◆重慶炭鉱一酸化炭素中毒事故(2020年・中国)

 2020(令和2)年9月27日、午前0時半のことである。中国西部の重慶(ちょんきん)市の綦江(きこう)区にある炭鉱で火災が発生した。

 この炭鉱は松藻炭鉱といい、石炭の採掘と発電を手がけている国営エネルギー会社「重慶能投渝新能源」という企業が管理していた。そこで使われていたベルトコンベアーが発火したのだ。

 これによって、坑内に閉じ込められた17名の作業員のうち、16名が一酸化炭素中毒で死亡。残る1名も重体となり病院に運ばれた。現場には、鉱山救助隊75人と医療関係者30人が駆け付け、救助活動とあわせて事故原因調査が行われたという。

 今回の事故を起こした「重慶能投渝新能源」は、もともと危ないところがあったようだ。

 重慶市の炭鉱安全管理当局によると、2019(令和元)年後半には、発破のやり方が不適切だったとかで炭鉱の管理者7名に行政罰と700〜4200ドル相当の罰金が科されていた。国営新華社通信の報道によると、今回の事故でも、坑内の一酸化炭素濃度は安全とされる上限値を上回っていたという。

 炭鉱や鉱山での事故というと、日本では「昭和」というイメージだが、中国では今でも珍しくないらしい。今回の事故が起きた重慶市では、実はその後の同年12月4日にも、永川区の炭鉱で同様の一酸化炭素中毒事故が起きている。

 この事故については、どの新聞記事でも「一酸化炭素の濃度が上昇する事故」としか書かれておらず具体的に何が起きたのかは不明なのだが、坑内に閉じ込められた24名中23名が死亡している。現場となった炭鉱は、もともと安全管理に問題があるというこで2カ月前には閉鎖し、事故発生時には設備の解体作業中だった。

 統計では、2017(平成29)年には中国国内での炭鉱事故は219件起きており、375名が亡くなっている。また2018(平成30)年には333名が死亡しているという。具体的にどういう事故だったのか一つひとつ調べてみたいところだが、情報はあまりない。

【参考資料】
重慶市の炭鉱で一酸化炭素中毒事故 17人閉じ込め
重慶市の炭鉱で一酸化炭素中毒事故 16人死亡
炭鉱で火災、一酸化炭素中毒で16人死亡 中国・重慶
炭鉱事故で23人死亡、中国重慶、CO濃度上昇
中国 炭鉱事故で23人死亡 一酸化炭素の濃度が上昇

◆ボフミン市高層マンション火災(2020年・チェコ)

 2020(令和2)年8月8日のことである。チェコ北東部、首都プラハから約300キロの場所にあるボフミン(Bohumin)市で、高層マンション火災が発生した。

 ボフミン市という名前は、初めて聞くという方も多いと思う。筆者もそうだ。どうやら、ポーランドとの国境に近い町らしい。

 火災が起きた高層マンションは13階建て。火元は11階で、大人3名、児童3名と、おそらくペットだろう、犬一匹も犠牲になったという。

 消防隊がすぐに現場に駆け付けたものの、消火活動中に12階の窓から5名が飛び降りて死亡したというから、目を覆いたくなる大惨事だ。

 こうして犠牲者は11名にのぼった。ネット上に出回っている報道記事はあっさりしたものが多いが(必然的に当記事もあっさりしたものにならざるを得ない)、そっちには当時の写真なども貼られているのでなんとなく現場の雰囲気が分かる。興味がある方は見てみるといいと思う。

 そういえば日本では、かつては「高層ビル火災で飛び降りて死亡」という事例がしょっちゅうあったようだが、近年はあまり聞かない。そもそも高層ビル火災が発生しても、大抵は深刻な惨事に至らずに済んでいる。これは法律の整備によって建物が安全になったことと、消防設備の充実によるところが大きいだろう。

 だからこのボフミンの事例のように、近代的な高層建築物で飛び降りが発生するというのはちょっと違和感というかそぐわない感がある。日本と比べて、チェコではこうした建物の安全性はいまいちなのかも知れない。

 さてこのボフミンの火災では、「放火した」と自供したマンションの住人1名が警察によって拘束・連行されている。詳しい動機などは、現時点では不明である。

 余談になるが、チェコでは東部のフレンシュタート(Frenstat)で、2013(平成25)年にも似たような火災が起きている。集合住宅に住む男性が、他の入居者を嫌っていたとかでガス爆発を引き起こし、当人と子供3名を含む5名が死亡したのだ。この事故の報道記事がないかとちょっと探してみたが、これは残念ながら見つからなかった。

【参考資料】
チェコの住宅火災で11人死亡 放火か【写真】 - Sputnik 日本
チェコの集合住宅で火災、11人死亡 放火の疑い 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News
チェコの集合住宅で火災、11人死亡 放火の疑い (AFPBB News)

◆大然閣ホテル火災(1971年・韓国)

 1970年代といえば、「火災の当たり年」である。知っている人は、すぐに千日デパートや太洋デパートの事例を思い出すに違いない。だが実は、この当たり年は日本に限った話ではないらしい。世界規模で見ても、災害史に名を残す火災が頻発しているのだ。

 今回ご紹介する事例は、その一つである。韓国の首都ソウルで起きた最悪のホテル火災――。その舞台となったのが、高級ホテル大然閣(テヨンガク)ホテルだ。

 なんでもこの大然閣ホテルは、日本の統治時代に「五大百貨店」と呼ばれた店があって、そのうちのひとつ「平田百貨店」の跡地に建てられたものだとか。跡地に建てられたから高級だと言えるのかどうかはよく分からないが、資料の文章のニュアンスとしては、そんな感じである。一等地なのだろう。

 以下では、建物の概要を具体的に記しておく。参考資料『火災安全工学』に載っている内容が専門的かつ膨大なので、とりあえず箇条書きにしておいた。さらっと眺めてくれれば十分だと思う。

◆地上21階、地下1階の22階建て。
◆高さ82.2メートル
◆延床面積19,304平方メートル
◆地下1階……駐車場
◆1階……機械室
◆2階……ホテルロビー、コーヒーショップ
◆3階……レストラン、バー、グリルなど
◆4階……宴会場
◆5階……空調機械室など
◆6~20階……ホテル客室(客室数223室)
◆21階はナイトクラブとスカイラウンジ
◆屋上……塔屋と機械室
◆複合ビルで、垂直の壁で「ホテル部分」と「オフィス部分」に仕切られていた。
◆この「垂直の壁」は厚さ20センチのコンクリートブロックとスチールドア。
◆2階のロビーは、ガラス戸でホテル側とオフィス側に仕切られていた。
◆裏側には、18か月前に竣工したばかりの11m×21mの7階建ホテルがあった。
◆主体構造はRC造。外側はカーテンウォール、両面プラスター塗り、空調などのシャフト類はコンクリートブロック。
◆L字型のプランを持っている(プランとは何のことか不明)。
◆正面の間口は49m、奥行43m。
◆階段室はオフィス部分とホテル部分に各一カ所ずつあり、スカイラウンジを通じて屋上につながっていた。
◆この階段は2階と3階までがオープンで、他の階では木製のドアで仕切られていた。
◆階段室から直接外部へ出ることはできず、2階のロビーを通って3カ所の両開きドアから出られるようになっていた。
◆エレベーターは8台。うち4台はオフィス用で、3台がホテルの客用、1台がサービス用。
◆消火栓は、オフィス側に1カ所、ホテル側に2カ所あった、
◆自動火災報知設備もオフィスとホテルの両方にあったが、消防署直通ではなかった。
◆1階には手動の自家発電装置があった。
◆着工は1967(昭和42)年、竣工は1969(昭和44)年。
◆詳細な場所は、明洞と南大門市場との中間の忠武路(日本統治時代の本町)。

 さて、時は1971(昭和46)年12月25日、クリスマス当日のことである。

 時刻は朝10時過ぎ(午前9時50分頃という資料も)。当時、建物のホテル側には約200名の客と70名の従業員がいた。休日だったため、人の動きはほとんどなかったようだ。オフィス側にも15名がいただけ。きっと、のんびりした空気だったのではないかと思う。

 出火は突然だった。2階のコーヒーショップでプロパンガスが爆発したのだ。2本あったボンベのうち、片方がガス漏れを起こして小爆発を起こし、それがもう一本に引火したと考えられている。

 この爆発で、付近にいた三人のウェイトレスが即死。カウンターの内側にいた三人と、外側にいた一人が火傷を負った。この時、店内にお客が一人もいなかったのは幸いだった。

 そこからあっという間に火炎が拡大した。まず現場のコーヒーショップからロビーへ延焼し、たちまち階段は使用不能に。さらに煙と有毒ガスが3・4階に充満し、空調のシャフトなどから全館に拡がった。建物の内壁には、可燃性の素材が使われていた。

 普通に考えると、炎は下から上へ広がっていくものだ。だがこの火災では、火元の2階から、中間階をスキップして一気に最上階のスカイラウンジへと延焼した。消防の動向については後述するが、消防車が到着した時にはすでに21階まで燃え広がっていたという。そしてオフィス側の18~20階には最上階から下っていく形で延焼し、一時間ほどで建物全体に火が回った。

 ビル内にいた人々はどうなったか。結論を先に言えば、163名が死亡し63名が負傷、行方不明者は25名にのぼった。死者数がここまで増えたのは、クリスマスのイベントにちなんで多くの宿泊客が滞在していたからだった。

 日本では、クリスマスだからと言って休日になるわけではない。その点は韓国も同じなのだろうか? だとすれば、この火災が起きたのが休日だったのは不幸中の幸いだった。もし平日だったらオフィス側でもっと死者が出ていた可能性もある。

 ホテルの宿泊客が火事に気付いた時には、すでに廊下と階段は煙でいっぱいだった。結果、逃げ遅れて死亡する者や、脱出中に煙に行く手を遮られて飛び降りる者などが続出。また、23名が屋上に逃げようとしたものの、ホテル側から屋上に通じる扉が施錠されていたため、スカイラウンジに追い詰められた形で亡くなっている。

 一方で、屋上に脱出できた者もいた。従業員しか知らないタラップがあったとかで、これで8人が屋上へ到達している。彼らは陸軍のヘリで救助されたが、吊り上げられた際に2名が墜死した。

 生存者は、おおむね自力での脱出、あるいはハシゴ車やヘリコプターによる救助などに分類される。出火後もエレベーターはしばらく使えたため、それで逃げた者や、2階の庭や隣の建物の屋上へ飛び降りた者などがいた。またハシゴ車では50名以上が助かっている。
 
 特筆すべきは、「シーツで作ったロープ」による脱出者がいたことだ。例えば当時15階にいた日本人は、ベッドのシーツをつないで14階まで降り、窓を蹴破って室内に侵入。そこでまたシーツでロープを作って下の階へ……という手順を繰り返し、なんと7階まで降りたところで救助された。資料によると、この方法で少なくともあと2人が脱出している。

 消防の動向はどうだったのか。

 消防は、午前10時17分に第一報を受信している。なんでもソウルでは、消防局は警察の一部門であるという。そして市内全体を四つに分けた各地区に司令所があり、大然閣ホテルは、建物から一キロほどの場所にその司令所があった。

 しかし、いくら近くとは言っても、火の回りは想像以上の速さだった。消防隊が到着した時には建物の中に入るのはもはや不可能で、外から消火と救助活動を行うしかなかった。

 通報から一時間以内には、陸軍と米軍のヘリコプター8機が到着して屋上への避難者を救出している。さらに、逃げ遅れて窓から身を乗り出している人をロープで吊り上げようとしたが、これは炎による上昇気流と煙がひどく、うまくいかなかった。

 正午には、約40台の消防車などが集合した。さらに大統領の命を受け、国家警察の消防隊と30人の医療スタッフが緊急出動し、米軍の消防隊やポンプ車も召集されている。

 最終的に、総勢530名の消防士、750名の警官、115名の軍人が駆り出され、うち200名の警官が、数千人の野次馬の整理にあたったという。数千人って大げさじゃね? と、筆者はちょっと思ったのだが、当時の映像をyoutubeで見て「なるほど」と納得した。

 火災制圧が宣言されたのは午後5時半のこと。それでも建物内は熱気がひどく、消防隊も7階以上にはすぐには進入できなかったという。

 遺体の捜索は午後8時頃から18時間に渡って行われた。亡くなった人々の内訳は以下の通り。

◆建物内で発見……121名(うち3名はエレベーターで発見)
◆飛び降り…………38名
◆ヘリコプターから墜落……2名
◆病院収容後に死亡…………2名

 死亡者は、韓国人、日本人、中国人、アメリカ、インド、トルコ人と国籍も多岐に渡っていた。ただし17名は最後まで身元不明だったという。死者数163名という数字は、1946(昭和21)年にアトランタで起きて119名が死亡したワインコフホテル火災の記録を塗り替えるもので、ホテル火災としては当時の世界史上最悪の数字となった。

 大然閣ホテルとワインコフホテルの二つの事例には、後から見て看過できない共通点がいくつかあったようだ。例えば、ホテル部分の階段が一カ所だけだった。内装が可燃性だった。下層階から出火したため、階段で避難できなかった――。これを踏まえつつ、参考資料『火災安全工学』では、大然閣ホテルの問題点を以下のように要約している。

①ロビーにLPガスボンベを置き、危険な状態でガスを使用していた。
②階段がホテル部分に1カ所しかなかった。しかも、階段の防火区画は不十分で延焼経路となったため、避難ルートには使えなかった。
③内装材、下地材等が可燃性であった。
④耐火構造の間仕切も天井裏に開口があり、延焼ルートになった。
⑤屋上への出口がロックされていた。

 物的損害は、当時の推定で約8億3820万ウォンとされた。

 さて、その後の話である。

 同ホテルは改修を経て、1973(昭和48)年――どうでもいいが太洋デパート火災と同じ年だ――に「ビクトリアホテル」と改称して営業を再開した。

 だが、経営がうまくいかなかったのか、翌年には「大然閣観光」という会社に買収された。もともとの大然閣ホテルとの権利関係が判然としないが、たぶん親会社とかなのだろう。そのうち、ホテルは「高麗大然閣タワー(고려대연각타워)」と改称してオフィスビルになった。

 ちなみに大然閣観光は1982(昭和57)年には高麗通商と変名し、高麗通商グループを形成。1997(平成9)年のIMF経済危機によってグループ自体は解散したが、今でも高麗通商の名で、元子会社の東光製薬との循環出資でビルの所有を続けているとか。

 んで、蛇足の蛇足だが、2010(平成22)年2月27日には、同じ建物でまた火災が起きた。現場は屋上の冷却塔で、これは消防車により14分後に鎮火したという。よかったよかった。

【参考資料】
◆岡田光正『火災安全学入門―ビル・ホテル・デパートの事例から学ぶ』学芸出版社、1985年
◆ウィキペディア

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◆カンボジア水祭り事故(2010年)

 2010(平成22)年11月22日のことである。カンボジアの首都プノンペンは、一大イベント「水祭り」で盛り上がっていた。

 水祭りとは、雨期の終わりを祝うイベントである。毎年、この地域では11月に雨期から乾期へと変わることから、3日間にわたって豊かな大河の恵みに感謝するのだ。このイベントはプノンペンだけではなく北西部のリゾート地であるシェリムアップでも行われる。起源は定かではないものの由緒ある歴史的な伝統行事で、毎年カンボジア各地から300万人が訪れるという。

 22日はその水祭りも最終日。当地では野外ライブが行われ、川の船上で音楽が奏でられ、花火も打ち上げられ、ボートレースが行われ…とにぎやかだった。

 ところが惨劇が起きだ。21時半頃のことである。

 現場となったのは市内にある吊り橋「ペッチ橋」だった。それは、プノンペン市内の振興開発地域「ダイヤモンド・アイランド」と、市街地との間に設置された二本の橋のうちのひとつだった。

 少し説明すると、「ダイヤモンド・アイランド」とは、メコン川とトンレサップ川の合流地点あたりの中州を開発したリゾート地域である。その別名が「ペッチ島」で、もちろん水祭りの期間中はここでもコンサートなどのイベントが開かれていた。これとあわせて、ペッチ橋もライトアップされていた。

 ペッチ橋の長さは約100メートル、幅は約8メートル程度。狭い橋である。そこに大勢の来場者が集まっていた。

 事故の原因については諸説あるようだが、政府は「デマによる混乱」が直接的な原因としている。橋にあまりにも大勢が集まりすぎたせいで、「橋が壊れるのではないか」という噂が発生したのだ。

 ペッチ橋は、プノンペンでは初めての吊り橋だったらしい。それで、吊り橋の揺れというものに不慣れな人たちから「橋が壊れるぞ!」「橋が落ちるぞ!」とデマが拡散し、大勢が一斉に動き出したのだ。その結果、将棋倒しになったというわけである。

 ただこれはあくまでも政府の見解で、一部では「感電」が原因だったとする説もある。実際、橋の電線が切れて感電した者がいたという証言もある。

 また、何に使ったのかは不明だが、当時は警察の放水車も出動しており、これが感電の一因になった可能性もある。水祭りにあわせて橋がライトアップされていたのも先述の通りで、電線が切れたというのはその電飾のことだったのかも知れない。さらに、大勢の犠牲者を収容した病院の医師も、事故発生から数時間後に受けたマスコミの取材に対して「犠牲者の二大死因は窒息と感電だ」と述べている。

 ところでのちの事故調査委員会の報告によると、当時ペッチ橋の上には7~8千人がいたという。この数字が本当なら、橋の面積は小さく見積もっても約700平方メートルで、当時は1平方メートルあたりに10~11人がひしめき合っていたことになる。こんな押し込め方、物理的に可能なのだろうかと疑問に思ってしまうレベルだ。

 そういう密集状況での将棋倒しなので、実際にはもはや将棋倒しと呼ぶのも生易しいほどの惨状だった。橋の上は転倒した人々でいっぱい。それをどんどん踏んづけて走り抜けていく群集。さらに50人ほどが川に飛び込んだ(あるいは押し出された?)がほとんどが溺死し、これは舟が手当たり次第に遺体を引き上げたという。

 事故に巻き込まれ、負傷した女性の一人は「至る所から助けを求める声がしたが誰も手を出せなかった。横たわっている60歳くらいの女性の上を、何百という人が踏み越えて行った」と話している。

 事故直後の現場には、犠牲者たちの靴や服、飲みかけのペットボトルなどが生々しく散乱していた。このへんの事故当時から直後までの様子は、少しググると写真で何枚も見ることができる。

 死傷者数の統計もかなり混乱したようだ。当初は死者が375名とか456名とか負傷者が755名とか言われたが、最終的には政府・地元当局・事故調査委員会の協議により死者347名、負傷者395名という数字で落ち着いている。ちなみに死者347名のうち221名は女性だった。

 政府も、祭りの大混雑をほったらかしにしていたわけではない。遊覧船事故の防止や、スリ対策には力を入れていた。だが群集整理については甘さがあったことを素直に認めている。

 ペッチ橋は民間のものだった。よって警備も民間の警備会社が担当し、警察はペッチ橋以外の場所で整理をサポートする程度だった。そんな役割分担なので、警察が到着したのは事故が起きてから一時間半も経ってからだった。「群集事故が発生した時に警察官がいなかった」というのは、国の内外を問わず、多くの事例に共通するパターンである。

 事故直後には、ダイアモンド・アイランドへの客足は8~9割減。特に事故現場であるペッチ橋は「二度と渡りたくない」という人もいたとか。これは翌月の12月8日まで封鎖されていたが、僧による魔除けの儀式を経て再開通した。

 この事故について、フン・セン首相は「1970年代のクメール・ルージュ時代以降で最悪の事態だ」とコメントし、毎年25日を追悼の日にすると宣言。事故直後の追悼式では、プノンペンのそれぞれの政府庁舎で反旗を掲げ、多くの学校が休校となって献花などが行われたという。現在もこうした形で追悼を行っているのかどうかは不明だ。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆ウィキペディア「水祭り」

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◆大阪ツインタワー将棋倒し事故(1997年)

 1997(平成9)年10月2日のことである。

 時刻は午前10時20分頃。大阪市中央区城見にある「大阪ビジネスパーク」内の超高層ビルを、164名(資料によっては165名とも)の小学生が見学に訪れていた。同市の河内長野市立加賀田小学校の三・四年生である。

 大阪ビジネスパークとは、1960年代後期(昭和40年代)以降に大企業が共同で建設した再開発地域である。超高層ビルと都市公園で構成された近代的な場所で、大阪市の経済・商業の一大拠点でもある。

 児童が見学に訪れていたのは、このビジネスパークの中核的な建物であるTWIN21(ツインにじゅういち)、通称「大阪ツインタワー」だった。地上38階建てで、2階には「電気科学館」という施設があることから、しょっちゅうこうした形で子供たちの見学を受け入れていたようだ。

 さて、児童たちは、くだんの電気科学館をめざしてエスカレーターに乗り込んだ。

「はーいみんな、エスカレーターは2列になって乗ってくださ~い」

 と言ったのかどうかは分からないが、引率の先生はちゃんとそう指示した。子供たちもそれに従った。

 しかし、つくづく子供というやつは動きの予測がつかない。よっぽどはしゃいでいたらしく、先頭の児童が後ろ向きで乗り込んでしまった。

 なんで後ろ向きに? と最初ちょっと不思議だったのだが、大阪ツインタワーの現在の間取りをホームページで見てみて、なんとなく想像がついた(間違っているかも知れない)。この建物の一階には巨大な円形ホールがあり、そこから上階に向かって巨大な吹き抜けとなっているのだ。もし当時も同じ構造だったとしたら、これはエスカレーターで後ろ向きで眺めたら見応えがあったことだろう(繰り返すが、この想像は間違っているかも知れない)。

 さて、エスカレーターは二階に到着した。しかし、後ろ向きになっている児童はそのことに気付かない。いきなり足元が停止したことで、つまずいて前のめりに倒れた。そして後続の児童にぶつかってしまった。

 そこからは将棋倒しである。エスカレーターで上から下へバタバタと転倒が連鎖し、見学に来ていた児童のうち60名が折り重なって倒れてしまった。

 一大事である。事故に気付いたビルの職員が急いでエスカレーターを非常停止させたものの、最終的に32名が打撲などで病院送りとなってしまった。このうち、四年生の女の子は左足を骨折し入院している。

 「目の前が急に真っ暗になった。下敷きになって重くて動けなかった」――。事故に巻き込まれた児童のひとりは、こう証言した。

 さて、引率の先生は、児童が後ろ向きで乗っていたことに気付かなかったのだろうか?

 どうやら、気付かなかったらしい。

 当時は七名の先生が児童を引率していた。が、先述の通り、うち一人はエスカレーターの下で児童を2列に並ばせており、他のことには注意が向かなかった。また、もう一人がエスカレーターの「上部」にいたというが、これは離れていたため十分に目が行き届かなかったとか。

 参考資料の表現が曖昧なため、また想像が膨らんでしまうのだが、もしかすると「上部」にいたという先生は最上部の降り口で児童たちを待ち構えていたのではなく、児童と一緒にエスカレーターに乗っていたのではないだろうか。

 そういえば資料によると、「エスカレーターの真ん中ぐらいまで来たとき、上の方から子供たちが次つぎに落ちてきた」と証言している先生がいた。この人が「上部」にいた先生と同一人物だったと考えると、なるほど最上部の降り口にいる場合と比べて、先頭の児童の様子には気付きにくいかも知れない。

 まあ、このへんは特に意味のない想像である。

 事故が起きたエスカレーターは800型と呼ばれるごく標準的なタイプで、踏板の幅は約60センチ。たぶんこのタイプはほとんどの人が乗った経験があると思うが、大人が一人でやっとの幅である。子供だって二列で乗ったらギチギチだろう。これでは、将棋倒しが起きても避けようがない。

 もともと、頻繁に児童の見学を受け入れていたツインタワー側では、幼稚園児が見学に訪れた場合には階段を利用させるルールになっていたようだ。また河内長野教育委員会も、児童が集団で施設を見学する場合は、原則として階段を使わせていたという。

 しかし、小学三・四年生である。幼稚園児に比べればずっと安全だろう――ということで、ビルの管理会社と学校とで相談して、今回はエスカレーターを使おうという結論になったのだった。それで事故ったのだから切ない話だ。死者が出なかったのは不幸中の幸いだったと思う。

 業務上過失傷害の疑いで、大阪府警による捜査も行われている。その後どうなったのかは不明だ。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆山形新聞
◆ウィキペディア

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◆竹下通り事故(2010年)

 2010(平成22)年3月26日のことである。夕方の16時を過ぎた頃、ある噂がインターネット上で飛び交った。

「竹下通りにHey! Say! JUMPがいるらしい」
「AKB48もいるらしい」
 ……

 デマだった。

 竹下通りは、言わずと知れた東京都渋谷区のあの商店街である。十代の若者に人気のオシャレの聖地。プリクラにクレープ、バンギャ、そしてきゃりーぱみゅぱみゅ。日本国内はもとより、世界中から多くの人が集まる、日本文化の発信地のひとつだ。(※)

(※ちなみに筆者は行ったことがない)

 そんなエリアなので、芸能人が来た! あるいは今から来る! などという情報が入ってくると、なるほど竹下通りならそういうこともあり得る……という気持ちになってしまうのかも知れない。上述のデマは、メールやツイッターを通して爆発的に拡散した。

 当時、くだんの竹下通りは歩行者天国真っ最中。ウィキペディアによると、もともとこの通りは11時から18時まで車両進入禁止となる習わしらしい。しかも、この日は春休みの時期だったこともあり、十代の若者がたくさんおり普段よりもにぎわっていた。

 で、そこへデマを真に受けた人々がやってきた。資料を読んでいると、彼らはじわじわと集まってきたのではなく、一斉に大挙して押し寄せてきた感じだったようだ。こうして、ただでさえ人でいっぱいだった通りは、溢れんばかりになってしまった。

 筆者は現場の地理に疎いので自分の言葉ではうまく説明できないのだが、人でごった返した具体的な場所は、資料によると「原宿駅側の入り口付近の路上」の、道幅約6メートル、長さ100メートルの範囲だったという。さらに言えば、「竹下通りの入り口が、両方向からの人で」大混雑となり、パニック状態に陥ったらしい。東京の方は、この書き方で大体どのへんのことなのかイメージできるだろうか。

 さて群集の中には、「芸能人が来てるの? 誰?」と、とりあえず手持ちの携帯を掲げて写真を撮ってみる人もいた。撮影する余裕がある人は幸いで、多くの人はあまりの人の多さに恐怖と混乱をおぼえていた。また「靴がない」「財布がない」などの叫び、悲鳴、泣き声も上がったという。

 この時、群集の流れに巻き込まれた人たちはこう証言している。

 その1(女子中学生)
「アイドル歌手と俳優が撮影に来るという話が伝言ゲームみたいに伝わった」

 その2(女子中学生)
「人気俳優がいると聞いた。少したつと今度は女性アイドルグループの名前に変わっていた」

 その3(女子高生)
「(芸能人を)『見た』という人もいて、本当かなと思った」

 その4(女子中学生)
「逃げようと思ったら、後ろからどんどん押されて身動きが取れなくなった。満員電車よりひどい状態で、足が浮いた」。

 その5(女子高生)
「10分間くらい体が人込みに流された。20メートルくらい動いて、足も浮いた。動きたい方向に動けず必死だった」

 また、人々の中には、この大混雑の模様をSNSで中継する者もいた。

「竹下通りで怪我人。ものすごい混雑」(16時37分頃)
「速報:警視庁によると、原宿の竹下通りで、多数の人が折り重なるように倒れ、複数のけが人が出ている」(16時59分、ツイッターによるニュースのリツーイト)
「この混雑は異常だ」(17時1分)
「い、いつ収まるんだよ…怖いよ」
「ジャニーズ宗教法人化と聞いて飛んできました」
「ここは法治国家です」

 などなど、当時の切迫感が伝わってくるものから意味不明なものまで、いろいろあったようだ。中には16時27分に撮影された動画で、あちこちから悲鳴が聞こえてくるものもあった。

 原宿警察署もこれはヤバイと感じたらしく、群集に対して「Hey! Say! JUMPは竹下通りには来ておりません!」と呼びかけている。

 やがてこの群集の中から怪我人が出るのだが、具体的にどのような経過で事故が発生したのか、それは定かでない。

 例えば当時、近くにいた女性は「キャーという歓声が上がったので、有名人が来たんだなあと思ったら、物凄い勢いで人が集まってきた」と話している。

 しかし、芸能人が来るという噂がデマだった以上、このキャーという歓声が上がったのと、人が集まってきたこととの前後関係あるいは因果関係は不明である。逆に、人が集まってきたから誰かが転ぶなどしてキャーという悲鳴が上がり、それで芸能人が来たと勘違いした人たちがまた集まってきたとも考えられる。

 また、近くの商店の店員さんは「午後4時ごろから人が増え、身動きできない状態になった。あちこちで女性の悲鳴が聞こえ、人が折り重なるように倒れた。放心状態で座り込んでいる女性もいた」と話している。

 将棋倒し事故と聞くと、我々は真っ先に「一人がコケたことがきっかけで、大勢が次々に転倒して大惨事」という事態を想像してしまう。だがこの時の竹下通りで起きた事故は、イメージとしてはラブパレード事故と同じようなパターンだったのかも知れない。大混雑のため、あちこちで転んだり押されたりした人がいて、そのうちの何人かが怪我を負ったり具合が悪くなったりしたのだ。

 だから筆者としては、この事故の名称には「将棋倒し」という言葉は使わないでおいた。あの言葉には扇情的なところがあって、いかにも大惨事をイメージさせる。マスコミも、群集事故と言えばこの言葉を使いたがる。だが、群集事故の恐ろしさは将棋倒しだけにあるとは限らない。

 ともあれ、パニック状態の中で事故は起きた。資料の中で16時20分頃という具体的な数字が記されたものがいくつかあったが、これはどうやら119番通報があった時刻らしい。

 その16時20分という時刻の前後で、どのくらいの規模の将棋倒しが、何回発生していたのかは不明だ。おそらく、当時その場にいた人たちだってよく分からなかっただろう。資料によっては、一部の人がつまずいて転び、しゃがみ込んだところに何人かが押されて折り重なった……とあったが、そう書いてある以上は、少なくとも一回はそういう将棋倒しが起きたのだろう、と推測できる程度である。

 結果、複数人が過呼吸に陥ったり顔面を打撲したりして、手当を受けたり病院に搬送されたりしている。怪我を負ったのは全て十代の女性で、全員が軽傷で済んだのは幸いだった。

 それにしても、「芸能人が来る」などというデマは一体どこから飛び出したのだろう?

 これはどうやら、同じ日に、近くの代々木競馬場で決勝戦が行われた「春の高校バレーボール全国大会」が原因だったらしい。これにHey! Say! JUMPがスペシャルサポーターとして出演するとかしないとか、そんな情報が発せられて(それすらも真偽のほどは不明)、なぜかそれが「竹下通りでゲリラライブをするらしい」というデマに変わってしまったのだ。

 これらのデマと、事故の情報には、マスコミも翻弄された。あるネットニュースは、一度はジャニーズの名前を出して報じている。またあるメディアはAKB48説を報じている。だがネット上に流れたそれらの記事は、情報が更新されるたびに削除されたりした。

 もともと竹下通りでは「有名人がいる!」という噂につられて人が集まることは珍しくなかった。ただ、怪我人が出る騒ぎになったのは初めてで、そんなのはこれが最初で最後であってほしいものである。

 教訓としては、もしあなたが竹下通りにいて、「芸能人が来るらしい」という噂をネットで見かけたら、すぐにその場から逃げた方がいいということである。群集てんでんこ。デマというやつは、それ自体が混乱と事故を発生させる「群集事故警報」でもあるのだ。

【参考資料】
◆ウィキペディア

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◆静岡駅前地下街ガス爆発事故(1980年)

 1980(昭和55)年)8月16日、筆者が生まれて三日後のことである(蛇足)。

 場所は静岡県紺屋街葵区、すなわち静岡駅前のあたりである。そこは宝石店などが立ち並ぶ繁華街で、さらにその地下街は通称「ゴールデン街」と呼ばれていた。

 最初の爆発が起きたのは、そのゴールデン街にあった飲食店「菊正」である。それは従業員が湯沸かし器に点火しようとした時のことだった。

 どぼずばあーん。

 この爆発が起きたのは午前9時31分。爆発と言っても小規模なもので、怪我人もなかったらしい。

 とはいえ、現場の菊正と、さらにその隣にあった「ちゃっきりずし」という店の床と機械室は大破してしまったらしい。それで怪我人がゼロというのもちょっと驚きだが、たぶん大破したのは壁越しとかだったのだろう。

 これらの商店は、地下街の一角であると同時に、地上6階・地下1階建ての「静岡第一ビル」の地階でもあった。先述の菊正やちゃっきりずしは、このビルの地下1階で営業していたのである(※資料によっては「静岡第一中央ビル」とも)。

 このビルは1964(昭和39)年に建てられた。全国的に高層建築物が次々に建てられ、それでも飽き足らず地階まで掘り進んでいった時代の産物である。収容人員は712人、テナント数は88店舗という規模で、ゴールデン街は、こうしたビルの地階が複数、地下で連結する形で、1960年末から70年代にかけて形作られていったのだった。

 さて菊正とちゃっきりずしで爆発事故があったということで、さっそく消防に通報が入った。ちなみにこの通報は、爆発現場のちょうど上階にあった靴屋「ダイアナ」から行われている。

 事故を検証するため、すぐに消防士や消防団員、警察官、ガス会社の担当者が駆け付けた。また報道関係者も一緒に地下街へ入っていった。

 出火のおそれもあるので、放水態勢もばっちりだ。消防隊は人命検索を行い、9時35分には火災警戒地区を設定。「火気厳禁」と「現場周辺からの退去」の広報活動を実施した。

 当時、地下の現場へ同行したテレビ静岡の記者A氏は、「それほどの被害ではないな」と感じたという。パニックになる者もおらず、現場にいた全員が冷静だった。

 と、嘉門達夫風に言えば「ここまではエエねん」である。

 ところが事態は急変する。現場検証を行っていた消防士が高濃度の可燃性ガスを検知したのだ。そこはビルの屋内階段の、一階に通じる踊り場である。爆発で大破したちゃっきりずしの機械室とはコンクリートの壁一枚で隔てられた場所だった。

「大変だ、みんな逃げろ! 脱出だ!」

 危険な可燃性ガスが充満する中で、消防士たちは、現場とその周辺にいた人々へ地下街からの脱出を促す。もちろんガスそのものへの対応も必要だ。一体どれくらいの濃度でどこまで広がっているのか。出どころはどこなのか。急いで排気しなければ――。

 余談だが、漫画『め組の大吾』を思い出す。

 あの作品にはさまざまなタイプの事故災害が登場するが、「ガス爆発の危険が迫っている中で人命救助に向かう」というシチュエーションは二回あった。

 もちろん作品内では無事に全員が生還するのだが、では間に合わなかった場合はどういう結果になるのか…という実例が、まさにこれなのである。

 時刻は午前9時56分。全員が地下街から脱出する前に、大爆発が起こった。

 どぼずばああああああん。

 この2回目の爆発の火元は、先にも名前を挙げた靴屋さんだったとされる。

 先に登場した、記者A氏も、この二度目の爆発に巻き込まれた。彼は一命を取りとめ、命からがら地上へ脱出している。この時、既に地下街の商店は軒並み全半壊していた。

 そしてA氏が地上に脱出して目にしたのは、信じられない光景だった。静岡駅前の通りは、瓦礫だらけの廃墟と化していたのだ。

 爆発は地下街のみならず、地上にまで大きな災禍をもたらしていたのである。路上には爆風で吹き飛ばされた大勢の人が倒れ(爆風は、地下から約60度の角度で道路に噴き出したとされている)、現場となった静岡第一ビルは1階と2階が大破し煙を噴き上げていた。

 ビルの周囲も大きな被害を受けていた。真向かいにあった西武百貨店静岡店や周囲の商店、雑居ビルは壁面やガラスが吹っ飛んでおり、現場から半径100メートルの範囲で火災が発生していた。

 またこの時、現場に駆け付けたところで二度目の爆発に遭遇したNHK記者も、この時の駅前通りの様子について「髪が灰色、全身血だらけの人がさまよっていた」と証言している。

 地下街で起きたガス爆発が、地上にこれほどの被害を与えたのには理由があった。

 この事故では、一度目の爆発でガスの配管が破損し、そこから都市ガスが漏れて二度目の爆発を起こしたとされている。都市ガスは空気よりも軽いことから、エレベーターの昇降路などを通って上へ上へと充満していったのだろう。

 また「乱流現象」というのがあるらしい。爆発によって、炎は一瞬でブワッと拡大するわけだが、この時、中途半端に障害物があると、逆に爆風や火炎の勢いが増すらしいのだ。床やら壁やらが存在する建築物の地下での爆発は、その構造ゆえに、地上階での被害を拡大させたのだった。

 さて、現場には消防や救急車など43台が駆け付け、消火と救助活動が行われた。動員人数は消防長や消防団員など708名。彼らは延焼拡大の防止とビル内の避難誘導、はしご車による救出、がれきの下敷きになった人の救助などにあたった。ビルの屋上からは3名が助け出された。

 爆発でめちゃめちゃ、しかも火災が続いている現場である。消防士らによる活動が困難を極めたことは容易に想像がつくが、困ったことに爆発はその後も繰り返し起きた。おかげで火災は収まらず、危ないことこの上ない。とことんひどい状況だった。

 現場のビルではガスが漏れ続けていたのだ。現在だったら、異常事態が起きると自動的に、あるいは遠隔操作でガス管を閉じられるようになっている。しかし当時の安全基準では、こうした設備をビル内のガス管に設置する義務はなかった。

 なので、現場でいつまでも続いているガス漏れを何とかしなければならない。そこで採られた方法が――これは資料ではさらっとしか書かれていないが――よく考えてみるとかなりドラマティックである。

 ガスの供給を完全に止めるには、マンホールの中の遮断弁を手動でいじる必要があった。だが爆発によってマンホールの上には瓦礫が積み重なり、静岡ガスの職員たちは手も足も出ない。そこで道路を掘削し、ガス管に穴を開けてバルーンを入れ、ガスが外に出ないようにして遮断したのだ。知恵と創意工夫の賜物である。

 このガス遮断作業が完了したのが14時10分のこと。つまり、二度目の爆発が起きてから4時間もの間、現場ではガス漏れが続いていたのである。

 15時30分には、火災も鎮火した。

 結果、消防士4名を含む15名が死亡、223名が重軽傷を負うという結果になった。資料の現場見取り図を見ると、地下街で4人が亡くなっているのでこれが殉職した消防士だったのかも知れない。また、建物への被害も163件あった。

 死傷者のほとんどは、地上にいた人だったという。お盆の時期の土曜日だったため買い物客が多かったのも、負傷者が増えた原因だろうと言われている。

 ちなみにだが、二度目の爆発のあと、大勢の通行人が写真撮影をしたり救助活動を行ったりしていたらしい。救助活動をするのはまあ良い心がけなのだが、現場ではガス漏れが続いていたという事実や、大勢の野次馬が巻き込まれた天六ガス爆発事故のことなどを思い出すと、ますます被害が拡大した可能性もあったのではないかとゾッとする。

 この事故は、ガス爆発による都市災害としては、天六ガス爆発事故に次ぐ規模である。どうでもいいが、資料に使ったテレビ番組の動画では「史上最悪」とあったがあれは嘘だ。どうしても最悪にしたいのなら史上最悪「級」とすべきだろう。

 さて裁判である。

 事故が起きてから16年後(長っ!)の1996(平成8)年に、静岡地裁は、事故の経緯について次のように認定した。

 まず一度目の爆発は、これは地下に溜まったメタンガスが原因だった。

 この爆発で、今度は都市ガスのガス管が破損した。そして、漏れたガスはダクトなどを通じて地下街およびビル一階の店舗に流れ込み、致命的な二度目の大爆発を起こしたのである。

 これについては、静岡ガスの社員2名が業務上過失致死傷で書類送検されたが、不起訴処分となった。

 またそれとは別に、ビル管理会社と入居者と静岡ガスの三者で、誰が責任を負うかをはっきりさせる裁判も行われている。ビル側と入居者側は、ガス会社の責任を追及するために、現場となったビルを長い間そのままにしておいて一般にまで公開していたという。

 こっちの裁判は結論がどうなったのか不明である。それにしても、現場のビルを長い間一般公開していたというのは聞き捨てならない話だ。ホテルニュージャパンのように、誰か写真撮ったりしていないかな……というのは、マニアならではの独り言である。

 この事故は大きな教訓を残した。少し時系列が前後するが、事故の翌年の1981(昭和56)年には消防法施行令が一部改正され、地下街などの施設でガス漏れを検知する火災警報設備を設置することが義務付けられている。

 事故当時、ゴールデン街のような地下街は全国に78ヶ所あったという。しかし上述の通り保安基準が一挙に厳しくなったことから、その後しばらくの間は、地下街の新設がなかなか認められない状況が続いたとか。神奈川県川崎市の川崎アゼリアは開業まで1986(昭和61)年までの年月かかったし、また仙台市では地下街の開発計画そのものが中止となったという。

 ゴールデン街は、その後復旧した。そして幾度かの改称を経て、現在は地下街を「紺屋町地下街」、地上を「紺屋町名店街」と呼んでいるようだ。ちょっと検索したらすぐに街の様子を見ることができて、実に明るく良さげな雰囲気なのでホッとした。こんなブログで黒歴史をほじくり返すのはちょっと気が引けるほどだ。

 とはいえ、事故の記憶は今も生きている。2019(令和元)年11月22日には、紺屋町名店街と市消防局葵消防署による合同訓練が行われた。これは、震度6弱の地震でガス漏れや火災が発生した場合を想定したものだった。

【参考資料】
◆ウィキペディア

◆シンガポール航空006便離陸失敗事故(2000年)

 2000(平成12)年10月31日、日付が変わる少し前のことである。

 台北――中華民国台湾北部――近郊の、桃園県にある空港「中正國際機場」(※)は、台風20号の接近で強烈な風雨にさらされていた。当時は台湾全土が風速15m以上の強風圏に入っていたという。

(桃園(タオユエン)県は現在の桃園市。また、中正國際機場は現在の台灣桃園國際機場のこと)

 台湾はもともと「台風銀座」などと呼ばれるくらい、毎年3~4個は台風が直撃するらしい。えっ? 台湾に銀座はないよね? などというツッコミはこのさい止すことにしよう。とにかく当時、空港では欠航が相次いでいた。

 しかし、空港が閉鎖するほどの悪天候というわけでもなかった。強風が吹き荒んでいるとはいえ、まだ離陸不可能な風速というわけでもない。現時点で飛行機事故が起きるかと言えばまだ「確率はゼロ」と言っても差し支えない状況だった。

 では、離陸できなくなる風速はどれくらいかというと、これは「横風30ノット」(1ノット=時速1.852km)。ここまでくれば、さすがに離陸不可能となる。よって、航空機をスケジュール通りに運行したければ、この横風30ノットに至る前に離陸しなければならない――。

 そんな中でスタンバっていたのが、シンガポール発ロサンゼルス行き006便のボーイング747-412(9V-SPK、製造番号28023)である。運航しているのはシンガポール航空だ。

 エンジンを始動した同機は、管制官から「滑走路05L」へ向かい、離陸許可を出すまでそこで待機するようにと指示を受けた。同機はこれに従い、空港内でタキシング(航空機が地上を移動すること)を始めた。

 問題はここからである。

 当時、台北国際空港には「滑走路05L」と並行する形で「滑走路05R」が存在していた。そしてこの「滑走路05R」は、以前から工事中で使用禁止の状態だった。

 006便は、悪天候で視界が悪い空港内で、ゆっくり慎重に「滑走路05L」へと進んでいく――。

 ちなみに航空ジャーナリストの青木謙知は、この移動中に交わされた「緊張感を欠いた雑談」が、数分後に発生した事故の一因になったと述べている。ボイスレコーダーに録音されていたその会話というのは、以下の通り。

23時14分47秒(機長)
「オーストラリアでは、『次』は、ここなんだ。『最初』が『次』だからこれが『次』になる、知ってた?」
23時14分50秒(副操縦士)
「最初が次か」
23時14分51~53秒(機長)
「イェイ、ハハハ……オーストラリアさ。一番目、二番目というのが一番良い」

 何が面白いのかよく分からないが、とにかくこういう会話もあったということだ。

 006便はこうした状況の中で、直角のカーブを右へ曲がった。こうして同機は「滑走路05L」へ進入したはずだった。

 ところが、である。実はここで進入したのは「滑走路05L」ではなく、その手前の「滑走路05R」だった。006便は、目当ての曲がり角よりもひとつ手前で右折してしまったのだ。

 なんでこんな間違いが起きたのか、その理由は後述する。ともあれこのミスに気付き、修正するチャンスは一度だけあった。副操縦士が「何かがおかしい」ことに気付いたのだ。その時の会話は、以下の通り。

23時16分07秒(副操縦士)
「PVD(パラビジュアル・デイスプレー)が合わない」
23時16分10秒(機長)
「先に滑走路に合わせよう」
23時16分12秒(副操縦士)
「45度必要です」
23時16分15秒(副操縦士)
「了解、素晴らしい」
23時16分16秒(機長)
「イェイ」
23時16分23秒(機長)
「PVDがどうであっても気にしない。滑走路が見えているのだから、悪くはない。オーケー、まず機体を位置に置くことを優先。準備はオーケー、010で左から、オーケー」

 後になってから読むと、オーケーオーケーじゃねえよとツッコミを入れたくなるところだ。こうして006便は、誤った「滑走路05R」に進入した状態で着々と離陸準備を整えていった。

 この時、管制官は異常事態に気付かなかったのだろうか? 空港全体を見渡して航空機に離着陸を指示する立場にある彼らは、006便のミスをなぜ指摘しなかったのだろう。

 ――その答えは「よく見えなかった」だった。もともと管制塔から滑走路までの距離は1,600メートル。そして事故当時の管制官の視程は、台風プラス夜間ということでたったの600メートルだった。006便の誤った動きは全く見えていなかったのだ。

 そして管制官の当時の視認距離が600メートルなら、クルーのそれもたったの450メートル程度だった。どっちもよく見えていなかったのだ。たぶん当時はお互いに「あっちはちゃんと見てくれているだろう」と思っていたのだろう。

 管制官から離陸許可の連絡が入ると、それから約30秒ほどで、006便は「離陸決心速度」と呼ばれる速度まで加速した。ここまで加速すると、もはや離陸の中止はできない。中止しようものならオーバーランは必至だ。後に、フライトレコーダーの記録から、006便は1,243メートルまで滑走したことが確認されている。

 そして、それからわずか3秒後のことだった。機長が、滑走路上に障害物を発見したのだ。後になって判明するが、この障害物の正体は「滑走路05R」内の工事で使われていた掘削機やコンクリートブロック、工事用の車両などだった。

23時17分16秒(機長)
「何かあるぞ」
23時17分17秒:衝突音。
23時17分18秒(不明):
「ワーッ。」一連の衝突音。
23時17分22秒:録音終了。

 事故発生は2000(平成12)年10月31日午後11時17分18秒のことだった。

 衝突直前に、機長は操縦桿を引いている。おそらく障害物を避けるためにとっさに行ったのだろう、機体は2メートルくらいは上昇したようだ。それでも衝突は避けられなかった。

 バランスを崩した006便の機体は滑走路に墜落し、ぐるぐる回って大破。衝撃で大きく3つの部分に分断され、ロサンゼルス行きということで満タンだった燃料12万5千キロに引火して激しく炎上した。

 当時、同便には乗員20名、乗客159名の計179名が乗っていた。このうち、乗員4名と乗客79名の計83名が死亡し(なお邦人も1名含まれている)、80名が重軽傷。16名が無事で済んだ。火災そのものは事故後約45分で鎮火したものの、機首の部分はほぼ全焼。甚大な被害となった。

 検死や、生還した乗客などの話によると、墜落の衝撃による即死は免れたものの火災によって亡くなった人も多くいたらしい。よって、乗務員による避難誘導体制の不備も、後に指摘されることになった。

 「シンガポール航空006便離陸失敗事故」の発生だった。

   ☆

 シンガポール航空は1972(昭和47)年の創業以来、死傷者が出る事故を起こしたことがなかった。今回の事故は、同航空にとっては初の汚点となってしまった。

 事故直後に空港は閉鎖。しかし現場では50~60ノットの強風が吹き荒れ、すぐに現場検証を行えるような状況ではなかった。

 なんでこんな事故が起きたのだろう?

 当初、事故原因については様々な憶測が飛び交った。基本的に「パイロットが誤った滑走路に進入して事故った」などというのは、ほとんどあり得ないと言っていいほどのとんでもないミスである。だから最初はその可能性は低いとされ、台風による機体の横転説や、工事中だった「隣の」滑走路から建設資材が飛んできた説などが考えられていた。

 だが、台風がやっと落ち着いたところで調べてみたら、いくつか決定的な発見があった。

 まず、四方八方に飛び散った残骸の中から建設資材のパーツが見つかった。さらに「滑走路05R」には航空機の真新しいタイヤ痕が残っており、これらの証拠から、事故は人的ミスによって引き起こされたことが明らかになった。006便は、入ってはいけない「滑走路05R」に進入して離陸を試み、工事用の機材に衝突したのだ。

 一体なんでこんなミスが発生したのか、それは006便のコックピットクルーに聞くしかない。幸いにして三名のクルーたちは生存しており、事故直後から聞き取り調査を行うことができた。

 また、これと並行して、デジタルフライトデータレコーダー(DFDR)とコックピットボイスレコーダー(CVR)の、いわゆるブラックボックスの解析も行われた。この事故では、ブラックボックスは焼損を免れた機体後部にあったため回収はすぐにできたようだ。

 そして2002(平成14)年4月26日、台湾の最高機関たる行政院の飛行安全委員会は、パイロットが――特に機長が――滑走路をしっかり確認せず、誤って工事中の滑走路に進入したため今回の事故は発生したと結論を下した。

 事故調査報告書が挙げた理由は「プレッシャーによる判断ミス」。台風の中で安全に、かつ時間を守りながら飛行機を離陸させなければならない…という焦りのせいで、クルーはミスを犯してしまったのだ。

 クルーたちは決していい加減に操縦していたわけではない。ただ事故当時、彼らはそれぞれ別の作業に没頭しすぎてしまっていた。機長は低速でのタキシングに。副操縦士はチェックリストの確認に。そしてリリーフパイロットは横風の計算に……。その結果、航空機の正しい進行方向という一番肝心なものを誰もが見失ってしまったのだ。

 また、機長の安全運転が仇になった可能性もあった。

 通常、空港内でタキシングする場合は25ノットの速度で進む。だがこの時は悪天候だったこともあり、9ノットで「徐行運転」していた。

 これによって調子が狂ってしまった可能性があった。まだ短い距離しか進んでいないのに、走行時間が長くかかってしまったため、かなり先へ進んだと思い込んで「滑走路05L」に着いたと勘違いしたのかも知れない。実際にはそこは、もっと手前の「滑走路05R」だったというわけだ。

 もっと視界がよければ、こんなミスにはすぐ気付いたことだろう。

 また当時は、離陸間際になって順路の変更を管制塔から告げられたりしている。こうした変更自体は日常茶飯事ではあったが、他のことで頭がいっぱいだったクルーにとっては、大きなストレスだっただろう。

 もっともシンガポール側は、台湾側の調査結果に対してかなり不満だったようである。それも無理のない話で、台湾側の調査では、事故原因のほとんどがシンガポール航空のせいにされているのだ。

 それで、シンガポール側も独自の調査を行った。その結果、事故が起きた「滑走路05R」が、進入禁止にもかかわらず当時は物理的に閉鎖されていなかったことや、その誘導路の中心線で緑のライト(誘導灯)が灯っていたことなども事故の要因として挙げられた。要するに「空港にも責任がある」というわけだ。

 とはいえ、事故を起こしたクルーは、地図で事前に「滑走路05R」が工事中で使えないことを確認していたはずである。嫌な言い方だが「知らなかったでは済まされない」というやつだ。実際、そこでの工事はだいぶ前から行われており、同じ状況でも誤ってそっちの滑走路に進入した航空機はそれまで一機もなかった。

 こういったことを総合的に考えて、やっぱり機長の責任は大きいと思う。先述した「緊張感を欠いた会話」の件もあるし、また、誤った滑走路に進入した直後には、異常に気付いた副操縦士の指摘をスルーしている。この事故はほぼ純粋な人的ミスだと言われても仕方ないだろう。 

 誰にとっても不幸な事故ではある。それでも、事故機を運航していたクルーたちは厳罰に処され、機長と副操縦士は解雇された。

 この事故の教訓から、現場の空港には、悪天候時でも地上の様子を把握できるようレーダーが配備された。

 またシンガポール航空は、その後は死者が出るような重大事故を起こしておらず、現在も質の高いサービスと効率的な運航が売りとなっている。航空サービスリサーチ会社「スカイトラックス」は、世界で2番目に優れた航空会社として同社の名を挙げているし、2017(平成29)年に「AirlineRatings.com」は、世界の425の航空会社の中でも最も安全な20の会社のリストに同社を入れている。

【参考資料】
◆青木謙知『飛行機事故はなぜなくならないのか』講談社ブルーバックス、2015年
◆ナショナルジオグラフィックチャンネル『メーデー!:航空機事故の真実と真相 第10シーズン第3話「TYPHOON TAKEOFF」』
世界でもっとも安全な航空会社ベスト20
◆ウィキペディア

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◆アンドラウスビル火災(1972年、ブラジル)

 数ある高層ビル火災の中でも、ちょっと珍しい事例である。なにせ高さ100メートル・31階建ての超高層ビルが、丸ごと一本の火柱になって燃えたというのだから。

 1972(昭和47)年2月24日のことである。

 場所はブラジル、サンパウロ市でのこと。繁華街であるサンジョン通りに、アンドラウスビル(AndrausBuilding)は建っていた。竣工はちょうど十年前の1962(昭和37)年。地上31階建て、延べ床面積28,500平方メートル、高さは100メートルの超高層ビルである。

 中身は複合ビルで、1~7階が百貨店、8階以上が貸事務所だった。ここにはシーメンスやシェルなどの名だたる企業が入っていたという。日本企業で言えば、東京海上火災保険(株)のブラジル支店も10~24階の全フロアと6階の半分を所有しており、支店長以下、多くの職員がここで火災に遭遇することになった。

 なお、参考資料には、建物内部の造りについてかなり詳細に記してあった。せっかくなので書き写しておく。筆者は専門知識も何もないまま写しているだけなので読み飛ばしてもらっても問題ないが、建築関係に詳しい人ならより鮮明にイメージできるかも知れない。

【アンドラウスビル】
・基準階面積……930平方メートル
・天上高……3メートル
・階高……3.23メートル
・屋上……タイル貼り
・パラペット……高さ55センチ
・鉄筋コンクリート造り
・妻壁は20センチ厚の鉄筋コンクリートでタイル貼り
・ファサードは開放可能な全面スチールサッシでガラスは6ミリ厚
・スパンドレル(腰壁)はなかった
・床スラブは鉄筋コンクリートだったが、木製の仮枠が天井裏に残っていた(これが火災の被害を大きくしたとされる)

 さらに火災に関係する事柄を書き足しておくと、内装材の多くは可燃性だった。オフィス階の間仕切りの壁は木製パネルが主で、天井は木造下地の繊維板。床は寄木貼りだった。事務室とエレベーターホールの間仕切りも木造で、フローリングの上にカーペットを敷いたところもあったという。いかにも燃えやすそうだ。

 また、1~7階の百貨店部分には階段が4カ所あったが全て開放型で、区画された構造ではなかった。それ以外の階の階段は一カ所だけで、しかもその幅は1メートル程度しかなかった。また、パイプシャフトやダクトスペースもなかった。

 ちょっと面白いのが、屋上がヘリポートだったという点である。実はサンパウロでは、屋上にこうした設備が設けられたのは初めてだったらしい。ただ照明設備に不備があり正式なものとしては使えなかったらしいのだが、しかし結果として、救助活動においてこのヘリポートは大いに役に立つことになった。それについては後述しよう。

 さて出火場所だが、これは百貨店の4階とされているが、はっきりとは分からない。2階の衣料品売り場だったという説もあるし、いやいや3階だよという説もあるらしいが、とにかく4階にあった材料置場(何の材料かははっきり分からない)のような場所の電気系統がいかれたせい、というのが通説になっている。

 火災が発覚したのは、午後4時頃のことである(午後3時半頃という説もあるらしい。はっきりとは分からない)。百貨店の店員が、4階の外部の、中庭っぽい倉庫のような場所(どういう場所なのかはっきりとは分からない)の窓の向こうで、何かが燃えているのを発見したのだ。

 大変だ、消火しなければ――。消火器で消そうと、店員は窓を開けた。しかしそれが仇となった。そこから炎が室内に進入して天井に燃え移ったのだ。

 基本的に、火炎が天井に及ぶと、素人にはもうどうしようもない。店員は、買い物客と一緒にその場から逃げ出した。

 この30分後には、火炎は早々と最上階まで達することになる。

 まず、炎は衣料品広場に広がっていった。全面サッシのガラスは割れ、吹き抜けのある階段を通って延焼し、強風にあおられて窓から火炎が吹き出す。この炎が一気に6~7階に届くほどの火柱となり、結果、上階へは主として外部から燃え広がっていくことになった。

 アンドラウスビルが燃えやすい造りだったことは先述したが、他にも、ビル内には火勢を助長するような要素がいろいろあった。まず百貨店フロアの売場や湯沸かし場にはLPガスのボンベが、また2・3階には塗料のサンプルの大量のストックがあった。また、商品を含めた大量の可燃物があったし、オフィス階の机やキャビネットも木製がほとんどだった。

 4時10分頃には、火炎は13階まで広がり、この頃からビル内のLPガスが次々に爆発。さらに風速7.6m/秒の強風にあおられて、火勢はさらに強くなっていった。

 いよいよ、4時30分には炎がビル全体を包み込み、屋上よりも高く燃え上がった。強風にあおられたせいもあり、なんと外壁から17メートルも道路側に噴き出したというから恐ろしい。筋向いにあったアパートにも延焼した。

 さて、このビルの防災設備はどんなだったかというと、自動火災報知機、警報装置、誘導標識、消火用の送水管などの設備が……残念なことに、揃っていなかった。

 ただ、各階の階段室内に消火栓が、また各階に消火器が数個ずつあったし、消火栓ポンプも25馬力のものが地下室に設置されていたという。しかし消火訓練の類いは行われたことがなかったようなので、おそらく使用方法はほとんどの人が知らなかっただろう。

 また各階が区分所有となっていた上に、館内での連絡システムも整備されていなかったため、上層階にいた人々は炎や煙を見て初めて火災に気付いたという有様だった。

 この日、ビル内には総勢で千~千500名はいたとされている。買い物客はもちろん、平日(木曜日)とあってオフィス階への出勤者だっている。彼らの一部はエレベータで避難したが、大部分は、ビル内で唯一の階段に殺到したという。

 それで避難できた人はよかった。だが5階の階段室のドアの隙間から熱気と煙が漏れてきて、避難に間に合わなかった人たちは屋上へ逃げ始めた。

 で、ここで大変なことが起きた。約300人ほどが屋上に出た時点で、誰かが屋上に通じるドアを閉めてしまったのだ。「はあ!?」である。誰がなんで閉めたのかは、はっきりとは分からない。屋上は面積的には800平方メートルとかなり余裕があったのだが、人がいっぱいになることを恐れた誰かがいたのかも知れない。

 これにより、数百名が階段室に閉じ込められることになった。

 「おいおいどうなっちゃうの!?」という読者諸賢の心の声が聞こえてきそうだが、まずは話を進めていこう。ここからは消火と救助活動の話になる。

 火災が起きたアンドラウスビルから最寄りの消防署までは、わずか1.6キロの距離しかなかった。だが道路が混雑していたため到着が遅れ、先発隊が到着した時には、すでに手のほどこしようがなかった。とにかく火勢が強かった。

 消防車は次々に到着するが、ハシゴ車が届くのは8階まで、放水が届くのは4階までと、なにもかもが足りない。もはや消防隊にできるのは、周辺の建物への類焼を防ぎつつ、ビルが燃え尽きて自然に鎮火するのを待つことだけだった。

 一方、屋上に脱出した人々は、噴き上がる火炎と煙に追われて800平方メートルの屋上で逃げ惑っていた。そのうち床までフライパンのように熱くなってきて、中には錯乱状態になり靴を脱いで飛び降りた人もいたという。

 ロープで降りようとする者もいた。しかし長さがとても足りず、途中で墜落した。

 ひどい状況である。事態がようやく動き始めたのは17時15分頃のことだった。なんとか炎が収まってきたので、ヘリコプターで救助することになったのだ。そう、最初にご紹介したヘリポートを活用しようというわけだ。

 実際に最初のヘリコプターが出動したのは17時30分のこと。当初は、火災による気流と煙のため近付くことすらできなかったが、今ならなんとかなりそうだ。州政府所有のものが1機、市所有のものが2機、民間のものが各種あわせて8機、合計11機が動員された。

 各ヘリに乗せられる人数は、それぞれ2~8人が定員である。軍用の大型機が用意できればよかったのだが、ビルの強度や屋上の面積のことを考えると小型が主体になるのは仕方のないことだった。

 コントロールタワーから航空管制を行なうのは空軍の指揮官である、消防局は地上3カ所に着陸地点を用意して、救助を試みた。

 とはいえ、全てが順調に進んだわけではない。ヘリが屋上に接近して救助隊員が飛び降りようとしたところ、屋上にいた人々は髪を振り乱しながら絶叫し、腕を伸ばして我先にとヘリに殺到したという。

 おいおいちょっと待ってくれ! まず着陸のためのスペースを確保しなくちゃいけないんだ~~~!! ――しかし、火炎に追い詰められた人々にはそんな声は聞こえない。このまま無理に着地したら怪我人が出て機体が壊されるおそれもある。というわけで、ヘリは着陸をあきらめて一度引き返した。

 ――で、次に来た時は、ヘリには武装した兵隊さん4名が乗っていた。彼らは銃剣でもって群集を「整理」し、ようやく着地場所を確保した。さらに、人々の中からボランティアを募ってパニックを防ぎ、負傷者、女性、男性の順で救出を始めた。

 ヘリコプターによる救出作戦は4時間にわたって続けられた。3分おきのピストン輸送で、最終的に400人を屋上から教出した。日が暮れる頃には、屋上に残った人々はライトを使ってヘリの到着をサポートしたという。

 また、救助で役に立ったのはヘリコプターだけではない。隣のビルとの間が7メートルほどだったので、ハシゴを渡すことができたのだ。というわけで、15・16階と隣のビルの窓と窓の間にハシゴがかけられ、ここでは3時間かけて約100名が救出された。

 しかし残念ながら、一人だけ、恐怖のためかハシゴの上で心臓麻痺を起こして死亡した人がいた。また、火災の熱のためハシゴが熱くなり、この方法を最後まで続けることはできなかった。

 さて、屋上からドアのカギをかけられてしまったせいで、階段室に閉じ込められた人々がいたことは先述した。彼らの命運やいかに――。

 結論を先に言うと、彼らは全員が救助された。

 建物内部に入った救助隊が、偶然発見したのだ。階段室で大勢がすし詰めにになっており、中には火傷を負った人、怪我をした人、一酸化炭素中毒で意識不明の人もいた。

 アンドラウスビルの燃え方は前例がないほど強烈なものだった。だが階段室が風上側だったのが幸いし、彼らは火炎と煙の被害を免れることができたのだ。

 そこからとりあえず100名ほどが屋上に押し上げられて救出。また、約50人ほどは、火災が収まった後で階段を下りて外に出ている。これが大体20時頃のことだった。

 救助作業が終わったのは22時30分。完全に鎮火したのは23時30分で、出火から7時間が経っていた。

 この火災で、最終的に男性12名、女性4名の合計16名が死亡した。負傷者は375名にのぼり、原因は煙を吸ったことや骨折だった。死者の詳しい内訳は次の通りである。

・焼死2名(20階)
・焼死7名(14階)
・飛び降り5名
・ハシゴの上で死亡1名
・病院で死亡1名

 大規模施設で、しかも建物内にいた人々も多く、さらに言えば防災設備も貧弱だったわりには死者数が少なめである。だがこれは運が良かっただけらしい。資料によると、特に風向きや敷地の状況がよかったらしいのだが、詳しいことははっきりとは分からない。

【参考資料】
◆岡田光正『火災安全学入門―ビル・ホテル・デパートの事例から学ぶ』学芸出版社、1985年

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◆三島ビル火災(1984年)

 いきなり個人的な話で恐縮だが、この間、家の掃除をしていたらタンスの中から1984(昭和59)年の古新聞が出てきた。昔、家人が引き出しの底に敷いたものらしく、それに「8人死に11人重軽傷 3階建て雑居ビル全焼」という見出しで火災の記事が載っていた。

 事故災害の話となると、無視はできない。なんだか奇妙な縁を感じて、さっそく詳細を調べて記事を書くことにした。それが、今回ご紹介する三島ビル火災である。

 1984(昭和59)年11月15日、午前1時34分のことである。愛媛県松山市内を流していたタクシーの運転手から、消防に通報が入った。

「大変です、三島ビルが燃えている!」

 これが第一報だった。三島ビルというのは、同市大街道にあった雑居ビルで、所有者は食品会社の三島会長という人だったらしい。通報したタクシー運転手は、ビルのそばを走っていて、建物から煙が出ているのを見つけたのだった。

 現場周辺のことをもう少し詳細に書こう。そこは、松山市中心部の松山城城山のふもとで、通称「ロープウェー通り」という場所である。松山市の一番町口から、ロープウェー東雲口駅舎までの約500メートルの間がそのような名前で呼ばれていたのだ。検索してみると分かるが、今でもそこは「ロープウェー商店街」「ロープウェー街」という名前で親しまれているようだ。

 出火した三島ビルは鉄筋コンクリート3階建てで、1階には美容院や小料理屋など5つの貸店舗が入っていた。また2・3階は居住空間になっており、合計21の部屋に計16世帯、約24名が住んでいた(資料によっては、住んでいたのは18世帯26名とも)。雑居ビル兼貸アパートといったところか。

 通報を受けて、松山消防局から消防車など約20台が出動した。しかし火の回りは早く、現場に到着すると、すでに炎と煙は全館に広がっていた。一刻を争う状況である。放水による消火活動を行いつつも、消防は人命救助を最優先に動き始めた。

 しかし、この救助作業が難航した。消防は、二連ハシゴなどを駆使して上階から逃げ遅れた人を助けようとしたのだが、要救助者がハシゴの方に飛びついてきたり、うまくハシゴに乗れても転落して怪我をする者が出たり、窓から飛び降りる人が続出したりで、かなり大変だったようだ。

 もちろん火災なのだから、人々が必死で逃げるのは当たり前である。ただ、こうなってしまったのには三島ビルの構造そのものにも原因があった。

 もともと、このビルは缶詰会社の倉庫として1966(昭和41)年3月に建てられたものだった。それが1970年代初頭に雑居ビルとして造り替えられたのだが、この用途変更の結果として、建物の内部は、非常時に避難が難しくなる造りになってしまったのだ。

 また出火当時は、ひとたび火災が起きれば大惨事になりかねない状態でもあった。どういう点がいただけなかったのか、以下に列挙しておこう。

・ビル内の各部屋には、約40センチ四方の小さい窓があるだけ。
・出入口は、幅約70センチの細い階段があるだけ。
・非常階段やスプリンクラーはなし。
・ビル内の部屋は、ベニヤ板などで仕切ってあるだけだった。
・天井裏などの区画も不十分で延焼しやすかった。
・リフトの竪穴は塞がれており、ますます延焼しやすかった。
・屋上のドアが解放されており、炎と煙の通り道になった。
・2階のすべてと3階の一部の部屋の窓には、鉄格子がはまっていた。

 今の時代から見れば「ひでえ建物だなあ」と言いたくなるところである。だが当時は、これでも法律上は問題がなかった。ビルには、防災設備として、非常ベル、誘導灯、消火器もきちんと備え付けられていた。

 もっとも消防計画は策定されていなかったし、避難訓練も行われておらず、消防署からは改善指示を出されていたようだが――。

 そんな三島ビルの火災が鎮火したのは、通報から約3時間後の午前4時50分のこと。全焼した建物の中からは、子供1名を含む7名の焼死体が見つかった。飛び降りによる怪我や一酸化炭素中毒の12名が病院に運ばれたが、1名が死亡、2名が意識不明、9名が重軽傷という結果になった。

 運良く自力で逃げ出した人もいた。かなり早い段階で火災に気付いた家族4人は階段から外に出られたし、3階に住んでいた配管工の男性は、窓から水道パイプを伝って脱出している。しかしそんなのは例外中の例外である。出火当時は2・3階のほとんどの人が就寝中で、火災に気付いた時にはすでに逃げ道を失っていた。

 ちなみに、第一報がタクシーの運転手からもたらされたのは先述の通りだが、ビル内から通報した者はいなかった。誰もが自分のことで精一杯だったのだ。

 火災の原因は、放火だった。当時三島ビルに住んでいた女性に言い寄った男がいたのだが、女性は他に付き合っている相手がいたためフラれ、それで腹を立てて段ボールに火をつけたとか。

 この男、11月15日の時点で犯人隠匿容疑で逮捕され、さらに26日には恐喝容疑で再逮捕。そして12月14日は放火を自白、という流れになっているので、最初の段階で目星がついていたところで別件逮捕からどんどん追い詰めていった流れだったのだろう。

 10人も亡くなっているのだから、死刑でおかしくない気もする。だがその後の経過は不明である。

【参考資料】
◆山形新聞
◆『山形新聞 縮刷版』1984年(昭和59年)12月15日~1986年(昭和61年)12月31日
◆『読売新聞 縮刷版』1984年(昭和59年)12月15日~1986年(昭和61年)12月31日
◆『毎日新聞 縮刷版』1984年(昭和59年)12月14日~1990年(平成2年)12月31日

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