2020(令和2)年9月27日、午前0時半のことである。中国西部の重慶(ちょんきん)市の綦江(きこう)区にある炭鉱で火災が発生した。
この炭鉱は松藻炭鉱といい、石炭の採掘と発電を手がけている国営エネルギー会社「重慶能投渝新能源」という企業が管理していた。そこで使われていたベルトコンベアーが発火したのだ。
これによって、坑内に閉じ込められた17名の作業員のうち、16名が一酸化炭素中毒で死亡。残る1名も重体となり病院に運ばれた。現場には、鉱山救助隊75人と医療関係者30人が駆け付け、救助活動とあわせて事故原因調査が行われたという。
今回の事故を起こした「重慶能投渝新能源」は、もともと危ないところがあったようだ。
重慶市の炭鉱安全管理当局によると、2019(令和元)年後半には、発破のやり方が不適切だったとかで炭鉱の管理者7名に行政罰と700〜4200ドル相当の罰金が科されていた。国営新華社通信の報道によると、今回の事故でも、坑内の一酸化炭素濃度は安全とされる上限値を上回っていたという。
炭鉱や鉱山での事故というと、日本では「昭和」というイメージだが、中国では今でも珍しくないらしい。今回の事故が起きた重慶市では、実はその後の同年12月4日にも、永川区の炭鉱で同様の一酸化炭素中毒事故が起きている。
この事故については、どの新聞記事でも「一酸化炭素の濃度が上昇する事故」としか書かれておらず具体的に何が起きたのかは不明なのだが、坑内に閉じ込められた24名中23名が死亡している。現場となった炭鉱は、もともと安全管理に問題があるというこで2カ月前には閉鎖し、事故発生時には設備の解体作業中だった。
統計では、2017(平成29)年には中国国内での炭鉱事故は219件起きており、375名が亡くなっている。また2018(平成30)年には333名が死亡しているという。具体的にどういう事故だったのか一つひとつ調べてみたいところだが、情報はあまりない。
【参考資料】
◆重慶市の炭鉱で一酸化炭素中毒事故 17人閉じ込め
◆重慶市の炭鉱で一酸化炭素中毒事故 16人死亡
◆炭鉱で火災、一酸化炭素中毒で16人死亡 中国・重慶
◆炭鉱事故で23人死亡、中国重慶、CO濃度上昇
◆中国 炭鉱事故で23人死亡 一酸化炭素の濃度が上昇
◆重慶炭鉱一酸化炭素中毒事故(2020年・中国)
◆ボフミン市高層マンション火災(2020年・チェコ)
2020(令和2)年8月8日のことである。チェコ北東部、首都プラハから約300キロの場所にあるボフミン(Bohumin)市で、高層マンション火災が発生した。
ボフミン市という名前は、初めて聞くという方も多いと思う。筆者もそうだ。どうやら、ポーランドとの国境に近い町らしい。
火災が起きた高層マンションは13階建て。火元は11階で、大人3名、児童3名と、おそらくペットだろう、犬一匹も犠牲になったという。
消防隊がすぐに現場に駆け付けたものの、消火活動中に12階の窓から5名が飛び降りて死亡したというから、目を覆いたくなる大惨事だ。
こうして犠牲者は11名にのぼった。ネット上に出回っている報道記事はあっさりしたものが多いが(必然的に当記事もあっさりしたものにならざるを得ない)、そっちには当時の写真なども貼られているのでなんとなく現場の雰囲気が分かる。興味がある方は見てみるといいと思う。
そういえば日本では、かつては「高層ビル火災で飛び降りて死亡」という事例がしょっちゅうあったようだが、近年はあまり聞かない。そもそも高層ビル火災が発生しても、大抵は深刻な惨事に至らずに済んでいる。これは法律の整備によって建物が安全になったことと、消防設備の充実によるところが大きいだろう。
だからこのボフミンの事例のように、近代的な高層建築物で飛び降りが発生するというのはちょっと違和感というかそぐわない感がある。日本と比べて、チェコではこうした建物の安全性はいまいちなのかも知れない。
さてこのボフミンの火災では、「放火した」と自供したマンションの住人1名が警察によって拘束・連行されている。詳しい動機などは、現時点では不明である。
余談になるが、チェコでは東部のフレンシュタート(Frenstat)で、2013(平成25)年にも似たような火災が起きている。集合住宅に住む男性が、他の入居者を嫌っていたとかでガス爆発を引き起こし、当人と子供3名を含む5名が死亡したのだ。この事故の報道記事がないかとちょっと探してみたが、これは残念ながら見つからなかった。
【参考資料】
◆チェコの住宅火災で11人死亡 放火か【写真】 - Sputnik 日本
◆チェコの集合住宅で火災、11人死亡 放火の疑い 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News
◆チェコの集合住宅で火災、11人死亡 放火の疑い (AFPBB News)
◆大然閣ホテル火災(1971年・韓国)
◆カンボジア水祭り事故(2010年)
【参考資料】
◆大阪ツインタワー将棋倒し事故(1997年)
◆竹下通り事故(2010年)
◆静岡駅前地下街ガス爆発事故(1980年)
◆シンガポール航空006便離陸失敗事故(2000年)
台北――中華民国台湾北部――近郊の、桃園県にある空港「中正國際機場」(※)は、台風20号の接近で強烈な風雨にさらされていた。当時は台湾全土が風速15m以上の強風圏に入っていたという。
(桃園(タオユエン)県は現在の桃園市。また、中正國際機場は現在の台灣桃園國際機場のこと)
台湾はもともと「台風銀座」などと呼ばれるくらい、毎年3~4個は台風が直撃するらしい。えっ? 台湾に銀座はないよね? などというツッコミはこのさい止すことにしよう。とにかく当時、空港では欠航が相次いでいた。
しかし、空港が閉鎖するほどの悪天候というわけでもなかった。強風が吹き荒んでいるとはいえ、まだ離陸不可能な風速というわけでもない。現時点で飛行機事故が起きるかと言えばまだ「確率はゼロ」と言っても差し支えない状況だった。
では、離陸できなくなる風速はどれくらいかというと、これは「横風30ノット」(1ノット=時速1.852km)。ここまでくれば、さすがに離陸不可能となる。よって、航空機をスケジュール通りに運行したければ、この横風30ノットに至る前に離陸しなければならない――。
そんな中でスタンバっていたのが、シンガポール発ロサンゼルス行き006便のボーイング747-412(9V-SPK、製造番号28023)である。運航しているのはシンガポール航空だ。
エンジンを始動した同機は、管制官から「滑走路05L」へ向かい、離陸許可を出すまでそこで待機するようにと指示を受けた。同機はこれに従い、空港内でタキシング(航空機が地上を移動すること)を始めた。
問題はここからである。
当時、台北国際空港には「滑走路05L」と並行する形で「滑走路05R」が存在していた。そしてこの「滑走路05R」は、以前から工事中で使用禁止の状態だった。
006便は、悪天候で視界が悪い空港内で、ゆっくり慎重に「滑走路05L」へと進んでいく――。
ちなみに航空ジャーナリストの青木謙知は、この移動中に交わされた「緊張感を欠いた雑談」が、数分後に発生した事故の一因になったと述べている。ボイスレコーダーに録音されていたその会話というのは、以下の通り。
23時14分47秒(機長)
「オーストラリアでは、『次』は、ここなんだ。『最初』が『次』だからこれが『次』になる、知ってた?」
23時14分50秒(副操縦士)
「最初が次か」
23時14分51~53秒(機長)
「イェイ、ハハハ……オーストラリアさ。一番目、二番目というのが一番良い」
何が面白いのかよく分からないが、とにかくこういう会話もあったということだ。
006便はこうした状況の中で、直角のカーブを右へ曲がった。こうして同機は「滑走路05L」へ進入したはずだった。
ところが、である。実はここで進入したのは「滑走路05L」ではなく、その手前の「滑走路05R」だった。006便は、目当ての曲がり角よりもひとつ手前で右折してしまったのだ。
なんでこんな間違いが起きたのか、その理由は後述する。ともあれこのミスに気付き、修正するチャンスは一度だけあった。副操縦士が「何かがおかしい」ことに気付いたのだ。その時の会話は、以下の通り。
23時16分07秒(副操縦士)
「PVD(パラビジュアル・デイスプレー)が合わない」
23時16分10秒(機長)
「先に滑走路に合わせよう」
23時16分12秒(副操縦士)
「45度必要です」
23時16分15秒(副操縦士)
「了解、素晴らしい」
23時16分16秒(機長)
「イェイ」
23時16分23秒(機長)
「PVDがどうであっても気にしない。滑走路が見えているのだから、悪くはない。オーケー、まず機体を位置に置くことを優先。準備はオーケー、010で左から、オーケー」
後になってから読むと、オーケーオーケーじゃねえよとツッコミを入れたくなるところだ。こうして006便は、誤った「滑走路05R」に進入した状態で着々と離陸準備を整えていった。
この時、管制官は異常事態に気付かなかったのだろうか? 空港全体を見渡して航空機に離着陸を指示する立場にある彼らは、006便のミスをなぜ指摘しなかったのだろう。
――その答えは「よく見えなかった」だった。もともと管制塔から滑走路までの距離は1,600メートル。そして事故当時の管制官の視程は、台風プラス夜間ということでたったの600メートルだった。006便の誤った動きは全く見えていなかったのだ。
そして管制官の当時の視認距離が600メートルなら、クルーのそれもたったの450メートル程度だった。どっちもよく見えていなかったのだ。たぶん当時はお互いに「あっちはちゃんと見てくれているだろう」と思っていたのだろう。
管制官から離陸許可の連絡が入ると、それから約30秒ほどで、006便は「離陸決心速度」と呼ばれる速度まで加速した。ここまで加速すると、もはや離陸の中止はできない。中止しようものならオーバーランは必至だ。後に、フライトレコーダーの記録から、006便は1,243メートルまで滑走したことが確認されている。
そして、それからわずか3秒後のことだった。機長が、滑走路上に障害物を発見したのだ。後になって判明するが、この障害物の正体は「滑走路05R」内の工事で使われていた掘削機やコンクリートブロック、工事用の車両などだった。
23時17分16秒(機長)
「何かあるぞ」
23時17分17秒:衝突音。
23時17分18秒(不明):
「ワーッ。」一連の衝突音。
23時17分22秒:録音終了。
事故発生は2000(平成12)年10月31日午後11時17分18秒のことだった。
衝突直前に、機長は操縦桿を引いている。おそらく障害物を避けるためにとっさに行ったのだろう、機体は2メートルくらいは上昇したようだ。それでも衝突は避けられなかった。
バランスを崩した006便の機体は滑走路に墜落し、ぐるぐる回って大破。衝撃で大きく3つの部分に分断され、ロサンゼルス行きということで満タンだった燃料12万5千キロに引火して激しく炎上した。
当時、同便には乗員20名、乗客159名の計179名が乗っていた。このうち、乗員4名と乗客79名の計83名が死亡し(なお邦人も1名含まれている)、80名が重軽傷。16名が無事で済んだ。火災そのものは事故後約45分で鎮火したものの、機首の部分はほぼ全焼。甚大な被害となった。
検死や、生還した乗客などの話によると、墜落の衝撃による即死は免れたものの火災によって亡くなった人も多くいたらしい。よって、乗務員による避難誘導体制の不備も、後に指摘されることになった。
「シンガポール航空006便離陸失敗事故」の発生だった。
☆
シンガポール航空は1972(昭和47)年の創業以来、死傷者が出る事故を起こしたことがなかった。今回の事故は、同航空にとっては初の汚点となってしまった。
事故直後に空港は閉鎖。しかし現場では50~60ノットの強風が吹き荒れ、すぐに現場検証を行えるような状況ではなかった。
なんでこんな事故が起きたのだろう?
当初、事故原因については様々な憶測が飛び交った。基本的に「パイロットが誤った滑走路に進入して事故った」などというのは、ほとんどあり得ないと言っていいほどのとんでもないミスである。だから最初はその可能性は低いとされ、台風による機体の横転説や、工事中だった「隣の」滑走路から建設資材が飛んできた説などが考えられていた。
だが、台風がやっと落ち着いたところで調べてみたら、いくつか決定的な発見があった。
まず、四方八方に飛び散った残骸の中から建設資材のパーツが見つかった。さらに「滑走路05R」には航空機の真新しいタイヤ痕が残っており、これらの証拠から、事故は人的ミスによって引き起こされたことが明らかになった。006便は、入ってはいけない「滑走路05R」に進入して離陸を試み、工事用の機材に衝突したのだ。
一体なんでこんなミスが発生したのか、それは006便のコックピットクルーに聞くしかない。幸いにして三名のクルーたちは生存しており、事故直後から聞き取り調査を行うことができた。
また、これと並行して、デジタルフライトデータレコーダー(DFDR)とコックピットボイスレコーダー(CVR)の、いわゆるブラックボックスの解析も行われた。この事故では、ブラックボックスは焼損を免れた機体後部にあったため回収はすぐにできたようだ。
そして2002(平成14)年4月26日、台湾の最高機関たる行政院の飛行安全委員会は、パイロットが――特に機長が――滑走路をしっかり確認せず、誤って工事中の滑走路に進入したため今回の事故は発生したと結論を下した。
事故調査報告書が挙げた理由は「プレッシャーによる判断ミス」。台風の中で安全に、かつ時間を守りながら飛行機を離陸させなければならない…という焦りのせいで、クルーはミスを犯してしまったのだ。
クルーたちは決していい加減に操縦していたわけではない。ただ事故当時、彼らはそれぞれ別の作業に没頭しすぎてしまっていた。機長は低速でのタキシングに。副操縦士はチェックリストの確認に。そしてリリーフパイロットは横風の計算に……。その結果、航空機の正しい進行方向という一番肝心なものを誰もが見失ってしまったのだ。
また、機長の安全運転が仇になった可能性もあった。
通常、空港内でタキシングする場合は25ノットの速度で進む。だがこの時は悪天候だったこともあり、9ノットで「徐行運転」していた。
これによって調子が狂ってしまった可能性があった。まだ短い距離しか進んでいないのに、走行時間が長くかかってしまったため、かなり先へ進んだと思い込んで「滑走路05L」に着いたと勘違いしたのかも知れない。実際にはそこは、もっと手前の「滑走路05R」だったというわけだ。
もっと視界がよければ、こんなミスにはすぐ気付いたことだろう。
また当時は、離陸間際になって順路の変更を管制塔から告げられたりしている。こうした変更自体は日常茶飯事ではあったが、他のことで頭がいっぱいだったクルーにとっては、大きなストレスだっただろう。
もっともシンガポール側は、台湾側の調査結果に対してかなり不満だったようである。それも無理のない話で、台湾側の調査では、事故原因のほとんどがシンガポール航空のせいにされているのだ。
それで、シンガポール側も独自の調査を行った。その結果、事故が起きた「滑走路05R」が、進入禁止にもかかわらず当時は物理的に閉鎖されていなかったことや、その誘導路の中心線で緑のライト(誘導灯)が灯っていたことなども事故の要因として挙げられた。要するに「空港にも責任がある」というわけだ。
とはいえ、事故を起こしたクルーは、地図で事前に「滑走路05R」が工事中で使えないことを確認していたはずである。嫌な言い方だが「知らなかったでは済まされない」というやつだ。実際、そこでの工事はだいぶ前から行われており、同じ状況でも誤ってそっちの滑走路に進入した航空機はそれまで一機もなかった。
こういったことを総合的に考えて、やっぱり機長の責任は大きいと思う。先述した「緊張感を欠いた会話」の件もあるし、また、誤った滑走路に進入した直後には、異常に気付いた副操縦士の指摘をスルーしている。この事故はほぼ純粋な人的ミスだと言われても仕方ないだろう。
誰にとっても不幸な事故ではある。それでも、事故機を運航していたクルーたちは厳罰に処され、機長と副操縦士は解雇された。
この事故の教訓から、現場の空港には、悪天候時でも地上の様子を把握できるようレーダーが配備された。
またシンガポール航空は、その後は死者が出るような重大事故を起こしておらず、現在も質の高いサービスと効率的な運航が売りとなっている。航空サービスリサーチ会社「スカイトラックス」は、世界で2番目に優れた航空会社として同社の名を挙げているし、2017(平成29)年に「AirlineRatings.com」は、世界の425の航空会社の中でも最も安全な20の会社のリストに同社を入れている。
【参考資料】
◆青木謙知『飛行機事故はなぜなくならないのか』講談社ブルーバックス、2015年
◆ナショナルジオグラフィックチャンネル『メーデー!:航空機事故の真実と真相 第10シーズン第3話「TYPHOON TAKEOFF」』
◆世界でもっとも安全な航空会社ベスト20
◆ウィキペディア
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◆アンドラウスビル火災(1972年、ブラジル)
1972(昭和47)年2月24日のことである。
場所はブラジル、サンパウロ市でのこと。繁華街であるサンジョン通りに、アンドラウスビル(AndrausBuilding)は建っていた。竣工はちょうど十年前の1962(昭和37)年。地上31階建て、延べ床面積28,500平方メートル、高さは100メートルの超高層ビルである。
中身は複合ビルで、1~7階が百貨店、8階以上が貸事務所だった。ここにはシーメンスやシェルなどの名だたる企業が入っていたという。日本企業で言えば、東京海上火災保険(株)のブラジル支店も10~24階の全フロアと6階の半分を所有しており、支店長以下、多くの職員がここで火災に遭遇することになった。
なお、参考資料には、建物内部の造りについてかなり詳細に記してあった。せっかくなので書き写しておく。筆者は専門知識も何もないまま写しているだけなので読み飛ばしてもらっても問題ないが、建築関係に詳しい人ならより鮮明にイメージできるかも知れない。
【アンドラウスビル】
・基準階面積……930平方メートル
・天上高……3メートル
・階高……3.23メートル
・屋上……タイル貼り
・パラペット……高さ55センチ
・鉄筋コンクリート造り
・妻壁は20センチ厚の鉄筋コンクリートでタイル貼り
・ファサードは開放可能な全面スチールサッシでガラスは6ミリ厚
・スパンドレル(腰壁)はなかった
・床スラブは鉄筋コンクリートだったが、木製の仮枠が天井裏に残っていた(これが火災の被害を大きくしたとされる)
さらに火災に関係する事柄を書き足しておくと、内装材の多くは可燃性だった。オフィス階の間仕切りの壁は木製パネルが主で、天井は木造下地の繊維板。床は寄木貼りだった。事務室とエレベーターホールの間仕切りも木造で、フローリングの上にカーペットを敷いたところもあったという。いかにも燃えやすそうだ。
また、1~7階の百貨店部分には階段が4カ所あったが全て開放型で、区画された構造ではなかった。それ以外の階の階段は一カ所だけで、しかもその幅は1メートル程度しかなかった。また、パイプシャフトやダクトスペースもなかった。
ちょっと面白いのが、屋上がヘリポートだったという点である。実はサンパウロでは、屋上にこうした設備が設けられたのは初めてだったらしい。ただ照明設備に不備があり正式なものとしては使えなかったらしいのだが、しかし結果として、救助活動においてこのヘリポートは大いに役に立つことになった。それについては後述しよう。
さて出火場所だが、これは百貨店の4階とされているが、はっきりとは分からない。2階の衣料品売り場だったという説もあるし、いやいや3階だよという説もあるらしいが、とにかく4階にあった材料置場(何の材料かははっきり分からない)のような場所の電気系統がいかれたせい、というのが通説になっている。
火災が発覚したのは、午後4時頃のことである(午後3時半頃という説もあるらしい。はっきりとは分からない)。百貨店の店員が、4階の外部の、中庭っぽい倉庫のような場所(どういう場所なのかはっきりとは分からない)の窓の向こうで、何かが燃えているのを発見したのだ。
大変だ、消火しなければ――。消火器で消そうと、店員は窓を開けた。しかしそれが仇となった。そこから炎が室内に進入して天井に燃え移ったのだ。
基本的に、火炎が天井に及ぶと、素人にはもうどうしようもない。店員は、買い物客と一緒にその場から逃げ出した。
この30分後には、火炎は早々と最上階まで達することになる。
まず、炎は衣料品広場に広がっていった。全面サッシのガラスは割れ、吹き抜けのある階段を通って延焼し、強風にあおられて窓から火炎が吹き出す。この炎が一気に6~7階に届くほどの火柱となり、結果、上階へは主として外部から燃え広がっていくことになった。
アンドラウスビルが燃えやすい造りだったことは先述したが、他にも、ビル内には火勢を助長するような要素がいろいろあった。まず百貨店フロアの売場や湯沸かし場にはLPガスのボンベが、また2・3階には塗料のサンプルの大量のストックがあった。また、商品を含めた大量の可燃物があったし、オフィス階の机やキャビネットも木製がほとんどだった。
4時10分頃には、火炎は13階まで広がり、この頃からビル内のLPガスが次々に爆発。さらに風速7.6m/秒の強風にあおられて、火勢はさらに強くなっていった。
いよいよ、4時30分には炎がビル全体を包み込み、屋上よりも高く燃え上がった。強風にあおられたせいもあり、なんと外壁から17メートルも道路側に噴き出したというから恐ろしい。筋向いにあったアパートにも延焼した。
さて、このビルの防災設備はどんなだったかというと、自動火災報知機、警報装置、誘導標識、消火用の送水管などの設備が……残念なことに、揃っていなかった。
ただ、各階の階段室内に消火栓が、また各階に消火器が数個ずつあったし、消火栓ポンプも25馬力のものが地下室に設置されていたという。しかし消火訓練の類いは行われたことがなかったようなので、おそらく使用方法はほとんどの人が知らなかっただろう。
また各階が区分所有となっていた上に、館内での連絡システムも整備されていなかったため、上層階にいた人々は炎や煙を見て初めて火災に気付いたという有様だった。
この日、ビル内には総勢で千~千500名はいたとされている。買い物客はもちろん、平日(木曜日)とあってオフィス階への出勤者だっている。彼らの一部はエレベータで避難したが、大部分は、ビル内で唯一の階段に殺到したという。
それで避難できた人はよかった。だが5階の階段室のドアの隙間から熱気と煙が漏れてきて、避難に間に合わなかった人たちは屋上へ逃げ始めた。
で、ここで大変なことが起きた。約300人ほどが屋上に出た時点で、誰かが屋上に通じるドアを閉めてしまったのだ。「はあ!?」である。誰がなんで閉めたのかは、はっきりとは分からない。屋上は面積的には800平方メートルとかなり余裕があったのだが、人がいっぱいになることを恐れた誰かがいたのかも知れない。
これにより、数百名が階段室に閉じ込められることになった。
「おいおいどうなっちゃうの!?」という読者諸賢の心の声が聞こえてきそうだが、まずは話を進めていこう。ここからは消火と救助活動の話になる。
火災が起きたアンドラウスビルから最寄りの消防署までは、わずか1.6キロの距離しかなかった。だが道路が混雑していたため到着が遅れ、先発隊が到着した時には、すでに手のほどこしようがなかった。とにかく火勢が強かった。
消防車は次々に到着するが、ハシゴ車が届くのは8階まで、放水が届くのは4階までと、なにもかもが足りない。もはや消防隊にできるのは、周辺の建物への類焼を防ぎつつ、ビルが燃え尽きて自然に鎮火するのを待つことだけだった。
一方、屋上に脱出した人々は、噴き上がる火炎と煙に追われて800平方メートルの屋上で逃げ惑っていた。そのうち床までフライパンのように熱くなってきて、中には錯乱状態になり靴を脱いで飛び降りた人もいたという。
ロープで降りようとする者もいた。しかし長さがとても足りず、途中で墜落した。
ひどい状況である。事態がようやく動き始めたのは17時15分頃のことだった。なんとか炎が収まってきたので、ヘリコプターで救助することになったのだ。そう、最初にご紹介したヘリポートを活用しようというわけだ。
実際に最初のヘリコプターが出動したのは17時30分のこと。当初は、火災による気流と煙のため近付くことすらできなかったが、今ならなんとかなりそうだ。州政府所有のものが1機、市所有のものが2機、民間のものが各種あわせて8機、合計11機が動員された。
各ヘリに乗せられる人数は、それぞれ2~8人が定員である。軍用の大型機が用意できればよかったのだが、ビルの強度や屋上の面積のことを考えると小型が主体になるのは仕方のないことだった。
コントロールタワーから航空管制を行なうのは空軍の指揮官である、消防局は地上3カ所に着陸地点を用意して、救助を試みた。
とはいえ、全てが順調に進んだわけではない。ヘリが屋上に接近して救助隊員が飛び降りようとしたところ、屋上にいた人々は髪を振り乱しながら絶叫し、腕を伸ばして我先にとヘリに殺到したという。
おいおいちょっと待ってくれ! まず着陸のためのスペースを確保しなくちゃいけないんだ~~~!! ――しかし、火炎に追い詰められた人々にはそんな声は聞こえない。このまま無理に着地したら怪我人が出て機体が壊されるおそれもある。というわけで、ヘリは着陸をあきらめて一度引き返した。
――で、次に来た時は、ヘリには武装した兵隊さん4名が乗っていた。彼らは銃剣でもって群集を「整理」し、ようやく着地場所を確保した。さらに、人々の中からボランティアを募ってパニックを防ぎ、負傷者、女性、男性の順で救出を始めた。
ヘリコプターによる救出作戦は4時間にわたって続けられた。3分おきのピストン輸送で、最終的に400人を屋上から教出した。日が暮れる頃には、屋上に残った人々はライトを使ってヘリの到着をサポートしたという。
また、救助で役に立ったのはヘリコプターだけではない。隣のビルとの間が7メートルほどだったので、ハシゴを渡すことができたのだ。というわけで、15・16階と隣のビルの窓と窓の間にハシゴがかけられ、ここでは3時間かけて約100名が救出された。
しかし残念ながら、一人だけ、恐怖のためかハシゴの上で心臓麻痺を起こして死亡した人がいた。また、火災の熱のためハシゴが熱くなり、この方法を最後まで続けることはできなかった。
さて、屋上からドアのカギをかけられてしまったせいで、階段室に閉じ込められた人々がいたことは先述した。彼らの命運やいかに――。
結論を先に言うと、彼らは全員が救助された。
建物内部に入った救助隊が、偶然発見したのだ。階段室で大勢がすし詰めにになっており、中には火傷を負った人、怪我をした人、一酸化炭素中毒で意識不明の人もいた。
アンドラウスビルの燃え方は前例がないほど強烈なものだった。だが階段室が風上側だったのが幸いし、彼らは火炎と煙の被害を免れることができたのだ。
そこからとりあえず100名ほどが屋上に押し上げられて救出。また、約50人ほどは、火災が収まった後で階段を下りて外に出ている。これが大体20時頃のことだった。
救助作業が終わったのは22時30分。完全に鎮火したのは23時30分で、出火から7時間が経っていた。
この火災で、最終的に男性12名、女性4名の合計16名が死亡した。負傷者は375名にのぼり、原因は煙を吸ったことや骨折だった。死者の詳しい内訳は次の通りである。
・焼死2名(20階)
・焼死7名(14階)
・飛び降り5名
・ハシゴの上で死亡1名
・病院で死亡1名
大規模施設で、しかも建物内にいた人々も多く、さらに言えば防災設備も貧弱だったわりには死者数が少なめである。だがこれは運が良かっただけらしい。資料によると、特に風向きや敷地の状況がよかったらしいのだが、詳しいことははっきりとは分からない。
【参考資料】
◆岡田光正『火災安全学入門―ビル・ホテル・デパートの事例から学ぶ』学芸出版社、1985年
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◆三島ビル火災(1984年)
事故災害の話となると、無視はできない。なんだか奇妙な縁を感じて、さっそく詳細を調べて記事を書くことにした。それが、今回ご紹介する三島ビル火災である。
1984(昭和59)年11月15日、午前1時34分のことである。愛媛県松山市内を流していたタクシーの運転手から、消防に通報が入った。
「大変です、三島ビルが燃えている!」
これが第一報だった。三島ビルというのは、同市大街道にあった雑居ビルで、所有者は食品会社の三島会長という人だったらしい。通報したタクシー運転手は、ビルのそばを走っていて、建物から煙が出ているのを見つけたのだった。
現場周辺のことをもう少し詳細に書こう。そこは、松山市中心部の松山城城山のふもとで、通称「ロープウェー通り」という場所である。松山市の一番町口から、ロープウェー東雲口駅舎までの約500メートルの間がそのような名前で呼ばれていたのだ。検索してみると分かるが、今でもそこは「ロープウェー商店街」「ロープウェー街」という名前で親しまれているようだ。
出火した三島ビルは鉄筋コンクリート3階建てで、1階には美容院や小料理屋など5つの貸店舗が入っていた。また2・3階は居住空間になっており、合計21の部屋に計16世帯、約24名が住んでいた(資料によっては、住んでいたのは18世帯26名とも)。雑居ビル兼貸アパートといったところか。
通報を受けて、松山消防局から消防車など約20台が出動した。しかし火の回りは早く、現場に到着すると、すでに炎と煙は全館に広がっていた。一刻を争う状況である。放水による消火活動を行いつつも、消防は人命救助を最優先に動き始めた。
しかし、この救助作業が難航した。消防は、二連ハシゴなどを駆使して上階から逃げ遅れた人を助けようとしたのだが、要救助者がハシゴの方に飛びついてきたり、うまくハシゴに乗れても転落して怪我をする者が出たり、窓から飛び降りる人が続出したりで、かなり大変だったようだ。
もちろん火災なのだから、人々が必死で逃げるのは当たり前である。ただ、こうなってしまったのには三島ビルの構造そのものにも原因があった。
もともと、このビルは缶詰会社の倉庫として1966(昭和41)年3月に建てられたものだった。それが1970年代初頭に雑居ビルとして造り替えられたのだが、この用途変更の結果として、建物の内部は、非常時に避難が難しくなる造りになってしまったのだ。
また出火当時は、ひとたび火災が起きれば大惨事になりかねない状態でもあった。どういう点がいただけなかったのか、以下に列挙しておこう。
・ビル内の各部屋には、約40センチ四方の小さい窓があるだけ。
・出入口は、幅約70センチの細い階段があるだけ。
・非常階段やスプリンクラーはなし。
・ビル内の部屋は、ベニヤ板などで仕切ってあるだけだった。
・天井裏などの区画も不十分で延焼しやすかった。
・リフトの竪穴は塞がれており、ますます延焼しやすかった。
・屋上のドアが解放されており、炎と煙の通り道になった。
・2階のすべてと3階の一部の部屋の窓には、鉄格子がはまっていた。
今の時代から見れば「ひでえ建物だなあ」と言いたくなるところである。だが当時は、これでも法律上は問題がなかった。ビルには、防災設備として、非常ベル、誘導灯、消火器もきちんと備え付けられていた。
もっとも消防計画は策定されていなかったし、避難訓練も行われておらず、消防署からは改善指示を出されていたようだが――。
そんな三島ビルの火災が鎮火したのは、通報から約3時間後の午前4時50分のこと。全焼した建物の中からは、子供1名を含む7名の焼死体が見つかった。飛び降りによる怪我や一酸化炭素中毒の12名が病院に運ばれたが、1名が死亡、2名が意識不明、9名が重軽傷という結果になった。
運良く自力で逃げ出した人もいた。かなり早い段階で火災に気付いた家族4人は階段から外に出られたし、3階に住んでいた配管工の男性は、窓から水道パイプを伝って脱出している。しかしそんなのは例外中の例外である。出火当時は2・3階のほとんどの人が就寝中で、火災に気付いた時にはすでに逃げ道を失っていた。
ちなみに、第一報がタクシーの運転手からもたらされたのは先述の通りだが、ビル内から通報した者はいなかった。誰もが自分のことで精一杯だったのだ。
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