◆沖縄県営鉄道爆発事故(資料編「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」)

弾薬輸送列車大爆発事件
闇に包まれた爆発事件


 1945年(昭和20年)の沖縄決戦における戦没者は県援護課の資料(1975年3月調)によると沖縄県外軍人軍属65,908柱、沖縄出身軍人軍属28,228柱、一般住民94,000柱計188,136柱となっている。しかし申告漏れがかなりあるため一般住民の戦没者は実際には10万人を超すといわれている。このように一般住民の犠牲が軍人軍属の犠牲を上回る悲惨な戦争は世界に例がないといわれている。

 この厖大な犠牲は米軍の砲弾によるものだけではなく日本軍の事件事故によってつくり出された犠牲も含まれている。ところが日本軍に係る事件事故はこれまで隠されてきたのが多く俊々の証言によって明るみに出される例が多い。これから明らかにしようとする列車の爆発事件もその類である。

 この爆発事件は二百数十人の人間が一瞬のうちに空中へ吹き飛び或いは火に焼かれて死亡するという大惨事であった。三十二軍首脳もこの事件によって大量の武器弾薬を失った為に動揺し参謀長は直ちに各部隊へ厳重な注意事項を発していさめた。ところが三十二軍首脳は決戦を控えて一般住民の動揺を恐れたのか外部に対して全く秘密であり、お叱り受けるのを恐れたのか大本営に対しても全く報告されてなかった(防衛庁戦史室は後々にこの事件を第62師団会報綴によって知った、戦史叢書沖縄方面陸軍作戦)。

 当時は報道機関も軍の検閲下にありそのためにこの事件の報道は一切なく県鉄関係者も口止めされ、被害関係者も軍を恐れて口を閉ざし今日まで無言の闇に包まれて来た。この惨事も戦争の実態の一つであることを県民が知ってもらうために弾薬輸送列車の爆発事件を報告することにする。

  事件の背景
  武部隊の台湾転出


 1942年(昭和17年)三月に日本軍はフィリピンを占領した。その時南太平洋の米軍司令官ダグラス・マッカーサー将軍は「I・SHALL・RETURN」私は必ずまた来る、という予言を残してフィリピンからオーストラリアへ脱出していた。しかし日本軍はその後太平洋諸島においてことごとく敗北を喫し彼の予言通り1944年(昭和19年)10月20日からダグラス・マッカーサー将軍の指揮する米南太平洋軍団は猛烈な艦砲射撃の支援を受けながらレイテ島東海岸に上陸を開始してきた。それを受けて大本営はフィリピン方面を決戦場と決め「国軍決戦実施ノ要域ハ比島方面トス」の大号令を発した。

 レイテ決戦の決意に伴い11月20日台湾在の第十師団と朝鮮在第十九師団がフィリピンの第十四方面軍に増加され、更に沖縄の三十二軍からも一個師団フィリピン方面へ抽出することになっていた。勿論三十二軍は沖縄から一個師団抽出することに強く反対したが大本営の至上命令に押切られ止むなく一個師団の抽出となった。一方台湾の第十方面軍では多くの兵員がフィリピンに抽出された為に台湾守備が手薄になっているとして台湾に兵力増強を要請していた。大本営は当初沖縄から抽出する一個師団も比島方面へ投入する考えを持っていたが海上輸送に大きな危険が伴うため差当り台湾へ移すことになり、沖縄本島南部の島尻郡で陣地構築中の第九師団(武部隊)が11月中旬台湾へ抽出されることに決定された。武部隊は昭和19年6、7月の夏から11月の秋にかけて多くの現地住民も使い陣地構築は完成間近であった。10月15日には現地入隊の初年兵もかなり加わり一万三千人を超える大所帯の師団で光輝ある精鋭師団として評判が高かった。配備以来住民との接触も多くなじむ頃であったが転出の軍令を受けて密かに移動を準備していた。

 11月末にこれまで汗を流して築き上げて来た各陣地を第二十四師団(山部隊)へ引継ぎ那覇へ集結して12月中旬から20年1月上旬にかけて那覇港を夜間出港し米軍の魚雷攻撃を避けながらかなりの時間をかけて島づたいに台湾へ渡った。軍の行動は秘密であり殆どの住民は武部隊が台湾へ去ったことを後で知った。武部隊の他第三十二軍配下から三十二軍直轄の中迫撃第五、第六大隊の二個大隊が11月21日那覇港を出港しフィリピンの第十四方面軍に編入されていた。第三十二軍首脳は第九師団と砲兵二個大隊の代替兵団の派遣を期待したが実現せずがっかりしていたが戦況は油断を許さない状勢にあったので止むなく次の新作戦を立案し実施することになった。

  新作製計画を発令


 第三十二軍は第九師団(武部隊)の台湾転出に伴い従来の沖縄本島決戦防禦方針から接久防禦方針へ転換して軍主力を宜野湾以南の浦添、首里、南部島尻地区に配備する新作戦計画を作定し各兵団へ発令した。

 1944年(昭和19年)11月26日新作戦計画に基づいて配備変更の軍命令が発せられ、第二十四師団は第九師団が築いた陣地を引継ぎ島尻方面の警備の任に当ることになった。しかし配備変更は軍事機密のため下の一般兵に対して伝達されず「は」号演習と下命された。先発隊は11月27日から出発したが師団主力は12月6日から11日にかけて移動することが確定し、その準備に取りかかった。第二十四師団の将兵達は沖縄上陸以来五ヶ月余り読谷村、恩納村、石川、美里、具志川方面で日夜汗を流して精魂を込め造り上げた地下道陣地の完成を目前にしてこれを自分達の手で取壊し捨てなければならない羽目になり割切れない気持ちであったが軍命令であってみれば止むを得なかった。

 12月6日軍命令を受けた第二十四師団は各連隊ごとに近くの国民学校へ集結し島尻郡の南西部へ移動を開始した。日暮れと同時に出発して夜間行軍の大移動であり、折からの雨で重い背ノウと完全軍装の将兵達はびしょ濡れのまま黙々と三十余キロの道のりを南下した。途中休憩ともなれば疲れきった将兵達は所かまわず崩れるように倒れて容易に立ち上がろうともしなかった。翌朝未明に各連隊は新任地に続々と到着したが僅かな休養も許されず次の準備に忙殺された。新任地での宿舎の設営や、第九師団から引継いだ戦斗壕を各部隊に合うように完成させる作業が待ち受けていた。歩兵連隊が先に移動すると師団の各隊は計画図に従って次々に新任地へ移動していた。

  事件の概要


 第二十四師団の主力である歩兵三個連隊(第二十二連隊、第三十二連隊、第八十九連隊)は12月6日から7日にかけて新任地の島尻南西部へ移動し、8、9日には他の連隊(捜索隊、野砲隊、工兵隊、通信隊、輜重隊)が移動し10日には衛生隊が移動した。

 師団司令部としては兵員の移動が済み次第引続き兵器弾薬の運搬を急がなければならなかった。読谷、具志川辺に置かれていた二十四師団の兵器弾薬は嘉手納駅に集められた軽便列車を利用して島尻の南西部へ運ぶことになった。1944年(昭和19年)12月11日月曜日晴れ時々曇りで兵器弾薬の運搬に支障はなかった。そのために朝から弾薬輸送列車は休むいとまもなく慌しい中をつっ走っていた。二十四師団は一万四千人を超える大所帯であったが6日から10日までの5日間にほとんど夜間行軍で移動していた。

 しかしその中にはたまたま病気などで夜間行軍に耐えられない一般兵や初年兵があり、その人達は嘉手納駅に集められ列車で運ばれることになった。12月11日の午後も嘉手納駅で無蓋貨車六両に弾薬が積み込まれ、その上に枯れススキを広げて150人前後の兵員が乗せられ南部へ向かって走った。

 しかし古波蔵駅に到着するとそこで一時ストップとなり機関車は燃料補給のため貨車から離れ那覇駅へ走った。その間に古波蔵駅では初年衛生兵達が研修の帰り60人くらいが乗り込み、帰宅の女学生も4、5人くらい乗り込んだ。暫くすると機関車は那覇駅から、ドラム缶を積み込んだ無蓋貨車一両と医薬品が積み込まれた有蓋貨車一輌に帰宅の女学生5人が乗り込んだ計2輌を引いて再び古波蔵駅へやって来た。一時停車していた古波蔵駅の貨車に連結され8輌の列車は高嶺駅方面を目指して発車した。すでに時計の針は午後四時を回っていた。途中の津嘉山駅で軍の壕堀作業から糸満へ帰るため一高女性二人が割り込むようにして乗り込んだ。列車は荷物が重いためかなり速力が落ちていた。山川駅を通り喜屋武駅を過ぎると上り坂に差しかかった。丘の麓からゆっくりと真黒い石炭の煙を吐きながら這い出すようにして進んだ。上り坂を這い上がるとそこは南風原村字神里の東側外れである。田園と小川を横切り稲峯駅へ向う切通し附近に差しかかるや突如として轟音を発し一帯は火の海と化した。その爆発音は那覇市をはじめ島尻全域に響き渡った。時計の針は午後四時三十分前後を指していた。大音響を同時に乗り込んでいた二百数十名の人間はこなごなになって飛び散り、あるいはガソリンと火薬の火によって焼き尽くされた。火は周辺の砂糖きび畑に広がり所々に積まれていた日本軍の弾薬にまで引火し、一帯は騒然となった。その火の海から何十人かは体に火が着いたまま数百メートルも自力で這い出し、遠巻きに待っていた兵員達の協力で体の火が消され陸軍病院の南風原小学校に運び込まれた。爆発は一輌目のガソリンが発火し後方の人と弾薬が積まれた貨車に火を被り爆発炎上した。最後方の一輌は連結点から吹切れ積込まれた弾薬と人は既に飛び散り火が付いたまま後方へ押し流され津嘉山駅に流れ着いた。宇神里の東原は畑に積まれていた日本軍の弾薬に誘爆を起し数時間も火災が続いた。そのためにニ、三百メートル離れた村の民家が数軒燃え上がり村人達は混乱の中を近くの壕や隣村の山川方面へ狼狽しながら逃げた。

  焼死体の散乱する現場


 東風平の国民学校へ一足先に夜間行軍で移動していた二十四師団の衛生隊員達は爆発事件の通報を受けて直ちに現場へ緊急出動したが火災と畑に置かれていた弾薬の誘爆により近寄ることができず遠巻きに待構え、火の中から這い出して来る人々を救助しながら誘爆と火災が鎮まるのを待った。

 間もなく辺りは夕闇に包まれたが誘爆と火災はなお続きその間に多くの人々が焼き尽くされた。数時間後にようやく誘爆と火災が鎮まりかけたので遠巻きに待構えていた隊員たちは夕闇の中を携帯電燈など使い爆発現場に踏み込んだ。

 惨たるかな惨状、火にまみれた命四辺に散乱する。青春のかばね、天は非情を悼むか、戦雲の夕べに悲嘆のうめきは、風声にこだます。二百数十八の人々は手足もばらばらとなり、或いは人の区別もつかない程焼け爛れ散乱していた。隊員達は手探りの状態でまだ息のかかった者は南風原小学校の陸軍病院へ運び既に息絶えた者は東風平の国民学校へ運び安置する作業にかかった。しかし闇の中十分な片付けができず作業は翌日に持ち越された。12日は朝から字神里の男子稼動者も片付作業に動員され木に掛かった遺体や散乱する手足を担架に拾い集める作業を応援した。

 一方、軍の方では直ちに爆発現場へ縄を張り復旧作業と原因調査を始めた。乗込員のタバコの噂あり、機関車から吐き出される石炭の煤煙説あり、一部にはスパイ説もあった。特に軍はスパイの噂に神経をとがらしたが、究明するに到らなかった。与那原署でも事件発生を知りひそかに刑事を廻したが相手は軍であり深く立入ることができずうやむやに終った。体験者の証言と参謀長の注意事項中上司の注意規定を無視したる為惹起せるものなり云々からすれば爆発の原因は煤煙からの引火と考えられるが調査発表がなかったので、結局二百数十人の生命を奪った不祥事件の真相は謎になった。

  地獄絵図化する陸軍病院


 まだ息のかかった何十人かの被害者は南風原国民学校(現小学校)に設営されていた陸軍病院に収容された。真黒く焼け爛れた者達が運び込まれごった返す中を応急手当が施された。しかし収容された者達の怪我や火傷があまりにもひどく数十人が毎日毎夜の如く水をくれ、殺してくれの叫びとうめきが続き、当てがわれた各教室は地獄絵図の様相を呈した。しかし手当の甲斐もなく収容された殆んどの者達が大きなうめき声を上げながら一、二週間のうちにバタバタと息を引取っていった。比較的火傷の軽い女学生の何人かは家族に引取られ何十日間の日数を要して自家治療をし、ようやく治したのがいた。

  密かに合同葬儀


 第二十四師団の衛生部隊は沖縄上陸後、美里の国民学校に本部を設営し、師団兵員の病人対策を取る傍ら、同衛生隊に現地入隊した沖縄出身の初年兵達を衛生兵として各中隊に配属する前の隊員教育や研修を行なっていた。

 しかし師団の移動に伴い同衛生隊も12月9日から10日にかけて東風平国民学校(現中学校)へ移動した。そのために東風平国民学校は二十四師団の病院となり、その一方には歩兵第八十九連隊の本部が置かれた。しかし衛生隊は東風平の国民学校に移動して来た二日後に列車爆発事件と遭遇し、息つく間もなく遺体の収容作業に追われた。同衛生隊員からもかなりの犠牲者を出して運び込まれて来たが識別し難い程焼かれあるいはバラバラになって収容されて来た。遺体は密かに火葬され、校内で兵員による合同葬儀が行なわれた。しかしこの葬儀を知る民間人は殆んどいなかった。そのようにして軍の手により可能な限り犠牲者が識別され、骨箱が準備された。女学生は遺族に通知し引取ってもらい、軍人の犠牲者は各中隊に骨箱が送り届けられ密かに事件の後片付が行なわれた。

  事件の伝播恐れた軍


 事件の発生により軍は緊張し大きく動揺した。12月13日、三十二軍参謀長は直ちに各部隊に対し次のような注意事項を発生した。「山兵団ハ神里付近ニ於テ列車輸送中兵器弾薬ヲ爆発セシメ莫大ナル損耗ヲ来セリ一〇・一〇空襲ニ依リ受ケタル被害ニ比較ニナラザル厖大ナル被害ニシテ国軍創設以来初メテノ不祥事件ナリ、此レニ依リ当軍ノ戦力ガ半減セリト言フモ過言ナラズ、此レ一二兵団ノ軍紀弛緩ノ証左ニシテ上司ノ注意及規定ヲ無視シタル為惹起セルモノナリ、無蓋軍ニ爆弾ガソリン等ヲ積載スベカラザルコトハ規定ニ明確ニテサレアルトコロニシテ常識ヲ以テ判断スルモ明ラカナリ、輸送セル兵団ハ言フニ及バズ此レガ援助ヲ為セル兵器●兵姑地区隊モ不可ニシテ夫々責任者ハ厳罰ニ処セラルベシ、該事件ノ如キハ署亜罰ノミニテ終ルベキ性質ノモノニ非ズ、戦争ニ勝タンガ為、第一線ニテ不自由ナカラシメンガ為銃後国民ガ爪ニ火ヲ燈すが8如ク総テヲ犠牲ニシテ日夜奮闘シテ生産セルモノニシテ銃後国民ノ赤誠ニヨルモノナリ、作戦上ノ必要ニヨル消耗ハ止ムヲ得ザルモ敵一兵ヲモ殺傷スルコトナク莫大ナル消耗ヲ来セルハ面目ナキ次第ナリ、兵器弾薬燃料ノ分散格納不十分ナリシ為カカル莫大ナル損耗ヲ来セリ各兵団ノ兵器、弾薬ノ他ノ軍需品ノ分散格納モ極メテ不十分ニシテ普天間、宜野湾付近ノ道路ノ両側ニ多量ヲ集積シテアリタルモ艦砲射撃ヲ愛クレバ必ズ爆発燃焼スルハ明瞭ナリ、各部隊、兵器弾薬ハ速カニ掩蔽部ニ格納スベシ人員ノ掩蔽壕ハ遅ルルモ兵器弾薬速カニ掩蔽部ニ格納スルヲ要ス。戦ハ大和魂ノミニテ勝チ得ルモノニ非ズ兵器弾薬ハ戦勝上欠クベカラザルモノナルハ言ヲ俟ズ、軍ハ該被害ニヨリ戦カノ半数以上ヲ減ジ如何ニシテ之ガ前後策ヲ講ズルカニ腐心シアリテ軍ノ戦闘方針ヲ一変セザルベカラザル状況ニ立到レリ、今敵上陸スルトセバ吾レハ敵ニ対応スベキ弾薬ナク玉砕スルノ外ナキ現状ニシテ今後弾薬等ノ補給ハ至難事ナラン、将来兵団ニ交付シアル兵器弾薬、其ノ他ノ軍需品ヲ焼失爆発等セシメタル際ハ軍ニ於テ補給セズ、其ノ余力ナシ兵器、弾薬等国情ヨリ見ルモ豊富ナラズ各隊ハ極力兵器ノ愛護、弾薬ノ節用ニ勉メ仮初ニモ過失ニヨリ戦力ヲ失セザル如ク注意セラレ度、軍司令官ノ心痛ヲ見ルニ忍ビズ其ノ意図ヲ体シ各部隊ニ一言注意ス」(昭和19年12月14日付、石兵団会報94号より)

  もの言えば口唇寒し


 このようにして軍司令部は国軍創設以来、初めての不祥事件であり武器弾薬の厖大な損害のため当軍(二十四師団)の戦力が半減したとして直ちに軍内部の各部隊へ注意を喚起したが外部の民間人に対してはできるだけ、事件の内容が伝播しないように秘密処理された。軍としては決戦を控え民心の動揺を恐れあるいは敵に対して情報のもれを憂慮したに違いない。それにしてもあまりの残酷なできごとであり処理であった。

 不吉な事件に遭遇し娘を失った遺族は気も狂わんばかりに衝撃を受けたが当時軍にもの言える状況でなくただは泣き寝入りするだけであった。敵を殺すために日本の工場で生産された弾薬は容赦なく同胞の人間を吹き飛ばし肉を引き裂き、焼き尽くした惨劇であった。沖縄戦は米軍上陸以前から悲惨な事件や事故によって犠牲者が続出していたがヤミからヤミへ葬り去られていた。

これまでに判明した被害状況
軍人    死亡   二百十人前後
女学生   死亡   八人
      生存   二人
県鉄職員  死亡   三人
      生存   一人

武器弾薬  貨車6輌分   喪失
ガソリン  貨車1輌分   喪失
医薬品   貨車1輌分   喪失

畑に積まれた弾薬 数千トン喪失

証言 Ⅰ

  沖縄県営鉄道二十四年間


 私は那覇に生れ大正中期青年の頃、大阪商船の貨物船名瀬丸や桜木丸、京都丸などに乗り込み船員としての生活を送っていた。

 しかし、二十五才で結婚したので船に乗るのを止め1921年(大正10年)3月28日から県営鉄道の車輌夫として働くことになった。日給五十銭であったがそれで夫婦生活はなんとか間に合っていた。二年に十銭づつ上り昭和2年4月1日から日給八十銭となった。それから二年後の昭和4年4月1日から機関助手となり更に二年後の昭和6年6月30日沖縄県鉄道管理所雇いとなる。

 それまで無我夢中に頑張って来たが振り返ってみると日給で働くこと十年間である。十年一昔頑張って来たのだ。我ながらにして感慨深い。しかし運送業務に従事する者は決して油断できない仕事である。

  晴れて機関手に


 機関助手として世年間働いた後昭和8年4月1日から機関手(列車運転手)として採用され月棒三十円支給された。当時は昭和恐慌で金融逼迫の時代であり三十円の棒給取りはどこからでも肩を張って歩けた。しかしその替り何百人の命を一度に預る責任は重大であった。昭和13年4月1日に沖縄県鉄道技手の免許が与えられ月棒四十円が支給された。昭和12、13年といえば支那大陸では日華戦争が始まりいよいよ本格的な戦争へ発展して日本は泥沼の戦時体制へ追い込まれる頃であり、我が沖縄からもそれ以後多くの青年達が兵隊に送られて行った。農村からの出征兵士は列車を利用して那覇へ集められていた。出征兵士が出る時は駅に多くの学生や青年達が集められ次の歌を歌いながら日の丸の小旗を振って見送っていた。

  勝ってくるぞと勇ましく
  誓って国を出たからは
  手柄立てずに死なれよか
  進軍ラッパ聞くたびに
  まぶたに浮かぶ旗の波
  (露営の歌)

 私達もその見送りを背に列車を運転することしばしばであった。

 沖縄県営鉄道は1914年(大正3年)に那覇与那原間開通、私が日給で県鉄へ入って間もない頃大正11年に那覇嘉手納開通、1923年(大正12年)に那覇糸満間の三路線が開通した。鉄軌道の開通は沖縄に交通革命をもたらし経済復興や産業活動に大きく貢献していた。

 農村から農産物を那覇に那覇から農村へ輸入物資が運ばれ、高嶺製糖工場ができてからは砂糖キビも運搬し、その製品は輸出物資として那覇へ運ばれた。のどかな沿線に汽笛を鳴らして走った軽便列車は多くの人々に親しまれ利用されていた。

  武器弾薬輸送列車へ


 昭和16年から日米開戦となり我が沖縄も戦時体制の慌しい世相に進みつつあったが、まだ沖縄には平和が在った。しかし昭和19年に入ると日本軍が大挙那覇に上陸して来た為軍需物資の運搬が増加した。

 夏頃になると通堂町に置かれていた後方部隊の球兵站本部から停車場指令が派遣され那覇駅に指令部が設置され運送係が何人か常駐し軍需品の運搬手配をしていた。

 軍需品の運送も日を追って増加していたが、十・十空襲によって那覇駅も焼き払われた。しかし列車とその路線は残されたので運送業務はそのまま続行された。十・十空襲以後はますます軍需物資の運搬が増加し軍事優先となり民間人の利用が非常に少なくなっていた。そのために毎日朝から各部隊の武器弾薬その他軍事貨物、兵員の輸送に追い立てられていた。そのような慌しい中を敵の偵察機が度々飛来し騒然となり戦時体制一色に包まれていた。 

  輸送列車大爆発


 1944年(昭和19年)12月11日も朝から緊急輸送命令を受けて武器弾薬それに兵員の輸送に当っていた。最終便で高嶺駅を目差して進行中稲峯駅附近に指しかかった際、突如列車が大音響と共に大爆発を起し、列車は火に包まれ運転不能となった。同乗者の機関助手一人と車掌二人はその場で不明となり、兵員も多数爆死した。

 私は直ちにブレーキをかけたが数秒間のうちに強烈な火のかたまりが機関車に吹き込み頭部、両手、両足に火傷を受け更に両耳に爆風が吹き込みそれ以来、耳に不調をきたした。私は火の列車より脱出し近くの稲嶺駅に駆け込み本部に電話連絡しようとしたが電話線が切れ普通となっていた。更に東風平駅まで走ったが同様に不通であった。

 私は茫然となり県道を那覇へ向って進んだ。奇跡的にも私は生き残っている。どうして助かったのか私自身よくわからない。

 その内火傷が痛み出したがようやく山川駅に辿り着いて休んでいると県内務局の職員が車をもって来た。爆発現場には行けないということでそこから引返したが私はその車で那覇駅へ行き、報告をしてから泉崎の官舎宅へ帰った。

 翌日から二高女裏に在った軍病院に通い火傷の治療に当った。火傷の痛みが出て苦しくなったニ、三日後、軍の憲兵が自宅に来てその時の状況や原因について取調べを受けた。一週間くらい後で県鉄側から早く職場復帰するよう通知が来たが最早、私には精神的にも肉体的にも働く力が無く火傷の治療が精一杯であった。県鉄三十四年間の生活は私の半生であったが日本軍の弾薬を運んだ為にその火で焼き出され県鉄最後の日となった。

 数百人が飛び散り焼き尽くされる修羅場の中からようやく這い出し、生きのびて来たがその時の火傷の後遺症と耳の不調は私の一生につきまとう。数百人の人間が日本軍の弾薬によって畑に散り、虫けらのように死に絶えて行った事実は殆んどの人が知らない。

 沖縄での戦争は米軍との決戦以前から一般住民に対して犠牲をしいたげるだけであった。罪の無い多くの国民を大量に殺して行くのが戦争の実態である。あの時の恐ろしい悪夢の思い出は八十才過ぎた今日でも脳裏に焼きついて離れない。

  元沖縄県鉄機関手 当時四十八才

証言Ⅱ

  火あぶりの青春


 昭和17年といえば日米開戦の翌年で日本は全土に戦時体制が敷かれ慌しくなる年であった。沖縄も戦時体制であったがまだ平穏な庶民生活の面も残されていた。しかし次第に体制の影響を受けて庶民生活は苦しくなり、物資不足で金はあっても買う者が極度に不足する状況にあった。かしし農民ではあるもので間に合せて生活は成り立っていた。そのような時期に私は●元寺町に在った昭和女学校に席をおくことができ通学することになった。幸い村の近くから糸満線の列車が通っていたので時間さえ問い合せば不自由なく那覇へ通学できた。毎日列車に乗る生活となり周辺市町村からも次第に通学生が増えていた。

 昭和18年に入ると防空演習や竹槍訓練が盛んになり戦時体制は一段と進んでいた。7月に東条首相が沖縄に立ち寄った時は学生全員が動員され那覇の沿道で小旗を持って出迎えさせられた。沖縄もいよいよ戦時体制一色の感となり社会情勢は急激に変化し、ますます不安の方向へ流れていった。標準語運動から皇民化運動、更には戦時体制へと庶民にとっては重苦しい社会であった。

 昭和19年に入ると守備軍が大挙上陸して来て中南部の山や丘、海岸などに地下壕やたこ壷が次々と築かれ、あらゆる公共建物が軍専用となり、農村の民家まで軍人が入り込んで来た。私の家は慰安所になるとのことで家族は他に引越さざると得なくなっていた。その頃から軽便列車も軍需物資の運搬専用として客車から貨車になっていた。そのために民間人の使用ができなくなっていたが女学生の通学は黙認のかたちでなんとか続けることができた。

  十・十空襲


 ある朝いつもの通り学校へ行くため列車に乗り一息ついていると頃高射砲の音が聞えていた。そのうち列車は国場駅まで進んでいたがそこから前進しなくなった。何のことかと思っているうちに那覇は空襲があるのでそれ以上列車は運行できないので全員降りて自宅に帰るよう指示された。列車から降りて暫くすると戦闘機が飛んでおりポンポンしている音が聞えて来た。次第に空襲は本物であることがわかり急いで自宅へ逃げ帰った。

 地方でも皆ビックリして不安そうに空を眺め音のする那覇の方向を仰いでいた。その時初めて米軍の沖縄上陸を予想し深刻に受け止めるようになっていた。私達の学校は市内に在ったが直接の被害は受けず以前と同じように学校へ通うことができた。しかし街は焼野原となり瓦礫の山となっていた。

 それ以後地方でも避難壕堀が盛んとなり、私達もモンペイ姿で学校へ行くようになっていた。十・十空襲以後は軍民騒然となり米軍上陸の不安は充満し県外疎開などでますます慌しい日々となっていた。

  火の海から這い出す


 12月の初旬は朝夕肌寒くなっていた。11日月曜日は晴れ時々曇りで普段と変らず学校へ行き帰りは那覇駅で友人四、五人と一緒に貨車へ乗った。一輌目の有蓋列車は軍用の医薬品が積まれて中に入れず私達三、四人は有蓋貨車の外側に立ち乗りした。古波蔵駅に着くと兵隊が一杯乗っている貨車六輌くらいにつながれゆっくりと糸満に向けて発車した。喜屋武駅をすぎると登板を上って字神里附近を通過する頃列車は速度が落ち次の瞬間前方で火を見たとたん非常に危険を感じ直ぐ飛び降りたけれども既に火の海になっていた。その中を走り抜けたような気がする。しかしその時には気が動転して記憶もさだかではないが逃げ出した時には髪の毛と着物に火がついていた。たまたまそこに小川が在ったので飛び込んで火を消したが気が遠くなるような気がして座り込んでいた。そこへ遠巻きにしていた兵隊が走って来て肩を貸してもらい附近の農家に案内された。暫くしてからトラックで南風原小学校の陸軍病院へ運ばれた。

  生地獄陸軍病院


 運び込まれた陸軍病院には何十人もの人々が黒焦になった者、全身皮がむけた者達が床の上でうめき声を上げ殺してくれと叫びながらのたうち回っていた。私は一週間程そこで火傷の治療をしていたがその間に殆んどの者達がバタバタと死んでいった。

 そのうち母親が連れに来たので家へ帰り自宅治療をしたが二ヶ月間痛さで苦しみぬいた。運よく私は生きのびたがいつも列車で通学していたあの人達は火の中に消え、あたら少女の身を失ってしまった。二度と甦ることのない彼女達は今人々の記憶からも忘れ去られようとしていた。哀れなあの姿を何時も切なく私は想い出す。三十余年が過ぎた今日ではその鉄軌道も形を変えて農道となり作物と草木は何気なく辺を静め、昔の惨状を偲ばせる跡形はもう何もない。時の流れがかくもはかなく何ごともなかったように形を変えてしなうものかと思い知らされるだけである。

  当時学生
  昭和女学校三年生

証言Ⅲ


  衛生研修隊初年兵


 私は昭和19年10月15日「十・十空襲」直後沖縄全体が恐怖におびえる状況下で恩納村山田国民学校において現地入隊の山部隊初年兵となった。入隊後中隊付衛生兵に編入され美里の国民学校で衛生兵の研修を受けていた。「十・十空襲」直後米軍上陸の噂が流れる中でありどういうことになるかという不安は持っていたが色々と考える余裕はなかった。12月上旬、私達の研修隊は本当中部の美里村から島尻へ移動があり、夜間行軍で東風平国民学校へ辿り着いた。東風平国民学校へ着いて翌日は夕方南風原村で弾薬輸送中の列車爆発があり、東風平国民学校に駐屯していた部隊は通報を受けると直ちに現場へ緊急出動となった。しかし現場は大火災が発生し畑に積まれていた弾薬に誘爆を起しいきなり近よることができず誘爆の鎮まるのを待った。救助作業は夕闇に包まれた為、その日の内にできず翌日までかかった。現場は焼死体が散乱し目を追うばかりであった。既に息絶えた者は東風平国民学校へ運ばれたが私達の部隊からもかなり犠牲者が出て別室に安置されたが識別しがたい程焼けただれていた。安置後の処理については直接タッチしてないので詳しいことについてはしならいが東風平の国民学校は山部隊の衛生隊本部となっていたので事故処理はそこでなされたのではないかと思われる。私は東風平国民学校で研修を了えた後歩兵第三十二連隊の第十一令鉾田中隊付衛生兵として糸満市名城に配置され二十年の決戦を向えたが戦争の惨事は到るところ発生していた。

 元現地入隊一等兵、当時二十歳

  沖縄県営鉄道


 明治末期から大正の初めにかけて県内主要道路の開通や改修が相次ぎようやく人や物の交流が盛んになった。民謡の県道節が生れたのもこの頃である。しかし遠隔地間の大量輸送手段は全くないため主要道路の開通や改修だけでは県民の需要と満たすことはできなかった。県内におけるそれまでの上陸交通機関といえば貨物運搬に荷馬車、少量で軽い物は人の肩、人員輸送は首里那覇を中心とする人力車、自転車等が主であった。しかし金のない者や農村からの往来は専ら足に頼る以外になかった。第一次世界大戦の影響もあって経済のブームが訪れ地方と那覇の経済交流は年々増加する一方であり、砂糖産業の勃興などによっていよいよ大量輸送手段の必要性は高まっていた。

  県営鉄道敷設


 鉄道敷設については最初沖縄鉄道株式会社の企画があったがお流れとなり明治44年の県会において県営鉄道を敷設する県議が採択され、それを県当局が受け入れて政府に敷設許可申請を出していた。大正2年に県営鉄道敷設の許可が降り直ちに建設取組を始めた。建設費については県債を起し日本赤十字社から利息付で借入れることになり三十万円の資金で那覇与那原間の敷設工事にかかった。東京に遅れること四十ニ年にして1914年(大正3年)に沖縄で初めて県営鉄道が那覇与那原間に開通した。色々な経緯を経て次に大正11年に那覇嘉手納間、翌年の12年に糸満線が開通し鉄軌道延べ約48キロの沿線が実現した。建設費も三路線が竣工するまでには二百万円以上の負債となっていた。

 那覇駅構内に鉄道管理所が置かれ独立会計の事業体として二百人前後の職員が配置され運営されたが形式上赤字経営となっていたので毎年鉄道省の事務監査を受けて地方鉄道法に基づく国庫補助を受けていた。

 県営鉄道の開通は期待通りの多くの県民に便益をもたらし僅かの金で地方と那覇の往来が可能となり人々に活気を与えると同時に製糖業を始めとする県下の産業発展に重要な役割を果たすことになった。以前の交通機関に比べ県営鉄道の開通は一台飛躍であり、県内上陸交通の一大革命であった。昭和11年の末には東風平駅から具志頭村を経て玉城村、大里村の稲峯駅を結ぶ県鉄バスが一本加えられた。又県内交通にはき業交通機関として那覇糸満間に昭和バス、那覇名護間に新垣バス、与那原泡瀬間に安田バス、宮城バス、与那原佐敷間に安田バス、宮城バスが通り本島内は県営鉄道を軸とする交通網が一応できていた。

  軍事利用始まる


 昭和16年の夏頃になると中城湾要塞指令部築城のため弓削部隊(隊長弓削保大佐)の設営隊が与那原に駐留するようになりそのために軍の資材、食糧等の運搬に利用されるようになった。しかしまだ昭和16年当時までは軍といっても僅かであり県民の足としてのどかな沿線にフィ、フィ、フィーの汽笛を鳴らし通勤通学、商用雑用に利用され親しまれていた。

 昭和19年3月頃から球部隊の兵站本部が通堂町に置かれ、そこから停車場指令が那覇駅に派遣され本格的な軍事物資の補給機関として利用されるようになった。更に7月頃から武部隊の停車場指令が鉄道管理所長室に置かれ軍事品輸送が優先されるようになった。

 10月10日の大空襲によって鉄道管理所と那覇駅の建物は焼き払われたが列車、レール等の施設は残されたので空襲以後も列車の運行は続いたが軍事利用は次第に拡大し軍専用列車同様となり民間人の利用は困難になっていた。12月に入り山部隊の移動になってからは兵員や資材運搬、弾薬輸送などに使用され19年12月上旬弾薬輸送中南風原村で爆発事件に遭い破壊したが線路の破壊は突貫工事で復旧し残された他の列車を使い軍事輸送列車として運行していたが民間人の利用は全く途絶え実質的に糸満線はその時機能を失っていた。県民の負債で敷設され県民の足として三十二年間働いて来た県営鉄道は昭和19年3月から日本の大軍配備により戦争の準備用具として使用され昭和20年3月まで運行を続け4月の米軍上陸によって完全破壊され喪失する運命を辿った。那覇駅跡は現在バスセンターになっており、線路跡も農道になったり、つぶされたりしてその跡形を失い今となっては関係者の記憶と部分的な写真のみとなった。

  駅 長 
  助 役 

(県経済部土木課)
(沖縄県鉄道管理所)
独立会計職員約二百人
  |
「庶務課」「運輸課」「会計課」「車輌課」「公務課」
  |    |     |    |     |
人事   各駅   収支   機関庫 建設、路線
  |          | 
 駅長        機関手   
 助役        機関助手
 車掌        車輌夫
 出札係
 貨物係
 転徹手
 駅手
 掃除婦

参考資料
防衛庁戦史室沖縄戦史料
沖縄県援護課 戦没者台帳

参考文献
戦史業書 沖縄方面陸軍作戦
沖縄戦記 霞城●隊の最後
歩兵第八十九聯隊史 破竹

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◆沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その2

   1・「その2」を執筆・公開するに至った経緯


 まずは前置きを記しておきたい。沖縄県営鉄道の爆発事故について、わざわざ「その1」「その2」と分けたのには理由がある。

 1944(昭和19)年に起きたこの事故のことは、数年前に一度「その1」を書いた。当時はウィキペディアくらいしか参考になる情報がなく、内容的にはスカスカだった。

 ところがその後、意外なことが起きた。「その1」の記事を読まれた桃坂豊氏ご本人から、直接ご連絡をいただいたのだ。

 桃坂氏は、この事故の調査を今も続けておられたのである。で、調査を通して得た資料の一部をご提供いただくことになった。内容はDVDと文書データで、「少しでも、この事故のことを多くの人に知ってもらいたい」とのことだった。

 ただ申し訳ないことに、これらの資料は長い間手つかずの状態だった。筆者自身の個人的な事情もあったのだが、資料の内容があまりにも「重く」感じられ、どう扱えばいいか悩んだ部分もあった。

 その、迷った末の結論が、「その1」と「その2」をどちらもネット上で公開するというものだった。桃坂氏から寄せられた新資料に基づき「その2」を書く。それを「その1」ならびに資料とあわせて公開すれば、「その1」から「その2」に至る執筆の経緯が分かりやすくなるだろう。また、事故のことを少しでも多くの人に知ってもらいたい…という桃坂氏の希望にもかなうのではないか(資料へのリンクは次節で示す)。

 よって読者の皆さんは、まだ情報が少ないうちに書かれた「その1」を読み、次に、加筆修正がなされた新バージョン「その2」を読むことで、まずは事故の内容を大まかに把握できるだろう。それから最後に「資料編」に目を通せば、より詳細な知識が得られるはずだ。

 もしくは、「その1」を読んでから「資料編」を読み、それから「その2」を読むのもいいかも知れない。その流れなら、筆者きうりの執筆の流れというか舞台裏のようなものが、なんとなく見えるかも知れない。もちろん、どう読もうが読者諸賢の自由である。

   2・資料について

 ここでは、桃坂氏から頂いた資料について簡単に説明する。

    (1) DVDについて

 資料のうち、DVDにはニュース番組を録画したものが収められていた。内容は、2008(平成20)年6月23日にTBSの「ニュース23」という番組で放送されたもので、タイトルは「月ONE ドキュメンタリー23 戦火に消えたケービン」。時間は30分。沖縄慰霊の日に放送されたもので、番組の制作にあたっては、桃坂氏も大きく関わっているとのことだった。

    (2) ルポ「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」について

 これはおそらく、桃坂豊氏ご本人が書かれたものである。おそらく、というのは、その後、桃坂氏と連絡が取れなくなっているため確認できずにいるからだ。

    (3) 「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」について

 これは、地元に住むK氏という方が1970(昭和40)年代後半~1980(昭和50)年代にかけて当時の生存者から聞き取った内容である。それを桃坂氏が書き写したものだ。

 ――で、以上の(1)(2)(3)うち、(1)のDVDについては、当研究室では動画などの形では公開しない。著作権等の関係上、ちょっと心配な部分があるからだ。ただ、内容的なものはルポに組み込ませてもらった。また、(2)(3)については、実名が記されている箇所は全て消している。

 桃坂氏からは「資料はネット上で使用しても大丈夫」という承諾を頂いている。とはいえメールでの簡単なやり取りで頂いたお返事である。また、現在は連絡が取れていないので、頂いた資料を、ほとんど手を加えない形で公開しても大丈夫だったかどうか、筆者としては少し心配な部分もある。

 しかしこの資料は、今まで事故の詳細が一切知られていなかったという性質上、一次資料としてそのままの形で公開するべきという気もする。だから、一抹の不安を抱きつつも、まずはとにかく公開しておきたい。

◇「その1」を読む方はこちら
◇資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」を読む方はこちら
◇資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」を読む方はこちら

   3・注意点

 さて、以上の内容を踏まえての注意点である。

 桃坂氏からの頂きものである2つの資料については、もしもネット上で引用などされる場合は、引用元をしっかり示すようにして頂きたい。筆者きうりにいちいち断る必要は(今のところ)ないと思うが、よろしくお願いします。以上。

 ――で、これは蛇足だが、それ以外の文章――即ち、当「事故災害研究室」で公開されている、筆者きうりが書いた文章――については、基本的に無断引用・無断転載・コピペは全部OKである。どんどんやって下さい。

 なぜなら、もともとが、いろんな文章のツギハギだからである。インターネット上の記事、新聞記事、書籍などから拾い集めて繋ぎ合わせたもので当研究室のルポはできている。だから、筆者としてはあまり独自性とかオリジナリティを主張するつもりはない(もちろん、無断引用などするにしても、当研究室のことを紹介してもらえると嬉しいけど)。

 ただし、ルポの内容の信憑性については、保障の限りではない。また筆者も著作権を放棄しているわけではない。そんな感じで、重ねてよろしくお願いしたい。

 前置きは以上である。

   4・「沖縄県営鉄道爆発事故」

 現在、沖縄県には「沖縄都市モノレール線」が存在している。

 都市の渋滞解消の切り札として活躍しているそうだ。筆者は東北在住なので実物を見たことはないのだが、写真や動画で確認してみた。跨座式モノレールというらしく、線路にしがみつくような形で走行している姿はなんだか可愛らしい。

 ところで、このモノレールについてウィキペディアの説明を読むと、「沖縄では戦後初の鉄道開通となった」という一文を見ることができる。この「戦後初の」という何気ない言葉は、戦中以前のことを知らない人はさらっと読み流すだろう。一方、少しでも沖縄の鉄道史を知っている人はハハア、ちゃんと歴史を踏まえて書いているなと思うことだろう。

 今回ご紹介する事故事例を知るまで、筆者には、沖縄といえば「鉄道が存在しない県」というイメージしかなかった。本州に住む人はほとんどが同様なのではないか。だが違うのだ。今から70年以上前――あの戦争が終わりを迎える直前まで、沖縄には鉄道が存在していたのである。

 その名は、沖縄県営鉄道。

 名前の通り、沖縄県による県営である。ただし、この名前はあくまでも当時の鉄道省における書類上の「正式名称」である。県内では「沖縄県軽便(けいびん)鉄道」「沖縄県鉄道」といった名前が使われていた。軽便とは、762mmのやや幅の狭い軌間の鉄道のことで、県民からは「ケイビン」「ケービン」と呼ばれ親しまれていた。

 この鉄道について書くだけでも、ちょっとした歴史の説明になる。事故災害のルポとしては、少しばかり冗長に感じられるかも知れない。しかしこの、沖縄県営鉄道が災禍に見舞われるまでの経緯は、その歴史と密接不可分の関係にある。少し長く感じられてもお付き合い頂ければと思う。

   ☆

 沖縄で、主要な道路が開通したり改修されたりしたのは、明治末期から大正初期にかけてである。それまでは、県内での交通機関といえば荷馬車や自転車くらいだった。それも使えるならまだいい方で、お金がなければ荷物を肩に乗せて運ぶしかなかった。いわば「前近代的」な状況だったのである。

 このままではあまりにもひどい。鉄道を敷かなければならない。……というわけで、株式会社による運営ではどうか? いやいやここは県による運営でいきましょう、といった紆余曲折を経て、1911(明治44)年に敷設が決定した。実際に那覇~与那覇間の工事が始まったのは1913(大正2)年のことだった。

 このタイミングは、経済ブームの波とも連動する形だった。第一次世界大戦(1914(大正3)~1918(大正7)年)の影響で、中心都市である那覇と、周辺の地方都市の経済交流は活発になっていった。こういった情勢のなかで那覇~与那覇間は1914(大正3)に開通している。資金は三十万だった。

 沖縄県営鉄道の誕生である。住民の念願が叶って開通したこの路線は、その後も1922(大正11)年には嘉手納へ、翌1923(大正12)年には糸満へと延び、「糸満線」と呼ばれた。総延長はのべ約48キロ。山手線よりも長いものだった。

 おそらく当時としては、華々しいデビューだったのではないだろうか。とはいえ、事業的には決して潤っていたわけではない。資料によると、形式上は赤字経営だったそうな。毎年鉄道省の事務監査を受けつつ、地方鉄道法に基づく国庫補助金を受けていたという。

 それでも確かに、県営鉄道の開通は、沖縄に「交通革命」をもたらした。

 那覇と農村の間で、砂糖や農作物、輸入物資の行き来が活発になり、製糖業などの産業も盛り上がった。また通勤通学にも鉄道は大いに利用された。例えば、それまでは那覇とやんばる地域(沖縄本島北部)の行き来はバスで一日がかりだったが、汽車の登場によって時間も短縮できたという。

 「窓の外見るのが楽しかった」というのは、当時を知る人に共通する証言である。のどかな沿線で、汽笛を鳴らしながら走る列車は、多くの人々に親しまれた。

 こうして、沖縄本島の交通網は、県営鉄道を主軸として展開していった。1936(昭和11)年の末頃にバスが登場したことで、その存在感が薄れたこともあったようだ。それでも軍事輸送ではまだまだ使い道があるということで、通常ダイヤを取りやめて軍用路線としても活用されるようになった。

 1936(昭和11)年と言えば、かの2・26事件があった年である。日本の政党政治が終わりを告げ、軍国主義的な空気が増していく時代の始まりだ。県営鉄道が軍用路線として活用されるようになったのは、そうした時代の空気を反映していた。

 1941(昭和16)年には日米戦争が始まった。日本と、日本人にとっての地獄の始まりである。沖縄も戦時体制に突入し、夏には、中城湾という場所に築かれた臨時の要塞へ司令部が設置された。そこへ軍の資材や食糧が運ばれるようになるなどの動きもあった。それでも、まだこの頃は平和だった。軍事輸送での活用と言っても、まだ軍人の姿は僅かだった。

 1944(昭和19)年3月頃には、県営鉄道は、本格的に軍事物資の補給機関として活用され、運搬優先、軍専用も同然の扱いとなっていた。戦況が際どくなるにつれ、軍需物資の運搬が増えていったのだ。客車は物資運搬のために貨車へと変わり、毎朝、部隊の武器弾薬や兵員の輸送に追われる。ときどき、敵の偵察機が飛来しては騒然となる――。沖縄県中南部の山や丘、海岸などには、地下壕や蛸壺壕などがどんどん築かれ、あらゆる公共の施設から農家の民家までもが軍専用のものとして接収。沖縄は戦時体制一色に染まっていった。

 そして、沖縄の人々にとって忘れがたい日が訪れる。1944(昭和19)年10月10日、のちに「十・十空襲」と呼ばれることになる米軍による大空襲の日である。これにより255名が死亡し、那覇市の市街地の9割が消失。火災は翌日まで続いた。県営鉄道も機関車4両、ガソリンカー4両、客車6両などが損害を受け、鉄道管理所と那覇駅は焼き払われた。

 この十・十空襲の日の、ある女学生の証言を掲載しておこう。彼女は県営鉄道を利用している時に空襲に遭遇した。鉄道の事故そのものとはさしあたり関係ないが、当時の沖縄県の空気が感じられる一文だ(掲載にあたり、内容の改変にならない程度に手を加えている)。

「ある朝、いつもの通り学校へ行くため列車に乗り一息ついていると、高射砲の音が聞こえてきた。列車は国場駅まで進んでいたが、そこから前進しなくなった。何かと思っているうちに、那覇は空襲があり、それ以上列車は運行できないので全員降りて自宅に帰るようにと指示された。列車から降りてしばらくすると戦闘機が飛んでおり、ポンポンしている音が聞こえてきた。次第に空襲は本物であることがわかり、急いで自宅へ逃げ帰った。
 皆ビックリして不安そうに空を眺め、音のする那覇の方向を仰いでいた。その時初めて米軍の沖縄上陸を予想し、深刻に受け止めるようになっていた。私たちの学校は市内にあったが直接の被害は受けず、以前と同じように学校へ通うことができた。しかし街は焼野原となり瓦礫の山となっていた。」

 この日以降、沖縄の人々は、空襲のみならず米軍の上陸にも怯えて暮らすことになった。県外疎開も進んだという。そんな中でも、県営鉄道の運行は続いた。

 米軍がフィリピンに上陸したのが、同年の10月18日である。これを受けて、大本営陸軍部はフィリピン方面を決戦場と決め「「国軍決戦実施ノ要域ハ比島方面トス」と大号令を発した。

 これにあわせて、沖縄周辺の兵隊も大きく移動することになる。大まかに書くと、当時、沖縄本島の島尻郡に駐留していた第9師団が、まず台湾へ移動。これは一万三千人を超える大所帯だった。で、その第9師団が築いていた陣地は、第24師団が引き継ぐことになった。こちらも一万四千人以上の人数である。

 先にざっくり書いてしまうと、この第24師団が、嘉手納から島尻郡へ――つまり沖縄の真ん中あたりから南の方へ――向かう途中で、鉄道の爆発事故に遭遇することになる。

 第24師団について少し説明すると――筆者は旧日本軍の体制や歴史について明るくないのでうまく書けないのだが――1939(昭和14)年10月に満州のハルビンで編成されたものだったらしい。1944(昭和19年)2月以降はメレヨン島やサイパン島での戦闘にも関わっている。そして先述した通り、台湾へ移動した第9師団の担任区域を引き継ぐ形で、駐留していた満州から島尻郡へ移ることになったのだった。あちこちでの戦闘により人員が欠けていたため、沖縄の現地召集者などによって補充しながら再編成されたという(この再編成の動きが、事故よりも前のことだったのか、後のことだったのかは不明)。

 余談めくが、この第24師団の中には、山形県の鶴岡で編成された部隊も含まれていたという情報もある。もしもこれが本当なら、山形県出身・在住である筆者としては何かの縁を感じずにはおれない。

 さて、第24師団に配備変更の命令が発せられたのは、11月26日である。スケジュールとしては、まず主力である歩兵連隊12月6・7日に移動し、続いて8・9日に他の連隊が、そして10日に衛生兵が出発することになった。彼らの島尻郡への移動は11日には完了する予定だった。

 10日までの兵員の移動は順調に進んだようだ。

 人の運搬がほとんど終わったところで、次は武器弾薬である。これは嘉手納駅に集められて、県営鉄道によって島尻へ運ばれることになった。

 また、これと一緒に移動する兵員もいた。メインの兵員は6~10日の夜間行軍で移動を済ませていたが、病気などで夜間の移動に耐えられない一般兵や初年兵がいたのだ。彼らは、移動スケジュール最終日の11日に、武器弾薬とともに県営鉄道に乗り込んだ。

 こうして1944(昭和19)年12月11日、ケービンは悲劇の時を迎えることになる。沖縄ではさとうきび畑が花を咲かせる季節だった。

   ☆

 月曜日、天候は晴れときどき曇り。この日の夕刻に、糸満線の嘉手納駅から、貨車を牽引しながら一本の蒸気機関車が出発した。目指すは高嶺駅だ(高嶺村は、現在の糸満市中部にあった)。

 先頭車両は、沖縄の人々が親しみを持って「ケービン」と呼んでいた小ぶりな機関車である。しかしそれが引っぱる貨車の積み荷は剣呑だった。枯れススキがかぶせられた6両の無蓋貨車には弾薬がぎっしり。またこれらの貨車には150人前後の兵員も乗っていた。もちろん客車などないから、全員が積荷の上に直接腰を下ろしていた。

 ケービンは南へ進んだ。最初に到着したのは古波蔵(こはぐら)駅である。嘉手納駅から糸満方面へ行く場合は、この古波蔵駅でいったん方向転換することになっていた。

 ここで、機関車が貨車から切り離され、燃料補給のためにいったん那覇駅へ移動した。そして、古波蔵駅に残された貨車に、今度は進行方向とは反対の方向からやってきた三両の列車が接続した。この三両のうち一両目は機関車で、二両目はガソリン入りのドラム缶が積まれた無蓋の貨車である。そして三両目は有蓋で、医薬品などの物資が乗っていた。二・三両目にはいずれも兵隊が腰を下ろすなどして乗り込んでいたようだ。列車全体が兵員で溢れていた。

 さらに古波蔵駅では、衛生兵約60名と、帰宅する女学生4~5人も乗り込んだ。本当は、1943(昭和18)~1944(昭和19)年当時にはケービンは客車とは連結しなくなり、一般人は乗れないことになっていた。完全に兵隊や軍需物資などの運搬が優先されていたのだ。ただ、学生と公務員だけは黙認されていたらしい。

 女学生たちは大喜び。さっそく、医療品などが積み込まれた有蓋貨車の方に乗り込んだ。

 和やかに談笑する女学生と兵隊たちを乗せて、ケービンは走っていく。次に到着したのは津嘉山(つかやま)駅である。午後4時のことで、ここでも女学生2人が乗り込んだ。

 さらにケービンは進む。150名以上の乗客と武器弾薬を積み込んでいるので、スピードはかなり落ちていた。しかも、山川駅と喜屋武(きゃん)駅を過ぎれば今度は上り坂である。真っ黒い石炭の煙を煙突から吐き出しながら、列車は這うようなスピードで進んでいった。この時、ケービンの煙突からは煙のみならず、火の粉も飛んでいたという。

 やがて列車は神里(かみざと)の東側のはずれ、南風原(はえばる)村(現・南風原町)神里に入り、田園と小川を横切っていった。

 時刻は午後四時三十分。稲嶺に向かう切通し付近で上り坂に差しかかった時、貨車が突然火を噴き、大爆発を起こした。

 最初に発火したのは、機関車の後ろ(二両目)の貨車に積まれていたガソリンだったようだ。ものがガソリンなので発火自体が爆発的だったと思うが、その火炎は後方の貨車に積まれた弾薬にも引火し、次々に誘爆が起きた。周辺一帯はたちまち火の海と化し、乗っていた人々もその餌食になっていった。爆発の衝撃は現場周辺の大地を震わせ、さらにその轟音は、島の全域に響き渡ったという。

 この事故の生存者はたった三名。途中で乗り込んだ女学生のうちの二人と、汽車の運転士である。以下では、この三名のうち二人の証言を掲載しておく(資料から転載するにあたり、内容の改変にならない程度に手を加えている)。まずは、当時48歳だった運転士。

【証言1】
「12月11日も、朝から緊急輸送命令を受けて、武器弾薬と兵員の輸送に当たっていた。
 私は直ちにブレーキをかけたが、強烈な火のかたまりが機関車に吹き込み、頭部、両手、両足に火傷を受け、さらに両耳に爆風が吹き込んだ。それ以来、耳に不調をきたした。
 私は列車より脱出し、近くの稲嶺駅に駆け込み本部に電話連絡しようとした。しかし電話線が切れ不通となっていた。さらに東風平駅まで走ったが、同様に不通であった。
 私は茫然となり、県道を那覇へ向って進んだ。奇跡的にも私は生き残っている。どうして助かったのか私自身よくわからない。同乗者の機関助手一人と車掌二人はその場で不明となった。
 その時の火傷の後遺症と耳の不調は、私の一生につきまとう。
 数百人の人間が日本軍の弾薬によって畑に散り、虫けらのように死に絶えて行った事実は殆んどの人が知らない。
 沖縄での戦争は、米軍との決戦以前から、一般住民に対して犠牲をしいるだけであった。
 罪のない多くの国民を大量に殺していくのが戦争の実態である。
 あの時の、恐ろしい悪夢の思い出は八十才過ぎた今日でも脳裏に焼きついて離れない。」

 次は、当時乗り合わせた女学生の証言。那覇駅で乗り込んだ女の子たちの一人である。

【証言2】
「三、四人は有蓋貨車の外側に立ち乗りした。
 古波蔵駅に着くと、兵隊がいっぱい乗っている貨車六両くらいにつながれ、ゆっくりと糸満に向けて発車した。
 前方で火を見たとたん非常に危険を感じ直ぐ飛び降りた。
 火の海の中を走り抜けたような気がする。
 しかし、その時は気が動転して記憶もさだかではないが、逃げ出した時には髪の毛と着物に火がついていた。
 たまたまそこに小川があったので、飛び込んで火を消したが、気が遠くなるような気がして座り込んでいた。
 そこへ、遠巻きにしていた兵隊が走ってきて肩を貸してもらい、付近の農家に案内された。しばらくしてからトラックで南風原小学校の陸軍病院へ運ばれた。
 運び込まれた陸軍病院には、黒焦になった者、全身皮がむけた者、何十人もの人々が床の上でうめき声を上げ、殺してくれと叫びながらのたうち回っていた。
 一週間の間に、ほとんどの者たちがバタバタと死んでいった。
 自宅治療をしたが、二ヶ月間痛さで苦しみぬいた。」

 少し補足しておくと、【証言2】の女学生は令和の時代になってからもご存命で、2020(令和2)年6月に放送されたドキュメンタリー番組では、上述のものと同じ証言をしている。それによると、彼女が列車から飛び降りたきっかけは「前方で火を見た」ことだけではなく、危険を感じた兵士が貨車からバラバラと下りるのを見たからだという。彼女はそれに続く形で脱出したのだ。結果、兵士は一人も助からず彼女だけが生還した。小川に入って助かった(テレビでは「溝」と表現していた)彼女は、爆発直後に後ろを見たが、誰の姿も見えなかったという。

 この二つの証言だけでも気が滅入ってくるが、事故の全体像から見ればまだ序の口である。爆発と火災が発生したのは、鉄道車両だけではなかった。

 当時、現場付近の神里集落では172世帯が生活しており、線路の周辺では沖縄戦に備えて陸軍や野戦重砲隊が駐屯していた。あわせて大量の弾薬がサトウキビ畑に野積みで隠されており、これにも火が燃え移ったのだ。

 誘爆に次ぐ誘爆――。幸い、神里集落では死者こそ出なかったものの、家が一件焼け、もう一件にも延焼した。また爆風によって壊れた家もあった。住民たちの中には、黒煙で真っ黒になった空を見上げて、ついに戦闘が始まったのかと思った者もいたという。彼らは防空壕や他の地区へ逃げるしかなかった。

 神里集落などの現場周辺には、爆発によって巻き上げられた様々な物品が降ってきた。医療品のガーゼや包帯などで家の屋根や道路は真っ白。また人間の肉片や、汽車に乗り込んで犠牲になった女学生のネームプレートなどが引っかかっていた樹木もあったという。戦後になってからは、犠牲者のものとおぼしき人骨が畑から出てきたりもした。

 事故の急報は、東風平(こちんだ)国民学校(現在の東風平中学校)にもたらされた。そこは第24師団の病院として使われており、先の9・10日のうちに移動していた衛生兵が駐留していた。彼らはただちに現場へ急行したが、凄まじい火災で遠巻きに眺めているしかなかったという。

 爆発はなかなか収まらず、ようやく救助活動が可能になったのは、あたりが夕闇に包まれからだった。衛生兵たちは携帯の電灯などを使い、まだ息のある者を手探りで助け出しては、当時の陸軍病院である南風原小学校のほうへ運搬した。既に息絶えた者は先述の東風平国民学校のほうへ安置された。

 当時は、おそらく投光器のような便利な道具はなかったのだろう。救出・収容作業は業遅々として進まず翌日に持ち越された。翌12日はさらに多くの人が作業に駆り出されている。

 陸軍病院に収容された犠牲者も、事故後一~二週間の間に苦悶のうちに息を引き取っていった。先述の通り、この事故の生存者は三名とされているので、病院に収容された者もほぼ全員が死亡したことになる。

 当時の陸軍病院の様子は、資料によると「地獄のような有様」だったという。詳細はここでは書かないので、興味のある方は資料編の方を読んでいただきたい。「比較的」かるい火傷で済んだ女学生たちは、家族に引き取られて自宅療養することになった。

 もちろん警察も放ってはおかない。事故発生を知った与那原(よなばる)署は、密かに現場へ警官を送り込んでいる。しかし現場はすでに軍がロープを張っており、サイドカーに乗り込んだ憲兵たちが続々と集まっていた。先に彼らが復旧作業と原因調査にあたっていたため、警官が立ち入ることはできなかった。

 思うにこの時から、すでに軍による「不祥事隠し」が進んでいたのだろう。事故が起きた年の3月に沖縄本島に司令部を置いたばかりだった第32軍(「軍」は「師団」よりも上位にあたる)は、民間人の動揺と、大本営から怒られるのを避けるため隠蔽をはかっていたのだ。縄を張って現場を封鎖したのは、いわば「隠蔽工作その一」である。

 次に、隠蔽工作その二。この事故で死亡した兵員はかなりの人数に上ったが、その遺体は密かに火葬された。遺体の安置所となった東風平国民学校では兵員による合同の葬儀が行われたが、それは民間人の知るところではなかった。

 隠蔽工作その三。それ以外の犠牲者の遺骨も密かに処理された。女学生の骨箱は遺族へ。軍人のものは各中隊へ――。遺族は泣き寝入りするしかなかった。

 その四。完全な箝口令が敷かれ、地元の新聞にも記事が一切載らなかった。戦後に戦史を整理してきた防衛庁戦史室も、この事故のことは第62師団の会報綴によって初めて知ったという。

 犠牲者の人数は次の通りである。

・軍人の死者……210名前後
・女学生の死者……8名
・鉄道職員の死者……3名
・生存者……3名

 鉄道事故として見れば、日本の鉄道事故史上最悪である。こうした数字も、隠蔽工作によって長い間明らかにされていなかった。

 ただ、これは単なる想像に過ぎないのだが、事故があった事実自体が軍によって完全に隠蔽されたということは、実際には爆発に巻き込まれた兵員の中に生存者がいた可能性もゼロではないのではないか……そう考えることもできると思う。むしろ情報が全て非公開だった中で、この死者数と生存者数はどこからどうやってはじき出されたのかという疑問もなくはない。

 さて、この凄惨極まりない爆発事故の原因はなんだったのか。当時は巷でスパイ説などが囁かれたりしたが、今のところ最も有力なのは、ここまでの経緯を読んで頂ければだいたい想像がつくと思うが「石炭の火の粉がガソリンに引火した」説である。

 ケービンは石炭を燃料としていたため、火の粉がよく出た。事故が起きた現場は急な上り坂なので走行するには馬力が必要で、そこで無理がかかる。いつも鉄道員たちはこの坂に差しかかると古い石炭の燃えカスを捨てて、新しいのと交換して火力を上げていたという。

 そのため、周辺のサトウキビ畑では毎日のようにボヤ騒ぎが起きていた。周辺の農家たちは、毎度「またか!」とぼやきながら消火にあたっていたのだ。

 このような状況で、ガソリンと武器弾薬を積んだ列車が機関車に接続されていたのである。逆に何も起きない方が奇跡的だ。「ガソリン缶を積んだ無蓋車に最初に火が付いた」という生存者の証言とも一致するし、爆発的な燃焼が貨車や周辺のサトウキビ畑に積まれていた弾薬に引火したということでまず間違いないだろう。

 ところで、純粋な事故のレポからは少しずれるが、ひとつ興味を引く資料がある。事故が起きた1944(昭和19)年8月に沖縄の第32軍に転用された第62師団が、『石兵団会報』というのを出していたらしい(石兵団は第62師団のこと)。その中で、第32軍の参謀長・長勇(ちょう・いさむ)氏から各部隊へ出された「注意事項」がある。これは事故直後の13日に出されたもので、以下に掲載する。

「山兵団ハ神里付近ニ於テ列車輸送中兵器弾薬ヲ爆発セシメ莫大ナル損耗ヲ来セリ一〇・一〇空襲ニ依リ受ケタル被害ニ比較ニナラザル厖大ナル被害ニシテ国軍創設以来初メテノ不祥事件ナリ、此レニ依リ当軍ノ戦力ガ半減セリト言フモ過言ナラズ、此レ一二兵団ノ軍紀弛緩ノ証左ニシテ上司ノ注意及規定ヲ無視シタル為惹起セルモノナリ、無蓋車ニ爆弾ガソリン等ヲ積載スベカラザルコトハ規定ニ明確ニテサレアルトコロニシテ常識ヲ以テ判断スルモ明ラカナリ、輸送セル兵団ハ言フニ及バズ此レガ援助ヲ為セル兵器兵姑地区隊モ不可ニシテ夫々責任者ハ厳罰ニ処セラルベシ、該事件ノ如キハ署亜罰ノミニテ終ルベキ性質ノモノニ非ズ、戦争ニ勝タンガ為、第一線ニテ不自由ナカラシメンガ為銃後国民ガ爪ニ火ヲ燈すが如ク総テヲ犠牲ニシテ日夜奮闘シテ生産セルモノニシテ銃後国民ノ赤誠ニヨルモノナリ、作戦上ノ必要ニヨル消耗ハ止ムヲ得ザルモ敵一兵ヲモ殺傷スルコトナク莫大ナル消耗ヲ来セルハ面目ナキ次第ナリ、兵器弾薬燃料ノ分散格納不十分ナリシ為カカル莫大ナル損耗ヲ来セリ各兵団ノ兵器、弾薬ノ他ノ軍需品ノ分散格納モ極メテ不十分ニシテ普天間、宜野湾付近ノ道路ノ両側ニ多量ヲ集積シテアリタルモ艦砲射撃ヲ愛クレバ必ズ爆発燃焼スルハ明瞭ナリ、各部隊、兵器弾薬ハ速カニ掩蔽部ニ格納スベシ人員ノ掩蔽壕ハ遅ルルモ兵器弾薬速カニ掩蔽部ニ格納スルヲ要ス。戦ハ大和魂ノミニテ勝チ得ルモノニ非ズ兵器弾薬ハ戦勝上欠クベカラザルモノナルハ言ヲ俟ズ、軍ハ該被害ニヨリ戦カノ半数以上ヲ減ジ如何ニシテ之ガ前後策ヲ講ズルカニ腐心シアリテ軍ノ戦闘方針ヲ一変セザルベカラザル状況ニ立到レリ、今敵上陸スルトセバ吾レハ敵ニ対応スベキ弾薬ナク玉砕スルノ外ナキ現状ニシテ今後弾薬等ノ補給ハ至難事ナラン、将来兵団ニ交付シアル兵器弾薬、其ノ他ノ軍需品ヲ焼失爆発等セシメタル際ハ軍ニ於テ補給セズ、其ノ余力ナシ兵器、弾薬等国情ヨリ見ルモ豊富ナラズ各隊ハ極力兵器ノ愛護、弾薬ノ節用ニ勉メ仮初ニモ過失ニヨリ戦力ヲ失セザル如ク注意セラレ度、軍司令官ノ心痛ヲ見ルニ忍ビズ其ノ意図ヲ体シ各部隊ニ一言注意ス」
(昭和19年12月14日付、石兵団会報94号より)

 要点を簡潔に書くと、
「ガソリンをむき出しで積んで輸送すんなって言っただろ!
 決まりを守らないからこんなことになっちまったじゃないか…。
 敵と戦ったわけでもないのに、戦力が半分以下になっちまったよ!!
 今、敵が上陸してきたら俺たち玉砕するしかないんだぜ!?
 残りの弾薬、大事にしろよな!!!」
 ――という感じだろうか。

 では上述の注意書きにあった「莫大ナル損耗」とは、具体的にどれほどのものだったのだろうか。事故によって失われたとされる物品の数量は次の通りである。

・武器弾薬……貨車6輌分
・ガソリン……貨車1輌分
・医薬品……貨車1輌分
・畑に積まれた弾薬……数千トン

 以上から推測するに、本土からの補給もままならない中でこの鉄道爆発事故が起きてしまい、軍は物品不足で「玉砕する外はなき現状」となり、四か月後の沖縄戦で窮地に陥ったのである。そして住民を巻き込んだ悲惨な総力戦へと突入したのだ。

 単純で荒っぽい言い方になるが、この事故のあるなしで沖縄戦の結果も少しは違っていた、かも知れない。その後の沖縄の歴史を考えれば、この事故は単なるいち失敗談ではなく、歴史的事件と言える、かも知れないのだ。もちろん歴史にイフはないので、あくまでも全ては「かも知れない」なのだが。

 注意書きを発した長勇参謀長は後の沖縄戦でアメリカ軍に追い詰められ、第32軍を指揮した牛島満とともに割腹自殺を遂げている。6月23日のことだった(22日という説もあるらしい)。

   ☆

 その後の話である。

 振り返ってみれば、沖縄県営鉄道が活躍した年数は、決して長くはなかった。辛うじて運行されていたのは1945(昭和20)年3月までで、戦争末期には線路のレールまでもが軍に供出され、あとは米軍との戦闘の中で完全破壊されている。沖縄県営鉄道という組織が正式にいつ消滅したのかは不明である。

 かつての路線も、戦後は農道などに変わった。当時の那覇駅も現在はバスセンターになっているし、また当時線路があった場所をたどっていくと、途中で嘉手納基地のフェンスに突き当たるという。沖縄県営鉄道の記憶は、米軍基地の向こうへ封印されたのだ。かつての鉄道の痕跡は、今ではほとんどない。

 こうして、軍による隠蔽と鉄道そのものの消滅とが重なって、この事故はいわば「忘れられた事故」「幻の事故」と化したのだった。

 ……と書くとドラマチックだが、この事故が人々の記憶の中から忘れられていった理由はそう単純ではないように思われる。実際には、沖縄県営鉄道が存在した痕跡は皆無ではないからだ。

 例えば、先述した、2020(令和2)年6月に放送されたドキュメンタリー番組によると、神里地区の自治会館には当時のレールが無造作に置いてあったりするし、かつての線路も言われているほど「完全に」破壊されたわけではなく、敷設された状態でごく僅かに残っているようだ。また那覇市の歴史をまとめた『那覇市史』にも、一応この事故の記録は記されている(ただこの記録部分がいつ書かれたものなのかは不明)。さらに1983(昭和58)年には鉄道の客車と台車が発掘されており、これは宜野湾市立博物館に展示されているらしい。

 それに、当たり前のことだが、沖縄県営鉄道の記憶が沖縄県民全員から完全に失われたわけでもない。もちろん今も覚えているという人は高齢者ばかりだろうが、記憶に残っている人は今もいるし、かつてはもっと大勢いたはずである。いくら箝口令が敷かれたと言っても、人々が覚えていてそれを語り伝えていれば、事故も「忘れられ」てはいなかっただろう。

 少し冷ややかな書き方になるが、人間はどうしようもなく「忘れる」のである。おそらく沖縄の人々は、この事故を純粋に「忘れた」のだろう。

 例えば、見慣れた建築物などがある日突然なくなったりすると、人はそこに何があったのかすら思い出せなくなることがある(民俗学者の畑中章宏はこうした現象を「景観認知症」と名付けている)。戦中から戦後にかけて、沖縄は想像を絶する大変な状況におかれた。生活空間は完全に破壊され、再興された風景はそれまでとは全く違うものだった。こうしたことが重なり、まず事故の記憶は人々の頭の片隅に追いやられたのだ。さらに箝口令によって記録も残らなかったことから、「記憶も記録もない」状況に陥り、結果として「忘れられた」のだろう。

 事故災害ルポを書いていてよく思うが、忌まわしい事故や事件の記憶は、そのままにしておくとえてして誰も「伝えない」し、「忘れられていく」ものである。

 例えば過去にある事故が起きた場所で、周辺住民がそれを全く知らなかったとする。筆者のようなマニアは「なんでそんな貴重な歴史を知らないの!?」とびっくりするが、それが当たり前なのだ。理由はよく分からない。とにかく、人は事故や事件のことは悲しいほどに「伝えない」し、「忘れていく」ものなのである。事故の慰霊碑や記念碑を建てるなどし、一年に一回でもいいので慰霊式などを開いてしつこくしつこく繰り返し想起しないと、人々は重要な事故災害の記憶も失っていくのだ。

 ただこの沖縄県営鉄道の事故については、最近になって注目される機会が増えた気がする。

 例えば、今までウィキペディアでさらっと書かれていた程度だったものに、詳細な内容を肉付けしてインターネットで公開したのは当研究室が初めてだろう。その経緯については本稿の一番最初に書いた通りである。

 また2015(平成27)年には、ケービンの「転車台」遺構が発見された。転車台とは機関車を方向転換させる回転台のことだ。当時の那覇駅が今はバスターミナルになっていることは先述したが、このターミナルの改築と周辺の再開発工事が行われた際に発掘されたのである。

 この発掘された転車台は、今はバスターミナルに隣接する交通広場に移設されている。筆者もネット上の画像で見たが、レンガを積み上げたなかなか風情のある建築物である。

 さらに、先に何度か述べたが、2020(令和2)年6月にはテレビで特集番組が放送されている(NNNドキュメント'20の『封印~沖縄戦に秘められた鉄道事故~』(2020/6/21放送))。実は本稿は、過去に一度書き上げたものに、さらにこの番組の内容を付け加えて加筆修正したものだ(余談だが、上記の番組のスタッフロールで桃坂豊氏のお名前を見かけた。やはり今でもあの事故の情報提供などに関わっておられるのだなと思う)。

 この事故のことが、さらに多くの人に知られますように。

 資料を提供して下さった桃坂豊氏にも、心より御礼申し上げます。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆TBSニュース23「月ONE ドキュメンタリー23 戦火に消えたケービン」(2008(平成20)年6月23日放送)
◆NNNドキュメント'20『封印~沖縄戦に秘められた鉄道事故~』(2020(令和2)年6月21放送)
◆資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」
◆資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」

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◆沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その1

 土浦事故や八高線正面衝突事故は、よく「当時は軍の規制があって報道されなかった」と言われたりする。だが、筆者はこれは間違いだと考えている。

 確かに、そうした規制のため報道されなかった事件事故というのは存在する。ただしそれは戦時中であれば日本軍が、そして終戦直後であれば米軍が、大きく関係した出来事に限られるのである。今ふうに言えば、軍がからんだ「スキャンダル」に該当するような事例だ。

 軍がからんでいない事件事故であれば、紙面での扱いは小さくとも(当時はもともと物資の不足で紙面の容量が限られていた)きちんと報道はされている。土浦事故も、八高線の事故もそうだ。

 では、軍が関係していたため報道されなかった事故事例にはどんなものがあるのか。これはしかし、それこそ報道されなかったがゆえに今でも詳細が不明なものが多い。戦時中であれば、軍艦の沈没や火薬庫の爆発事故などの事例がそうだし、また戦後であれば米軍機の墜落事故などがある。ついでに言えば、米兵の日本人に対する婦女暴行の事例などもそうだ。

 今回ご紹介するのは、「これこそまさに」と言える事例である。報道管制下で完全に隠蔽された事故の最たるもの。鉄道における大惨事中の大惨事。土浦事故でも八高線事故でもない、ごく最近まで報道されずじまいだった日本鉄道事故史上最悪の事例がこれだ。

 時は1944(昭和19)年12月11日、沖縄県島尻郡南風原村(現南風原町)神里付近でのことである。

 まだ朝も早い頃、嘉手納駅から一本の列車が出発した。

 路線の名前は糸満線といった。当時、沖縄県内には県営鉄道が存在しており、それによって運営されていた路線である。

 沖縄の鉄道路線は、明治期からずっと資金面の問題があって整備されていなかった。それがやっと県営という形で叶ったと思えば今度はバスがのしてきて、いったんは鉄道の存在感が薄れたものの、軍事輸送に使えるということでまた復活。通常ダイヤを取りやめて、軍用路線として使用されるようになっていた。

 事故当時も兵員の輸送が行われていたという。ちょうど、沖縄に駐屯していた第9師団が台湾へ出て行き、入れ替わりに第24師団が送り込まれたところだったのだ。この移動は大規模なものだった。

 列車は6両編成で、さらに途中の古波蔵駅では2両を増結し8両となった。客車と貨物車両が何両ずつの組み合わせだったのかは不明だが、どちらも相当数あったと思われる。先述の通り兵員も多く運ばれていたし、通学のための女学生も乗り込んでいたというからだ。

 そしてこの列車、糸満駅に向かって発車したのはいいのだが、途中で大爆発を起こしたのだった。

 悪いことに、この列車には弾薬もたっぷり積まれていた。次々に誘爆が発生し、乗っていた兵士も女学生も爆発と火災に巻き込まれて約220人が死亡した。

 220人だぜ220人。これは、西成線ガソリンカー火災の死者数を越える鉄道事故史上最悪の数字である。

 え、爆発の原因はなんだったのかって?

 ごめんなさい、それは不明である。それこそまさに、戦時下の報道管制下で緘口令が敷かれたせいだ。昔のテレビ特捜部で紹介していた番組を真似て言えば「今日、鉄道事故がありました。原因は不明です。」といったところである。素っ裸のお姉さんがそういうニュース報道(笑)をする番組、あったよね。

 あっさりし過ぎているようだが、事故の経過は以上である。この一件は内密に処理され、しかもこの後には沖縄戦が開始。米軍の占領下で鉄道施設も破壊され、県営鉄道も実質廃止となり、事故の記憶は闇から闇へと葬られる形になった。

 もちろん、情報が全くなかったわけではない。昭和50年代には、ごく簡単な記載ではあるが、この事故のことが沖縄関連の書籍に記されるようになった。ただしそれは、地元で発行されている詳細な時点に限られた。

 では詳細が明らかになったのはいつかというと、驚くなかれ、たったの3年前、2008年なのである(2011年現在)。筆者は未確認なのだが、この記録を発掘したのは桃坂豊氏という鉄道マニアであるという。

 ほぼ断言できるが、当『事故災害研究室』の読者の方も、ほとんどはこの事故のことは知らなかったと思う。あったのですよ、こういう悲劇が。事故発生から60年近くも封印されていた最悪の鉄道事故が、こんなところにあったのだ。

 機会があれば、筆者も詳細を調べてみたいところだ。だが北陸トンネル火災や大洋デパート火災などとはわけが違う。山形の図書館程度では資料も全くなかった(そもそも桃坂氏の著作自体が県内にはなかった)。

 ここはひとつ、土浦事故について『木碑からの検証』が書かれたように、どなたかが沖縄で詳細な聞き取りを行って記録書を作ってくれないかと思うのだが、ダメかな。よろしく!

   ☆

 以上のような状況につき、特にこの事故については随時加筆を行っていきたい。ウィキペディアに載っている以上の情報をお持ちの方は、是非お寄せ頂きたいと思う。

 もちろんそれは、今までご紹介している他の事故災害についても同様である。せっかくなので、そのあたりの注意事項を記しておこう。

 *書籍等からの情報であれば、出典が分かる形で。
 *実体験に基づく証言であれば、それと分かる形で。
 *情報の出所が不明な場合は、おぼろな記憶でもいいです(当時のワイドショーで言ってた気がする、とか)。とにかく不明なら不明と明記して下さい。

 以上のような形で今まで情報を頂いたケースとしては、川治プリンスホテル火災、飛騨川バス転落事故、青木湖バス転落事故などのケースがある。メールでもブログのコメント欄でも構わないので、どしどし情報お寄せ下さい。

【参考資料】
◆ウィキペディア

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◆土浦事故(1943年)

 正真正銘の「忘れられた事故」である。

 1943(昭和18)年10月26日、18時40分頃のこと。常磐線土浦駅では、一台の貨物列車の入れ替え作業が行われようとしていた。

 駅の「裏一番線」には、ちょうど貨物列車が到着したところ。この列車の先頭の機関車に石炭の補給をするため、別の機関車と交換するわけである。

 まず、到着したばかりの列車の機関車部分が切り離される。そして機関車だけが単独で線路を進み、駅構内の12・13号ポイントをそれぞれ通過して上り本線に入った。そしてその上り本線をさらに移動し、石炭の補給場所に向かっていった。

 つまりこの時、12号ポイント→13号ポイント→上り本線へと機関車が進むようなルートが出来上がっていたわけである。

 さて「裏一番線」に残された貨物車両には、別の機関車がバトンタッチする形で連結した。今度は、この機関車が貨物車両を引っぱって、貨物線と呼ばれる路線に入っていくことになっていた。

 この列車も、さっきの機関車と同様に、いったん12号ポイントを通る。しかし予定ではこの時すでに12号ポイントは切り替えられており、機関車は貨物線のほうにスムーズに入り込んでいく――はずだった。

 ところが、これが切り替えられていなかったのである。本来なら12号ポイント→貨物線というルートになっているはずが、12号ポイント→13号ポイント、というルートのままだったのだ。

 あれあれ、どうなってんの。予定と違うじゃん。機関車と貨物列車は、13号ポイントに向かってゴトゴトと進んでいく。

 そして13号ポイントはどうだったかというと、こちらはちゃんと切り替えられていた。さっきは13号ポイント→上り本線、というルートだったのが、今は13号ポイントはどん詰まり。上り本線は今から別の列車が通過するため、横からの進入禁止の状態になっていた。

 踏切を想像してもらえればいい。上り本線は、遮断機が下りて警報がカンカン鳴っているような状態だったのである。今入ったら危険なのだ。

 機関車はそこへガクン! と突っ込んでしまった。ポイントが切り替えられていたので、それ以上進むこともできず上り本線に中途半端にはみ出す状態で停止してしまったのだ。立往生である。

「事故発生だ!」機関車の運転士は汽笛を鳴らした。

 まあ、これだけでも確かに「事故」ではある。だがこの第一事故そのものは大したものではなく、問題はこの後である。ここから僅か6分の間に、土浦駅の構内は地獄絵図と化すのだ。

 第一事故発生から3分30秒後のことである。上り本線に貨物列車がフルスピードで進入してきた。駅構内で事故が起きていたにもかかわらず、信号が「青」のままだったのだ。このため、貨物列車は、立往生していた機関車とものの見事に激突してしまった。

 さあ、大事故である。上り本線の貨物列車はたちまち脱線し、脱線した状態のまましばらく走り続けた。そして先頭の機関車は、その先にあった橋の手前で転覆。隣を走る下り線をふさぐ形になってしまった。

 さらに、後続の貨物車両14両もバラバラになって脱線転覆。上り線にも下り線にも車両が散らばってしまった。

 最初に立往生していた機関車と貨物車両も、衝突によってぶっ飛ばされてやっぱり脱線転覆。なんかもう、開いた口がふさがらない惨状である。

 ところが、ここからが本番なのだ。

 この大衝突からさらに2分30秒後、反対方向から下り旅客列車がやってきたからさあ大変。先述の通り、下り線は転覆した機関車によって通せんぼされており、これに衝突してしまった。

 しかも悪いことに、この衝突が起きたのが橋の出口のあたりだったため、衝突時には下り列車の全てが橋の上を通過中の状態だった。たちまち客車の1両目は後ろから押されて棒立ちになり、2両目はゴロリと横転。3両目と4両目は橋から転落し、3両目は宙吊りになったが4両目は川に水没した。

 これでもかといわんばかりの凄まじさである。

 犠牲者は100名を越えた。が、正確な死者数は不明である。それでも参考文献『事故の鉄道史』によると96~120名は堅いようで、いやはやとんでもない事故があったものだ。

 この事故を防ぐすべはなかったのだろうか? あった。単純な話で、第一事故が発生した時点で、そのすぐ近くにあった南信号所がすべての信号を「赤」にするよう動き、指示を出せば良かったのである。

 では何故それができなかったのか。それは時代の空気のせいである。当時は戦時中真っ只中で、しかも戦局は日本に不利になりつつあった。国内ではダイヤが改正され、乗客列車は減らされ、「決戦輸送体制」が整えられていたのだ。

 それで、そもそもの事故原因は12号ポイントの切り替えミスにあったわけだが、このミスは南信号所の職員によるものだった。「決戦輸送体制」のさなかで極度の緊張状態にあった職員は、自分のミスで事故が起きてしまったのでパニックに陥り茫然自失、体が全く動かなかったのである。

 この時、南信号所の掛員には、「国家あげての決戦輸送体制の時期に汽車を止めるとは何事か! この非国民め!」という声が頭の中に響いていたのかも知れない。

 職員の、極度の精神的ストレスのため引き起こされた事故は他にもある。安治川口ガソリンカー火災や、それに最近では福知山線の脱線事故がそうだ。

 よって筆者は、土浦事故も含めたこの3つの事故を、個人的に「小心者の事故」と呼んでいる。筆者自身も非常事態にテキパキ動ける人よりも茫然自失となってしまう人の気持ちの方が分かる部分があり、同情を禁じ得ない。

 ちなみにこの事故、その後の事故処理や裁判の経緯などはまったく不明である。

   ☆

 この土浦事故は、その詳細が、ずいぶん長い間知られていなかった。戦時中だったため、軍によって報道管制が敷かれたせいだと言われている。

 そしてこの事故の19年後に発生したのが、伝説の鉄道事故・三河島事故である。実は、土浦事故と三河島事故はほとんど瓜二つと言っていいほどよく似ており、土浦事故がもっと国鉄職員によく知られていたならば、三河島の惨事も防げたのではないかとも言われているほどだ。

 しかし土浦事故がきちんと国鉄職員に知らされていたとして、本当に三河島事故を防ぐことができたかどうか――。歴史にイフはないとはいえ、これについて筆者はかなり悲観的な考えを持っている。

 あまり知られていないが、2005年の福知山線の事故の時も、事故現場の反対方向から列車が来ていたのである。これを止めたのはJR職員ではなく一般の名もないおばちゃんで、この人がとっさの機転で踏切の非常停止ボタンを押していなかったら土浦&三河島再び、になっていたのだ(ちなみにJRはこの事実を認めていないそうな)。

 三河島事故という「伝説の鉄道事故」を教訓として職員教育をしてきたはずのJRからして、これである。人間の精神構造を変革し、さらにそれを世代を超えて受け継いでいくというのはこれほど難しいことなのだ。

 そもそもの話、土浦事故が「軍の規制を受けて報道されなかった」というのも、本当かどうか怪しいものである。

 おそらくこういう形で疑問を呈するのは当研究室が初めてであろう。

 戦前から戦中にかけての大事故や大事件の話題を目にする時、この「軍が報道に規制をかけたのであまり知らされなかった」というのはほとんど決まり文句のようになっているが、これは本当なのだろうか。

 当研究室の貴重な参考資料である『事故の鉄道史』でも、当時は「日本国に不利になることを報道するのは利敵行為とされていた」という記述があるが、少し考えてみてほしいのである。戦局と関係のない、いわゆる三面記事的な事件事故の報道をすることが、どうして当時の政府にとって「不利」になるのだろう。おそらくこれに明確に答えられる方はほとんどいないと思う。

 報道は、きちんとされているのである。戦時中から戦後にかけては地震や台風や鉄道事故など、洒落にならない規模の大災害が結構起きているのだが、そういったものはほとんど報道されている。それは当時の新聞を見れば分かることだ。

 確かに、記事の扱いは小さい。例えばこの土浦事故も、中央の大手新聞が、かろうじて簡単な一段記事程度で報じただけだった。

 しかしこの頃は物資が不足していた。新聞の紙面もしまいには一枚の紙の両面だけになったり、紙の材質も藁半紙になったりしていたのだ。現在のように、大事故が起きるとその報道のために2つも3つも紙面を割くような贅沢はできなかったのである。

 また新聞の「取材」も、当時は今からでは到底考えられないようなやり方だった。まず地方にいる記者が現場や関係者から取材をし、そしてそれを電話で本社に伝える。本社の記者は電話口でその記者から「取材」を行い、それを編集に回して、紙面に合わせて文章を添削し、そしてようやく記事が出来上がる――という流れだったのだ。アナログもいいとこである。

 そして戦時中、どこでも人手や物資が不足していた時代に、果たしてこのアナログの手法をどこまで満足に行うことができただろう。

 もちろん、多少の報道管制はあったようだ。実際、軍が絡んだ事件事故で当時は報道されず、戦後になってからようやく明らかになったものはいくつかある。しかしそれらは基本的に「報道されなかった」のであって、土浦事故のように一段記事で報じられることすらなかったのだ。

 以上のことから、筆者はこう考えている。当時、確かに報道管制はあったことだろう。だがそれは極めて限られた時代の、限定された内容のものに限られていたのであろう――と。そして、土浦事故が一般に知らされなかったのは必ずしも報道管制のせいではなく、人出や紙面が足りないという単純な物理的な理由からだったのではないか――と。

 実は、最初は「軍によって報道が規制された」と言われていたものの、実際にはきちんと報じられていたというケースは他にもある。有名な昭和13年の津山事件などがそうで、どうも「軍はどんな情報でも規制した」というのはひとつの都市伝説のパターンであるようだ。

 1945年の終戦直後に起きた八高線正面衝突事故についても、ときどき同じような言われ方がされている。「この事故は被害が甚大であったにも関わらず、あまり一般には知られていない。報道管制のせいである」とうわけだが、これなどは既に戦争が終わった後の事故なのだから、そもそも報道管制を敷く意味が全くない。何かの勘違いであろう。

 それでは、実際に土浦事故があまり一般に知られていないのは何故なのか?

 これに対する筆者の回答は簡単である。要は、我々がある事件事故について情報を得たり知識を得たりするのは、けっきょくマスコミが大々的に報道するか否かにかかっているということだ。

 どんな事件事故も、マスコミが報じなければ、我々はそれを知り得ないのである。そして報じ方が小さければすぐ忘れてしまうのである。ましてや戦中から戦後にかけての混乱期ならなおさらだ。

「人間は、忘れる動物である」。全てはこのひとことに要約できると思う。土浦事故という大惨事が忘れ去られたのも、また福知山や三河島で過去の教訓が生かされなかったのも、全てはそれがためなのだ。そう筆者は考えている。

 こんな土浦事故なので、記録はほとんど残っていない。唯一、土浦市の医師が戦後になって『木碑からの検証』というタイトルの記録書を出しているそうだが、これは現在は入手困難である。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◆ウィキペディア
◆柳田邦男編『心の貌(かたち) 昭和事件史発掘』文藝春秋(2008年)

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◆近鉄奈良線暴走事故(1948年)

 さあ皆さんならどう反応するだろう。列車が坂道で加速し始め、やがて振り向いた運転士が泣きながらこう告げてきたのである。

「申し訳ありません、車は停車しません。覚悟して下さい」

 これは作り話ではない。そんな恐ろしい出来事が実際にあったのだ。

   ☆

 時は1948年(昭和23年)3月31日、水曜日。近畿日本鉄道奈良線、生駒駅から花園駅までの鉄路で起きたこの事故は、「近鉄奈良線列車暴走追突事故」「花園事故」「生駒トンネルノーブレーキ事故」など今ではさまざまな名称で呼ばれている。

 奈良発7時20分、大阪の上六行き712急行列車は、朝のラッシュアワー時のため満員の鮨詰め状態だった。

 明らかな異常が発生したのは、生駒駅を発車し、生駒トンネルの下り坂に差しかかった時だった。なんとブレーキが利かなくなったのである。

「あれ、あれれ? どうなってんの」

 運転士は焦ったに違いない。なにせトンネルを出た先の孔舎衛坂駅(くさえざかえき)では線路は半径200メートルの急カーブになっている。しかもその先は、さらに4キロもの連続勾配を一気に駆け下りるのだ。要は、長~い1本の坂道になっているわけだが、よりにもよってそれを下り始めたあたりでブレーキが利かなくなってしまったのである。

 乗り合わせた乗客たちもすぐに異常に気付いた。

「おいおい、この先って急カーブだよな。いつもならここで減速するんじゃなかったっけ?」

 減速どころかスピードは増すばかりである。列車は生駒トンネルを出たあたりで、激しい火花と砂煙を上げ始めた。

 大変だ、これ暴走してるぞ!

 この時、運転士の脳裏では、先に通過していた額田駅と生駒駅での出来事がよぎっていたのではないだろうか。そういえばこの二つの駅でもブレーキの利きが悪く、列車は一両分ほどオーバーランしていたのである。あれはこの予兆だったのか――!

 終戦から4年が経ったとはいえ、日本の工業力はまだ回復には至っていなかった。何しろ物資がない。鉄道に限ってみても車両は老朽化した木造のままで、線路も磨耗と歪みが著しい状態で使われていたという。そんな中、とっくに耐用年数を過ぎたブレーキが、最悪のタイミングで寿命を迎えたのだった。

 このままでは脱線か転覆かはたまた衝突か。乗客たちは騒ぎ始めた。

「ガラスが割れるぞ!」
「窓を開けろ、そうすれば空気抵抗で減速する!」
「後ろに詰めろ、もっと奥に行け」
「それより伏せろ、伏せるんだ! 重心を下げろ」
「立つんじゃない、後ろを向いて座れ」
「舌を噛むぞ、歯を食いしばれ」

 後ろの車両に移動すれば、衝突による被害は抑えられたかも知れない。しかし時代が時代で、当時の列車に車両ごとの貫通扉はなかった。つまり客車は密閉されたただの箱だったわけで、乗客たちはそれぞれ乗り合わせた車両で対策を講じるしかなかった。

 そうこうしているうちに、どんどん増していくスピードのため、なんとパンタグラフが架線を切断。さらにもうひとつのパンタグラフも破損してしまい、あっという間に使い物にならなくなった。

 本当は、このパンタグラフに通電しているうちに、列車がバックする形に操作を行っていれば減速できていたかも知れない。だがこの時の運転士は弱冠21歳、あまりにも経験が乏しすぎた。物資も人材も不足していたのである。

 そこで助役が車両の前方へ移動してきた。

「こうなったらハンドブレーキだ。ハンドルを回せ回せ」

 近くにいた乗客と協力して、助役は手動のハンドブレーキを回し始める。しかし、フルスピードの列車の速度はなかなか落ちず、目に見える効果は現れない。そうこうしているうちに、列車は石切駅を猛スピードで通過した。

 さて次の通過駅である瓢箪山駅には、7時48分に運転司令室からの鉄道電話が入ってきていた。

「準急の752を今すぐ退避させろ! 急行712が石切駅に停まらずに暴走してやがる!」

 なんだと、マジか。駅員たちは慌ててポイントを変えた。ちょうどその時、西大寺発の準急が構内に入ってきたところで、これは無事に待避線に寄せられた。

 ふうやれやれ、と駅員が胸を撫で下ろしたその瞬間である。くだんの暴走列車が、物凄い火花と砂煙を上げながら一瞬で駅を通過していった。この時には100キロを越えるスピードだっただろうとも言われており、まさに間一髪だったのだ。駅の手前のカーブでは、車両が浮いたとの証言もある。

 暴走列車は止まらない。

 途中、開け放たれた窓から飛び降りた者も2人いた。しかし1人は大怪我、1人は死亡。どう足掻いても只では済まない状況だったのだ。

 運転手も必死である。車両の窓から身を乗り出し、パンタグラフを直せないかと試みた。しかし暴走による風圧でいかんともしがたく、なんの足しにもならなかった。

 それでも、現在の花園駅(当時はなかった)あたりから道は平坦になり始めた。手動ブレーキもやっと手応えが感じられ始め、ここでは時速80から70キロくらいには落ちたのではないかと言われている。

 距離にしておよそ6キロ、ここまでの時間は5分。しかしこの暴走は、最悪の形でストップすることになった。花園駅の構内に電車が停まっていたのである。これは瓢箪山駅の時のようには連絡がうまくいかず、待避線にどかす移動させる時間がなかったのだ。

 不幸中の幸いだったのは、追突された列車がまるきり停止しておらず、動きかけだった点である。これにより衝突の衝撃はわずかに緩和された。

 それでも大事故である。7時50分、大音響と同時に暴走列車の先頭車両はものの見事に粉砕された。壁は全てなくなり、残るは天井と床だけ。長さも半分ほどに押し縮められ、乗っていた乗客たちはほとんどが線路脇のドブ川へ放り出されたという。車両の床も、川の水も、たちまち血の色に染まった。

 死亡者49名、負傷者282名。2両目以降も車両の前後が大破したが、死者は先頭車両の乗客のみだった。

 実に不幸な事故である。

 とにかく終戦直後というのは、物資が極端に不足しており鉄道はろくに整備もされていなかった。にも関わらず、人々は交通手段として大いに利用するものだから磨耗のスピードも速く、こうした整備不良が原因となった鉄道事故は数多く起きている。

 それでもこの事故がどこか特別に見えるのは、暴走が始まってから追突するまでの間がどことなくドラマティックで、見る者の心を打つからであろう。実際、乗客たちが力を合わせて、なんとか衝突のダメージを軽減しようと試みたことをひとつの美談として捉える人もいるとかいないとか。

 確かに、追突するまでの数分間を短編小説形式で書いたりしたら、案外面白い作品ができるかも知れない。しかしこれはやっぱり「不幸な事故」であって、美談に仕立て上げようという気には筆者はあまりなれない。この点についてはいみじくも桑田佳祐が歌った通りである。「情熱や美談なんてロクでもないとアナタは言う~♪」

 追突事故が発生した花園駅は今はもうない(「河内花園駅」がもとの駅より東のほうにあるという)。つい最近まで、付近の踏切路の西側に慰霊碑の光明地蔵が建っていたが、2020(令和2)年10月現在はもう少し東の方に移動しているという。

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち

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◆米坂線脱線転覆事故(1940年)

 筆者の住んでいる山形県でも、過去にいくつかの大きな事故災害が発生している。

 その内容を見てみると、やはり冬場に起きているものが多い。それで改めて雪国の苦労というものを実感するわけだが、今回ご紹介する米坂線脱線事故もその一例である。

 1940(昭和15)年3月5日のことである。

 3月の上旬と言えば、山形県では雪解けにはまだ早い。しかしこの日は、雪が雨に変わりそうな気配が朝からあったという。

 そんな中、米沢駅発・坂町行きの下り103列車は、朝8時45分頃に小国駅を出発した。

 当時の米坂線(現在はもちろんJR米坂線)は、開通してからまだ4年弱という新しい路線だった。貨物列車3両と客車2両が一体になった103混合列車は、この線路をガタンゴトンと進んでいく。

 次の停車駅は玉川口駅である。だがしかし、この103列車が玉川口に到着することはなかった。

   ☆

 さて、ところ変わって玉川口駅である。

 当時ここには駅長と駅員、それに除雪の人夫や列車待ちの乗客など大勢の人がいたという。

 実はこの玉川口駅は後年には駅そのものが廃止されてしまっている。あまりにも利用客が少ないというのがその理由だったのだが、当時は地元の人にとっては需要もあったのだろう。

 されこの日、103列車が小国駅を発ったという知らせを受けると、駅員たちはすぐ持ち場へ出た。予定では間もなく到着するはずだ――。

 するとその時である、駅舎の警報ベルが突然鳴り出した。雪崩監視所からの通報である。

 小国駅と玉川口駅の間には、荒川という川がある。列車はこの荒川に掛かっている鉄橋を渡るわけだが、そこで雪崩が発生したという知らせだった。

「おい、雪崩だってよ」
「マジすか先輩」

 駅員たちは線路の向こう、小国駅の方向に目を向ける。小さな山があるため、カーブの向こうの様子は見えない。だが、山の陰から白い煙が上がっているのは見えた。機関車の蒸気である。

 悪い予感がした。列車は大丈夫だろうか?

 駅員たちがそちらの方向へ向かおうとすると、逆方向から保線区員が走ってきた。彼はよっぽど衝撃的な何かを見たらしく、雪の上を何度も転びながら駆けて来る。ああ、こりゃヤバイよ。ただ事じゃないよ。

 果たせるかな、事故であった。

 だがしかし、駅員たちが現場で見た光景は想像を遥かに越えた凄まじいものだった。鉄橋から列車が落っこちて、荒川に向かって中ぶらりんになっていたのである。先頭の列車は水没している。

 橋は無残に破壊されていた。雪崩のせいである。鉄橋の隣の山で雪崩が発生し、それが鉄橋の橋脚を切断してしまったのだ。そして運悪く、103列車はその直後にこの橋に差しかかったらしい。

 あわわ、どうしようどうしよう。玉川口駅から事故現場を見に来た人たちは、なす術もなかった。事故現場は荒川を挟んで向こう岸である。橋は崩壊している上に、荒川は雪解け水で増水している。救出活動なんてできっこない。

 そうこうしているうちに、もっとひどいことになった。

 前の3両の貨物列車は荒川に転落しており、続く1両の客車が宙ぶらりんになっている。そして残る客車は線路の上に残っていて無事だったのだが、宙ぶらりんになっていたほうの客車が突然火を噴いたのだ。

 どうも、車内に備え付けてあった暖房用のストーヴから燃え移ったらしい。客車のガラスが割れて黒煙と炎があがった。

 大惨事である。燃え盛る客車の窓から這い出たものの川へ転落する者がいる。また助けを求める者もいる。しかし玉川口駅から来た駆けつけた人々はどうすることもできなかった。

 ついこの間には安治川口のガソリンカー火災があったばかりだ。しかし東北で雪に埋もれる冬を過ごしている人々にとっては、それはあくまでも遠い世界の出来事のはずだった。よもや、自分達の目前で同じような事故が起きるとは!

 ところでこの事故、橋脚があっさり破壊されてしまった原因は何だったのだろう?

「雪崩でしょ」。それはその通りなのだが、悪い偶然も重なっていた。この時の雪崩の雪の量は5,000平方メートル。まあ規模としては普通なのだが、これがが雪崩防止柵の鉄のレールを叩き壊してしまい、さらにそのレールが、橋脚をピンポイントで破壊してしまったのである。

 橋脚にも問題はあった。

 筆者は専門家ではないので上手くは説明できないが、コンクリートというのは砂利、砂、水の混合物であるため、比重の重い砂利や砂は下に沈む。そのため当然、反対に水っぽくなる部分もある。その状態でコンクリが固まると、どうしても強度に差が生じるらしい。

 で、水っぽいコンクリが固まった部分にさらにコンクリートの塊を繋げると、その接続部分の強度は心もとなくなる。この事故で破壊された橋脚は、まさにその部分をスパッと切断されてしまったのである。

 事故はこのようにして起きたのだった。人々が茫然と見守る中、客車を包んでいく炎はみるみるうちに延焼し、今度は水没した貨物列車の方に引火して数回の爆発を起こした。

 駆けつけた人々は、その場で跪いて合掌するしかなかった。40名以上の者たちが、救出活動を行うこともできないまま雪の上に平伏していたという。

 死者16名、死者30名。開通したばかりで、気象に対する経験が足りなかった路線の悲劇であった。この事故の後、現場の山の斜面には雪崩を分断するための分流堤が設置されている。

 また玉川口駅から駅員たちが駆け付け、平伏していた(と思われる)場所には、今でも慰霊碑が建っている。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

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◆安治川口ガソリンカー火災(1940年)

 筆者が勝手に「小心者の事故」と呼んでいる鉄道事故が3つある。福知山線の事故、昭和18年に起きた常磐線土浦駅での衝突事故、そして今回取り上げる安治川口駅のガソリンカー火災である。

 この3つの事故に共通しているのは、事故が起きる要因を作った鉄道員が当時パニックに陥っており、そのせいで気が動転してまともな判断が出来なくなっていた(と思われる)点である。

 別に彼らが本当に「小心者」であったというわけでは無い。ただ、彼らの所属していた組織や時代の空気が、精神的に多大なストレスをかけていたことは明らかだと言いたいのである。

 筆者はこうした人々の気持ちが痛いほど分かる。焦ってパニックに陥り、自分で自分がコントロール出来なくなり、焦りがさらに焦りを生み被害を拡大していくという出来事は決して珍しくないのだ。だから上記の3つの事故は、筆者にはとても哀れなものに見える。

 さて、1940年(昭和15年)1月29日のことである。

 今からほぼ70年前にあたるその日の朝、大阪発桜島行き下り第1611列車は、超満員の状態で走っていた。乗車していたのは、主に沿線の工場へ出勤する人々であった。

 その路線の名は、西成線といった。現在ではテーマパークへのアクセス路線としても賑わっているJR桜島線である。だが当時は工場施設が集中する臨海地域の出勤路線として用いられていたのだ。時は日中戦争真っ只中。国内では、重工業を中心に軍需産業が大盛況だった。

 下り第1611列車は、間もなく安治川口駅の構内に入ってきた。この時の速度は時速20キロ。当時は国策で燃料の節約が指導されており、下り勾配はアイドリングの状態で惰性で走るよう定められていたのだ。なんかこう、長閑な走り方である。

 ところがこの時、安治川口駅の信号掛にとっては長閑どころの話ではなかった。この下り第1611列車は定刻よりも3分遅れており、そのせいで他の列車の運行にも影響が出そうな状況だったのである。

 何せ、燃料をケチって惰性で鉄道を走らせることを国策で定めていたような時代である。鉄道もまた燃料の消費に対して神経を尖らせていた。もしもダイヤ全体に遅れが出れば、燃料の浪費ということで上司に怒られる……。この信号掛の胸中にあったのはそんな不安だった。

 しかも目の前の第1611列車は、そんな彼の気も知らずにのろのろと呑気な速度で構内に入ってくる。ますます焦りは募り、何を血迷ったのかこの信号掛は、列車が通過中だというのにいきなりポイントの切り替えを行ってしまった。

 本来なら、これは後続の別の列車に対する切り替えとなるはずだった。この切り替えを行うことで、確かに後続の列車に出発の合図を出すことになり、それが通過するための準備も整ったわけである。ただ、肝心の先行列車がポイントの上を通過中だったのが大問題だった。

 通過中だった1611列車にしてみればとんでもない話である。これを乗用車で例えれば、前輪は右に向かって走っているのに後輪だけが無理やり左を向かされたようなものだ。思いも寄らない事態に遭遇した3両目の車両は、あれよあれよと言う間に、枝分かれした線路の間で横向きになって脱線した。そしてそのまま横転して横滑りした挙句、電柱にまでぶつかった。もう散々である。

 とはいえ、なにぶん時速20キロの惰性での走行である。おそらくこの時点では死傷者はほとんど出ていなかったことだろう。

 問題はここからである。この脱線のせいで燃料のガソリンが漏れ出したのが運の尽きだった。

 列車の燃料が、石炭でもなく軽油でもなく電気でもなくガソリンである、と聞いて奇異に思われる方もおられるかも知れない。実は、軽油を使うディーゼルエンジンよりも、ガソリンエンジンの方が小型軽量化が利き技術的には作りやすいのである。

 もちろん総合的に見ればガソリン動車よりもディーゼル動車の方が運転効率は良く経済性も高い。また安全だし馬力もある。それでも鉄道の気動車がディーゼルカーへと切り替わるには、戦後までの技術発展と、何よりもこの事故の教訓を俟たなければならなかったのである。

 時刻は早朝の6時56分。漏れ出したガソリンに引火し、大阪湾から吹き付ける西風は火勢を煽り、横転した3両目はあっという間に炎に包まれた。発火源が何だったのかは諸説あるようだが、車両の蓄電池回路からのスパークが発火源だった可能性が高いという。

 時速20キロで走る車両がゴロリと横転しただけだったら、まだ可愛いものだった。ところが事態は一転して遂に大惨事である。しかも車両は鮨詰めの超満員。何せ当時のこの路線のラッシュアワー時は、毎朝の乗車率が300%を越えてもまだ通勤客を運び切れない輸送状況だったというからもう無茶苦茶である。こんな状況でガソリンに引火されたらもう笑うしかない。いや、笑わないけどさ。

(余談だが、連休中などの新幹線の乗車率が100%を越えた、などとニュースで報道されているのを聞くと、事故マニアとしては「そんなに乗せていいのか?」といつもゾッとせずにはおれない)

 さて、この横転し炎上した車両の番号は「42056」。後日「死に頃」「死に丸殺し」などと言われることになる(ひでえな)この車両は、横転してしまったため脱出が極めて難しく、そのせいもあって多くの人が逃げ遅れた。

 そんな中、この車両に乗っていた車掌の大味彦太郎氏の行動は今でも伝説的である。当時31歳だった大味車掌は、自らは楽に脱出できる場所にいたにも関わらずすぐには逃げなかった。彼は車掌室の窓ガラスを割って自分の肩を踏み台にし、乗客の脱出と救助にあたったのである。

 大味氏自身が外部から救出された時には、下半身に大火傷を負っていた。氏は痛い痛いと呻きながらも「気の毒なことをしました。乗客の方はどうですか、当時はまったく無我夢中でした」などと語り、その日の夜に妻子に見守られながら亡くなったという。

 31歳と言えば、これを書いている筆者よりも1つか2つ上という程度の年齢である。なんだこの英雄は。書いているこっちまで泣けてくるじゃないか、畜生。

 しかし、もはや一人の死で嘆いているような状況ではなかった。この火災による死者は191人に上り、重軽傷者は82人にまで達していた。死者はほとんどが窒息死で、150名以上が即死だったという。

 奇跡の生還としか言いようのないドラマもあった。燃え上がった車両の中が焼死体で満杯だったのは言うまでもないが、消火後の遺体収容作業の最中、その満杯の遺体の下から2人の生存者が見つかったのである。他の犠牲者達の体で包み込まれていたお陰で、煙も吸わず炎に巻かれることもなかったのだ。

 そしてなんと、この路線は半日で運転を再開した。

 現場が工業地帯として重要拠点だったからなのだろうが、それにしても驚異的なスピードである。この事故、死者数も日本一なら復興速度も日本一なのではないだろうか。

 また事故後の対応も実に速やかだった。事故の原因となった、「列車が通過中のポイントの切り替え」が出来ないように安全装置が据え付けられたし、さらにこの路線はほとんど間を置かずに電車路線へと転換を遂げている。

 ここまで高速で復興されるとかえって非人道的な気がしなくもない。「出来るんなら最初からやっとけ」と突っ込みたくなるのは筆者だけではあるまい。

 事故を起こした哀れな信号掛は、大阪地裁にて有罪判決を受けた。業務上汽車転覆致死罪として禁固2年というものだった。

 現在でも、安治川口駅のそばにはこの事故の慰霊碑があり、そこに刻まれている犠牲者の名前の数は、鉄道事故のものとしては本邦一である。今でも供え物や献花は後を絶たないらしく、70年経っても事故の記憶は完全には風化していないようだ。

 ちなみに、最後にまた縁起の悪い話で恐縮だが、日本の有名な大量殺人事件に『八つ墓村』や『龍臥亭事件』のモデルとなった津山三十人殺しというのがある。これは大量殺人の死者数の世界記録を40年以上も保持し続けた物凄い事件なのだが、これが起きたのが昭和13年。安治川口でガソリンカーが炎上して、鉄道事故での死者数が日本一を記録する僅か2年前のことだった。

 大量死の時代は、こんな風に始まっていたのだなと思う。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

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◆瀬田川転覆事故(1934年)

 台風の歴史も調べると結構きりがないのだが、やはり有名なのは昭和の三大台風と呼ばれる室戸・枕崎・伊勢湾台風であろう。

 今回ご紹介する瀬田川脱線転覆事故は、室戸台風のさ中に発生した。マクロな視点で見れば台風による突風事故である。だがミクロな視点で見ると人間の不手際が目立ち、今では鉄道事故の一種として分類されている。

   ☆

 1934(昭和9)年9月21日のことである。

 東海道本線草津駅~石山駅間(現在の瀬田駅~石山駅間)の、瀬田川にかかった橋の上を列車が通過しようとしていた。

 この列車は、東京発神戸行きの下り急行で11両編成。記録によるとスピードは出しておらず、徐行していたそうだが、実はこの時は列車を運行するのには最悪のタイミングだった。

 滋賀県全域に室戸台風が襲来していたのだ。

 室戸台風――。最大風速31.2m/s、最大瞬間風速39.2m/sを記録することになる、化け物のような巨大台風である。

 こいつが県内で猛威を振るい始めたのが、21日の午前2時から午前4時の間のこと。そしてこの威力がもっとも強まったのが午前8時から9時の間で、先述の下り急行列車が瀬田川に差しかかったのが午前8時30分だったのである。これじゃ、暴風雨被害に遭わせて下さいと言っているようなものだ。

 もっとも、惨劇を防ぐチャンスは皆無ではなかった。通過駅ごとに、気象告知板(ホーロー板などに「暴風雨」とか「警戒」などと書かれたもの)がちゃんとあったのである。これに従って、運転を慎重にしていればよかったのだ。

 とはいえ戦前の話である。現代ならば異常があればすぐに列車を止めるだろうが、当時はどうだったのだろう。「異常があればとにかく運転を止めろ」というのは戦後の三河島事故以降のルールで、終戦より前の時代は逆に「汽車を止めるのは恥」と考えられていたというから、むしろ暴風雨の中でも汽車を進めていくほうが当たり前だったのかも知れない。

 さあ、列車が橋の上に差しかかった時である。風を遮るもののない橋梁で、室戸台風の強風が車両に襲いかかった。

 列車はたちまち脱線、一気に3両目以降の合計9両の客車が転覆してしまう。この現場の画像はネット上でも見ることができるが、9つの車両が綺麗に並んで横倒しになっている様は、なんだか可笑しくすら感じられる。

 だが笑ってもいられない。この脱線転覆によって11名が死亡し、169~202名ほどが負傷したのである(負傷者数は記録によってずいぶん幅がある)。

 さらに、倒れたのが隣の上り線の線路だったからまだよかったものの、これが逆方向だったらどえらいことだった。お分かりだろうか、場所は河川にかかる橋梁である。転覆の方向によっては、客車が水没して死者が十倍くらいに跳ね上がっていた可能性すらあるのだ。

 橋の上の脱線転覆事故というと後年の餘部鉄橋転落事故を思い出す。だがあれは、線路が一本しかなかったため、脱線イコール転落という絶望的な状況だった。それに比べると橋の上が複線になっていたこの瀬田川脱線転覆事故は不幸中の幸いだったといえるかも知れない(もっとも瀬田川のほうが死者数自体は多いのだが)。

 さてそれでこの事故、「脱線したのは台風のせいだ」という見方もあったようだが、京都地検はそうは考えなかった。事故を起こさないようにするチャンスがあったのに注意を怠ったということで、乗務員の過失を認定、起訴したのである。

 裁判がどういう経過をたどったのかは、残念ながら不明である。ネット上で調べた程度では、そのへんの資料は見つからなかった。

 ちなみに、室戸台風で事故った列車はこれだけではない。他にも、東海道本線・摂津富田駅の近くで列車が脱線転覆し25名が死傷しているし、野洲川橋梁では貨物列車が転落し水没している。さらに大阪電気軌道奈良線(現・近鉄奈良線)でも大阪府布施町(現・東大阪市)内での電車の脱線転覆が発生しているのである。

 こうやって見ると、どれも人災とはいえ、乗務員ひとりひとりの責任ではないような気がしてくる。要は全ての鉄道員の意識のあり方や、彼らに対する安全教育自体に問題があったのではないか。

 いわば、「暴風雨の中でも列車を動かす」ことは、鉄道員にとっては自然法則のようなものだったのである。原理ではないが原則だったのだ。

 ともあれこれらの事故がきっかけとなって暴風設備の研究が進められ、鉄道でも風速計が設置されるなどの措置が取られるようになったのだった。

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◆ウィキペディア

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◆久大本線ボイラー爆発事故(1930年)

 事故の経緯は、まず以下の通りである。

 1930(昭和5)年4月6日のこと。福岡と大分にまたがる久大本線(きゅうだいほんせん)の鬼瀬駅と小野屋駅の間の上り坂を走行していた機関車が、大爆発を起こしたのだ。

 時刻は12時10分。この爆発に巻き込まれて、客車に乗っていた22名(ウィキペディアでは23名)が死亡した。犠牲者の状態はそれはもうひどいものだったらしく、全員がもれなく重度の全身火傷。中には、手の皮が手袋のようにすっぽり抜けてしまった者もいたというから、まるではだしのゲンである。

 今まで誰も見たことがないような大惨事である。原因の究明と「犯人探し」が始まり、起訴されたのは機関手と機関助手の2名だった。

 詳しい説明は後述するが、要するに機関助手の不手際で機関車がおかしくなり、中に詰まっていた熱湯と水蒸気が客車に流れ込んだと考えられたのだ。また機関手は、機関助手を監督する立場にも関わらず、それを怠ったと見なされた。

 しかしこの事故は、上述のような結論がすんなり出たわけではない。原因究明の段階でかなりの混乱があったようだ。

 たとえば、事故直後にはなんの脈絡もなくダイナマイト爆発説が唱えられた。また鉄道局が「なんだかよく分からないが機関車の点検に落ち度はなかった!」と主張すれば、鉄道員たちは「安月給でこき使っておいて、いざとなると罪をなすりつける気か! もっとちゃんと調査しろ!」と吠える始末。で検察はといえば「機関車の構造なんて知るか、専門的すぎてわけわかんねーよ。いま慎重に調査中だよ!」とコメントするばかりだった。

 なぜこんな混乱が生じたのか、その理由も後述するが、とにかくそれくらい不可解な事故だったのである。

 そんな状況にもかかわらず、大分地方裁判所の判決がしれっと下されたのは、ほぼ2年後の昭和7年6月18日だった。過失傷害致死罪と過失汽車破壊罪で機関助手が禁固3カ月、機関手が禁固2カ月というものだった。上告がなされたものの、大審院は11月8日に上告を棄却し刑が確定した。

   ☆

 さて、事故が発生したメカニズムについて、さらに細かく見ていこう(と言っても大まかだが)。

 まずこの図を見て頂きたい。



 かなり大ざっぱな、機関車の構造である。

 先に「機関助手の不手際」でこの事故は起きたと書いたが、具体的に何が不手際だったのか。図で言うと「火室(かしつ)」の部分の取り扱いである。

 ここは要するに、蒸気機関車を動かすために石炭をガンガンぶち込んで、火をボーボー燃やす場所だ。大まかに言うと、ここで発生した熱が湯を沸騰させて、その蒸気で機関車は動くのである。

 読者諸君も、テレビなどでも見たことがあるのではないだろうか。機関車内で、スコップを持った人が、暖炉みたいな箱の中に石炭を放り込むのである。あのスコップを持っているのが機関助手、そして助手を指導しながら機関車の操作を行うのが機関手だ。

 さてこの「火室」だが、密閉された箱の中で石炭をガンガン燃やし、最高で1,500度まで上がる。よってそのままでは火室そのものが壊れてしまうので、火室の上は常にお湯で満たされている。

 つまりヤカンと同じである。空っぽのヤカンを火にかければ「空焚き」でヤカンが壊れるだろう。だが水を入れて火にかければヤカンは壊れず、お湯が沸騰するだけで済む。これと同じだ。火室の上部の空間には、沸かされたお湯と水蒸気が溜まっており、このお湯のおかげで火室は壊れずに済むというわけだ。

 では万が一、何かの拍子に火室上部の水が足りなくなったらどうなるか? 例えば今回の事故のように、機関車が急な登り勾配にさしかかった場合など、そうなることが考えられる。機関車そのものが傾けば、火室の上部の「天井板」が水面からむき出しになってしまうわけで、そうすれば空焚きである。

 すると、機関車は爆発するのだ。それも大爆発。マジで機関車も乗務員も原形をとどめないほどバラバラになってしまうのである。

 もちろんそうならないように、対策はなされている。火室の「天井板」のことをクラウンプレート、あるいはクラウンシートというが、このプレートには「溶栓」「熔け栓」「レッドプラグ」「ヘソ」などと呼ばれるネジみたいなものがねじ込まれている。

 このネジ、例えるなら、穴にチーズの詰まったちくわのようなものだ。

 クラウンプレートが異常な高温になると、このちくわの中のチーズが溶ける。そして穴を通して、火室にの上にたまっていたお湯が流れ出すのである。それは火室の中に降り注ぐ。

 つまり、機関車が爆発する前に、火室の温度を下げてしまうという仕掛けだ。

 なるほど、それなら機関助手も安心していられるね! ……とも言ってはいられない。このちくわを溶かしてしまうということは、機関助手にとっては最大の恥なのである。なにしろ火は小さくなるし、溜まっていた蒸気も水と一緒に出てしまうので、機関車はもう止めざるを得ない。こうなったらもう大失態である。

 だから機関助手は、細心の注意を払って「水面計」というメーターを常に睨んでいなければならない。火室の上の水が少なくならないよう、これでチェックするのだ。

 で、ようやく事故の話になるのだが、もう大体お分かりであろう。機関助手の不手際というのは、この火室の上の水を減らしてしまい、空焚きを行ってしまった点にあった。

 経過はこうである。裁判記録によると、鬼瀬を12時6分に発車した機関車が1,300メートルほど進み、25‰の上り坂に入ったところで機関助手が異常を発見した。先述したちくわのチーズにあたる部分が溶けて、ちくわの穴から蒸気が漏れ出しているのに気付いたのだ。

 まあ単純に考えて、上り勾配に差し掛かったため水面も傾いてしまい、クラウンプレートがむき出しになった部分があったのだろう。どうやら水面計のチェックも漏れていたらしい。

 爆発が起きたのは、水漏れに気づいてからほんの数秒後の出来事だった。幸いだったのは、破裂したのは機関車そのものではなく火室だけで済んだということだった。機関助手と機関手は、軽い火傷で済んだようである。そのかわり客車はえらいことになったわけだが――。

 では爆発自体はいいとして、膨大な死者が出た客車内では一体何が起きたのだろう。これが鉄道省、検察、裁判所を大いに悩ませた。

 状況を見れば、爆発によって機関車の正面が吹き飛び、そこから噴出した熱湯と蒸気が客車に注ぎ込んだとしか思えない。類似の事故も過去になくはない。だがそれでも、今回のは被害者たちの火傷の状態といい、その規模といい、あまりにもひどすぎた。本当に熱湯と蒸気だけのせいなのだろうか?

 さてここで、「あれ、変だぞ?」と思われた方もおられよう。そう、今の説明では、蒸気機関車の正面が爆発で吹き飛んだことになる。しかし客車というのは機関車の後ろについているはずだ。正面から水蒸気と熱湯が噴き出したのなら、客車に被害が及ぶはずがない。

 そこで、事故当時の列車について説明が必要になるのである。実はこの列車、先頭の機関車が通常とは反対向きに連結されていたのである。こんな具合だ。



 昔の機関車は、ごく稀にこういう形で走行することがあった。ある地点からUターンして走行するにもかかわらず、方向転換のための設備が整っていない場合である。当時の鉄道員の間で「バッキ運転」と呼ばれていた方式だった。

 だから、機関車の前部が吹っ飛んだことで、後方にあった客車に被害が及んだのだ。

 客車で何が起きたのかについては、けっきょく不問に付される形になった。うやむやの結論のまま、とりあえず機関手と機関助手が罰せられて事態が収束したのは、先に書いた通りである。

 さあ、ここからが謎解きである。

 以上の事柄を踏まえて、この事故の謎に挑んだのが『事故の鉄道史』の作者である佐々木冨泰と網谷りょういちの二者である。

 佐々木と網谷は、まずこの事故にまつわる疑問をまとめた。それは以下の通りだ。

1・水蒸気だけで、機関車を吹き飛ばすほどの圧力が発生するのか?
2・熱湯と水蒸気が客車に流れ込んだだけで、全員が一様に死亡するような結果になるだろうか?
3・爆発音は二度上がっている。二度目の爆発とはなんなのか?

 佐々木と網谷は検討を重ね、この爆発事故は裁判で認定されたような単純なものではなく「水性ガス」によるものだと結論を出した。

 「水性ガス」とは何かというと、赤熱したコークスまたは石炭に、水蒸気を吹き付けると発生するガスである。水素と一酸化炭素の混合ガスで、最近は合成ガスという名前で呼ばれているという。

 この水性ガス、液化天然ガスの輸入が始まる前までは頻繁に用いられていたらしい。しかし事故当時の昭和5年頃の日本ではほとんど知られていなかった。

 正直、筆者は化学はちんぷんかんぷんなのだが、ついでなので化学式も引用しておこう。

 C+H2O=2H+CO

 この化学反応式は、赤熱した炭素を水蒸気があれば常圧で反応する。そして発生した水性ガスは、空気中の酸素と混じり、着火源があれば、次の化学反応式のように燃焼(爆発)して水蒸気と炭酸ガスになる。

 2H+CO+O2=H2O+CO2

 つまり、こういうことである。事故当時、火室の空焚きによって、先述したようなチーズ入りちくわの溶解が起きた。それでちくわの穴から大量の水蒸気が吹き出て、火室内の石炭に降り注いだのである。そこで水性ガスが発生した。

 火室の中は、水蒸気のため酸素が外へ押し出されており、ここではガスと酸素が結びつくことはない。

 だがガスはボイラーの煙室を通って(前々図参照)機関車の前部に流れ込み、そこで酸素と結び付いた。そして煙室にたまった高熱の燃えカスから引火し、爆発した。

 これが一度目の爆発である。これにより、機関車の前部がまず吹き飛んだ。

 だが裁判では「爆発音は二度あった」という証言があった。単なる火室の爆発なら爆発音は一度だけのはずだ。この、二度に渡る爆発音というのは推理する上での重要な手掛かりであり、また事故の原因が水性ガスであることを示す傍証だった。

 一度目の爆発のあと、機関車から客室へとガスが流れ込んだのだ。これが二度目の爆発を引き起こし、悲劇を招いたのである。

 水蒸気と熱湯による被害であれば、被害者たちの火傷の状況は座席位置によって変わってくるはずだ。だがこの事故はガス爆発だったからこそ、全員が一様の大火傷を負ったのである。『事故の鉄道史』によると、ガス爆発ならば一瞬で1,000度にもなるという。

 ガス爆発が起きたことを示す傍証は他にもあった。爆発現場の周辺の雑草がかなりの範囲で焼け焦げたという記録があったのだ。熱湯と水蒸気だけでこのようなことは起きるとは思われず、爆発により火炎が上がったと考えるのが妥当なのである。

 もっとも、水性ガス爆発などという珍しい現象がなぜこの時に限って発生したのか、その根本的な理由は分からずじまいである。普通――という言い方はおかしいかも知れないが――とにかくこの手の事故では、普通は機関車が停止するか爆発するかのいずれかしかない。なぜそうではなく水性ガス爆発だったのか、その点だけは謎のままである。

 とにかく結果として水性ガス爆発が起きたと、そういうことだ。

   ☆

 そしてここからは、まとめである。

『事故の鉄道史』の記述は、ちょっとした推理小説を読んでいるようで面白いのだが、サッと読んだだけでは「で、水性ガス爆発だったからそれがどうしたの?」と思えなくもない。この推理の結果、事件の構図がどう変わってくるかが解説されていないのだ。

 よってここで最後に、筆者なりに少しまとめてみようと思う。この事故の原因が水性ガスなのは分かった。では「それがどうした」のかというと、この事故の裁判結果は、冤罪とまではいかずとも誤判の可能性があるということだ。

 そもそもこの事故、明らかに最初から最後まで混乱とうやむやの中で片付けられているのである。

 なんで機関車の火室が破裂しただけでこんな大惨事になったのかが誰も分からず(だからこそダイナマイト説などというのも飛び出してきたのだ)とにかく火室を破裂させたのは機関助手のせいなんだから、こいつブチ込んでおけばそれでいいじゃん! というノリで結論に至っているようにしか見えない。

 まあ当時、水性ガスの爆発に誰一人思い至らなかったのは仕方がない。だがそれならそれで、今になってみると、この事故の結論は「なぜあれほどの被害になったのかは不明」としておくべきだったことが分かる。たぶん熱湯と水蒸気が原因だったのだろうという適当な推測よりも、一体何が起きてこんな大惨事になったのかサッパリ分からない、という混乱のほうが正しかったのだ。

 人々が死亡したのは、誰も予測できず、また理解もできないようなことが起きたからなのだ。だから、責任のすべてを機関助手と機関手に負わせるのは不当だったと言える。彼らは事態収束のための生贄にされたといえる。

 この事故には、運が悪かったとしか言えない要素もあった。まず例のチーズ入りちくわだが、ここから水蒸気が漏れ出しているのを機関助手が発見して、わずか数秒後に火室が破裂したのは前述の通りである。だが数秒というのはあまりにも早すぎる。このチーズ入りちくわ、どうも当時は正常に機能していなかったのではないか。これが溶けるのが遅れたため、火室の破損も発見が遅れてしまったのだ。

 その上、機関車は「バッキ運転」だった。破裂によって流れ出したのが水蒸気と熱湯だけなら、機関車を突き破るほどの圧力があったとは考えられない。それが水性ガスだったため機関車は壊れ、そしてたまたま逆向きに連結されていた客車に被害が及んでしまったのだ。バッキ運転がなされていたこと自体が、こんな爆発事故が誰にも予測不可能だったことの何よりの証拠であろう。

 ちなみに鉄道省はこのバッキ運転について、事故直後には「こういう路線では止むを得ない」と述べていた。だがこの言葉もすぐに撤回され、Uターンが必要な路線の末端駅には必ずそのための設備(転車台)を設置することを原則としたそうである。この事故が残した唯一の教訓だった。

 ちょっと見ると、真の事故原因の解明など大した意味がないように思える事例である。だがこのように改めて考えてみると、当事者への責任の負わせ方について考えるための応用問題であることが分かる。機関車の構造や化学式には閉口してしまうものの、それなりに興味深いケースだった。

※蛇足だが、以前この記事の冒頭に記した「久大本線」の読み方について、長い間「きゅうおおもとせん」と表記していたことがあった。読者の方からご指摘を頂いて修正したが、なんであんな書き方をしたのか筆者もさっぱり分からない。不思議である。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◆ウィキペディア

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◆柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)

 煤煙による窒息事故である。

 念のため言っておくと、「煤煙」というのは機関車が走る時に煙突から吹き出すあの煙のことだ。これが原因で発生した事故は以前にもご紹介したが、今回のは最大の被害が出たケースである。

 この事故、死亡者数こそ3名と少なめであるものの、他の乗務員や救助者もほぼ余すところなくバタバタと倒れており、死亡者3名で済んだのも間一髪だったことが分かる。おそるべきケースである。

   ☆

 1928(昭和3)年12月6日のことである。

 北陸線敦賀駅から0時37分に発車した貨物列車があった。これは全部で40両の貨車からなっており、先頭と一番後ろにそれぞれ貨物用機関車がついていた。型式は、当時としては最強の馬力を残る機関車である。

 この列車、疋田(ひきだ)駅までは時間に遅れもなく順調だった。だがこれを過ぎた辺りから調子が悪くなった。山間部に入って雪が急に増えたのと、勾配がきつくなったことが原因となり、車輪がシュルシュルと空転し始めたのだ。

「なんだ、調子悪いな。まあ仕方ないか」

 乗務員は皆、そう思ったことだろう。疋田駅から柳ケ瀬トンネルまでの区間は25‰(パーミル)の急勾配になるのだ。

 その上、2日前には鯖江駅で貨物列車の事故が起きており、この日はそのしわ寄せが来ていた。師走でただでさえ多い輸送貨物がさらに増えていたのだ。定められた限界量もすでに超えており、機関車が進まなくなるのもむべなるかなだった。

 だが乗務員には「勝算」があった。

「なに、曽々木トンネルを抜けるとしばらく平らになるから大丈夫だよ。そこで勢いをつけよう」

 そう。この先にある曽々木トンネルを抜けると、しばらくは平らな地面が続くのである。機関車はそこで力を蓄え、あとはその先にある柳ケ瀬トンネルを一気に通過するのが習わしだった。

 しかしこの日は完全に当てが外れた。曽々木トンネル以降の水平の区間でも、またしても機関車は空転を繰り返したのである。おかげでその先の刀根駅に到着した時はすでに予定を3分遅れていた。

 さあ、ここから柳ケ瀬トンネルまではあと1.5キロ。本当に大丈夫なのかね?

 とにかく列車は進んだ。柳ケ瀬トンネルに入れば、あとはトンネル内の1.3キロを走るのみで、その先はもう下り勾配である。もうひと息辛抱すれば大丈夫だという気持ちで、乗務員たちは機関車を先へ進ませたのだろうか。

 だが事態はますますひどくなる。柳ケ瀬トンネルまでの1.5キロの間にも空転は激しくなり、速度は時速8キロにまで落ち込んだ。

 ハアハア、ゼイゼイ。機関車の息切れと乗務員の苛立ちが伝わってくるようだ。結局、トンネルまでの1.5キロを14分かけて進み、やっと列車はトンネルに入っていった。

 さあ、ここからがこの世の地獄である。スピードは牛歩戦術もいいところ、それなのに煤煙だけはしっかりまき散らすのだからたまらない。トンネル内はもちろん、機関車の運転室もたちまち煙で真っ黒になった。

 しかも、トンネル内でもスピードは落ちる一方。そこへ来て当時は追い風で、吐き出された煤煙は背後から列車にまとわりついてくるのだから、もう悪条件の揃い踏みである。ついに先頭の機関車の乗務員は全員が窒息、昏倒してしまった。

 そこは、トンネルの出口まであと25メートルという地点だった。運転手は昏倒する直前、本能的にブレーキをかけてトンネル内で列車を停止させた。これはまったく妥当な措置だった。そうしないと機関車が力を失い、貨物列車は自由落下で逆走していたところだ。

 列車が停止したので、一番後ろの機関車の指導機関主、後部車掌、荷扱手、前部車掌、荷扱手らは外へ飛び出し、直近の信号所へ助けを求めに行った。

 彼らが目指したのは、トンネルを抜けた先にある雁ケ谷信号所である。ところがこのメンバーも煤煙を吸い、トンネルを出る前に力尽きて倒れた。

 雁ケ谷に停車していた下り貨物列車は、この異変に気付くとすぐ行動を開始した。12時8分、機関車だけを外して救援に向かったのだ。

 この機関車はまず、トンネル内で立ち往生していた上り貨物列車に連結。そして、列車がもと来た方向へ押し出していった。雁ケ谷側に引っぱり出した方が早かったんじゃないかとも思うのだが、恐らく馬力の問題があったのだろう。柳ケ瀬トンネルは雁ケ谷に向かって上り勾配だったわけだから、なるほど雁ケ谷方向からは押し出すほうが簡単な道理だ。

 ところが、列車を押し出している間に、今度は救援機関車に乗っていた2人も窒息し昏睡状態に陥った。二次災害である。

 結果、3名が死亡し9人が負傷と相成った。死亡したのは、トンネル内から徒歩で脱出し救援を求めようとした乗務員たちだった。

 事故原因はまあ、ここまで書いた通りである。荷物が多すぎ、レールの雪で滑り、追い風で煙がまとわりついたためだ。

だが『事故の鉄道史』ではここでさらに突っ込み、トンネルの狭さも事故の原因だったのではないかと述べている。柳ケ瀬トンネルが建設された明治前半期は、大型の機関車がトンネルを通過することは考えられていなかった。想定されていたのはあくまでも小型の機関車だったのである。

 柳ケ瀬トンネルの工事が決まった当時、明治政府は逢坂山トンネルを建設中だった。日本初の山岳トンエンルである。これがうまくいきそうなので政府は変な自信を得てしまったらしく、設計図をそのまま流用した。

 そしてその後、逢坂山トンネルの方は機関車が大型化される前に別のルートに変更された(これが、以前紹介した連続墜落死事故より前なのか後なのかは不明)。だが柳ケ瀬トンネルは、事故後に排煙装置がつけられたとはいえ、こんな具合で1964(昭和39)年まで使われていたのである。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

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◆逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)

 ミステリ作家コーネル・ウールリッチの作品に『九一三号室の謎 自殺室』という短編がある。ニューヨークのとあるホテルの913号室に泊まった客が、毎度毎度謎の飛び降り自殺をするというので探偵役が調査を始める――というものだ。

 で、今回ご紹介する事故は、なんだかそれを彷彿とさせる。

 時は大正時代の末。東海道本線の東京―神戸間にある逢坂山トンネルと東山トンネルでは、なぜか多くの乗客が走行中の列車から墜落し、そして死亡していた(当時、丹那トンネルはまだ開通していない)。

 鉄道当局としては、最初は飛び降り自殺かカーブで振り落とされたかのどちらかだろうと考えていたという。だがあまりに死者が多いので調べてみたところ、驚くべき原因が分かった。

 その原因とは、煙だったのだ。

 長大トンネルを走行していると、機関車から噴き出す煙はどうしてもトンネルにたまる。列車が煙よりも早く走れればいいのだが、たまたま追い風だったりすると最悪で、走る機関車に背後から煙がまとわりついてきたりする。それにまた、昔のトンネルというのは、今と比してまたえらく狭く煙もたまりやすいのだ。

 というわけで、トンネル走行中にデッキにいた乗客は煙を吸い、意識が朦朧として転落してしまうのだった。

 これを受けて、鉄道省では煙の排出のために、トンネルの両端に強力扇風機を設置したという。

 この事故の顛末が、『東京日日新聞』で報道されたのが1926(大正15)年2月1日のことだった。しかしこの2年後には、機関車の煤煙が原因で起きた事故としては最悪のものである「柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故」が発生することになる。

 鉄道が「汽車」であった時代、現代人には想像もつかないような課題と苦労があったのだなと思う。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

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◆東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)

 1913年(大正2年)10月17日、午前4時20分を少し回った頃のこと。北陸本線・東岩瀬駅(現在の東富山駅)に、下りの臨時貨物列車が入ってきた。

 この列車は10分ほど前に富山駅を出発したばかり。この東岩瀬駅では、のぼりの旅客列車とすれ違うために停車する予定だった。

 外は、まだ夜も明け切らぬ暗闇である。しかも天候は風雨で見通しも悪かった。

 下り貨物列車は無事に駅の構内に入ってきて、駅長室の前で、上りとのすれ違いのための手続きを行った。

 と・こ・ろ・が、ここで駅長が異変に気付く。

「あれ、なんだこの列車。スピードが落ちないぞ」

 あれよあれよと言う間に、列車の最後部が駅長室を通り過ぎていく。おいおいちょっと待て、そのままじゃ行き過ぎちまうぞ~。

 この「行き過ぎ」というのは、今で言うオーバーランのことである。2005年の福知山線の事故でも、脱線の直前に、運転手が本来停車する場所から行き過ぎてしまうミスを起こしていた。あれと同じだ。

「ちょっと行き過ぎるくらいどうってことないじゃん?」

 うん、そう思っていた時期が筆者にもありました。しかしそこが素人の認識の浅はかさで、このオーバーランという奴を甘く見てはいけないということを示す好例が、この東岩瀬駅の事故なのである。

 さて行き過ぎた貨物列車は、今まさに上り旅客列車が向かってきている線路へ入り込んでしまった。もう上り列車は目と鼻の先、駅員も運転士も慌てて貨物列車を本来停まるべき位置へ戻そうとしたがついに間に合わず、正面衝突と相成った。

 この上り旅客列車に乗っていたのが、善光寺への参詣ツアーに参加していた団体旅行者たちだった。秋の収穫を終えたばかりの北陸の農家たちが大勢乗り込んでおり、彼らは2泊3日の行程をほぼ終えて帰路に着いているところだった。

 旅客列車は12両あったが、そのうち9両目までの客車が脱線転覆。また一部の車両は他の車両に突っ込まれて粉砕してしまった。全部で362名いた乗客のうち26名が死亡し、重軽傷者は104名にも及んだという。大惨事である。

 裁判では、貨物列車・旅客列車の双方の運転士が被告となった。両者はそれぞれこのような主旨のことを述べたという。

 貨物列車「列車が停まらなかったのは雨で滑ったせいだ!」

 旅客列車「あの時の東岩瀬駅の場内信号機は、安全表示になったり危険表示になったりを繰り返していて、めちゃくちゃだったんだ!」

 しかし必死の陳述も空しく、どちらも禁固と罰金の実刑を食らってしまった。

 ちなみに後者の「めちゃくちゃな信号機」については、参考資料『事故の鉄道史』の中でちゃんと論理的な推理が提出されている。オーバーランしてしまった列車を退行させるためにゴチャゴチャと信号機をいじっているうちに、機械と連動していた信号機が青になったり赤になったりしたのではないか? というのだ。なるほど。

 すると残る問題は、そもそもなぜ貨物列車がオーバーランしてしまったのか――という点である。そしてこの事故は、これについて最後にとんでもないオチがついているのだ。

 裁判の判決が確定したあと、当時の鉄道院(運輸省の遠いご先祖にあたる組織)は、富山駅の助役に減棒の処分を下している。それでこの処分の理由というのが、事故を起こした貨物列車の「ヴァキュウムホース」とやらの接続が不完全だったのを見過ごして、それを黙っていたからだというのだ。

 この「ヴァキュウムホース」なるものがなんなのか、説明を読んでも素人にはサッパリなのだが、とにかくこれがちゃんと接続されていないと列車というのは上手く停車できないらしい。

 なんだよ、原因わかってんじゃん。

 つまりこういうことである。貨物列車が富山駅を通過した時、駅の助役は列車のヴァキュウムホースの接続が不完全なのを見過ごしてしまった。だから東岩瀬駅でも停まれなかったのである。あの衝突事故はそれで起きたのだ。

 この助役の怠慢が発覚した――つまり実刑を食らった運転手たちが無実だったことが判明した――時にはとっくの昔に裁判も終わっており、すでに運転手たちは出所したあとだった。しかし本当の事故原因が発覚した以上は処分をしないわけにもいかない。というわけで、助役は減棒となったのである。

 それにしても、ある意味でのどかな時代だったのだなと思う。今だったら「不祥事を内々に処理して隠蔽しようとした」などと言われてマスコミから叩かれることだろう。冤罪でぶち込まれてしまった運転士たちも実にいたたまれない。彼らにもちょっとくらいは補償があったのだろうか? あったと思いたい。

 ところで、鉄道にいわゆる「安全側線」が整備されるようになったのは、この事故がきっかけだった。

 安全側線とは、通常の線路から枝分かれし、中途半端なところで途切れた線路のことである。そしてその先には土が盛ってあり、列車が停まりやすいようになっている。仮に列車がオーバーランしても、そっちの方に誘導されるので正面衝突は避けられるという寸法だ。

 多分、多くの人が一度は見たことがあるだろう。あれはこの大正時代の事故がきっかけで作られたものなのである。もし見かける機会があれば、このルポのことを思い出して「へえ~」と感慨にふけってみるのもまた一興。

 しかしこの安全側線、欠点がないわけでもない。運転手に停車する意志がなかったり、列車そのものが暴走していたりすると簡単に突破することができるのだ。つまり事故防止のシステムとしては不完全なのである。

 鉄道というのは、時と場合によっては問答無用で全ての列車を自動停止させなければならない――。このような認識に鉄道関係者がようやく思い至るには、ここから気の遠くなるほどの年月と、そして多くの重大事故の発生を俟たなければいけないのだ。

 ついでにこの事故にからめて言えば、組織の不祥事についても以下同文、とも言えそうである。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

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◆北陸線・雪崩直撃事故(1922年)

 大正10年から11年にかけて、日本海側一帯は豪雪に見舞われていた。

 それで当時、県知事と陸軍連帯区司令官から、各市町村に出された通牒がこれである。

「北陸線は重要な軍事路線につき、青年団、在郷軍人分会を動員し、万難を排して交通維持に努められたい」。

 要するに、お前らちゃんと除雪やれよ~、というわけだ。

 そしてそんな中、1922年(大正11年)2月3日13時30分に市振~親不知間の鉄路で大雪崩が発生した。これは犠牲者こそ発生しなかったものの、鉄道を完全に塞いでしまう大規模なものだった。

 さっそく鉄道省と陸軍省からの要請を受け、周辺の村落からは除雪の人夫たちがかき集められた。地元の建設会社「白沢組」が仲介となり、200名(うち30名が鉄道職員)がさっそく作業に取りかかった。

 この日の天候は最悪だった。この間までは大雪だったくせに、なんと季節外れの雨降りである。しかも雨足はどんどん強まり、夕方にはすっかり大雨となった。まーフェアチャイルド時代のYOUだったらきっと「じょだんじゃないよ♪」と歌ったに違いない。

 もちろんこの時代にYOUは生まれていない。人夫たちは歌う余裕もなく除雪作業を進めていった。雨合羽や長靴などなかった時代のことである。厳寒の空気の中で雨水は蓑や笠を伝って服を濡らし、さぞ凍えたに違いない。

 しかもそれだけではない。当時このあたりは「雪崩天国」とでも呼ぶべき状況で、雨のせいで雪崩が頻発していたのだ。この日のうちに市振~親不知間では合計11回も雪崩が起きていたというから、作業員たちは心身共に生きた心地がしなかったことだろう。作業中止の号令が下った時に彼らが心底ほっとしたであろうことは、想像に難くない。

 この時、時刻はすでに夜。作業員たちは我が家へ帰るべく列車に乗り込んだ。蒸気機関車2296(2120型)牽引、6両編成の65列車である。

 しかし「雪崩天国」いやさ「雪崩地獄」の悪魔は彼らを見逃さなかった。この列車が帰路で雪崩の直撃を受けたのである。

 時刻は午後7時~8時の間のこと。親不知駅と青梅駅の間を通過中、勝山トンネルの西口にさしかかった時のことだった。勝山の約6,000立方メートルの雪が滑り落ち、列車に襲いかかったのだ。

 最も被害が大きかったのは3・4両目だった。この車両は雪崩の威力によって木っ端微塵に破壊され、客車の台枠や車輪だけを残してほとんど消えてなくなってしまったという。死亡者も全てこの2車両に集中しており、最終的には乗客89人と鉄道職員1名の計90名が犠牲になっている。

 中には握り飯を手にしたままの遺体もあったというから、この事故が一瞬の出来事だったことが分かる。

 また2両目も大破し、大勢の怪我人が出た。

 さあ大騒ぎである。急報を受けた鉄道省は在郷軍人、青年団員、消防団等で組織された救援隊を、そして赤十字などでもさっそく大がかりな救護班を現場へ送り込んだ。

 だが鉄道は動かない。そりゃ雪崩が起きているんだから当たり前である。なんだか間抜けな話で、手前の駅で引き返さざるを得ない班もあったという。

 このように、山間の豪雪地の事故現場ということで、交通手段には限界があった。海上も波浪のため危険な状態で、陸海ともに最悪の天候状況だったのである。本格的な救助活動が始まる頃には、もはやそれは死体発掘作業の様相を呈していた。

 負傷者と死者は、それぞれ親不知と、反対の糸魚川方面に向けて収容されたという。

 ところでこの現場は42時間後には復旧したが、当時の鉄道省は救援そのものよりも最初から線路の復旧を優先しようとしたため、大いに地元住民の顰蹙を買ったそうな。

 なるほど当時の新聞を見ると「親不知、市振間の雪崩未だ除雪出来ず四日中に開通の見込みである、」などと報道されているが、しばらくすると「4日の朝8時にはまだ雪の下に70~80名の遺体が残っている見込み」とも報道されている。鉄道省も、よもやこんなにひどい事態になるとは思ってもみなかったのだろう。

 ちなみにこの雪崩の原因だが、積雪+雨という自然的要因はもちろんだが、他にも「汽車の汽笛」も影響したのではないかと言われている。トンネル進入前に鳴らした汽笛が、雨でゆるんだ積雪に振動を与えてしまったのだ。こういうのを底雪崩と呼ぶらしい。

 周辺地域の村落は、この事故によって多くの若い働き手を失ったわけだが、その補償について鉄道省と地元住民はずいぶん揉めたようである。

 問題は弔慰金にあった。「犠牲になった作業員は鉄道省が雇ったわけではない」という理屈で、鉄道省がわはなかなか補償に応じなかったのである。

 なるほど、それじゃ遺族は頭に来るよね。

 とはいえ最終的には鉄道省が折れ、犠牲者は「奉仕隊」だったということで無事にお金が支払われたとかなんとか、うんぬんかんぬん。きっと「名目なんざどうでもいいからとっとと払いやがれ」というのが遺族の正直な気持ちだったことだろう。

 参考資料『事故の鉄道史』によると、この事故は、ひとつの事故に対して複数の慰霊碑が建てられているという全国的にも稀なケースだという。地元住民の、この事故への関心の高さが窺い知れる。

 そしてこの事故をさらに印象深いものにしているのは、未だに一人だけ身元不明の犠牲者がいる、ということである。

 どうも、事故に遭遇した客車にたまたま乗っていたらしい。普通の乗客と思われるが、どこの誰なのかは遂に最後まで分からずじまいだったという。なんだか後年の三河島事故を思い出すような話である。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◆神戸大学付属図書館 新聞記事文庫

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◆東北本線・古間木-下田駅間列車正面衝突事故(1916年)

 大正5年(1916年)11月29日の夜のこと。

 この夜、青森県三沢市の古間木駅(現在の三沢駅)に勤務していたT助役は、電信掛のNと共に、駅前の旅館で酒宴の真っ最中だった。ちょうど、しばらく列車の発着がない時間帯だったのだ。

 おいおい、勤務時間中になにやってんの。

 古間木駅にいたY駅夫は、頃合を見て二人を呼びにいった。「くそう、あいつら自分ばっかり飲みに行きやがって」と悪態をつきながら夜道を駆けていった、かどうかは知らないが、実はこの直後、電信掛のNは入れ違いに古間木駅に戻ってきたのだった。

 下田駅側の通票閉塞機の電鈴が鳴ったのは、このNが戻ってきたタイミングでのことだった。

 細かい説明は省くが、この「電鈴」というのは、下田駅が古間木駅に向けて「今から下り列車がそっちに行くぞ」という呼びかけの意味を持っていた。そしてNはいつもの習慣に従って、「了解した」という合図を送った。

 さてこの後、Nが何をしていたのかは、資料の文献を読んでも不明である。帰宅したのか、はたまた泥酔して寝てしまったのか……。とにかく彼がここで「了解した」という合図を送ったことが誰にも伝えられなかったことで、事故は起きてしまうのだった。

 はい、てなわけでNは退場。

 そして次に古間木駅に戻ってきたのが、酒宴から戻ってきたT助役と、彼を迎えに行ったY駅夫の2人である。

 酒宴から戻ってきたT助役は、駅舎で居眠りを始めた。すると間もなく上りの貨物列車が古間木駅に到着し、Y駅夫は助役を起こしにかかる。

Y「助役、起きて下さい。上り列車が着きましたよ」
T「うーんむにゃむにゃ、もう食えねえ」

 ああダメだこりゃ。俺がかわりに上り列車を通過させなきゃな……。と、このような次第で、Yはこの上り列車に通行許可を出すことにした。

 さてここで問題になったのが、さっきNがいじった通票閉塞機である。

 先述の通り、Nは「下り列車がそっちに向かうぞ」という電鈴を受けて「了解した」という返事をしている。それでこの通票閉塞機も、いわば「下り列車が古間木駅に向かってきているモード」になっていた。

 この閉塞機の状態だけを見ると、下り列車がこちらに走ってきていることになる。しかしこの日この時刻に下り列車が来るなんて、Y駅夫はまったく記憶になかった。どうなってんの?

 しばらく首をかしげた彼が下した結論は、こうである。

「ははあ、さてはこの機械また壊れやがったな!」

 そう、この通票閉塞機は前にこんな感じで故障したことがあったのだ。Yはその時の裏ワザを思い出した。そうそう、こういう時はT助役がコイツに針金を突っ込むと直るんだっけ。よしよし。

Y「助役、また閉塞機が壊れちゃいました」
T「むにゃむにゃ。仕方ないな、俺がやってやりるれろ」

 まだアルコールの抜け切らぬT助役は、いつものように針金を曲げて機械に突っ込む。そうして、上り列車が古間木駅を通過できるようにしてしまった。

 かくして古間木駅には平和が戻った……かのように思われたが、それは錯覚であった。上り貨物列車が通過した直後に、一本の電話が入ってきたのだ。それは下田駅のO助役で、「下り列車が古間木に向かうぞ」という電鈴を送った張本人だった。

O「もしもし。なんだ、やっと電話が通じたぞ」
Y「すいませんね、ちょいと取り込み中だったもので。どうかしました?」
O「いやなに、さっきウチのほうから下り列車を通過させるって電鈴を送っただろう? あれが14分遅れでさっき通過したから、念のために連絡をと思ってね」
Y「なにを言ってるんです? 下り列車って、そんなの時刻表にないでしょう」
O「こらこらなに言ってるんだ。今日は23時13分に下りの臨時列車が発車してそちらに行くことになってただろう」
Y「ぐはっ、臨時列車!?」

 そんなの聞いてねえ! 真っ青になるY駅夫。その様子を不審に思ったO助役は、T助役に電話を代わらせた。

T「むにゃむにゃ。おはようございます」
O「なんだ酔っ払ってるのか? なあTくん、今夜こっちから臨時列車がそっちに向かうって話は聞いてたよな? それがさっき通過したから連絡したんだが」
T「ぐはっ、臨時列車! 忘れてた――!」

 たちまち酔いがさめたT助役は、さっきの通票閉塞機のことを思い出したに違いない。あの通票閉塞機は壊れてなどいなかったのだ!

 しかしY駅夫とT助役が気付いた時にはもう遅い。下田駅から走ってきた下り臨時列車は、うっかり古間木駅を通過させられてしまった上り列車と正面衝突してしまった。

 下田ー古間木間は単線で、線路は一本だけだった。つまりこの路線を通れるのは常に上りか下りのどちらか一本だけで、本来は2つの駅で連絡を取り合い、かわりばんこに列車を通してやるべき区間だったのである。

 つまりYとTは、古間木駅でしばらくの間上り貨物列車を待機させるべきだったのである。そして反対方向からやってきた下り列車が古間木駅に到着した時点で上り列車を発進させる。そうすれば駅ですれ違う形になり、上りも下りもなんの問題もなく進むことができたのだ。

 それにしても、コトが発覚してからのYとTの心中は一体どれほどのものだったのだろう。きっと処刑を待つ時のような心地だったのではないだろうか。

 やがて、古間木駅に、自分たちがさっき送り出した上り貨物列車の後部16両が逆戻りしてきた。

 2人はそれを見て事故発生を知った。正面衝突の衝撃で、この後部16両分は連結器からちぎれてしまったのだ。

 死者29名(ネットで検索すると34名、とも)、負傷者171名。下り臨時列車には弘前市の第八師団に入営する予定の壮丁たちが619人乗り込んでおり、その3分の1程が死亡した計算である。

 さてその後の経過だが、とにかく通票閉塞機を不正操作したのは悪質だということで、T助役とYは実刑を食らった挙句に懲戒免職と懲戒解雇の憂き目に遭った。また兵隊の候補者達が多数犠牲になったということで陸軍省も事後処理に大きく関わり、話が相当でかくなったようである。

 ちなみに参考資料『事故の鉄道史』によると、この事故について「通票閉塞機を不正操作したのはT助役である」とはっきり書いてある公式資料は数えるしか存在していないらしい。ものによっては不正操作をしたのが誰なのかがボカしてあったり、ひどいのになるとYに全部罪を擦り付けているのもあるのだとか。

 歴史というのはあちこちで改竄されたり捏造されているものなんだな……と最後に思わされる事故事例である。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

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◆箒川列車転落事故(1899年)

 箒川(ほうきがわ)は那珂川水系に属する第一級河川である。栃木県の矢板市と大田原市の境界を流れており、延長は47.6キロメートル。大佐飛山地南西部の白倉山付近を源流とし、那須野が原扇状地を東南に流れている。最後は那珂川に合流し、水戸の北部を通って那珂湊で太平洋に注ぐ。

 筆者は純粋な鉄道ファンではないのでよく分からないのだが、東北本線を走ってこの箒川にさしかかる辺りというのは、絶好の撮影ポイントらしい。景色がいいのだろう。

 この箒川にかかる鉄橋がある。1886(明治19)年に完成したもので、架橋当時は全長約319メートル(現在は全長322メートル。なんで長さが変わったのかはよく分からないが)。川床からの高さは約6メートルあり、橋桁(プレート・ガーダー)14連で結ばれていた。

 1899(明治32)年10月7日、当時の鉄道史上最大の事故はここで発生した。

 この頃の東北本線はまだ国有化されておらず、日本鉄道株式会社(以下日鉄)の私鉄路線に過ぎなかった。しかし時代の要請を受けて線路はどんどん切り拓かれ、1883(明治16)年7月28日に上野~大宮間の路線が開通したのを皮切りに、路線を北へ北へと延伸。明治19年には宇都宮~西那須野間が、24年には青森までの全線が、さらに31年には田端~岩沼間が開通していた。

 箒川の事故が起きたのが、このほぼ1年後である。日鉄は線路の敷設も一段落し、今まさに運輸営業に力を入れようとしていた矢先のことだった。

 10月7日当日は、南方洋上で台風が発生しており、本州に接近していた。

 そんな悪天候の中、福島行きの第375列車(機関車2両+貨車11両+客車7両)は11時に上野駅を発車。対向列車との行き違いの関係から約50分程の遅れが出ており、矢板駅を出発したのは16時40分頃だった。

 結果だけを見ると「そんな天候で出発しちゃったんかい」という感じもする。だが、途中で通過した宇都宮駅で観測された風速は9メートル。まあ徒歩の人が歩きにくくなる程度のものである。これなら大丈夫だろうと判断されたのだった。

 列車は矢板駅を出発すると、まっすぐに箒川へと突き進む。この先の針生トンネルをくぐり、橋を渡れば次は野崎駅だ――。

 と、ここで矢板駅と野崎駅の間の地形について少し解説しておきたい。両駅周辺の地形は、南に松原山丘陵があり、北には那須野が原扇状地がある。箒川はこの境目を流れており、全体の中ではここでかなりの急流となる。

 鉄道敷設に際しては、松原山丘陵にトンネル上の切通しが掘られた。これが針生トンネルで、これを抜けると線路はすぐに箒川と交差する形になる。そこに箒川鉄橋も架かっているわけだが、地形条件のため、ここは風の通り道でもあった。テレビの専門家インタビュー風に言えば「あの場所はもともと強風に遭いやすく、とりわけ冬の時期は北西からの季節風を強く受けることで知られていたんです」といったところだ。まあ後からならいくらでも言えるのだが、とにかくそういうことだった。

 第375列車は針生トンネルを抜け、箒川に差しかかる。そして列車が鉄橋の真ん中あたりに来たところで(渡り始めたタイミングだったとも言われているようだ)惨劇は起きた。強烈な北西からの突風が、列車の左側に吹きつけたのだ。

 機関士は後方を見た。8両目に連結していた無蓋貨車のシートが風であおられ、吹き飛ばされそうになっている。異常事態だが気付いたときにはもう遅い。次の瞬間には、1等客車の車体が急激に右方向に張り出した。

「こりゃイカン!」機関士は警笛を鳴らしてブレーキをかけた。後に機関士は、この時に強い衝撃を感じたと証言している。おそらくそこで貨物緩急車の連結器が外れたのだろう――とも。

 第375列車が混合列車であることは、先にチラッと書いた。その内訳はここではあまり細かく書かない。とにかく連結器が外れてしまったことで、後方の貨車1両と、7両あった客車の全部が転覆し、そのまま橋から落下したのである。

 この時の風は、瞬間最大風速27~28m/secと推定されている。天気予報の用語では「非常に強い風」と呼ばれるレベルで、人も車も外にはいられず樹木も倒れるほどの強さだ。宇都宮で観測した時とはえらい違いだった。

 落下したそれぞれの車両がどうなったのか、詳細がウィキペディアに載っていたので、せっかくだから書いておこう。上から順に、前部車両→後部車両となる。

・貨物緩急車(亥120)……橋脚のそばに転落、横転して大破。
・3等緩急車(ハ28)……亥120とほぼ同じ状態でその横に横転し、大破。
・3等客車(ハ179)……屋根が吹っ飛び、車体下部構造は河底に埋没。
・3等客車(ハ249)……橋脚の約27メートル下流に流される。屋根だけを残してその他は粉砕。
・1等客車(イ3)……最初に転落。25メートル下流に車体下部構造を、また18メートル先に屋根を残し、その他は粉砕。
・2等客車(ロ17)……中州の上で圧壊。
・3等客車(ハ275)……転落、3ブロックに大破。
・3等緩急車(ハニ107)……前車(ハ275)の上に転落し、大破。

 ひどすぎる。

 車両がこんななので、乗客たちがどうなったかは推して知るべし、であろう。

 もっとも現代に生きる我々も、車両が脱線転覆し粉砕しぺちゃんこになるような鉄道事故を全く知らないわけではない。そうした事故では数十人から百人単位で人が亡くなることもある。そうした事例に比べればこの死者数は少なめで、そこは不幸中の幸いかも知れない。だが箒川の事故の場合、乗っている人が少なかったから簡単に風で飛ばされてしまったのではないか、という気もする。当時の『國民新聞』では、「前方貨車は肥料雑貨を積み居て、其重量にて危難を免れたるなりと。」とあった。

 これが17時頃のこと。転落を免れた機関車2両と貨車10両は、そのまま140メートルほど進んでようやく停車した。機関車1両だけのブレーキでは、即座に停止することはできなかったのだ。

 大惨事である。まず機関手が、次の停車駅だったはずの野崎駅に駆けつけて急報。それを受けて駅長は電報を打ったが、またしても暴風雨に邪魔されて混線。矢板駅につながったのは17時20分頃のことだった。

 また後部車掌は、自分自身も負傷しながらも――と資料には書いてあるが、まさかこの人、川に落ちて助かったのだろうか?――現場から3.5キロを駆けて矢板駅に現場の状況を報告している。そして矢板駅→宇都宮駅→日鉄、の順で通報がなされた。

 時代が時代だから仕方ないのだが、20分とか3.5キロとか、哀しくなるほどの通信状況である。

 ともかく急報を受けた宇都宮駅長は、鉄道嘱託医、赤十字社栃木本部、県立宇都宮病院に応援を要請。さらに日鉄本社では、社員十数名と作業員70名を派遣している。また順天堂病院にも要請し、院長、医師、看護婦を派遣させた。

 ただしこれらは全て矢板側からの派遣だった。現場に着いても暴風雨のため橋を渡ることはできない。そのため彼らは到着した側の岸で救護活動を行なうしかなかった。

 では反対の岸ではどうしていたかというと、こちらには地元の開業医が駆けつけていたという。彼は関係機関からの派遣をまたずに現場に駆けつけて、負傷者の治療を行なったのだった。

 また地域の消防組も集まってきた。出動したのは矢板、三島、蓮葉、石上、針生、土屋、山田の人々である。当時は町村単位での自治消防は行なわれておらず、村や大字単位でこうしたグループを結成していた。

 しかし暴風のさ中である。救助は簡単なことではなかった。強風のため橋の上は渡れず、命からがら中州へとたどり着いた人々のところへも行けない。しかも箒川は平時に比べて1メートルは増水していた。

 当時の救助設備も、縄と梯子、それにトビ口くらいなものだった。川の両岸にかがり火が焚かれ、泳ぎの達人が鉄橋に大縄を結び付けてから負傷者のもとへ行き、背中におんぶして、縄をたぐって元の場所へ行き梯子で上る……。こうした気の遠くなるようなやり方で救助活動は行なわれたのだった。

 ちなみに、この時偶然に、事故った車両には埼玉県の加藤政之巡査も乗り合わせていた。彼は職業的使命感から、自分の怪我も省みず溺死寸前の遭難者を救出している(後に見舞金や書状をもらい、昇給もした)。

 こうして多くの乗客が救助されたが、救助されるのと前後して亡くなった人や、激流に流されて後日あちこちで発見された遺体もあった。

 10日には、栃木県警察部保安課長の指揮で、箒川や那珂川の周辺が徹底的に捜索された。だが遺留品は多く見つかったものの遺体はなく、大体このへんで死者数は確定したようである。

 最終的な死傷者数は、『日本鉄道株式会社沿革史』によれば死者20名、負傷者45名とされている。公的には、これが正式な数字である。

 だが混乱もあるようだ。昭和6年10月の33回忌に建立された石塔婆には19名の故人の名が刻まれているというし、また事故直後の11月に発行された『風俗画報』増刊「各地災害図会」(明治32年10月)によると死者19名、負傷者合計36名とあるらしい。

 ちなみに事故った列車の乗客総数は、各駅の切符発売状況を調査した結果、62名とされているという。

 最初にも書いたが、これは当時、鉄道事故としては最悪の大惨事であった。だが復旧は意外に早かった。消防組なども参加して転落車両などが撤去され、線路の復旧はせいぜい枕木交換程度。翌日にはもう試運転が行なわれたというから、なんだか拍子抜けだ。

 とはいえこの事故、裁判ではけっこう尾を引いた。同年11月20日、第14回帝国議会の衆議院本会議で、福島県選出の代議士・菅野善右衛門がこういう趣旨の質問をしている。

「この事故では、暴風雨にも関わらず汽車を走らせている。さらに鉄橋の構造には転落防止についても不備があったのではないか」

 実はこの菅野氏、肉親を事故で失っていた。

 この時の答弁に菅野氏は納得しなかった。翌年2月20日には東京地方裁判所に対して訴訟を起こし、日鉄に3万円の慰謝料を請求している。

 日鉄の言い分はこうである。「確かに気象状況は不安定だった。だが、客車が転落するほどの強風は予想できなかった」

 いわゆる「想定外」である。まあ、争うつもりならそう言うわな。

 この訴訟、7月7日に一度は菅野が勝訴している。だが9月14日には日鉄が東京控訴院に控訴した。

 それから判決が出るまでには4年間かかっている。その間にも日鉄に対しては慰謝料の請求が多く出されたという。

 ところがである、明治37年12月10日には、日鉄の勝訴として判決が下された。

 そこで菅野氏は大審院に上告したものの、翌年38年5月8日には「原判決を破棄、本件を宮城控訴院に移す」と結論が下された。

 その宮城控訴院でようやく決着がついたのが、さらにほぼ一年経った2月28日である。ここでも菅野氏は敗訴した。おそらくこの敗訴は、他の遺族(あるいは直接の被害者)たちの慰謝料請求にも影響したに違いない。

 とはいえ、日鉄も支払いを頑として撥ね付けたわけではない。被害者に対する補償はちゃんと行なわれている。その内訳は遺族へ500円、負傷者は1人300円以下の支払いというものだった。これには従業員からも相応の挙金があったという。

 また、上記の宮城控訴院での判決の詳細は不明だが、ともあれこの判決の結果を踏まえた示談が行なわれ、成立している。事故発生から実に7年の年月が経過しており、この間には日露戦争もあった。

 さらに言えば明治39年3月31日には「鉄道国有法」が公布され、日鉄は11月1日に国に買収されている。

 なんだか、こうやって見てみると、この事故の歴史は同時に日鉄という組織の歴史そのもののように思えなくもない。主要な線路の敷設が終わり、ようやく運輸に力を入れるぞ~と思った矢先に事故が起きた。そして最終的な判決が下ったのとほぼ同時に、国によって買い上げられたのである。奇妙な因縁だ。

 大雨・強風時の運転抑制については、この事故を踏まえた検討もなされたようだ。だが悪天候の中、運転を続けるかどうかという判定は難しいところがあり、こうしたルールの具体化までにはまだまだ長い時間を要した。

 この「悪天候時の運転抑制」の基準の難しさについては、言うまでもない話かも知れない。鉄道事故の歴史を紐解けば、瀬田川列車転覆事故、餘部鉄橋転覆事故、羽越線脱線事故など、悪天候による大事故の例には枚挙に暇がない。天候は、交通機関にとってはある意味最大の強敵である。

 現在、この事故の供養碑はふたつ存在する。

 ひとつは事故から間もなく作られたものである。事故発生直後から、現場付近では何度か村民による供養が行なわれているが、一周忌にあわせて石塔婆が建立されたのだ。この碑は現在、下り電車に乗って箒川橋梁を渡り切ると、ちょうど左側に見ることができるという。高さ3メートルの大きなもので、欠落箇所があるものの100年前のものにしては立派だという。

 もうひとつの慰霊碑は、田代善吉という人によって建立された。この人は事故の直接の被害者だったのだが、その後は教育者かつ郷土史家として地元に貢献した人らしい。箒川の転落事故については、生き残りとして死者の冥福を祈る思いも強かったのだろう。33回忌にあたる昭和6年10月4日、現地での法要に際し卒塔婆を建立した。

 この卒塔婆の場所は、箒川の左岸、国道四号線の跨線橋北側である。そこは昭和6年当時は踏み切り道だったようで、道の横に建てたものらしい。

 なお、この卒塔婆の建設費は、多くが国鉄職員の浄財によるという。

 慰霊の法要については、参考資料を見る限りでは、少なくとも90回忌までは行なわれたのは間違いないようだ。

   ☆

 最後に、この事故については2つほど付録を添えておこうと思う。

 まずひとつは、前掲の田代善吉氏による証言である。『続・事故の鉄道史』からの孫引きであるが、もともとは昭和六年一〇月発行の『下野史談』号外「等川鉄橋汽車顛覆始末」に掲載された「私の遭難体験記」という文章からの一部抜粋らしい。もともとが長文で改行がないため、ここではブログ向けに改行の処置だけさせて頂いた。ぜひ一度目を通して頂きたい。その臨場感から、目線を離せなくなること請け合いである。

「私は小学校教員受験の為に宇都官に参りました。試験も終って帰ろうとした日は朝から大雨であった。三時頃の汽車で帰る積りであったが、汽車が遅れて四時頃になった。

「雨は増々激しく降って来る。その上風も出た様であった。汽車が進行すると共に風も強くなった。矢板駅に着いたのは恰度午後五時頃であったが強風強雨で気味が悪い様であるから、矢板へ下車しようかとも思った。

「箒川の鉄橋に差しかかると、ガタッという音のみであとは気絶して仕舞ったから、何が何やら判らない。ホッと気が付いて見ると自分は濁流に押し流されつつある。

「幸いにも汽車両は微塵に砕かれたので汽車の扉が一枚流れて来たのにつかまった。此扉こそ自分の生命の綱である。物体は必ず川岸によるものであるからこれをば放すまいと、其一扉に乗って激流の中を潜んで行った。自分は流れながらも今溺死する此身を両親や兄弟は知らないだろうと胸に涙を浮かべつつ那須野山の方向を眺めた。

「六百メートル程も流されて行くと乗っていた扉は河岸に近かづいて来た。川柳のあるのを幸に飛びついたが背は立たない。足の方は流されているが此柳が命の親と思って、つかまってはなさない。やっと砂州に這い上がることが出来た。若しや此の柳が根から切れたら自分も此世から縁が切れて今は斯うして居られないのであった。

「其時顔面からは鮮血流れ股や膝のあたりは硝子の破片が澤山這入ってゐました。

「川の中州に匐へあがっても風雨はやまない。今後洪水で増水すれば仕方がない合掌して流されて仕舞ふ覚悟をして居った。

時に五時半頃と思った。夕方になって風雨が静まると、半鐘の音がする。村人が河岸に集まって来て呉れた。其時の嬉しさは譬へ様がなかった。川の両岸には篝火が焚かれた。助けて呉れと力あらん限の声をあげると、今助けに行くからと応答があった時、初めて蘇生の思ひがした。

「泳ぎの達人が、鉄橋に大縄を結びつけ、其縄に組って助けに来て呉れた。其方の氏名は忘れたが背におぶさつて又其縄を頼りに鉄橋の下まで越えて梯子で上がり、鉄橋を匐ふて川向に行った。

「時に大田原町より急派した救護医の手によって応急手当を加へられ直に西那須野駅前川島屋に宿をとった。翌日西那須野の高瀬医に罹って頭や顔に這入ってあった小石を取って貫って宇都宮に来た。

「恰度宇都宮停車場に着くと、東京から佐藤博士が来られたので診察を受けた処が軽傷と云う事であった。神野病院は満員なので、県立宇都宮病院に入院した。入院治療中病勢が日増しに重くなって来た。体温が四十度、四十二度と云う状態であるから脳膜炎の罹れがあり、其死線を越えて四十日目で退院した。負傷者中第二番目の重患であって入院期も長かった(以下略)」。

 もうひとつの付録は、なんと「遭難数え歌」である。これも『続・事故の鉄道史』からの引用なのだが、こちらの出典は不明だ。地元の子供たちの間でこういう歌が歌われていたのだろうか。

『遭難数え歌』

一つとせ 一つ新版このたびの
 汽車の転覆大事件 ところは下野箒川

二つとせ 不意に雨風つのりしが
 箒川へとかかる頃 俄かに吹きまく大つむじ

三つとせ 宮の発車は午後の四時
 雨風激しきその中を 矢板の町までつつがなく

四つとせ よもや夢にも誰知らう
 橋にかかれる災難を 汽車も暴風雨ついていく

五つとせ 今は鎖をねじ切りて
 濁流の中へとさかさまに 落ちるや箱は粉微塵

六つとせ 夢中で一時は途方にくれ
 一度は大ぜい声をあげ 助けておくれよ助けてと

七つとせ 嘆く其声天地にひびき
 山も崩れん有様は 此の世からなる地獄なり

八つとせ やっとおよいで陸に出て
 見れば手足のない人や 頭に大傷うけし人

九つとせ これを見るより埼玉の
 職務は巡査で正之氏 川の中へ飛びこんで

十とせ 飛ぶが如くに洪水の
 中をいとわず流れ行く 七、八人を救いける

 ――いかがであろうか。なんという不謹慎な歌だろう!(←お前が言うな)

 それにしても凄い歌である。事故の状況を過不足なく簡潔に伝えている。前掲書がこの事故のルポの冒頭にこの歌を持ってきたのももっともで、とりあえず事故の概要はこの歌を読めば分かるようになっている。

 もっとも、九つとせと十とせの部分が、先に挙げた加藤巡査だけの武勇伝になってしまっているのが気になるところだが……。

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◆ウィキペディア
◆明治32年10月10日付国民新聞『新聞集成明治編年史』第十巻(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)「暴風汽車を宙に釣り上ぐ」

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◆東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)

 西南戦争が終結して間もない、1880(明治10)年10月1日の夜のことである――もはや日本史の教科書に出てくるような時代だ!――現在の兵庫県神戸市、阪神間鉄道の住吉駅東方で上り列車と下り列車が正面衝突、死者3名と重傷者2名の大惨事が発生した。

 これは鉄道の衝突事故としても、また鉄道における死亡事故としても本邦初のものである。ネットで検索すると本稿のタイトルのように「タンコブがひっこんじまったい」と言いたくなるような長ったらしい名称がつけられているが、文献によってはシンプルに住吉事故、などとも呼ばれている。

 まずは、当時の鉄道の様子を簡単に説明しておこう。

 当時は、西南戦争に参加した官軍の兵隊たちが帰還する時期だった。よって鉄道としては、普段よりも多く人員の輸送を行う必要があった。

 そこで、神戸駅からは、各駅停車の「定期列車」とは別に、大阪まで停車せずに一気に走る「臨時列車」が出ていた。今で言う快速や特急のようなものだろう。

 この「定期」と「臨時」の2本の列車が出る際は、いつも臨時が先で定期が後、と決まっていた。なぜなら各駅停車の定期列車に対し、臨時列車は停止なしで突っ走るので、臨時列車が後から追いかけていてはどんどん距離が縮まって追突してしまうからだ。

 そしてこの2本の列車は、大阪に到着すると今度はUターンし、神戸へ戻る。この時には、往路では「臨時列車」だった車両は空っぽになるので「回送」になる。そして神戸からは再び兵隊が乗り込む、という寸法だった。

 また、当時の鉄道はほとんどの路線が単線だった。一本の線路を一本の列車が通過することしかできず、いわば列車はかわりばんこに線路を走るのである。上りと下りの列車がすれ違えるのは駅だけで、しかも今のように信号機もないものだから、一方が駅に入ってくるのを確認してからもう一方は発車するというやり方になっていた(まあ、地方の路線では今でもそんな感じだけどね)。

 さてそれで当時は、神戸-大阪間を「上りの定期列車と臨時列車」と「下りの定期列車と回送列車」がかわりばんこに行きつ戻りつしていたわけだ。

 事故当時は雷を伴った豪雨だったという。そのため、当夜は上りと下りの両列車のいずれも遅れが出ており、臨時列車が大阪駅に到着したのは、本来なら後続の定期列車が到着しているはずの時刻だった。

 つまりこの時点で、上り定期列車はまだ線路を神戸から大阪に向けて走っていたのだ。

 しかし、大阪駅で待機していた上り回送列車の英国人運転士はそこで勘違いしてしまった。大阪駅に到着したのが「遅れた上り臨時列車」ではなく「定刻通りの上り定期列車」だと判断し、列車を出発させてしまったのである。

 それで正面衝突となった。

 その結果、回送列車の英国人機関士と、日本人の火夫(ボイラーの取扱担当者)は死亡し、大阪に向かっていた上り定期列車の日本人車長も即死。定期列車の方に乗っていた英国人機関士は右目を失明する重症を負った。乗客に怪我人がいなかったというのは不幸中の幸いであった。

 遺体の状況は凄惨なものだったという。後年発生した参宮線六軒事故もそうだが、蒸気機関車というやつは、ひとたび事故ると蒸気や熱湯で被害が拡大することがしばしばあるのだ。

 ところで面白いのが、当時の鉄道局長の報告書である。事故の責任は、誤って列車を出発させた英国人機関士にある、と決めてかかっているのはともかくとして、同時に「官軍の連中の乗車マナーがなっておらず、そのせいで時刻表が乱れた。それも事故の原因だ」と憤慨しているのである。ふうん、局長あなたひょっとして士族よりだったの? 

 ただ事故原因について言えば、英国人機関士の責任うんぬんよりも、そもそもなぜ彼が回送列車を発車させてしまったのかが問題であろう。この点について『事故の鉄道史』では、彼は当時、下り臨時列車の存在を完全に忘れていたか、あるいは全く知らされていなかったのではないか――という可能性も示唆されている。

 まあどのみちかなり古い事故で、資料も極めて乏しい。真相は藪の中という外はない。

 ともあれこの事故を教訓として、上り下りの列車がかわりばんこに走るこうした「閉塞路線」では、線路を走る時に必ず運転士が通行証を受け取るというやり方が確立されていったのである。

 この通行証を、いわゆる「タブレット」という。

 しかし人間というのは実に厄介なもので、だから事故が起こらなくなったかというとそんなことは決してないのである。このタブレットをいい加減に扱ったせいで逆に大事故に繋がった例もあり、それは別項の「東北本線・古間木―下田間正面衝突事故」に詳しい。

 西南戦争は、ひとつの時代の完全な終息を示す出来事だった。一方で、同時期に起きたこの衝突事故は、鉄道史のこれ以降の苦難の道のりの幕開けを告げる出来事だったのである。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)

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◆本邦初の鉄道事故は?

 日本で一番最初の鉄道事故はどれか?

 まずは、その問いから始めてみた。近代鉄道事故の夜明け――例えるならば、火災史における白木屋火災のようなケースである。

 ところがどうも話が単純でなかった。ごく普通に事故の歴史を紐解いていけばそのような事例に突き当たるだろう、と最初は高を括っていたのだが、文献によって微妙にニュアンスが違っているのである。

 世界で最初の鉄道事故がなんだったのかは、これははっきりしている。1830年9月15日、英国ランカシャーのパークサイド駅で発生したのがそれだ。よりによってリヴァプール-マンチェスター鉄道の開業当日というめでたい日に、粗忽者の代議士が轢かれて死亡したのである。

 この代議士は、友人に挨拶をしようとして線路を横切ったのだった。どうやら汽車の接近が思いのほか速かったため轢かれてしまったらしい。乗り物といえばせいぜい馬車くらいしかなかった当時、汽車の速度がどれほどのものなのか、多くの人は想像もつかなかったのだろう。 

 では日本の場合はどうか。

 まず、鉄道事故マニア必読の書である『事故の鉄道史』を観てみると、1877年に発生した「東海道線西ノ宮列車正面衝突事故」が「大事故の事始め」だと記してある。

 しかしこれはどうも本邦初の「大事故」あるいは「死亡事故」であって、人が死なない鉄道事故ならその前にも起きていたようだ。それはウィキペディアをちょっと覗けば分かることで、たとえば1874年には「新橋駅構内列車脱線事故」なるものが発生している。ポイントの故障のせいで機関車と貨車が脱線したというもので、これは死者ゼロである。

 だがこれも「脱線事故」というカテゴリーで見れば確かに本邦初と言えるのだが、「鉄道事故」ということでは必ずしも最初のものではないようだ。

 さあそれで、ここで『鉄道・航空事故全史』(災害情報センター・日外アソシエーツ共編 2007年5月刊)を見てみよう。すると、ここでようやくそれらしいものに行き当たる。1872年9月12日、記念すべき鉄道開業式の当日に、線路に入り込んだ見物人が機関車に引かれて指を切断しているのである。なにしろ開業式当日というくらいだから、おそらくこれが本邦初の鉄道事故だろう。

 この時開通したのは横浜-新橋駅間の路線だった。新橋駅ではこの2年後に、上述の「日本発の脱線事故」が起きているわけだ。

 それにしても、死亡事故と傷害事故という違いはあれど、イギリスでも日本でも、開業式当日からいきなり事故が発生しているというのはおかしな符号である。この奇妙な偶然に、これ以降の鉄道史が辿る苦難の歴史がすでに暗示されていたような気すらするのだが、読者の皆様はどうお思いになるだろうか。

【参考資料】
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◆ウィキペディア
◆災害情報センター・日外アソシエーツ編集『鉄道・航空機事故全史―シリーズ災害・事故史〈1〉』(日外選書Fontana シリーズ災害・事故史 1)

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鉄道事故

本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その1
沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その2
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」)
沖縄県営鉄道爆発事故(資料編「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
南海電鉄列車転落事故(1967年)
◆羽越本線脱線事故(2005年・執筆中)

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