されたという。

これだけの人数が死亡し、しかも村落がほぼ壊滅したのだ。国内の土石流災害の被害としてはかなりのものである。だがこの災害、一般的にはほとんど知られていないと言っていい。それは何故か?

答えは簡単で、報道されなかったのだ。

1945(昭和20)年という終戦直前の微妙な時期だったため、少なくとも中央ではまったく報道されなかったのである。おかげで戦後、この災害は地元民しか知らないモノホンの「知られざる災害」として語り継がれることで、辛うじてその記憶が繋ぎ止められていたのだった。

そんな、災害の記憶の「発掘作業」が始まったのが1987(昭和62)年のことである。東奥日報新聞社が「消えた村」と題して、3月16日から26日にかけて、惨劇の顛末を連載。さらに翌年には郷土史家の手によって単行本にまとめられたのだった。

天然ダムの崩壊による洪水、それも雪泥流による被害というのは国内でもあまり例がないらしい。よって、この事例研究は専門の研究者にとっても、また事故災害の記録という観点からいっても、極めて貴重なものであった。

この災害が起きた赤石川の周辺は、もともと地滑りなどの土砂災害が発生しやすい地質だった。このことは前にバス事故の項目でちょっと書いたことがあるが、第三紀層を形成する箇所が多く存在するのだ。

雪泥流はあくまでも雪と水の組み合わせで発生するが、水流が発生すると、途中で土砂などを巻き込んで落下していくことになる。よってそこが脆い地層であれば、被害が拡大するのも当然であろう。

青森県で最初の砂防ダムが設置されたのがこの赤石川だったというのも、決してゆえなきことではないのだ。「青森県砂防発祥地」の記念の石碑もあるそうだが、そこには「雪泥流」という言葉もきちんと刻み込まれているという。

なお、慰霊碑も存在する。なんでも「鰺ヶ沢町自然観察館ハロー白神」なる施設のそばにあるそうで、これは昭和26年11月に建立された。そしてその裏面ではこのような説明がなされているという。

「昭和二十年三月二十二日夜来の豪雨により流雪渓谷に充塞河水氾濫し舎氷雪に埋まり大然部落二十有戸悉く其影を失ふ夜来のこととて死者八十七名生存者僅かに十六名のみ實に稀有の惨事たり爾来七星霜犬方の同情と復員者の苦闘により漸く復典の緒を見るに至る茲に浄資を集め遭難者追悼の碑を建て以て厥の冥福を祈らんとすと爾云
昭和二十六年十一月
赤石村有志代表
村長正七位 兼平清衛識」

この記事を書くにあたり、本当は上述の郷土史家がまとめた記録とやらを読んでみたかったのだが、ついにそれは叶わなかった。たぶん青森の地元とか国会図書館とかそれ専門の大学の図書館でないと置いてなかったりするのだろう。

というわけで、筆者はネット上の情報をつなぎ合わせて今回の記事を書くしかなかったのだが、一応文献のタイトルも掲載しておこう。興味がある方は読んでみて下さい。

『岩壁(くら)――昭和20年・大然部落遭難記録』
著者・鶴田要一郎
発行・青沼社
昭和63年12月20日初版発行

まあ仙台から青森まではそう遠くないし、山形在住の筆者としては、青森県の図書館にそのうち直接調べに行こうかな~なんて思わなくもないのだが。

【参考資料】
レポート『新しい雪氷災害「雪泥流」とその予測』小林俊一
総務省消防庁防災課『災害伝承情報データベース整備検討報告書(平成16年度分)』平成17年3月発行
個人ブログ『砂防に関する石碑 碑文が語る土砂災害との闘いの歴史』2008年06月30日公開記事「2-1.大然部落遭難者追悼碑」
ウェブサイト『東北自然ネット』内記事「赤石川の砂防と大然部落の全滅」