◆天六ガス爆発事故(1970年)

 1970(昭和45)年4月8日、三島由紀夫が割腹自殺を図るよりも半年ほど前に起きた事故である。

 場所は大阪市北区天神橋六丁目、通称「天六」。大阪駅から東北に2キロほど行った所にある繁華街である。

 この頃、この「天六」の地下では大規模な工事が行われていた。地下鉄工事である。ちょうどその年に開催された万国博覧会をきっかけとして、大阪市は再開発が急ピッチで進められていたのだ。そして当時の大阪は世界第9位の地下鉄都市で、今度は周辺都市への路線延長が計画されていたのである。

 工事の方式はオープンカット方式と呼ばれるものだった。道路に穴を掘り、作業員はその穴に下りて作業を行う。そして穴の上にはコンクリートの板を敷いて、車や歩行者はそこを行き来できるようにするというものだ。

 フタをした鍋を想像すると良いかも知れない。フタの上を人々が行き来しており、鍋の中で作業員が工事をしているという構図である。

 さて、大事故の予兆があったのは午後5時15分頃のことである。地下での配管工事が行われている時、いきなり都市ガスが噴出したのだ。

 この段階で作業員27名は即座に脱出したというから、噴出の勢いは相当なものだったのだろう。ガスはたちまち地下の「鍋の中」に充満し、地上にも溢れてきた。道路に敷き詰められたコンクリート板の隙間から不快なガス臭が漏れ出て、付近の住民たちは一体何事かと外へ出てきた。

 そして最初にガス漏れが発生してから5分程経った午後5時20分、ガス会社のパトロールカーもこのガス漏れを発見。緊急車輌や工作車が呼び出され、消防車も駆け付けた。天六周辺はもう大騒ぎである。

 騒然とした中で、野次馬や、通行人や、付近の住民たちに避難が呼びかけられた。

 そしてもちろん、現場は火気厳禁である。しかし作業員たちの必死の呼びかけにも関わらず、結果的には多くの人々が爆発に巻き込まれることになってしまった。

 昔のながいけんならきっと「どぼずばああああああん」と書くところだろうが、笑い事ではない。推定5万立方メートルの規模まで漏れたガスは2トン爆弾に匹敵する破壊力を持つ。たちまち10メートルを超す高さの炎がビルの上まで噴き上がり、工事の穴を塞いでいたコンクリートの板(1枚につき重量400キロ)が何百枚も跳ね上がった。道路は長さ200メートル、深さ150メートルに渡って陥没したという。おいおい戦争じゃないんだからさ、と言いたくなる惨状である。

 結果だけを見れば、最初のガス漏れの段階で自衛隊あたりが駆け付けてもおかしくないほどの事態だったのである。

 言うまでもなく、現場にいた野次馬も、作業員も、事故車輌も、信号待ちの車も、全てがぽぽぽぽーんと爆風で吹き飛んだ。その結果、工事中の地下へ落下して79名が死亡。負傷者は420名に及んだ。

 また悪いことに、そこは夕刻になると仕事帰りの乗用車が多く通過する場所でもあった。

 消火と救助活動は、翌10日の午前1時頃まで続いた。地下に落下した犠牲者をクレーンでまとめて吊り上げたり、電柱に引っかかった遺体を収容したりと、その作業は凄惨かつ難航を極めたものだったらしい。死因のほとんどは全身打撲だった。

 家屋は全部で26戸が全半焼、損壊が336戸。ドアや窓ガラスが破れただけの家も含めれば被害は1000戸を越えた。

 さて問題はガスに引火した原因だが、これが今になってみるとよく分からない。一応、エンストを起こした事故処理車がエンジンをかけ直しているうちに火花が引火した――というのが通説になっているが、それも推測の域を出ないようだ。

 次は裁判である。この工事の施工監督は大阪市で、これが業務上過失致死で起訴された。だが大阪市は、実際に工事を行った建設会社やガス会社と責任をなすり合う形になり、このなすり合いは15年もの長きに渡って続いたのだった。どうもネット上で調べてもどういう判決になったのかよく分からないのだが、きっともうグダグダだったのだろう。

 ただし、補償は早かった。上記3者は、事故の8ヵ月後には被害者や被害者遺族に対する補償を終えていたのである。そしてついでに言えば事故の7ヵ月後には工事も再開されていたというから、とにかくさっさと丸く治めて工事を予定通り進めてしまおうという意図もあったに違いない。

 そうした観点で言えば、被害者や被害者遺族たちは、迅速な補償によってかえってうまくガス抜きをされてしまったのではないかという気もする――ことがガス爆発事故なだけに、と、これは悪い冗談だが――。

 慰霊碑は存在する。天六の近くにある国分寺公園の中にあるという。

 当初は、1994(平成6)年を最後に慰霊祭は行われていないという情報を得ていたが、その後の2021(令和3)年4月8日には、ちょうど事故から50年ということで、当時現場で工事を請け負っていた建設会社の幹部たち15名が集まり、慰霊の儀式が行われたようだ。新型コロナウイルス感染予防のため参列者は間隔を空けて並び、それぞれ手を合わせたという。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆失敗百選
◆アサヒグラフ

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