◆チャイナエアライン611便空中分解事故(2002年)

 2002(平成14)年5月25日のことである。

 台湾の首都・台北にある中正国際空港(現在の台湾桃園国際空港)から、15時7分に一機の航空機が飛び立った。チャイナエアライン611便、ボーイング747-209B (B-18255、 製造番号21843)である。

 古い機体だった。1979(昭和54)年8月2日(当初の機体記号はB-1866)に就航し、それから22年8ヶ月、時間にして64,000時間、何億キロもの空路を飛んできた経年機だ。

 実は同機は、翌月にはタイの航空会社に売却されることになっていた。よって既にチャイナエアラインの運行からは外れていたのだが、機材のやり繰りの関係から、この日はたまたま臨時で使われたのだった。この後、同機は香港国際空港へ到着後してからUターンして台北へ戻り、それで最後のフライトを終える予定だった。

 振り返ってみれば、運命のひどい悪戯である。本来飛ぶはずのなかった便が急遽用いられ、それが大事故を起こす結果になったのだから。

 香港には16時28分に着く予定で、わずか2時間足らずの航路である。しかし短距離航路とはいえ、この航路は「ゴールデンルート」と呼ばれる、世界的に見ても収益性の高いものだった。さらに言えばボーイング747という機体も世界的に人気で、機体・航路ともにポピュラーなものだった。

 離陸から9分後、611便は高度18,700フィート(5,700メートル)を通過。さらに管制官の指示を受けて高度35,000フィート(10,668メートル)に上昇し、それを維持した。

 ところが、その直後に異常が起きた。同機が、管制塔のレーダー画面から突如として消えてしまったのだ。

 そこは台湾海峡上空で、海岸からおよそ50キロの地点だった。もう少し詳しく書くと、澎湖群島の北東で東経119度67分、北緯23度90分である。

 すぐに大規模な捜索が行われた。もちろん墜落した可能性もあるので、海上では軍隊に沿岸警備隊、果ては釣り船までもが総動員され、千人以上が捜索に加わった。

 次第に、ガチの墜落であることが明らかになっていった。17時5分には、台湾の馬公氏の北東37キロの海面上で油の帯を発見。一時間後には機体の残骸が、また機内にあったものと思われるさまざまな物品も次々と見つかった。これら物品の一部は、墜落地点から130キロ離れた海岸沿いの集落にも流れ着いたという。

 遺体も次々に見つかった。最終的に162名分が収容され、行方不明者はいたものの生存は絶望的だとして、乗員19名、乗客225名全員が死亡という結果になった。

 間もなく、この墜落事故は"空中分解"だったことが判明する。「チャイナエアライン611便空中分解事故」の発生だった。

   ☆

 今はどうか知らないが、少なくとも当時のチャイナエアラインは、やたら事故を起こすことで有名だったらしい。なんと四年に一度の割合で事故っていたとか。

 そんな中でも、今回の611便の墜落事故はもっとも始末が悪いケースだった。なにせ機体が海へ水没している。それでも台湾の飛行安全委員会と、そこから調査の要請を受けたアメリカの国家安全運輸委員会は原因調査に乗り出した。

 アメリカの専門家に声がかかったのには、特別な理由があった。今回の事故は、ボーイング747機であることや、暑い日のさなかだったことなど、6年前にアメリカで起きたトランスワールド800便(これも空中分解事故)と状況が良く似ていたのだ。もしかすると同じ原因だろうか? というわけで原因究明のために呼ばれたのだった。

 まずは、回収されたボイスレコーダーを確認してみる。しかし目ぼしい手がかりはなかった。どうやら事故機は何の前触れもなく墜落したらしく、墜落直前には、乗員が鼻歌を口ずさんでいるのが録音されていた。

 ミサイル撃墜説も無視できなかった。中国と台湾は対立しているし、また8カ月前には、78名が乗ったシベリア航空の旅客機が、演習用に発射されたミサイルに撃墜されるという惨劇も起きている。ありえない話ではない。

 しかしこれは否定された。中国軍がミサイル発射を否定したからというのもあるが、事故当時、レーダーにミサイルの影は映っていなかったのだ。また回収された残骸にも、ミサイル攻撃を受けた痕跡はなかった。

 残骸の痕跡ということで言えば、燃料タンクが爆発したわけでもなさそうだった。トランスワールド800便と同じ原因という線も、これでなくなった。

 では結局、原因はなんなのか。

 大きな手がかりとなったのは、墜落当時のレーダーである。と言っても管制塔のそれではない。高性能の軍用地上レーダーが、当時の機体の様子をより詳細に捉えていたのだ。

 そこに映っていたのは、墜落のおそるべき経過だった。611便の機影は15時28分、35,000フィートの地点で突然バラバラになり、大きく4つのパーツに分かれて海上へ散っていたのだ。。

 衝突でも撃墜でも爆発でもない、正真正銘の空中分解である。

 だとすると、機体そのものに欠陥があった可能性も否定しきれない。航空委員会は、同型の航空機を地上待機させて、欠陥がないと分かるまでそのまま待機させた。

 なぜ、この空中分解は発生したのか?

 残骸を詳細にチェックしていくうちに、調査チームは答えらしきものに行き当たった。数多くある残骸のうち「640番目の残骸」に、そのヒントはあった。この破片の裂け目には、明らかな“金属疲労”の痕跡が残っていたのだ。

 時速数百キロで飛行し、風圧を受けながらバラバラになった場合、機体の破片には乱暴にむしり取ったようなギザギザの痕がつく。現に、残骸の多くにはそのような痕跡が残っていた。しかし640番目の残骸はそうではなく、裂け目はなめらかで、長い時間をかけてちょっとずつ裂けていったかのようだった。

 もしかすると、金属疲労によってこの部分が一番最初に裂けたのではないか? それがきっかけになって、機体はバラバラになってしまったのではないか?

 また、この640番目の残骸には「ダブラープレート」と呼ばれる部品が当てられていた。これは裁縫で言うところの、つぎ当てのさいにあてがう補修布のようなものだ。破損した場所を保護するのである。ということは、この箇所は過去に修理されていたらしい……。

 というわけで修理記録が調べられた。

 すると、次の内容が明らかになった。事故機は1980(昭和55)年2月7日、香港啓徳空港での着陸のさいに機体後部が地上に接触する、いわゆる「尻もち事故」を起こしていたのだ。この機体が飛び始めて半年余りの頃の出来事だ。

 尻もち事故そのものは珍しくないので、驚くにはあたらない。その時はとりあえず応急処置がなされて、5月には作業チームによる本当の修理が行われている。問題はその記録だった。航空記録として「胴体外板の修理は、ボーイング構造修理マニュアルの53-30-09の図1に従って実施した」とだけ記されていたのだ。

 え、それだけ?

 本当にそれだけだったらしい。

 整備日誌にも簡単な記載があっただけで、あとはまともな記録はなかったそうな。

 おいおい、これ本当にちゃんと修理したのか? いよいよ怪しい。

 で、さらに調べていくと、ああやっぱり……で、この修理はボーイング社の構造修理マニュアルに違反する不完全なやり方だったことが判明した。

 この修理、マニュアル通りに行うならば、本来は以下の2つのやり方になるはずだった。

 ①損傷を受けた部分を丸ごと外して交換する。
 ②傷を完全に取り除いて補強材をあてる。

 しかし前述の通り、実際に行われたのは、例のダブラープレートを2枚、それもサイズ的に不十分なものをあてがっただけだった。

 すなわち、22年前の尻もち事故の傷は、完治しないままだったのである。

 もちろん、22年の間に、定期点検は何度も行われていた。しかし損傷個所はダブラープレートで覆われており、いい加減な修理だったことは外から見ただけでは分からなかった。さらに内側からも見つけにくいものだったらしい。

 さらに言えば、プレートを打ち込むさいに使われた「リベット」という部品も打ち込み過ぎだった。

 素人目線で説明してしまうと、どうやらリベットとは釘かネジのようなものらしい。釘もネジも、あまり深く打ち込み過ぎると、せっかく打ち付けた部位がかえって傷んでしまったり、その部位が脆弱になってしまうことがある。それと同じ理屈で、打ち込み過ぎたリベットは、機体に小さなダメージを与えていたのだ。

 こうして、チャイナエアライン611便が空中分解に至った経緯は明らかになった。そのストーリーは次の通りである。

 ざっくり書くが、航空機は飛行するときにものすごい負荷がかかる。時速数百キロで、ものすごい風圧を受けながら飛ぶのだから当然だ。

 611便の機体には、尻もち事故の「古傷」と、リベットによるダメージが残されていた。その2か所には、飛行のたびに前述のような負荷がかかる。よってそのつど、傷は数ミクロンから数センチずつ拡大していく。そして、それがついにメートル単位の亀裂となった時、機体はもたなくなった。機体後部がパカッと外れて脱落し、機内で急激な気圧差が生じて全体がバラバラになったのだ。

 以上のような調査報告がチームによって発表されたのは、事故から七か月後の2002(平成14)年12月25日のことだった。

 資料によると、この事故を契機として、調査チームは世界中に航空機の修復箇所の点検を呼びかけたという。

 こうした呼びかけあるいは要請が、どれくらいの強制力を持つのかはよく分からない。少なくともチャイナエアラインにおいては、航空機の修復にさいしての綿密な点検や、詳細な整備記録の保存が行われるようになったようだ。また技術的にも、現在は安全確認の方法が飛躍的に進歩しているという。

 この事故の直接的な原因は、「整備士の手抜き」である。とはいえ、機械部品の老朽化を綿密にチェックする体制が整っていれば、事故は防げたかも知れない。防災という観点からそのように考えると、単なる個別の航空機事故のハナシとして片付けることもできないように思えてくる。

 今の時代に生きる我々は、東日本大震災やその他の激甚災害など、多くの災害を目の当たりにし、また体験もしてきた。我々は「防災は一日にして成らず」であることをよく知っている。昨日の安全はもはや今日の安全ではない。システムの維持のためには、無駄に終わるかも知れないコストをあえてかけ続けなければならない時代なのだ。

 本当に、隔世の感とはこういうのを言うのだろう。かつて、1970年代くらいまでは、いつ起きるか分からない災害のためにコストをかけてられるかい、という考え方が主流だった。特に火災の歴史を見ているとそれがはっきり分かる。だからこそ、法律の側で防災体制の確立を義務付ける必要があった。そういう時代だった。しかし今では正反対である。これぞパラダイムシフトだ。

 時代は、成長の時代から維持の時代へと変わった。しかも、この場合の維持とは、戦いを要する維持のことである。防災は一日にして成らず。大切なものを守っていくには、そこに隠れているかも知れない亀裂が、日々数ミクロンずつでも拡大していないかどうかを繰り返し確認しなければならない。あるいはそこに何もなかったとしても、我々は秩序維持のためにそれを続けていかなければならない。これは戦いなのだ。

 そう考えると、防災というのは人間にかけられた無限に続く呪いだとすら思う。祈ったところで救われるかどうかは分からない。しかし祈り続けなければ救われることもない。別に宗教的でなくても、人間はそういう構造の中にいるのである。

 なんか、今回はこんな感じに感傷を込めた文章を書きたくなった。おしまい。

【参考資料】
◆青木謙知『飛行機事故はなぜなくならないのか』講談社ブルーバックス、2015年
◆ナショナルジオグラフィックチャンネル『メーデー!:航空機事故の真実と真相』第6シーズン第1話「SHATTERED IN SECONDS」
◆ウィキペディア

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バス事故

バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県松江村バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上川バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区バス衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
姫路市広畑区マイクロバス・電車衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)

◆トランスワールド航空800便墜落事故(1996年)


 1996(平成8)年7月17日のことである。一機の旅客機が、ニューヨークのJFK国際空港に到着した。

 この旅客機は、トランスワールド航空(以下TWA)881便のボーイング747-131(N93119、製造番号20083)である。TWAはアメリカの企業で、同機はこれからJFK空港での給油と乗客の乗り降りを経て、今度は「TWA800便」に切り替わることになっていた。次の目的地はフランスのシャルル・ド・ゴール空港だ。

 ところが、JFK空港でやたらとトラブルが発生した。まず、空港到着時に第3エンジンのスラスト・リバーサー(※1)のセンサーに問題が発生し、その交換作業が行われた。また、給油作業も手間取ったようだ。参考資料をざっと読んだ感じだと、燃料タンクが満タンになる前に自動的に補給作業が中断され、仕方なくいろいろ手動に切り替えて加圧方式での給油を続けたとかなんとか。

(※1)スラスト・リバーサー…逆推力装置のこと。ジェットエンジンの向きを逆にすることで飛行機を減速させる装置。主に着陸時の減速・制動に使われる。

 しかも、である。「乗客と預け手荷物の数が一致しない」と騒ぎになった。手荷物を預けた本人が搭乗をすっぽかすのが、航空機爆破テロのやり口である。実際、以前この手口で事件が起きている。よって厳密な確認作業が行われたが、実は勘違いだったと判明。飛行機はやっとこさ離陸することになった。19時発の予定だったTWA800便がゲートを離れたのは、約1時間遅れの20時2分だった。

 エンジン始動チェックを済ませた同便は、20時14分に滑走路22Rへの地上滑走を開始。20時18分21秒に離陸許可を得て離陸した。ここで管制もニューヨーク・ターミナルレーダーからボストン航空路交通管制センター(以下ボストンARTCC)へ引き継がれている

 程なくボストンARTCCは、同便に対して高度13,000フィート(3,962メートル)に上昇しそれを維持するよう指示した。20時26分24秒のことである。この3分後に、乗員が次のように口にしているのが記録されている。

「見てみろ、第4(エンジン)の燃料流量がおかしい。なんだこれは?」

 だがそれ自体は問題にはならなかったようだ。ボストンARTCCは、さらに15,000フィート(4,572メートル)への上昇指示を出した。

「TWA800、上昇して15,000フィートを維持して下さい」

 同便のパイロットもそれを了解した。

「TWA800ヘビー、(中略)3,000フィートから上昇して15,000フィートを維持します」

 依然、問題はなかった。ところが、離陸から12分経った20時31分12秒、レーダー画面から突如としてTWA800便の機影が消えた。場所はJFK空港の東約45キロ地点、ニューヨーク州ロングアイランドのイースト・モリチェスから南へ約13キロの大西洋上である。同便はそこを飛行していたはずだった。

 なんだ、一体何が起きた――。管制官は必死に応答を呼びかけるが返事はない。この直後、周辺を飛行していた他の航空機のパイロットたちから、続々と目撃情報がもたらされた。

「こちらスティンガー・ビー507、たった今向こうで爆発が見えた。あー、前方のおよそ16,000フィートくらいで何かが爆発して落ちた…水中に」(イーストウィンド航空507便)
「ボストン、こちらヴァージン609、九時の方角、5,6マイルほどで爆発らしきものを見た」(ヴァージン・アトランティック航空609便)

 TWA800便が姿を消した地点の周辺が人口の多い地帯だったこともあり、一般市民からの通報もかなりあったようだ。また航空・海上警備隊の人々も、爆発の瞬間と残骸の降下を目の当たりにしてすぐさま出動している。

 TWA800便は、空中で爆発し大西洋に墜落したのだった。夜の海上には機体の残骸が散らばり、3メートルほどの炎を上げているものもあったという。

 乗客212名と乗員18名は全員死亡。「トランスワールド航空800便墜落事故」の発生だった。

   ☆

 墜落の原因は何だったのか。最初に浮上した説は次の2つだった。

①イスラム原理主義者によるテロ
②アメリカ海軍によるミサイル誤射

 まず①だが、これは、事故の発生がアトランタ・オリンピックの開会式2日前だった(実際、開会後の7月27日にはアトランタ中心部で爆発テロが起きている)ことや、事故機が墜落前にアテネにいたことなどによる憶測である。アテネは何度も航空テロの舞台になっているし、そこで爆弾仕掛けられたんじゃないのか……。また、事故直後にはイスラム原理主義者を名乗るお調子者が「犯行声明」を発信している。その上、機体の残骸から爆弾の痕跡っぽいものも検出されもした。だが最終的に犯行声明はウソ、爆弾の痕跡は無関係として否定された。

 次に②である。事故当時、ニューヨーク周辺では海軍の軍艦や軍用機が訓練中だった。また、墜落の瞬間を見た目撃者の多くが、ミサイルらしきものを見たと証言している。これらが結びついて憶測が生まれたのだが、これも最終的にFBIによって否定された。

 じゃあ一体何なんだ、という話だ。アメリカ国家運輸安全委員会(以下NTSB)による事故調査は地道かつ緻密だった。7.5キロ×6.5キロの範囲に四散した機体の残骸を10カ月かけて拾い集め、最終的に全体の95%まで回収。それを組み立てて主要構造部分を再現するという気の遠くなるような作業を行ったのだ。ブラックボックスも早い段階で回収している。

 現在でも、この事故についてネットで検索すると、組み立て中の機体の画像がたくさん出てくる。最もこの事故を象徴する画像なのだろう。原因調査には多くの専門家が参加し、ウィキペディアいわく「アメリカの航空事故史上類を見ないほどの時間と労力と費用が投入された」という。ココナッツ・グローブ火災について書いた時も感じたことだが、米国の、事故災害の原因調査に対する執念というのはそういうものなのかも知れない。

 この組み立て作業によって、事故機の空中分解の経緯も明らかになった。ちょっと悲惨すぎるのでサラッと書かせてもらうが、まず機体の下部が爆発し、そこから発生した亀裂が、あっという間に機体を一周した。これにより機首が切り離される形になり、先に海上へ落下。機体の残り部分は数秒だけ暴走してから完全に失速し、きりもみ状に大西洋へ墜落したのだった。墜落の途中で、左主翼も吹っ飛んでいる。

 この悲惨な空中分解を引き起こした原因はなんだったのか。最終結論が公表されたのは、事故発生からほぼ4年後の2000(平成12)年8月23日のことだった。それは「電気配線がショートし、中央燃料タンク内の燃料に引火した」という内容だった。

 あまりにも意外な真犯人である。爆破テロか、はたまた軍の過失かという壮大な話だったのが、下手人は「小さな火花」だったのだから、にわかには信じがたい話だ。実際、現在でもこの事故については陰謀説が存在する。しかし素人目にも、「小さな火花犯人説」は説得力も信憑性も陰謀説を上回っているように見える。

 具体的に、事故当時に何が起きたのだろうか。

 まず、「燃料が気化しまくっていて危険な状態だった」ことがポイントである。事故機の離陸が予定よりも約一時間遅れたことは先述したが、この一時間の間にエアコンがガンガン使われたのだ。真夏なので当然と言えば当然だが、問題は空調装置が燃料タンクの真下にあったことだった。フル稼働した空調装置の熱がタンク内の燃料を温めてしまい、気化を促したのだ。航空燃料というやつは、液体の状態では簡単には引火しないが、気化すると途端に燃えやすくなるという特徴がある。

 気化が進んで危険な状態になったのには、もうひとつ理由があった。事故機の機体中央の燃料タンクには13,000ガロン(49,210リットル)の燃料を入れることが可能だったのだが、離陸当時は50ガロン(189リットル)しか入っておらず、ほとんど空っぽだったのだ――とはいえそれ自体には特に問題はない。もともと、TWA800便が飛行するはずだった大西洋線は航空機の飛行距離としては大したものではないため、燃料は機体の両側の主翼タンクに入っていれば十分だった。しかし揮発性の高い燃料を容器に入れて保管する場合、容器内の空間が多いと、気化して酸素と結びつきやすくなる。だから一般的に、そうした保管の場合は容器いっぱいに詰めるのが望ましいのである。その意味でも、事故当時の機体は大変よろしくない状態だったのだ。事故機が離陸した直後に記録された、「見てみろ、第4(エンジン)の燃料流量がおかしい。なんだこれは?」という言葉も、これと関係があったのだろう。

(ちなみに、これはちょっとよく分からないところなのだが、事故機がJFK空港に到着した直後、給油に手間取ったらしいことは先に書いた。この点が事故にどう影響したのか、単に「手間取ったから時間を食って燃料の気化が進んだ」のか、それとも「手間取ったから中央タンクの給油量がほんのちょっとになってしまった」のか、文脈的に、参考資料からは読み取れなかった。)

 それでも、この程度の状況でいちいち爆発して墜落されたらたまったもんじゃない。火種がなければ爆発することはないわけで、実際NTSBも、事故当時と同量の燃料をエアコンで長時間温めたらどれくらい気化するか――を、わざわざ航空機を一機使って実験している。この程度の事態はいくらでもありうるものだった。

 事故当時は、ここでもうひとつ不幸な出来事が重なったのだ。それが電気回線のショートである。事故機は製造後25年を経た古いもので、電気配線の腐食が進んでいた。このため漏電が発生し、一緒に束ねられていた油量計システムの配線に電流が流れ込んだのだ。この電流が、中央燃料タンク内にあった燃料測定器をショートさせ、その時の火花が、気化した航空燃料に引火したのである。

 こうして改めて書いてみると、なんだか不幸な偶然が重なりすぎており、風が吹けば桶屋が儲かるみたいな話である。人によっては、「そんなできすぎた話あるかい!」と、陰謀論にリアリティを感じることもあるかも知れない。2013(平成25)年には、NTSBの元調査官が「あの最終報告は嘘だ。FBIに証拠を消された」と広言しているほどだ。頭の痛い話である。この調子では、万人が納得できるような「解決編」が示されるのはずっと先になりそうだ。

 できすぎといえば、この事故は、全体としてあまりにもドラマチックであり、その真相についてはミステリアスである。衆人環視の中での空中爆発、悲惨な機体破壊、各方面の専門家による爆発原因の「推理」、そして意外な真犯人、それでも残る陰謀説…。実際、この事故を再現・解説したドキュメンタリー動画を観てみると、ちょっとドラマ性が強調されすぎている気がしなくもない。

 こういうイメージが先行してしまうと、どうしても人はそこに「面白いドラマ」を幻視してしまうものだ。日本における、例の日本航空123便墜落事故などその最たるものである。また1952(昭和27)年に起きたもく星号墜落や、1902(明治35)年の八甲田山遭難事故も同様で、さらに言えば、これは犯罪の話なのでジャンル違いではあるが、1938(昭和13)年の津山事件もそうだ。今のように情報媒体が充実していた時代とは違い、かつてはこうした「イメージ先行」の壁を打ち破るのは難しかったことだろう。今挙げた事例で、憶測とイメージによって実態が覆い隠されて後世に悪影響を残した点というについては、一部の文筆家にも責任があると思う。

 この事故の後、ボーイング社は、燃料タンク内での引火を防止するシステムを開発した。また経営難だったTWAは、800便事故が致命傷となって2001(平成13)年にアメリカン航空に吸収された。

【参考資料】
◆青木謙知『飛行機事故はなぜなくならないのか』講談社ブルーバックス、2015年
◆ナショナルジオグラフィックチャンネル『メーデー!:航空機事故の真実と真相』第15シーズン第4話「Explosive Proof」
◆pixiv百科事典「TWA800便墜落事故」
◆youtube「航空事故の瞬間:補完編(音声編)」
◆ウィキペディア

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航空機事故

トランスワールド航空800便墜落事故(1996年)
シンガポール航空006便離陸失敗事故(2000年)
チャイナエアライン611便空中分解事故(2002年)

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火災 fire

-火の昔-

山形大火(1894年・1911年)
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
温海大火(1951年)
魚町大火・かねやす百貨店火災(1952年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
姫路国際会館火災(1971年)
呉市山林火災(1971年)
大然閣ホテル火災(1971年・韓国)
アンドラウスビル火災(1972年・ブラジル)
千日デパート火災(1972年)

◆姫路国際会館火災(1971年)

 1971(昭和46)年1月1日のことである。兵庫県姫路市の4階建ての遊技場「国際会館」が火を噴いた。

 発覚したのは、22時10分のこと。年が明けたばかりのこの日、同施設は21時40分に営業を終えていた。その後、4名の従業員が3階の事務室で後片付けをし、帰路につこうと階段を下りたところで煙に気が付いたのだ。

 燃えているのは、2階の東側にある卓球場だった。さっそく従業員のうち1名が、従業員寮になっている4階まで駆け上がって火事ぶれを行い、さらに3階で消防に通報してから脱出した。他の3名も、火事を知らせたりしながら、急いで階段から避難している。

 一見、もたもたせず迅速に行動しているな~という印象を受けるが、初期消火や火災報知ベルは鳴らされていない。

 もともと、この施設の従業員は、防火管理についての意識が低かった。消防計画は無し、消火や避難の訓練、設備点検も行われていなかった。報知機のベルも停止状態。ハード面・ソフト面いずれも欠陥だらけだった。

 こんな状況だったので、屋内に延焼を助長するような可燃物がたくさん置かれていた……と聞かされても驚く人は少ないだろう。むしろ「ああやっぱり」で、火元から上階へと続くらせん階段の周辺には紙類や木片、ゴム類が積み上げられていた。これらを伝って、火炎は上階へみるみる延焼。煙も一緒に4階へ拡大していった。

 建物自体は耐火造だったという。だがしかし、内装は木造や合板張りだった上に防火区画は存在せず、屋内はすべてぶち抜きでひと繋がりという構造だった。ぜんぶ焼いて下さいといわんばかりだ。なんの抵抗も障害もなく、炎は燃え広がっていった。

 そうこうしているうちに消防隊が到着。この時にはすでに2階の窓から炎と黒煙が噴き出しており、中に進入するのは不可能だった。

 消火作業は外から行うしかない。路上や、周囲の建物の屋上から放水が行われるが、炎は4階にまで拡大していく――。

 この4階というのが従業員寮だったのは先述した通りだが、悪いことに、建物の主な階段が直通ではなく、とても脱出しにくい構造だった。先に火事を発見していち早く避難したメンバーは良かったのだが、逃げ遅れがいた。

 当時この4階にいた男性1名は、最初の火事ぶれを聞いて3階へ駆け下りている。しかし煙に阻まれて脱出はならず、屋上へ逃げた。これは無事に消防隊によって救助されている。

 建物はみるみる焼け落ちた。焼損面積は2~4階の延べ1,844平方メートルである。鎮火したのは、火災発見からほぼ2時間後の23時50分だった。

 そして2名が遺体で発見された。いずれも20代の女性従業員で、一緒に避難しようとして階段を降り、2階に通じる階段踊り場へ出たものの煙を吸ってしまったらしい。

 彼女たちは施設の勤務歴が長く、内部の状況に詳しかった。二人の倒れていた場所から僅かのところに窓があり、そこから隣のベランダへ逃げようとしたのではないかと考えられた。

 火元の卓球場近くにはゴミ箱があり、出火原因はそこに捨てられたタバコだろうと推測された。断定には至っていない。

 余談だが、これを書いている時点(2019(令和元)年5月19日)のちょっと前に、フランスのノートルダム大聖堂が火災で焼け落ちた。それで、タバコが原因ではないかと推測されたのだが、当時改修工事を請け負っていた業者は「確かに現場でタバコは吸ったけど、たった一本で火事になんてなるもんか!」という趣旨の証言をしているらしい。

 いやいやいやいや。

 なるから。

 タバコ一本で、火事に。

 もちろん筆者は、ノートルダム大聖堂のハード面での防火対策がどうなっていたのかは知らない。上述の発言も、周辺情報を無視してそこだけ切り取ったものなのかも知れない。

 しかし、当研究室の数々の事例を見れば明らかである。状況によっては、タバコ一本で大火災になりうるのだ。マッチ一本火事のもとである。タバコのポイ捨てはやめよう。

【参考資料】
特異火災事例
◆『日外アソシエーツ 昭和災害史事典④(昭和46年~昭和55年)』紀伊国屋書店、1995年

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◆道頓堀川飛び込み事故(2019年)

 大阪市中央区の道頓堀地区に、戎橋(えびすばし)という橋がある。道頓堀川にかかっており、ナンパスポットとしても有名で「ひっかけ橋」という異名を持つとか。また、この西隣には道頓堀橋というのもある。

 道頓堀地区といえば、グリコランナーが描かれた巨大看板や「かに道楽」の看板など、定番の観光スポットである。大阪にさほど明るくない筆者のような東北人でも、あのへんの名所と言えば大阪城やUSJに次いで思い出す。

 2019(平成31)年4月30日、20時30分頃にここで悲劇が起きた。

 当時の天皇陛下のご退位と皇太子殿下のご即位に伴い、元号が「平成」から「令和」に変わるまであと三時間半ほど――というタイミングだった。一人の男性が、こう叫んで戎橋から飛び降りたのだ。

「阪神タイガース優勝しました。平成ありがとう!」

 ちなみに、阪神タイガースが2015(平成27)年以降に優勝したという話を、筆者は寡聞にして知らない。こういう「飛び込み」をする時の決め台詞なのだろうか。

 戎橋から道頓堀川の川面までは、約5メートル。男性は川へ向かってダイブした――。

 ところがそこに、一隻の船が通りかかった。道頓堀川を20分ほどかけてクルーズする「とんぼりリバークルーズ」のクルーズ船である。男性は、ゴツンッ! と音を立ててこの船に激突した。この時の様子はネット上でも動画で拡散されており、本当にゴツンッ! と音がするのが生々しい。

 筆者は最初、この動画を観たとき「さすが大阪人。狙ったのかな」と思った。しかしよく見ると、男性は飛び降りる直前に船が来るかどうかを全く確認しておらず、船への激突はまるきり偶然だったのである。天然でこういうギャグをかましてくれるあたり、大阪のお笑いの神さんはさすがである。

 こんな風に茶化して書けるのは、死者がいなかったからである。船に乗っていた人は誰も巻き込まれずに済んだし、飛び降りた男性も命に別状はなかった。さすがにしばらく動けなかったようだが、間もなくその場を立ち去っている(風の噂によると、どこか複雑骨折したらしい)。

 落下した場所に、緩衝用のタイヤがあったからよかったのだ。この時、船には約60人が乗っていた。船頭いわく「橋を通過しかけた瞬間、人がボンッて落ちてきた」とのことで、人間同士が激突していたらどんな大惨事になっていたか…。

 いくらめでたいとはいえ、とんでもない行為である。

 しかしある意味で、驚くにはあたらない。この戎橋とその周辺は、いわば慶事の「飛び降りの名所」なのだ。

 ニュースで見聞きした方も多かろう。ここでは、1985(昭和60)年の阪神タイガースの優勝を皮切りに、2001(平成13)年の大阪近鉄バッファローズの優勝、2002(平成14)年の日韓ワールドカップでの日本代表の勝利時、2003(平成15)年の阪神タイガース優勝時など、大きな出来事の際には多くのお調子者が戎橋や近隣の道頓堀橋から川へダイブする風習があるのだ。最近では、ハロウィーンや新年カウントダウン、季節ごとのイベントでもダイバーがいるらしい。何があったのか、過去には逮捕者もいたとか。

 それだけなら「まあそういう名所なんだろうな」で済むのだが、2003(平成15)年の阪神タイガース優勝時や2015(平成27)年の新年カウントダウンの時には、川へ飛び降りて亡くなった人もいるので笑ってばかりもいられない。

 こういうのの是非については、地元の人から見てもいろいろモヤモヤを感じるものだと思うが、まあ概して「大阪名物」なのだと思う。ハリセンチョップみたいなものだ。筆者の個人的な感想としては、クソ真面目に禁止令を出すようなものでもないと思うし、むしろ怪我をせずに安全に飛び込めるよう整備した方がいい気すらするのだが、どうなんだろう。

 まあ確実に言えるのは、飛び降りない方が賢明である、ということである。道頓堀川は意外と深く、底に足がつかない程だという。また粗大ゴミも多く沈んでおり怪我をする危険性もある。水質も、決してゴクゴク飲めるほど綺麗とは言えないし、正月ともなれば水温は低く、いきなり飛び込めば心臓の悪い人は即死しそうだ。

 今回の男性の飛び降りの後、いよいよ「平成」が「令和」に切り替わろうとする23時55分の段階では、道頓堀周辺には約5千人が集まった。警察官も橋への立ち入りを規制したという。

 資料の情報を総合すると、さすがに封鎖まではしなかったとみえ、拡声器で「立ち止まるな」と呼びかける程度だったようだ。それでも、改元後も周辺での警備は続けられ、これが奏功してか、あとは戎橋以外の場所でポツポツと10人くらいが飛び込んだ程度で済んだらしい。

 ちなみに、船への激突事故が起きた時はまだ早い時刻だったので、全然規制されていなかったのである。

 考えてみると今回怪我をしたこの男性、まだ大して盛り上がってもいないうちにふざけて大怪我をし、肝心のカウントダウン時にはおそらく複雑骨折で苦しんでいたのである。これを幸先の悪い失敗談と考えるか、いい思い出と捉えるかは本人次第だろう。新時代に幸あれ。

【参考資料】
新時代に各地で祝福ムード 道頓堀では“令和ダイブ”も
改元で「道頓堀川飛び込み」 あわや大惨事、クルーズ船の船首に落ちた男性
大阪・戎橋 令和スタートでごった返す、飛び込む人も
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従者ヨシコ芸能ブログ
衝撃事件の核心

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◆山陽本線特急列車脱線転覆事故(1926年)

 昔は、大惨事の記憶を「歌」によって残そうとする習俗があったのだろうか。今回ご紹介する事故も、以下のような形で歌われている。いつもの『事故の鉄道史』に載っていた。

列車転覆の歌
作詞 秋月四郎(地元の歌人)

一、ああ大正は十五年 時は九月の廿三夜
      山陽線は安芸中野 聞くも哀れな大惨事
二、知るや知らずや黒けむり 特急列車は轟然と
      数多(あまた)の旅客を打ち乗せて 全速力で進行中
三、如何なる神の戯れか にわかに豪雨が襲いきて
      かの恐ろしき激流に 無慚(むざん)や列車は転覆す
四、狭き車内の負傷者は 阿鼻叫喚の修羅の声
      親は子を呼び子は親を 呼びつ呼ばれつ雨の中
五、救いを求むる哀れさに 中野の村の人々は
      村長三戸松初めとし 救助の道を施せり
六、数多旅客のその中に 鹿児島市長上野氏は
      ひとり子篤孝諸共に 無惨な惨死を遂げにけり
七、上り下りの汽車の笛 ひとと哀れを告げにけり
      三十余名の霊魂は 中野の村雨とこしえに

 余談だが、作詞した秋月四郎という人は、かの「ヨサホイ節」を全国に広める火付け役となった人らしい。何者だろう。

 ともあれ、こういう事故である。人呼んで山陽本線特急列車脱線転覆事故は、1926(大正15)年9月23日、山陽本線の安芸中野駅~海田市駅間で発生した。

 この年は、風水害の当たり年でもあった(※)。特に9月は、11日に広島市で集中豪雨による甚大な被害が出るなど、ひどかったらしい。「らしい」というのは、さすがに90年以上前の出来事とあって、ネットで調べた程度では記録がほとんど見つからなかったからだ。まあ地元の郷土資料などにあたれば詳細も分かるのだろうが。

 (※参考資料『事故の鉄道史』によると、この年、愛知県豊橋市では某小学校の校舎が水害によって倒壊し、児童15人が死亡した事故が紹介されている。大変気になる事例である。この事故が起きたのが事実なら詳細を知りたいのだが、とにかく情報がない。どなたかご存じでないだろうか……。)

 今回ご紹介する事故も、この風水害の影響で発生した。しかしこの事故だけはしっかり記録に残された。それほどの重大事故だったのだ。

 事故が発生したのは23日。その前日の22日には、事故の現場となる地域でも雨が降り出し、これが午前2~3時頃に豪雨に変貌した。この雨で、周辺地域の畑賀村(現在の安芸区畑賀)で36名が、中野村(現在の安芸郡府中町)で3名が亡くなっている。

 災禍に見舞われることになる下り特別急行列車第一列車が、東京駅を出発したのは22日午前のことだった。資料によって、9時半とか8:45分とか書いてある。これは28977号蒸気機関車が11両の荷物車と客車を牽引する形で走っており、以下のような経路を辿っていった。

 22日、20時12分に大阪駅に到着。20分発。
 23日、広島県の山陽本線糸崎駅を午前1時46分に出発して広島駅へ。
 広島県安芸郡中野村にある、安芸中野駅を、定刻よりも3分遅れの3時28分30秒に通過――。

 そして、列車はこの後に脱線転覆してしまうのだが、実は事故直前に、安芸中野駅の少し先の方では、畑賀川の増水により、溢れた水が線路を支障しているのが発見されていた。水が線路の築堤に溜まり、盛土が崩れ出していたのだ。これを見つけたのは、地元の中野村消防組(当時の消防団にあたる)のHである。

「これはヤバイ、安芸中野駅に知らせなければ!」

 彼は駅へ駆け出した。

 そこへ、3時28分に安芸中野駅を発車したばかりの特急列車がやってきた。ヘッドライドがこちらに驀進してくる……。提灯を持っていなかったHは、差していた番傘を必死になって振った。しかし見えるはずもない。

 こうして午前3時30分、特急列車は脱線転覆した。Hが、事故の瞬間そのものを目の当たりにしたかどうかは定かでない。

 実は、このたった5分前には、貨物列車が何事もなく現場を通過していた。盛土が崩れたのはその直後だったのだ。実に不幸なタイミングである。もしも、事故った列車に3分の遅れがなければ、惨劇は起きていなかったかも知れない。

 Hは色を失い、安芸中野駅に向かって走った。すると駅の手前で安芸中野丁場線路工手組頭の男性と出くわした。以下は、時系列を分かりやすくするためのエア会話である。

H「大変だ、この先で列車が脱線した!」
組頭「なんだと。今の時刻だと、貨物列車と特急列車が続けて通過したはずだが、どっちもか?」
H「いや、脱線したのは特急列車の方だけだ。貨物列車は無事に通過している。その直後に線路の盛土が崩れたんだ!」
組頭「なんてタイミングだ! 俺は今、川の増水について駅に報告に来たところだったんだ。危険な場合は列車を止めようって決めたばっかりだったんだが。そういえば、俺が電話で話している3時24分には、貨物列車が通過したっけ。あれは無事だったってことか。そしてその直後に通過した特急が脱線した……」
H「で、あんたはどうして外に出てきたんだ」
組頭「駅長に言われたんだ、様子を見てこいって。特急列車が駅を通過して2分かそこらで、遠雷みたいなすごい音が聞こえたんだよ。あれが脱線事故の音だったんだな」

 豪雨で差し迫った状況の中、事故はタッチの差で発生していたことが分かる。

 鉄道関係者は即座に対応した。先のHと組頭は前後の列車の停車の手配と、上部機関への連絡を行っている。またHは機転を利かせて、駅の近くにある専念寺という寺で梵鐘を突いて仲間を呼び寄せた。非常時に通常使われる半鐘は、駅から距離が遠すぎたのだ。これにより、200名の消防組員が迅速に集まった。

 ところで。

 この事故に遭遇した特急列車だが、これは当時の時代状況を反映したかなり特殊な造りの車両だった。発生した事故そのものとは直接関係ないが、その出自は日本の近代史に深く関わっており、事故を少し広い視野で見るための豆知識にはなると思う。簡単にご紹介しておきたい。

 この特急列車の正式名称は「一、二等特別急行列車」といった。日本初の特別急行列車として、1912(明治45)年6月15日に運行がスタートしたものである。

 日露戦争後、日本は大陸への膨張政策を採り始めた。これに合わせて下関から釜山へ連絡船が運航され、それが朝鮮総督府鉄道とシベリア鉄道と連結し、中華民国・パリ・ロンドンに至ることで、国際連絡運輸の態勢が整っていた。先述の「一、二等特別急行列車」はこうした動きに対応すべく造られた超高級列車で、国際連絡の一翼を担う形で運行されていたのである。

 ちなみに、現在の公益財団法人日本交通公社の前進であるジャパン・ツーリスト・ビューローが設立されたのも1912(明治45)年のことだ。

 この特急列車がどれくらい豪華だったかというと、最後部の一等展望車には貴賓・高官用の特別室が設けられ、豪華な彫刻や飾りつけが外国人の目を引いたという。また、当時としては珍しかった「洋食堂車」が連結された上、接客は英会話ができる青年が行うなど、その設備やサービス内容は当時の最高水準ともいえるものだった。

 これが、無惨にも脱線転覆したのだった。

 先述の通り、列車は全11両編成。このうち、まず機関車が海側に倒れ、荷物車だった一・二両目も原型をとどめないほど粉砕された。そこへ、客車である三両目が食い込んで大破。続く四・五両目は折り重なって転覆大破し、さらにこの五両目に六両目が突っ込んだ。七両目以降は惨事を免れた(※)。

(※記録によると、一両目は「増」の荷物車。よって厳密には、事故った二~六両目は「1~5号車」として番号がふられている)

 大破した客車はいずれも「二等車」あるいは「二等寝台車」で、当時の乗客108名中75名がこれに乗車していた。そしてこのうち、即死者と、後に死亡した者を合わせて34名が犠牲になった。

 高級列車とあって、犠牲者の中には、当時の鹿児島市長や三菱造船常務取締役、日本メソジスト教会伝道局長など社会的地位の高い人物も多くいた。

 とにかくひどい惨状だったようだ。救援には、広島保線事務所から派出された約200名のほか地元の消防組、在郷軍人会、青年団など、あわせて2千名が駆け付けたが、手の付けようがないほど現場はめちゃくちゃだったのだ。

 また、広島運輸事務局からの連絡で、広島治療所の医師と看護婦、市内病院の医師、看護婦、開業医が救援列車で駆け付けている。さらに駅周辺の開業医や、その他の病院の医師も加わった。

 遺体は損傷がひどいものが多く、最寄りの専念寺へ収容された。事故発生直後に、消防組のHが梵鐘を鳴らしたあの寺である。

 負傷者や、無傷の者は広島へ送られていった。遺体収容は翌日24日までかかり、自宅に送られたものも、遺族の希望で広島で荼毘に付されたものもあった。

 復旧工事も進められた。広島や瀬野から、工具資材を積んだ復旧作業用列車が駆け付け、小倉や下関の工場からも技工が派遣されている。現場では転覆した車両をどかす作業が進められたが、食い込んで噛み合ってしまった車両を引き離すのはかなり難儀したようだ。その他、客車や炭水車はガス切断などの方法で分断されて回収されている。

 当時の鉄道大臣は、慰問と現地視察のため、26日の未明に第一特急列車で広島へ駆け付けた。また鉄道省は、翌月の10月初めには弔慰金の支出を決定。犠牲者の社会的身分を考慮し、死者には5千円を、負傷者には2千円を限度として個々に支出した。

 裁判では、以下の三名が起訴されている。

1・門司鉄道局広島保線区の主任事務取扱
2・広島保線区海田市駐在所の保線助手
3・海田市駐在所安芸中野丁場の線路工手組頭

 このうち1は、水害のあとで線路に応急工事を施したものの、その後は警戒の措置を何も講じなかった……とされた。

 また2は、22日の夕方に、3に対して、受け持ちの範囲内にある橋と線路の巡回を命じただけで自分は仮眠し、豪雨のため危険な状況になっていることに気付かなかった……とされた。

 そして3は、2の命令を受けて巡視警戒をしたり、手堤信号などで汽車を止めるべきだったが、電話連絡に手間取ってそれらの任務を怠った……とされた。

 参考資料『事故の鉄道史』によると、少なくとも1は大審院で破棄無罪となった、とある。これが昭和3年1月27日のこと。2と3がどうなったかは不明である。

 事故が発生した築堤は、その後、鉄路の安全確保のために工夫がなされている。盛土にすると大雨で崩壊してしまうので、ならば水の逃げ道を用意しよう、ということになった。築堤のかさ上げと合わせて、約20メートルの鉄橋が架設されたのだ。この鉄橋の写真はウィキペディアでも見ることができる。一見すると下に道路も水路もない奇妙な橋だが、洪水の際、下の空間から水が抜けられるようになっているのだ。

 何の情報もないまま見れば、ごく普通の風景写真である。しかしこの風景にも、34名が死亡した大惨事の歴史があるのだ。

 犠牲者を悼む慰霊碑は、遺体が収容された専念寺に建立されている。梵鐘の形をした慰霊碑の上に仏像があり、その仏像の台座に、犠牲者の氏名が刻まれている。

 さて、この事故は、日本の鉄道車両が「木造」から「鋼製」へと変わっていく大きなきっかけとなった。

 もともと、この事故が起きた頃というのは、鉄道の客車を、頑丈な「鋼製」へ変えていこうという機運が高まっていた時期でもあった。

 木造の車両は、はっきり言ってもろい。1920年代には、アメリカを始めとする鉄道先進国ではこのもろさが既に問題となっていた。ひとたび事故れば木材が裂けて死傷者が増えるのも問題だったし、車両の長さを伸ばして速度も向上させていくには、木造ではとても強度が間に合わない。鋼製車両への切り替えは世界の趨勢だった。

 よって日本でも、前々からそういうことは言われていた。ただ木造の方が軽くてイイという意見は根強くあったようで、そのためかどうか、当時の鉄道省は1927(昭和2)年度の新製車両計画において、もともとあった600台の客車のうち半分を半鋼製車にする予定を立てていた。全部、ではなかったのだ。

 ちなみに半鋼製車両とは、台枠、側構、外板が鋼製で、天井、内羽目などの車内の仕上げを木製にしたものである。それら全てを鋼製としたものを全鋼製車両というらしい。

 そこへきて今回の事故が発生し、ダメだ半分なんてケチケチせずに、一気に全車両を鋼製にしよう! ということになった。一般的には、事故がきっかけでいきなり木造車両の見直しが始まったかのように思われているらしい。だが実際にはそうではなく、前から案が出ていた鋼製への総とっかえを、この事故が後押しした形だった。

 このような経過を経て、車体を鋼製とした、いわゆる国鉄オハ31系客車などが誕生した。

 事故に見舞われた特急列車一・二列車はその後も運行され、1929(昭和4)年には鉄道省の公募により「富士」の愛称がつけられた。さらに翌1930(昭和5)年にかけて、それまでの木造車両は鋼製車両へと交換された。

 余談も余談なのだが、この時に作られた一等展望車の内装デザインには2種類あったそうで、そのうちの片方が「白木屋式」と呼ばれていたとか。なんでも、同じ時期に新築された白木屋百貨店の内装デザインとと似ていたらしい。事故災害のことをいろいろ調べて書いていると、なぜか白木屋百貨店の名前があちこちで登場するので驚く。

 「富士」は、その後もシャワールームが設置されるなど相変わらずの高級ぶりで運用され、輸送量の増大に伴って車両の規模もどんどん大きくなっていった。だが戦争の激化により一部の車両は輸送力増強のため通常使用がままならくなり、1944(昭和19)年には運行中止となった。儚い。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・網谷りょういち『事故の鉄道史-疑問への挑戦』(日本経済評論社、1993年)
◆ウィキペディア

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