2004(平成16)年の10月20日から21日にかけて日本列島を襲った台風23号は、後に「激甚災害」に指定される程凄まじいものだった。
まあ日本で「激甚災害」に指定されるのは大概は暴風雨や台風と決まっており、それも言い方は悪いが風物詩のような感もあるので、今さら「2004年の台風23号」と言われてもそれってどの台風だっけ、と記憶がごっちゃになっている方も多かろう。
しかし「台風23号」では分からなくとも、「舞鶴市で観光バスが水没したあの事故」と言えば思い出す方もおられると思う。暴風雨による濁流のため道路で立ち往生した観光バスが、見る見るうちに水没したという一件だ。
バスの乗客37名は、辛うじて水面に頭を出していたバスの屋根の上で恐怖の一夜を過ごし、最終的には全員が救助された。安心して読める事例である。
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この37名というのは、兵庫県豊岡市の、もと公務員の年金受給者からなる旅行者の団体だった。よって乗客も年配が多かった。
予定では10月19日に豊岡を出発し、1泊2日で北陸地方を回る予定だったという。
最初、台風が接近しているという不安な情報もあったものの、とりあえず19日は予定通りに旅館に到着。雨の中の旅行だったが、ここまでは問題はなかったようだ。
問題なのは翌朝からである。台風が遂に上陸したのだ。
テレビのニュースを観た乗客の中には、「大丈夫なのか」と不安になる者もいたようだ。
だが、旅行会社としてはそうそう融通を利かせることも出来ない。バスは定刻通りに出発し、午後2時までにはなんとか観光の予定を潰していった。
さあ帰り道である。行きはよいよい帰りは怖い。高速道路が土砂崩れで通行不能という報せが届いたのが、後から考えれば前兆となった。仕方なくバスは一般道を通ることになった。
そうこうしている内に、台風は紀伊半島に上陸しどんどん接近してくる。夕方には暴風雨も甚だしく、さすがに「今日は旅館かホテルに泊まった方がいい」という判断で乗客も運転手も意見が一致した。
それ自体は正しい判断だった。だが時はすでに遅し。適当な宿泊施設が見つからないまま、だらだらとバスは進行し続けた。そして7時を過ぎる頃には遂に道路は冠水し、また渋滞のせいで運転もままならなくなってきた。
7時半。参考文献によると、この時刻に由良川にかかる大川橋なる橋を渡ったところが「運命の分かれ道」だったようだ。国道175線に入って間もなく、バスは立ち往生してしまった。凄まじい冠水によって渋滞の中でエンストを起こした車があり、にっちもさっちも行かない状態に陥ったのだ。たちまちバス内は不安で満たされた。
さっき渡ったばかりの由良川もついに氾濫し、水位はどんどん上がってくる。いよいよバス内に水が入ってきたのが夜の9時で、昇降口から浸入した泥水はたちまち乗客たちの下半身を水浸しにした。水はマフラーにも入り込んでエンジンも停止。さあ、どうするどうする。
一時は、カーテンを切り裂いてロープを作り、民家に助けを求めるというアイデアも乗客の中から出たらしい。しかしその頃には道路も足がつかない状態だったため、この案は却下。もうバスの屋根の上に上がるしか道はない。カーテンで作った手製のロープは、この避難作業で使われることになった。
乗客たちが助け合いながら屋根に避難し終える頃には、もはやバスの車内灯も消えていたという。
この時、このような形で避難したのはバスの乗客たちだけではなかった。近辺では、他にも電柱に掴まって一夜を過ごしたり、自家用車を乗り捨てて近くの建物の2階に逃げ込んだ人々もいたのである。
このように助けを待っていた人は、バスの乗客を除いても40名ほど存在していたらしい。ちなみに、乗用車は44台が水没している。
さて、ここからの10時間が大変だった。なにせほとんどの人間が年配である。ひっきりなしに吹き付けてくる暴風雨と、バスの屋根の上を越えてくる泥水のせいでずぶ濡れになり、とにかく皆、凍えて仕方がなかった。最も高齢の男性は低体温症でかなり危ないところまで行ったようだ。
そして恐ろしいのは低体温症ばかりではない。バス1台を水没させる程の濁流で、バスそのものもいつ流されることかと全員が気が気でなかった。携帯電話も電池が切れれば通じないし、通じたとしても、救助はいつ来るのかという明確な答えはなかなかもらえない。もう不安で不安で過呼吸に陥る者が出て来るし、持病のある高齢者は体の不調を訴えてくる。居合わせた看護士たちは大忙しだ!
それでも、乗客たちは励まし合ったり歌を歌ったりして不安を紛らわせ、救助を待ち続けた。
中には、流れてきた竹竿でもって、バスが流されないように近くの街路樹から支えようとするツワモノもいたという(実は参考文献を読んでも、どうしてこれで「支える」ことになるのかよく分からなかったのだが)。
ちなみにバスの運転手は、こんな危険なところまでバスを乗り入れてしまったことに責任を感じてションボリしていたそうな。もっとも彼を責める者は誰もいなかったそうである。
さて最初に書いた通り、彼らはおよそ10時間後には無事に救出されたのだが、救助活動はどのように進んでいたのだろう?
もちろん、京都府も自衛隊も手をこまねいていた訳では無い。バスが水没する直前の午後9時頃には、連絡を貰った京都府から海上自衛隊に災害派遣要請が出されていた。
しかし暴風雨、増水、夜闇の中では救助も簡単ではない――てゆうか不可能である――。ヘリは強風で飛べないし、濁流の流れは激しくゴムボートも使えない。結局、明け方に水位が下がってくるまでどうしようもなかったのだ。
バスが水没した国道175号線からは、最終的にはバスの乗客を含む67人が救出された。こうしてようやく長い夜は明けたのだった。
この水没事故の詳細は『バス水没事故 幸せをくれた10時間』という本に記されている。
変なタイトルだなぁ、と思う前に、興味があれば是非一度目を通して頂きたい。この本の作者のスタンスは「この事故によって人を信じることの意味や希望を学ぶことが出来た」というもので、思わず本当かよ、とツッコミを入れたくなるところではあるが、とにかく読めば分かる。平易な文章で描かれた過酷な事故現場の状況の描写は、我々にある感慨を与えてくれるであろう。なるほどこんな極限状況に遭遇して、最後に全員救助というハッピーエンドになればこういうタイトルになるかも知れない。
ところで、集団が一斉に事故に巻き込まれるという事例はいくらでもあるが、筆者が個人的に、この舞鶴市の事故と比較せずにおれないのは2009年に起きたトムラウシ山の遭難事故である。大人数のグループが遭難したという状況までは同じだが、かたや助け合って全員救助、かたやバラバラに離散して半分以上が凍死と、結果は180度違っている。
もちろん細かな状況は全然違うので一概には言えないだろう。だがとにかく、被災した際に一緒にいる他人がどんな人格であるか――注意深いか、人生経験は豊富かそうでないか、思いやりがあるか――実はその程度の要因によって、人間の運命というのは呆気なく変わってしまうものなのである。
ちなみに話ついでに言うと、この事故のことは他にも本が出ており、なんとそれは「童話」であるという。ある意味で、読んでみたい気がしなくもない。
【参考資料】
◆中島明子『バス水没事故 幸せをくれた10時間 人を深く信じた奇跡の瞬間』朝日新聞出版
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