香住に名高き大乗寺
応挙の筆ぞあらわるる
西へ向えば餘部の
大鉄橋にかかるなり
山より山にかけ渡し
御空の虹か桟か
百有余尺の中空に
雲を貫く鉄の橋
ずいぶん大げさな歌詞だな、と思われるかも知れない。しかしここで歌われている「餘部の大鉄橋」がいかに巨大であるかは、ちょっとネット上で検索すればすぐにご理解頂けるはずだ。
餘部鉄橋――。それはまさに大鉄橋中の大鉄橋、かつては東洋一の高さを誇ったという「ザ・超巨大鉄橋」なのである。そんな建造物がかつて日本には存在していたのだ。
ウィキペディアによると、概要は以下の通りである。
【餘部鉄橋】
◆長さ:310.59m
◆最大支間長:18.288m
◆幅:5.334m
◆高さ:41.45m
◆形式:トレッスル橋(トレッスルとは「うま」の意味)
◆素材:鋼材
◆建設:1909(明治42)年12月16日~1912(明治45)年1月13日
◆総工費:331,536円
さてそれで『事故の鉄道史』では、餘部鉄橋についてこう書かれている。
「ここの主役は鉄橋である。列車も、日本海も、民家も、餘部橋梁の引立て役でしかない。天駆ける鉄道なのだが、ご存じのように列車の転落事故もあって美しい話ばかりではなかった」――。
なかなかの名文だと思う。そして今回ご紹介するのが、くだんの「列車の転落事故」である。
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そういえば最初に、名称の表記についてお断りしておこうと思う。この事故の舞台になる「あまるべ鉄橋」の漢字には「余部」と「餘部」の2種類があるようだが、ここでは「餘部」に統一させて頂く。
特に深い意味はないのだが、筆者の愛用のvaio君で変換するとこの漢字しか出てこないのだ。
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1986(昭和61)年12月28日のことである。
場所は兵庫県美方郡香美町・香住区餘部地区。そろそろお昼を過ぎようかという頃、8両編成の列車が餘部鉄橋の上を通過しようとしていた。
この列車の名は「みやび」。先頭の機関車に7両の客車を連結した、団体ツアー用の臨時列車である。山陰買い物ツアーという催し物のために運行されており、先ほども香住駅で167名を下ろしたばかりだった。
大盛況のツアーでひと仕事終えて回送列車となった「みやび」が、鉄橋の上をガタンゴトンと走り抜けていく――。ここまではごく当たり前の光景だった。
問題は強風である。この時、餘部鉄橋には海からの強風がもろに吹き付けていたのだ。
このあたりの地区にとって、強風そのものは決して珍しいものではない。だが当時の風の勢いは特に凄まじく、運行を管理する福知山管理局でも警報装置が作動していた。この装置は風速25 m/s(メートル毎秒)以上で作動するのだが、それが2回も危険信号を示したのである。
1回目の警報で、管理局は香住駅に問い合わせた。
「おおい、こちら福知山管理局。そっちは風が強いみたいだけど大丈夫か?」
これに香住駅は答えていわく、
「うん、風が強いね。でも20m/s前後だから特に問題はないよ」
そうか問題ないのか、と管理局は納得した。まあ今は鉄橋の上を通る列車もないし、そっとしておこう……。
だが2回目の警報の時は、ちょうど「みやび」が橋の上を通過するタイミングだった。これでは止めようにももう遅く、ここで悲劇が起きる。
時刻は13時24分(事故報告書では25分となっている)。鉄橋のほぼ中央にさしかかった「みやび」の中央の客車が、ブワッと膨らむように南側へ脱線した。
さらに、それに引っぱられる形で、ズルズルズルと他の客車も脱線。7両まとめて41メートルの高さを落下した。
「みやび」が回送中でほぼ空っぽの状態だったのは、まあ不幸中の幸いだった。だが転落した場所がまずかった。真下には水産加工の工場があり、いきなり降ってきた客車の直撃を受けて全壊したのである。
これにより、「みやび」の車掌1名と、工場の従業員の主婦5名の計が命を落とした。また、客車の中にいた車内販売員3名と、工場の従業員3名の計6名が重傷を負い、さらに近隣の民家も半壊。あげく「みやび」の車両は火災を起こし、現場はもう目も当てられない惨状となった。
鉄橋の上には、台車の一部と、機関車だけがぽつんと取り残されていた。
ちなみに転落の巻き添えを食らって破損した風速計があったのだが、この時の風速については33メートルを記録している。
国鉄による復旧作業は迅速に進められた。のべ344人の作業員が投入されて、枕木220本とレール175メートルが交換。そして事故発生から3日後の31日には被害者遺族の了解を取り付け、さっそく運転を再開したのが15時9分のことだった。
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それまでにも、餘部鉄橋ではいくつかの事故が起きていた。
例えば、これはさすがに古い記録になるが、架橋工事の時には転落による死亡事故が2件発生している。また負傷の記録も83件残っているという。
『事故の鉄道史』によれば、鉄橋の周辺地域には鉄道関係の慰霊碑も複数存在するそうだ。地形的な問題でもあるのだろうか、もしかすると、列車の運行や工事などには、もともと慎重を要する土地柄なのかも知れない。
とはいえ、だからといって、今回説明している列車の転落事故が「ありきたり」のケースということは決してない。むしろこれは、歴史的にはとんでもない事例なのである。
国鉄の記録によると、これよりも前に発生した「鉄橋からの列車転落事故」は、1899(明治32)年10月7日に東北本線で発生した箒川転落事故が最後とされている。つまりこのカテゴリで見ると、餘部のは実に87年ぶりの事例ということになるのだ。
およそ90年間も起こらなかった類型の事故が、現代に蘇ったのである。とんでもない事例と書いた理由がこれでお分かりであろう。
しかし事故の後処理は意外と地味なものだった。
まず、東大教授を委員長とした「餘部事故技術調査委員会」が発足したのが1987(昭和62)年2月9日のこと。そして翌年の2月には、この委員会によって事故調査報告書がまとめられている。
筆者は、この報告書を読んではいない。とりあえず「列車の転落は強風によるものであり、不可抗力による自然災害だった」という結論になっているようだ。
もちろん、だからといって誰も責任を問われなかったわけではなく、先述した福知山管理局の指令長と指令員2名の合計3名が被告席に立たされている。風が強かったことを知っていながら列車の停止を怠ったというのが、その罪状であった。
刑が確定したのは、事故から7年後のこと。それぞれ、執行猶予付きで禁固2年から2年6か月という判決だった。
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そしてここからが、鉄道事故マニアのバイブル『事故の鉄道史』による謎解きである。
実は、著者の網谷りょういち氏は、この事故について大胆にも「裁判は茶番」と述べて、真の事故原因は風ではない、と書いているのだ。
以下で、網谷氏が挙げている主な疑問点をご紹介しよう。
1・風速33メートルで列車は簡単に転落するのだろうか? 鉄橋ができて以来74年の間に、33メートルの強風が吹いたことは一度もなかったというのだろうか?
2・事故後の写真を見ると、鉄橋の線路のレールが、当時の風向きとは「逆」の方向に曲がっている。風で車両が押されたのならばそんなふうに曲がるわけがない。なぜ曲がった?
3・風による脱線では、普通は後部車両から転落していくものだが、この事故は中央の車両から転落している。これは何故か? 中央の車両が特に転落しやすくなる要因があったのではないか?
4・事故調査報告書では、転落時における近隣住民の目撃証言が収集されていない。また同報告書では、「当時の風速は33メートルだった」とわざわざ調べて書いている。壊れた風速計は33メートルを最初から示しているのに、なぜ改めて調べた? 風の強さを強調したかったのではないか?
――網谷氏のスタンスは「1」「3」「4」から明らかであろう。つまり、国鉄はこの事故を自然災害として片付けようとしているが、実際には人災の要素もあったのではないか、と疑問を示したのである。
それでは真の事故原因は一体なんなのか。それは網谷氏によると「脱線」である。
そのヒントは、上述の疑問点のうちの「2」にある。鉄橋上のレールの歪曲は強風が原因ではないのだから、何か他に原因があったはずだ。さらにこのレールには車輪が乗り上げた痕跡もあったという。
つまりレールの歪みが原因で脱線が起き、そこに強風という悪条件が重なったことで大惨事に至ったのである。
では、このレールの歪みはなぜ生じたのだろう?
結論をズバッと言えば、これは「フラッター現象」であるらしい。
正直に言うと筆者もいまいちイメージが掴めないのだが、飛行機や高層建築物はそれ自体で「振動」するらしい。強い風や地震がなくともひとりでにグラグラブルブルしてしまうのだ。だから、小さな風でも大きく揺れるのである(いずれこの現象による他の事故もご紹介していく)。
餘部鉄橋は、こうしたフラッター現象が起きやすい構造になっていたのである。鉄橋の振動のせいでレールが歪曲したところに「みやび」が差しかかり、乗客がいないため軽かった中央の車両が脱線した。そしてさらに強風で浮き上がり、転落したのだ。
実際の事故調査や裁判では、こうした点までは確認されていない。だが網谷氏は、餘部鉄橋の建築と修復の歴史を調べて、この橋が理論的にはフラッター現象を生じやすい危険な建造物だったことを証明している。
たとえば、送電線をつなぐ鉄塔などは、鉄骨造りの巨大建築物という点では同じである。だがこうした鉄塔がグラグラ揺れたあげく倒れた、などという話はふつう聞かない。これはもちろん補修もされているのだろうが、なにより鉄塔の構造のおかげなのである。
簡単に書くと、鉄骨の横向きの棒と、縦向きの棒、そして斜めの棒の「太さ」の問題なのだ。この3者のバランスが保たれていると、良い感じにしなやかになり、振動をうまく吸収できるのである。そうしてフラッター現象は抑えられる。餘部鉄橋は、そこのバランスを間違えていたようなのだ。
ではさらに突っ込んで、この「間違い」はなぜ生じたのだろうか? それを説明するには、餘部鉄橋の建設の歴史をたどっていかなければならない。
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餘部鉄橋の建設は、明治政府にとってはいわば「苦肉の策」だったと言えるのではないだろうか。
香住~浜坂間は山と海に挟まれている上に断崖が多い地域である。そこに無理やり線路を通そうとした結果が、あのような超巨大鉄橋だったのである。
とにかく、列車にはなんとしても山を上らせなければならない。なおかつ谷も渡らせねばならない。そうでなければ長大な迂回路とトンネルを造らねばならず費用もかかる。方法としては谷底の村を埋めて築堤を造るか鉄橋を建てるしかないが、「安い、早い」方法は断然後者だった。
こうして、1911(明治44)年から大規模な工事が行われた。完成までには、当時の金額で33万円を超える費用と、延べ25万人を超える人員が投入されたという。おかげで餘部の村は「架橋ブーム」に湧いたそうな。
できあがった餘部鉄橋は、管理上、雪の重みや風による揺について神経を使わざるを得なかった。今なら、こういう負荷の計算はコンピュータで即座にできる。だが当時は勘と経験に頼るしかなかった。
ここで読者諸賢は思われるかも知れない。なるほど勘と経験などという漠然としたものを頼りにしていたのか、それではフラッター現象が起きて事故につながっても当然だよな――と。
ところがどっこい、むしろ建設から数十年間はなんの問題もなかったのだ。少し詳しく書くと、もともと餘部鉄橋では、列車進行方向と直角方向とでは横向きの鉄骨がそれぞれ違っており、列車の振動をうまく吸収するようにできていたらしいのだ。むしろ初期の、勘と経験に頼った建設方法は適切だったのである。
もちろん、部品の交換や修復は何度も行われた。むしろ、この鉄橋の歴史は修復と補修の歴史と言ってもいいかも知れない。とにかく先述したように潮風と積雪に常にさらされているため、定期的な部品交換や錆止めのペンキ塗装は不可欠だった。
さて、そのように平穏に運用されていた餘部鉄橋だが、『事故の鉄道史』によると、それにケチがつき始めたのが1968(昭和43)年のことである。この年からから1976(昭和51)年度にかけて行われた第3次修繕8カ年計画が問題だったのだ。
この修繕計画で行われた部品交換作業は、実に地道なものだった。鉄橋にはいつも通りに列車を走らせつつ、隙をみてコツコツ作業を進めたのだ。
しかし、ここで横の鉄骨と斜めの鉄骨だけが交換・補強され、縦の鉄骨とのバランスが悪くなってしまった。
致命的なミスはもうひとつあった。橋脚の足元を、コンクリートでガッチリと固めてしまったのだ。
ガッチリ固めたほうが頑丈でいいんじゃない? という声が聞こえてきそうだが、これはマズイらしいのである。足元があまりにガッチリしていると、鉄橋の振動を吸収できないのだ。分かりやすく言えば「しなやかさを失う」ということか。実際、この改修工事の直後から、列車が鉄橋上を通過する時の振動が大きくなったという。
こういうことを勘と経験だけで理解していたのだから、先人の知恵というのは凄いものだ。だが同時に、その罪深さを感じる話でもある。勘と経験が素晴らしく研ぎ澄まされていたのは結構だが、修復する時の要領についても定めておいてくれればよかったのだ。
以上が網谷氏の説である。
ただまあ、事故の原因の真相については、筆者は素人なのでよく分からない。ただ『事故の鉄道史』の脱線説は非常に説得力があるし、有名でもある。餘部の事故について多少なりとも学術的に解説する場合は、これを抜きにしては片手落ちという感があるのでご紹介させて頂いた。
こうして事故の解説を通して餘部鉄橋の歴史をざっと眺めてみると、ひとつ強く感じることがある。転落事故はつまり、あらゆる意味でこの鉄橋の「賞味期限切れ」を意味していたのではないか、ということだ。
賞味期限というか、要するに「もの」には耐用年数というやつが存在する。ここでいう「もの」とは、建造物やシステム全体までをも含むと考えて頂きたいのだが、それをもっとも極端に、悲惨な形で示すのが事故や災害である。餘部鉄橋の大事故は、まさにそれだったのではないかと思うのだ。
歴史を見ると、この鉄橋は建設後少なくとも数十年は役に立っていたようである。だが鉄橋が存在することによるメリットとデメリットのバランスは、元々かなり危うかったのではないだろうか。
メリットは、もちろん輸送や観光などの経済効果である。この鉄橋は土木学会からAランクの技術評価を受けており、歴史的な価値も高かった。それにまた、鉄橋のある餘部の風景や、鉄橋そのものの構造なども、鉄道ファンのみならず山陰地方を訪れる観光客全般には人気があったという。
一方デメリットは、補修修繕の難しさと維持管理費の莫大さ、そして地元住民にとっても悩みの種だったという騒音、落下物、飛来物などの被害である。
それに加えて、転落事故後は風速規制も強化され運行基準も見直された。1988(昭和63)年5月以降、風が強い場合は香住~浜坂間で代行バスが使われることになったのだ。
安全対策上は必要だったかも知れないが、ここまでくると羹に懲りてなんとやら、という感がしなくもない。これによって輸送の安定感もなくなり餘部鉄橋は斜陽の時代を迎え、ついに2010(平成22)年には運用終了と相成った。
少し順序が前後するが、1988(昭和63)年10月23日には事故現場に慰霊碑が建立され、毎年12月28日には法要が営まれてきたという。
そして2010年(平成22年)12月28日の25回忌が、遺族会による最後の合同法要となった。橋が新しく造り変えられることに決まり、ひとつの節目を迎えたのである。
。こうして、次に造られたのが今のコンクリート製橋である。これは2007(平成19)年3月29日から3年ほどかけて建設され、2010年8月12日に開通した。
建設位置は、かつての餘部鉄橋よりも7メートルほど内陸に近く、費用は30億円に上ったという。ウィキペディアあたりでちょっと調べて頂ければ、その雄姿を見ることができるので是非どうぞ。リニア・モーターカーの走行が似合いそうな、シャープでかっこいい橋である。
で、かつての餘部「鉄橋」はどうなったか。これについては「余部鉄橋利活用検討委員会」が設けられ、県と地元で協議した末、橋脚と橋桁の一部を残して「空の駅」と称する展望台を造ることが決まったという。また道の駅も建設し、かつての鉄橋を偲ぶ記念施設にするそうな。
この「空の駅」はまだできあがっていないようだ。だが建設予定図などをネットで見てみるとなかなか面白そうである。素直に、一度行ってみたいと思う。
☆
こうして、日本一の巨大さを誇った餘部鉄橋は、いくつかの汚点を歴史上に残してその役目を果たしたのである。あとから振り返ってみれば、この転落事故こそが、餘部鉄橋の落日のしるしであった。
これは想像だが、あの鉄橋は人々から愛され、守られてきたと同時に、同じくらいに恨まれ、憎まれ、疎んじられてもきたのではないだろうか。
良くも悪くもシンボル、愛着と諦め、愛憎半ば。家族と同じで、身近であればあるほどえてしてそういう感情を呼び起こすものだ。その解体が決まった時の地元の人々の思いは、果たしていかばかりであったろうかと、筆者は思わず想像してしまった。
【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◆ウィキペディア
◆ウェブサイト『キノサキ郡の橋』
◆同『鉄道サウンド広場(資料館)』