◆九重町バス転落事故(2013年)

 2013(平成25)年217日のことである。

 時刻は午後550分頃。大分県九重町の役場近くの道路を、一台の観光バスが走っていた。そこは県道と町道が交わる丁字路で、バスはちょうどその突き当たりに向かって走行していた。

 ところがこのバス、尋常な状態ではなかった。もともとこの道路は長い下り坂なのだが、後に後続車の運転手が証言したところによると、バスはこの坂に至って急に加速したという。また車内では、事故直前に運転手が「うーうー」とうめいていたとか、あるいは「ギアが入らない」と話していたとか、事故後にそんな証言も出ている。

 どうやら、下り坂で操縦が利かなくなってしまったらしい。バスはそのまま丁字路に突っ込んでいき、ガードレールを突き破って2.7メートルほど下へ転落した。そこはJR久大線の線路だった。

 当時、近くの線路では由布院発日田行きの普通列車が走っていたが、連絡を受けた運転士が現場の100メートル手前で停車して事なきを得ている。そこは単線で、一時間に一本程度の列車が走っていた。

 転落したバスは、福岡県大川市にある城北交通大川営業所のもので、福岡県から九重町のスキー場へ日帰りスキーツアーに行った帰りだった。これには運転手一名と乗客42名の合計43名が乗っており、事故によって女性客と運転手の二人が打撲や骨折の重傷を負い、子供を含む4041名が怪我をしている(資料によって人数にぶれがある)。

 バスは大破し、衝撃で線路は曲がってしまったという。それでも死者がおらず、電車も現場手前で停まったのは幸いだった。

  怪我をした運転手は、事故直後から「ブレーキが突然利かなくなった」と訴えていたという。

 これが本当なら、バスは走行中にいきなり操縦不能に陥ったことになる。原因はなんだったのだろう? 車体は玖珠署に運ばれ、メーカーなども巻き込みながら捜査が進められた。

 バスは9月にはきちんと車検を受けていた。三カ月に一度の定期点検でも問題なし。また出発前には車体を点検し、異常なしと報告されていた。どうやら故障や欠陥ではないらしい。

 最終的に、事故原因は「フェード現象」ということで断定された。

 フェード現象とは、ブレーキ(フットブレーキ)を短い時間であんまり何度も何度も繰り返すことで発熱し、ブレーキの機能が失われてしまう現象である。長く続く下り坂などでブレーキを多用すると、たまに起きることがある。

 実際、バスが走行不能になった下り坂では、このフェード現象による事故が過去10年の間に7回も起きていたという。

 よって、警察は、重傷を負った運転手の運転ミスが原因だったとして書類送検した。自動車運転過失傷害の容疑である。メーカーやバス会社への責任追及は行われなかった。

 事故の初公判は514日に大分地裁で開かれている。検察側と弁護側の言い分はそれぞれ以下の通り。

検察側「長い下り坂での操作ミスは、運転操作や注意義務を怠ったもの。禁固1年6か月の実刑を求める」

弁護側「被告はフェード現象のことを知らなかったし、退職したことで社会的制裁は受けている。執行猶予付きの判決を」

 といった塩梅で、619日に判決が言い渡された……はずなのだが、どうしたことか、どういう判決が下されたのかをネットで調べてもぜんぜん見つからない。というわけで、判決は不明である。

 【参考資料】
観光バスが線路に転落、42人重軽傷 大分県九重町
大分県 観光バスの滑落事故、原因はブレーキ多用...運転手が過失傷害容疑に
運転手「ギア入らない」 大分のバス事故、事故直前に話す
フェード現象での大型バス事故、起訴事実を認める - レスポンス(Response.jp

back

◆越前海岸岩盤崩落事故(1989年)

  福井県の中西部・越前町玉川。丹生山地の西端にある越前海岸では、鋭く切り立った崖の下を国道305号線が走っている。そこは越前加賀国定公園の中でもあり、名勝・越前岬の観光ルートとしても有名である。

 この国道305号線は比較的新しい道路である。造られたのは1954(昭和29)年で、国道に昇格したのは1970(昭和45)年。風光明媚な観光ルートとして評価が高まり、開発が進んだのもその後のことだ。

 事故はこの道路で起きた。

 1989(平成元)年716日、1530分頃のことである。一台のマイクロバスが、この海沿いの道路を走行していた。バスから見て右側には海岸があり、左側には切り立った断崖が続くという地形になっていた。

 バスには、滋賀県へ向かう乗客と運転手あわせて15名が乗っていた。彼らは彦根市などの食料品店経営者による親睦会のメンバーで、慰安旅行で粟津温泉を訪れた帰り道だった。

 間もなく、バスは「ロックシェッド」が連なる場所に差しかかろうとしていた。

 「シェッド」とは覆道(ふくどう)とも呼ばれ、道路や線路を落下物から守るためにトンネルのような形で覆う建造物のことである。用途別では、落石からガードするものは「ロックシェッド」、雪崩からガードするものは「スノーシェッド」と呼んだりもする。

 ここにあったのは「ロックシェッド」。つまり、崖からの落石が頻繁に起きる場所だったのだ。

 左側の崖が突然崩落したのは、バスがこのロックシェッドに入った瞬間だった。この時、海にいた人の目撃証言によると、崖の上でオーバーハングしていた岩石が「屏風が倒れるように」あるいは「扇を開くように」落下したという。

 この時崩落した部分は幅40メートル(最大)、厚さ約5メートル(最大)、高さ約25メートル、推定重量1,500トンという代物で、このうち140トンがロックシェッドを直撃した。約30メートルあったシェッドのうち、10メートル分があっという間に押しつぶされ、支柱も外側にはじけ飛ぶような形で折れた。バスもこの崩落と倒壊に巻き込まれた。


 この時、バス以外にも、海釣りに来ていた人の乗用車が巻き込まれて海に押し流されている。だがこちらは無人で人的被害はなかった。

 大惨事である。福井県と越前町は事故当日の午後6時半、同町に現地対策本部を設置した。

 現場での救助活動は、悪天候の中で深夜まで続けられた。地元の消防団員や県機動隊員など約300名が救助にあたり、丹生署や消防署はショベルカーなどを投入してバスの救出作業にあたった。

 岩や土砂を取り除く作業は難航した。サーチライトで照らされた現場に、ショベルカーのエンジン音が響く。事故に巻き込まれた人たちの家族が対策本部で作業を見守るなか、バスの車体がカッターで切断されていった。

 バスは、厚さ50センチほどに潰れていたという。事故発生から13時間半後、乗客乗員全員が遺体で収容された。

 現場では以前にも複数回の落石が起きており、予防措置として岩盤にモルタルを吹き付けたりアンカーボルトを打ってワイヤをかけたりと、それなりの措置が取られていた。しかし、オーバーハング気味だった岩盤には亀裂や割れ目が最初から存在していたという。それはずっと前から少しずつ大きくなり、事故の直前には肉眼で確認できるほどになっていた。

 さらに言えば、大惨事が起きる少なくとも一時間前には、その前兆である小規模な落石も発生していた。

 落石のきっかけとなったのは、局地的な雨により地盤が緩んだことと思われた。実際、事故が起きる数日前からかなりの量の雨が降っていたようだ。79日から三回に分けて降った雨の降水量を積算すると 230 ミリ。事故前日の152115分には大雨洪水警報まで出ている。

 確かに、当時は雨降りだったようだ。先述の通り、救助活動の時も悪天候だったそうだし、当時のビデオ画像でも雨が降っているように見える。

 もっとも、崩落の一時間前には雨は止んでいたということで、これが落石の直接的な原因だったという結論までは出ていない。

 インターネットで調べてみると、この事故の知名度は比較的高い。それは落石の瞬間の映像が残っているから、というのもあるだろう。当時、現場を車で走行していた人が、偶然にバスの後ろでビデオカメラを回していたのだ。スマホアプリが普及している現代だったら撮影動画が残っていても驚くほどのことはないが、事故が起きた1989(平成元)年あたりというのは、ちょうどホームビデオが家庭に普及し始め、一般人が気軽にビデオ撮影できるようになったばかりだった。

 少し細かい話になるが、実はネット上で事故の資料を読んでいるだけだと、事故当時、崖崩れが起きたのはマイクロバスの「右側」だったのか「左側」だったのかがよく分からなかった。筆者がそれをようやく確認できたのは、上記のビデオ映像を見ることができたおかげである。

 正直、あまり何回も見たい映像ではないが、やはりこういうのは資料としては貴重である。おかげで、当時の状況も少しだけイメージしやすくなった。

 さて現在は、現場付近を迂回する形で玉川トンネルが開通している。その経緯も少し記しておこう。

 今回の事故以前にも、同じ場所で落石事故が起きていたことは先述した。その際、福井県は、現場を迂回して道路を新設する二つの案を挙げていた。

 ひとつは、トンネルを造る案。
 もうひとつは、海上に道路を造る案である。

 ただ、前者は観光名所である「玉川観音」が素通りになるルートだった。また海上道路の案も、水産資源への影響が心配だ。よっていずれも却下となり、両者の間を取って、落石が起きた道路に「ロックシェッドつきの道路を造る」という結論に落ち着いた。

 そして今回の事故が起きた。

 これにより、けっきょく事故が起きた道路は廃止。最初のトンネル案が採用されて、1992(平成4)年に現在の玉川トンネルとして開通した。また、海上道路の案は、事故直後に緊急迂回路を造る際の案として採用され、これは一年間だけの仮設道路として使われた。

 事故現場となった国道の、玉川~血ケ平の約一キロの区間は、玉川トンネルの開通以降、立ち入り禁止となった。巨岩で押しつぶされたロックシェッドや、先述の海上道路の橋脚などは今も残っているという。

 現場近くに、観光名所である「玉川観音」があることも先に少し書いたが、これはもともと落石現場の北側にあった天然の岩洞に祭られていた。当時は海上安全の守護仏として大勢の参拝があり、そこからは越前海岸の絶景を眺めることもできた。

 しかしこの岩洞も現在の立ち入り禁止区間に入ったことから、1994(平成6)年には、玉川トンネル南越前町側坑口そばの、人工の洞穴内に移転している。これにより昔ほどの知名度はなくなってしまい、もとの岩洞には過去に観音があったことを記す石碑が残っている。

 事故現場には1993(平成5)年に慰霊碑が設置された。

【参考資料】
岩石崩落30年「玉川観音」に光を 越前町、限定御朱印や海の幸で祭り -福井新聞ONLINE
岩石崩落事故から - mokuson2's blog
玉川岩盤崩落事故 - 地球探検の旅
国道305 - Wikipedia(事故説明あり)
国道305号 越前海岸隧道群 中編 - この道往けば act2
26回 国道305号玉川トンネル旧道 玉川岩盤崩落事故 - RoadJapan 日本の道路、昭和の旧道を巡る旅
福井県越前町で崖崩れ(1989716日) | 災害カレンダー - Yahoo!天気・災害
京都大学防災研究所年報 第33号 B-1 平2.4『1989年越前海岸落石災害における岩盤崩壊過程の考察』

back

スポンサー