◆駒ケ岳大量遭難事故(1913年)

1913年(大正2年)に起きた山岳遭難事故である。

 長野県の中箕輪尋常高等小学校では、8月になると、中央アルプス北部にある木曽駒ケ岳(2956m)に修学旅行に行くという行事があった。完全な年中行事として定められていたのかは不明だが、とりあえずこの学校では1911年(明治44年)も、また1912年(明治45年~大正元年)もこの行事がなされていた。

 で、今年もやろうということになったのだが、ここでこういう反発があった。

「校長先生、マジっすか!? もうそういう時代じゃないっすよ~」

 登山によって心身を鍛練するなどというのは、教育方法としてはもう古い――というのがこの時代の「流行の」考え方だったのである。

 当時、日本の教育界では「生徒の自由を尊重し個性を育てる」のをモットーとした理想主義的教育がブームとなっていた。いわゆる白樺派の影響である。どうもその実態は現代のゆとり教育と似たようなものだったらしいが、とにかくそれで、軍国主義的な鍛錬教育なんて古い! なにより生徒を大勢連れてアルプスに登るなんて危険だ! と言われたのである。

 しかしこの登山修学旅行を立案企画した赤羽長重校長は、反対を押し切る形で決行した。

 結果的には、これが悲劇を招くことになった。

 生徒から希望者を募ったところ、手を挙げたのは25名。さらに地元の青年会のメンバーが9名、引率教師が3名参加することになり、合計34名となった。大所帯である。

 これだけの人数を率いていく以上、準備には細心の注意を払わねばならない。まず何よりも心配なのは山の天候だ。これについては、校長は直前まで何回も側候所へ電話をかけ、確認をしている。

「26日に駒ケ岳に登りたいんですけど、大丈夫ですかね?」

 これに対する回答は「北東の風、曇り、にわか雨」というものだった。まあ夏の天気としては普通であろう。

 こうして1913(大正2年)8月26日、登山は決行された。

 しかし、この後の天候の変化については、とにかく赤羽校長一向は不運だったとしか言いようがない。当時、八丈島のあたりに停滞していた低気圧があったのだが、これが26日の夕方にいきなり動き出したのだ。

 当時の気象台はこれを「低気圧」と呼んでいたが、今でいえば立派な台風である。これがどの側候所でも予測できないほどのスピードで発達し、どえらい速さで移動し始めたのだ。

 まさに韋駄天低気圧とでも呼ぶべきこ奴は、26日の夜には東京を通過。そして銚子港付近を北上すると東北地方を縦断し、津軽海峡に抜けていった。このため日本海側、特に新潟や富山で大きな被害が出たという。

 そして長野県でも、直撃というほどではなかったものの、この低気圧の影響で激しい風雨があったようだ。赤羽校長以下37名は、よりにもよってアルプス山中でこいつに遭遇してしまったのだった。

 さて問題の木曾駒ヶ岳であるが、この山に登るのはどのような感じなのだろう。これについては、某サイトで文章を見つけたので引用させて頂こう。

『木曾駒ヶ岳は中央アルプス北部にあり、古くから信仰の対象とされ、既に1532年には山頂に駒ヶ岳神社が建てられたそうです。10本程の登山コースがありますが、標高2640mの千畳敷へのロープウェイ開通後は登山道の利用者は少なくなっています。
 95年前、ここで教師と生徒たちの大量遭難がありました。先日、そのコースをたどってみたのですが、テントを背負っての登りは結構きつく、コースタイムの7時間弱をかなりオーバーしてしまいました。当時は登山口まで余分に数時間歩かなければならなかったわけで、14-15歳の彼らの脚力に驚かされました。』
 ウェブサイト「読んで ムカつく 噛みつき評論」より
http://homepage2.nifty.com/kamitsuki/08B/seishokunoishibumi.htm

 筆者も十代の頃にちょこっと山に登ったことはあるが、それでも7時間弱はなかった。確かに当時の学童の脚力には驚かされるが、しかし、いずれにせよその疲労は尋常なものではなかったに違いない。

 むしろ脚力の問題だけならまだ良かったのである。登山の途中から、文字通りに「雲行きが怪しくなって」きて雨風にさらされたことで、彼らの体力は途中からみるみる奪われていった。

 それでも、一行は進んでいった。山頂付近の地点に小屋があったのである。とりあえずそこに入れば雨風も凌げるし暖も取れる。それまでの辛抱だ――。

 ところで下調べの段階では、この小屋にはちょっとばかり問題があることが分かっていた。この登山旅行の前に、山の付近の村人に聞いていたのである。その村人によると、くだんの小屋は去年に比べて破損が激しく、修繕しないと使えない状態だということだった。

 でもまあいい、これは鍛錬教育なのだ。皆で力を合わせて小屋を修繕し、そこで達成感を味わおうではないか! と、赤羽校長は前向きに考えていたかも知れない。

 ところが、である。

 いざ到着してみると、この小屋はもはや、修繕すれば使えるとかいうレベルではなかった。壁や屋根が全部はぎ取られており、残っていたのは壁の石垣だけだったのだ。焚火の跡も残っていたというから、どこぞの馬鹿たれが暖を取るために小屋を破壊したのは明らかだった。

 ちょっと信じられないような話だ。到着した一行が真っ青になったのは言うまでもない。それでもめげずに、赤羽校長は号令をかけた。

「ま、まあいい。これは鍛錬教育なのだ。残った石垣を利用して小屋を建てるぞッ!」

 というわけで、台風が迫りくる天候の中、登山メンバーたちは急ごしらえの避難小屋を作った。近くの樹木を切り出して、残った石垣の上に並べてゴザを敷き、屋根が飛ばされないように石を乗せていく――。

 小屋の広さは4坪。ここに37名が入ったのだから、計算すると畳一畳に5人が固まることになる。まるきり鮨詰め状態で、天井も、立ち上がれないほど低かったという。

 しかも、いかんせん敵様は台風である。火を焚こうにも何もかもが濡れているし、雨漏りのためすぐ消える。やっと火がついたかと思えば小屋に煙が充満して燻製状態、その上寒い。そして風は一向に鎮まる気配を見せず、厳寒地獄にさらされた学童たちは意識も朦朧としてくる。暴風で小屋が壊れるのも時間の問題と思われた。

 そんな中、よりにもよって小屋の中で死人が出た。おそらく今で言う低体温症だったのだろう。これにより小屋の中はパニックとなった。

「ふざけんな、こんな鍛錬授業やってられっか! 帰る!」

 こうしてメンバーは散り散りになり、嵐の中を下山し始めた。風雨による寒さと往路の疲れで誰もが疲労困憊していたはずで、これはほとんど自殺行為だった。途中で倒れる者が続出し、登山に参加した37名中11名が死亡した。

 この山では、標高2600メートルのあたりに稜線があるという。上りにしろ下りにしろこの稜線を通ることになるわけだが、これが3時間ほど続くのだ。雨風を一切凌ぐことができないその場所で、遭難者のほとんどは昏倒していった。

 死亡した11名の中には、登山の企画立案を行った赤羽校長も含まれていた。彼は途中で動けなくなった学童に自分の防寒シャツを与えるなどして、最終的には帰らぬ人となったのだった。

 そして、なんとか麓の村に辿り着いた者が遭難を知らせた。

 最初に知らせを受けた内ノ萱という地域は、僅か十数戸の小さな村だったという。だがそこは古くからの駒ケ岳登山口の集落として有名で、案内人組合の組織まで組まれているほどだった。よって暴風時の駒ケ岳のことは多くの者がよく知っており、この天候の中で登山と下山を行ったパーティがあったと聞いた村人は、それだけで色を失ったという。

 こうして、この内ノ萱を始めとして、近隣の横山、小屋敷、大坊、平沢といった集落でそれぞれ半鐘が鳴らされた。そして伊那町消防団員、西箕輪村消防団員、南箕輪村消防団員などが救助隊として参加した。

 総数200名超の大規模な救助活動だった。彼らはまる3日もの間、山中で露営するなどして救助と捜索にあたった。

 特に29日の夜などは、駒ケ岳の周辺で灯りがいくつも揺れ動き、この世のものならざる光景であったという。近くのある学校の校庭からは、山中で無数の灯人が行き来するのが見え、まるで鬼火か人魂のようだったとかなんとか。

 こうして、登山に参加した37名のうち、10名の死亡が確認された。残る行方不明者は1人である。

 29日には「救助隊」が「捜索隊」へと名前を変更し、さらに30日も未明から捜索、捜索、捜索が行われた。しかしどうしてもこの最後の1人だけが見つからず、あとはなんとなくグダグダと遺体探しが行われたようである。最終的には、この最後の1人の生死確認に対しては懸賞金がかけられた。

 さて、ここからは、事故を起こした学校の歴史になる。ちょっと蛇足めいてくるが、関係のない話ではないのでお付き合い頂けると幸いである。

 言うまでもなく、事故を起こした中箕輪尋常高等小学校は轟々たる非難を浴びることになった。まあ子供たちが死んでいるのだから、無理からぬことであろう。

 これがきっかけとなり、学校は荒廃した。学童を大量に死なせたという悪名から、誰も校長になりたがらず、さらに例の自由主義教育の悪影響から、校内暴力や学級崩壊が蔓延したという。大正初期だというのに、なんだかついこの間の話みたいである。歴史というのは、かくも繰り返すものなのか。

 しかし大正12年に赴任してきた新しい校長が、ここで思い切って方針を転換。教育者に対しても、また生徒に対しても、逸脱を許さない厳格な教育方針でもって臨んだ。これが功を奏し、やっと学校は蘇ったのである。

 教育思想的にも転換期にあったようだ。それまでの自由主義的な考え方は下火になり、教育でもきちんと統率が取れなければいかん、という空気になっていたようである。

 さてその流れで、駒ケ岳の登山イベントも復活することになった。

「えっ、またやるの!?」

 12年前の悪夢を思い出した者も、大勢いたことだろう。だが、当時のこの上伊那郡という地域の「空気」がどんなものだったのかは推し量るしかないが、どうもこの頃には、この辺りの学校で駒ケ岳修学旅行登山を実施していないほうが少数派だったようだ。

 こうして大正14年の7月26日に、新校長は村人の反対を押し切って登山修学旅行を決行した。周到に準備が整えられ、そして校長自らが高等科2年生を引率する形で行われたこの登山は大成功に終わり、遭難現場に建てられていた記念碑に対しても献花がなされたという。

 そしてここからがドラマである。

 この登山旅行が行われた日は、上伊那郡青年会による「駒ケ岳マラソン大会」が行われていた。

 それで、この大会に来ていた青年会の人々が、一匹の兎に遭遇したのだ。

 その日は快晴だった。マラソンの最後の走者が走り去った後、彼らはこの辺りでは珍しい白兎を見つけた。それでなんとなく追いかけてみると、兎は駒飼ノ池の近くのハイマツ地帯に走りこんだのである。

 兎は、そこでじっとしていた。だがよく目を凝らしてみると、それは風化した白い布切れで、ぼろぼろの布と人骨があったのである。12年前に行方不明のままだった遭難者の遺体だった。

 登山イベント再開の日に、最後の行方不明者の遺体がようやく見つかったのである。筆者は別に神秘論者ではないけれど、さすがに「なにかの巡り合わせ」を感じずにはいられない出来事だ。

 ちなみに、事故があった直後の1915年(大正4年)には、駒ケ岳山頂には「伊那小屋」という避難小屋が建てられた。これはその後も増改築がおこなわれ、「西駒山荘」という名前で残っている。建物には、今でも事故当時そのままの石垣が使われているという。

   ☆

 ところで、この遭難事故については、新田次郎が『聖職の碑』というタイトルで小説化している。これは後に映画化もされた。

 内容的には、この山岳遭難事故を通して、舞台となった長野県上伊那地方の学校教師やその周辺の人々の人間模様を描いたものである。もちろん新田次郎の作品なので「山岳小説」には違いないのだが、同時に教師の教育に対する愛と情熱を描いた「教育小説」でもある。

 新田は、事故そのものに前から興味を持っていたそうだ。だが実際に書くための大きなきっかけになったのは、遭難現場に建てられた「遭難記念碑」だったという。

 この記念碑は実際に存在する。当時の教育委員会が建てたものだ。事故から12年後に登山旅行が復活したさい、記念碑に献花がなされたと先に書いたが、その記念碑というのがこれである。

 それを見た新田次郎は、なぜ「遭難慰霊碑」ではなく「遭難記念碑」なのか? という疑問を抱いた。そしてその建立の経緯を取材しながらノベライズしていったところ、できあがったのが『聖職の碑』だったというわけである。そのへんの取材の経緯は、新田お得意の巻末取材記に詳しい。

 それでこの「遭難記念碑」の由来なのだが、これは学校側が建てたものらしい。学童たちの登山授業を行う上で、もう二度とこんな事故は起こすまい――。そんな誓いが込められているのである。だから亡くなった人々を慰めるための単なる「慰霊碑」ではなく、未来へ向けて「念を記した」まさに記念碑となったのだ。

 筆者としては、これは感心する。事故災害の記録を読んでいると、最終的に当事者によって慰霊碑が建てられて、それでこの話はおしまい、水に流しましょう、という流れになっているのをよく見かける。それではイカンのだよと思うところがなくもないのだが、ともかく「慰霊」という習慣が日本にはあるのだから仕方がない。この習慣をもうちょっと改善すれば、日本の事故災害はもう少し減らせるかも知れないのにな、と思っていた。

 この大量遭難事故は、決して他人に対して誇れるようなものではない。新田も述べているが、この事故は登山時に案内人をつけなかったこと、下調べをしなかったこと、悪天候時に判断ミスがあったこと、などが重なって起きた人災である。しかし「教育」という普遍的テーマが背景に据えられることで、この事故はかえって未来の教育に対する「記念」となったのだ。

 本来、事故災害の記録というのはこうあって欲しいと筆者は思うのである。

 そしてそのためには、過去、現在、未来に繋がっていく普遍的なテーマを、事故の背景から読み取らなければいけない。「事故の教訓を生かす」「尊い犠牲」という言葉は、事故災害が起きるたびによく使われるが、そのような普遍的テーマの読み取りがなければ、こうした言葉もただの言葉で終わってしまうのである。

 特に「尊い犠牲」という言葉について言えば、悲惨な事故の被害者として慰霊するだけでは、それは「尊い犠牲」などではないと思う。それが本当に「尊い」ものになるかどうかは生きている者次第なのだ。ただ単に「慰霊」されただけで忘れられてしまっただけの犠牲者などというのは、こう言ってはなんだが、尊くもなんともないのだ。

 そうした意味で、この山岳事故は、日本の事故災害史上において犠牲者の霊が明確に「英霊」となり得た希少な例だと思う。事故が起きて以降、この山での修学登山において、死亡者が出るような重大事故は発生していないという。

 事故があった地域の学校では、今でもこの修学登山は行われているのだろうか。山を登り切ったところで遭遇する記念碑を前にした時、学童たちはどんな思いに捉われるのだろう。別に『聖職の碑』の文章の熱意にあてられたわけではないが、書いていて感慨深くなる事例であった。

【参考資料】
◆新田次郎『聖職の碑』
箕輪町立 箕輪中部小学校ホームページ
ウェブサイト「読んで ムカつく 噛みつき評論」
ウェブサイト「山小屋ナビ.com」

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