1959(昭和34)年1月3日に起きた事故である。参考資料ではごくあっさりした内容にまとまっているが、よく考えてみると土浦事故や三河島事故のような事態になっていたかも知れない。
場所は大阪市東淀川区島頭町、あるいは新庄村という場所である。資料によってちょっと記述がまちまちだ。
現場になった踏切は、阪急京都線の上新庄駅から北へ100メートルほどの地点にあった。現在は、阪急線そのものが高架化されたので存在していないという。
さて午後10時50分頃、その踏切を一台のバスが通過しようとしていた。江口橋発、大阪駅前行きの市営バスで、運転手は39歳の男性だった。
この時、踏切の遮断機は上がっていた。それでバスは安心して通過しようとしたのだが、なぜかそこへ梅田行きの下り急行電車がやってきて衝突してしまう。
惨事はそれだけにとどまらず、間をおかずに、今度は反対方向から上り京都行きの急行電車がやってきた。これもバスと衝突し、バスの方の乗員乗客7名が死亡。電車の方も乗客16名が負傷した。
さて、一番の問題は「なぜ遮断機が上がっていたのか」である。遮断機さえ下がっていればバスが踏切に進入することもなかったし、事故も起きなかっただろう。
この踏切は、踏切警手による手作業で上げ下げする仕組みになっていた。で、警手の48歳男性はこう証言した。
「いつも列車の接近を知らせるブザーが鳴っても、電車が来るのが遅い。よってブザーが鳴ってから20秒ほど経ってから遮断機を降ろすようにしていた」。
それでこの日もいつものようにブザーが鳴ってから約20秒待って、それから開閉機を下げるべく詰所を出たのだった。すると……。
「すでにバスが踏切内に進入していた。遮断機を降ろす間もなく列車と衝突した」。
さらに言えば、この踏切警手は、二度目にバスと衝突した上り列車のことしか頭になかったらしい。
これだけだとちょっと分かりにくい。なぜ最初にバスと衝突した下り列車のことを失念していたのだろう? 普段から下り列車の存在を忘れていたのだろうか?
筆者は、最初この事例を読んだ時、三河島事故や土浦事故のように最初の衝突が起きてから列車を停止する措置を取っていれば、衝突は最初の一回だけで済んだのではないか……と考えた。しかし上り・下り両方の列車が踏切に差しかかるまで20秒程度しかなかったのであれば、さすがにそんな余裕もないだろう。
ほとんど知られていない事故事例だが、結構やばい二重衝突事故である。三河島事故が発生するのは、この三年後のことだ。
【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』