◆ラブパレード事故(2010年・ドイツ)

 かつて、ドイツではラブパレード(Love Parade)という野外音楽イベントが毎年開催されていた。なんでドイツなのに英語表記なのか、その理由は不明である。とにかく開催されていた。

 このイベントの歴史を簡単に辿っておこう。最初に行われたのは1989(平成元)年だった。東西ドイツの統一直後、壁が崩壊したばかりのベルリンで、約150人が平和運動の一環としてデモ行進をしたのだ。

 それが、なぜか音楽イベントへと発展していった。毎年開催するたびに参加者数も増えていき、1999(平成11)年には150万人を突破。大音響スピーカーを搭載した大型トレーラー「フロート」数十台と共に、参加者たちはブランデンブルク門から延びる大通りを歌って踊って練り歩く。いつしか、ラブパレードはドイツを代表する観光イベントとなっていた。

 しかし、大規模になればいろいろ問題も出てくる。当初の目的である「平和デモ」という性格が完全に忘れられたのは致し方ないとしても、開催するたびに、毎度毎度膨大な量のゴミを置き土産されるのはベルリン市にとってはたまらなかったようだ。ついに市から開催を拒否られ、スポンサーからの資金援助もストップし、初の開催中止へと追い込まれたのが2004(平成16)年のことだった。

 それでも2007(平成19)年にはまた復活。再開を求める声がよほど多くあったのだろう。今度は、ルール工業地帯のそれぞれの都市が持ち回りで行うことになった。おそらく開催地としては、観光イベントとしての集客効果をあてにしていたところもあったろう。

 だがしかし、またしても2009(平成21)年には中止となった。あまりの人の多さに、現場が対応し切れないということになったのだ。そしてまた復活した翌年の2010(平成22)年に、今回ご紹介する凄惨な事故が起きた。

 ここまでの経緯を、群集事故の観点から見てみると、既になんとなく事故の予兆みたいなものが散見されて興味深い。対応できないほどの参加者の多さ、コロコロ変わる会場、大量のゴミ問題から推測されるモラルの欠如…。これらの課題を完全に制御できないまま、無理を押して開催したことで事故は発生したのである。

   ☆

 さて、2010(平成22)年7月24日のことである。

 この年のラブパレードの会場は、ドイツ西部のデュースブルク市だった。デュッセルドルからほど近い都市で、人口は約50万人。ルール工業地帯の主要都市のひとつである。

 この町の貨物駅の跡地に、廃駅を改造した特設会場が設けられた。会場面積は23万平方メートル。約30万人の収容が可能だった。

 ここで、会場へのメインルートについて簡単に説明しておこう。このルートの構造が事故と深く関係してくるのだ。

 まず、長さ200メートル、幅20メートルのトンネルが東西に延びており、両側に出入口がある。そして、出入りはどちらからでも可能だった。このトンネルを含め、メインルートは完全に歩行者用である。そしてトンネルの中央あたりに、北向きの出口がある。そこから外に出ると「ランプ」と呼ばれる坂道が延びており、それを上ることで会場に出られるという造りだった。

 つまり、T字型の通路を想像してもらうといい。横棒がトンネル、縦棒がランプと呼ばれる坂道である。

 さらに、もうちょっとだけ三次元的に説明しておこう。

 東西に延びているトンネルというのは、実際には地面の下に掘られた「地下道」のようなものだった。よって、そこからランプに出るのは、いわば道路のアンダーパスをくぐって地上へ出るときのような感じである。想像できるだろうか。ポイントは、こうした地形ゆえに、ランプの周辺は壁に挟まれており「逃げ場がなかった」という点である。

 ついでにもうひとつだけ。この「トンネル+ランプ」のメインルートは、会場へ向かう「往路」であると同時に「復路」でもあった。イベントを楽しんだ人々は、もと来たルートを逆戻りして会場を出られるという造りだったのだ(このあたりの構造については、当時の動画で確認すればさらに分かりやすいと思う。検索するとすぐに見つかる)。

 祭典が始まると、さっそく大勢が訪れて出たり入ったりした。最終的な来場者数は、資料から推測するに、だいたい46万人前後だったようだ(※1)。

(※1・もともと主催者は70~80万人の来場を見込んでいたらしい。後日、140万人が来場したと発表されたが、実はそれは三倍に水増ししていたことが判明している。だから割る3で46万人かな、と。)

 最初は大きな混雑もなく、人の流れも順調だった。ところが会場ではフロートの動きが遅く、それに伴って人混みがスムーズに動かなくなってきた。これが16時頃のことである。

 そこで主催者側は一計を案じた。「ランプをいったん閉鎖しよう!」ランプの真ん中には仕切りのフェンスがある。現場で警備にあたっていた警察は、指示を受けてそのフェンスをバタンと閉じた。もう通れない。

 さらに、ランプの手前のトンネルも、東西それぞれの入口を封鎖した。参考資料では「主催者側の係員が閉鎖した」とあるが、当時の動画を観ると、警察か軍隊っぽい制服を着た人たちが通せんぼしている形である。

 つまり、トンネル内部と、ランプの半分ほどまでを完全に封鎖したのである。これにより、T字型のメインルートの中からは、ほとんど人がいなくなったという。

 ……と、ここまで書いておいてなんだが、実はこの「メインルートを封鎖する」ことによって、どうしてそこから人がいなくなるのか、資料を読んでも筆者にはよく分からなかった。出る人だけ出して、新たに人が入らないようにしたということだろうか。

 とりあえず、ここでの要点は「主催者側が勝手に通路を閉鎖して、混雑を解消しようとした」ということである。

 当研究室で、群集事故の項目をいくつか読んだ方は、ここでピンと来るかも知れない。群衆整理の際は、「途中で勝手にルールを変える」のは御法度である。会場が想像以上に混雑したからといって、急に出入り口を封鎖したり、並ぶ場所を変えたり、順路を変更したりすると、群衆というのは意外とあっさり暴徒化するのだ。これは歴史の法則である。

 そして、ラブパレード会場でもそれは起きた。「なんでメインルートを封鎖するんだ!通れないやんけ!」とばかりに、群集がトンネルの東西の入口を突破したのだ。

 資料の内容から察するに、だいたい16時45~50分頃だろうか。閉鎖していた反動で、トンネル内にドドッと人が押し寄せた。そしてトンネルからランプまでの範囲が、急に来場者で膨れ上がったのだ。言わんこっちゃない。

 それでも、この群集がスムーズにランプを通過してくれれば、特に問題は起きないはずだった。ところがこれがうまくいかなかったのだ。

 先述した通り、この時ランプはフェンスによって「閉鎖」されていた。トンネルにはフェンスはなかったので、警備の人を押しのければ通せんぼの突破も簡単だったろうが、ここではそうもいかない。群集はランプ内で立往生となった。

 さらに、ここで混乱に輪をかける出来事が起きた。会場があまりに混雑していたため、早めに帰ろうとする集団がランプに押し寄せたのだ。これについては、会場で早めの退出を呼びかけるようなアナウンスもあったとかなかったとか。

 弥彦神社事故のパターンである。群集の往路と復路が完全に分かたれていなかったため、来場者と退場者の集団が衝突したのだ。

 時刻は17時頃。ランプは、ここからがぎゅうぎゅう詰めの地獄絵図となった。結論を先に言うと、この混雑により21名が死亡、500名以上が負傷している。

 当時現場にいた人の証言。「あちこちに真っ青になった人たちがいました。私のボーイフレンドがあの人たちの体の上に私を引き上げてくれたんです。そうしてくれなければ私たちは2人ともあそこで死んでいたでしょう」

 他の群集事故と比べてちょっと興味深いのは、このラブパレード事故では「事故の瞬間」とも呼べるタイミングがないという点だ。他のケースでは、誰かが転倒したり将棋倒しが発生したりと「その時歴史が動いた」的な瞬間があるものだが、この事故ではそれはない。資料を読んでいると、逃げ場がない空間で群集がもみくちゃになっているうちに、そこここで続々と死人が出たような印象を受ける(※2)。

(※2・当時の日本でのニュース記事を読むと、将棋倒しという言葉が多く使われている。特に日本について言えば、ぎゅうぎゅう詰めの圧死でも群集雪崩でも、とにかく群集事故ならばぜんぶ「将棋倒し」と書くのだろう。)

 ただ、逃げ場が皆無だったわけではない。ランプの横には地上に通じる階段があった。しかしこれも幅が狭くフェンスで閉鎖されており、普通の脱出ルートとしては使えなかった。

 むしろ、この階段のせいで圧死者が増えたとも言える。ランプの混雑がひどくなったことで、多くの人が逃げ道を求めて階段を目指したのだ。このため群集の圧力が偏ったのである。中には電柱や鉄塔をよじ登ったり、地上から引き上げてもらったりした人もいたようだが、それは幸運な例だろう。

 また、現場には転倒を誘発しかねない凹凸もあったとか。将棋倒しのような派手な転倒は起きていないとはいえ、これも事故の発生の一因になったのかも知れない。

 それにしても、こんな状況になって、一体全体主催者や警備の人は何をしていたのだろう? それがよく分からない。たぶんランプのフェンスを開放して混雑を解消しようとか、来る人と帰る人を分けようとか、何か手を打とうとはしたと思うのだが……。

 この、現場の責任者たちが「一体何をしていたのか」は、2018(平成30)年6月現在で不明である。とにかく資料がない。また後述するが、この事故の裁判は最近始まったばかりで、公的な責任追及も端緒についたばかりなのだ。

 さて皮肉なことに、ラブパレードは、この事故が起きた年に初めてネット動画による生中継を実施していた。ライブストリーミングというやつだ。しかし、事件が発覚した18時頃には中継は全て切断され、公式サイトには以下のような文言が表示されたという。

“Our wish to arrange a happy togetherness was overshadowed by the tragic accidents today.”
(幸福な結束をもたらさんとする我々の願いは、今日の悲劇により絶たれた。)

 あわせて、公式サイトでは、参加者の安否を確認するためのホットラインの番号が掲載された。またツイッターでも安否確認の訴えが多く書き込まれたという。

 テレビでもイベントの模様を生中継していたが、事故の発生により、途中からはそのままニュース速報番組になってしまった。この当時の番組も、検索すれば動画で観ることができる。ドイツ語なので何を言っているかはさっぱり分からないが、途中からアナウンサーが神妙な面持ちになっており、事故の発生を報道しているのが何となく分かる。

 イベントそのものは23時まで続けられた。実際には午前0時きっかりに終了する予定だったというから、終了は1時間早まったわけだ。事故当時、すでに会場に入っていた観客には事故の情報は伏せられ、何も知らずに夜まで踊り続けていた人もいたとか。

 「死者が出たのにイベントを続けるとは何事だ!」と憤る向きもありそうだ。だがもしイベントを即座に中止していたら、現場はますます混乱したに違いない。

   ☆

 さて、事故の責任は誰にあるのか。さしあたり「容疑者」と言えるのは、イベントの主催者、警察、デュースブルク市の3者である。それぞれの主張は次の通りだ。

イベント主催者
「警察が悪い! トンネルとランプをちゃんと閉鎖して、混雑を止めるようにお願いしてたじゃないか!」

警察
「俺たちは1,900人を動員してきちんと警備にあたっていた。現場の警備責任は主催者にある。俺たちも、会場の安全については危険が伴うし不安があるっていろいろ意見を出してたじゃないか!」

デュースブルク市の市長
「私は確かにラブパレード開催にはこだわりを持っていた。イベントをキャンセルすべきだという意見があったのも事実だ。しかし私は悪くない! 辞めないぞ!」

 といったあんばいである。

 このままでは埒が開かないとみてか、9月30日には、事故で怪我をした人が訴訟を起こした。主催者に対して損害賠償を求める内容である。ただ実際には賠償そのものは目的ではなく、とにかく責任の所在を明確にせんがためのものだったらしい。

 この訴訟がどのような経緯を辿ったのかは不明である。ともあれ、イベント関係者4名と市の関係者6名が、過失致死と過失致傷で訴追されたのが2014(平成26)年2月のこと。そして、この10名について裁判が始まったのが2017(平成29)年の12月である。ついこの間だ! しかも時効が2020(平成32)年に迫っているというのに、被告は全員が無罪を主張しているというから悩ましい。戦後ドイツでは最大規模の裁判になるだろうとも言われている。

 つまりこのラブパレード事故は、いまだ「歴史」とはなっていないのである。それが、内容をまとめにくくしている一因になっている。実際、事態そのものがまとまっていないのだから仕方ない。

 とはいえ、もはや10年ほど前の、しかも海外での事故である。裁判の結果がどうなっても、それが日本で大きく報じられることはおそらくないだろう。今度も見落とすことなく情報をチェックしていきたい。

 ちなみに、ラブパレードは2011(平成23)年以降は永久に中止となった。主催者側の決定である。

 しかし、このイベントはよほど多くの人を魅了したらしい。ネット上で調べていたら、2012(平成24)年7月に「B-Parade」という名称で復活するとかしないとかいう情報を見つけた。おそらく主催者は別の人なのだろう。ただこれもやけに情報に乏しく、本当に開催されたのか、どれくらい盛り上がったのか、その後も続いているのかどうかは全く不明である。

 とりあえず、「ラブパレードの懲りない面々」くらいのことは言えそうだ。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
サイト「ドイツと日本のまちづくり」
ドイツの音楽イベントで観客多数が転倒、死傷者多数
2010年のラヴパレード圧死事故をめぐって、関係者10名が訴追される
21人の命を奪った”LOVE PARADE”の悲劇に関しての裁判が始まる
「ラブパレードの復活か?」と囁かれているベルリンの「B-Parade」とは一体何なのか
◆ウィキペディア

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◆大阪市東淀川区バス衝突事故(1959年)

 1959(昭和34)年13日に起きた事故である。参考資料ではごくあっさりした内容にまとまっているが、よく考えてみると土浦事故や三河島事故のような事態になっていたかも知れない。

 場所は大阪市東淀川区島頭町、あるいは新庄村という場所である。資料によってちょっと記述がまちまちだ。

 現場になった踏切は、阪急京都線の上新庄駅から北へ100メートルほどの地点にあった。現在は、阪急線そのものが高架化されたので存在していないという。

 さて午後1050分頃、その踏切を一台のバスが通過しようとしていた。江口橋発、大阪駅前行きの市営バスで、運転手は39歳の男性だった。

 この時、踏切の遮断機は上がっていた。それでバスは安心して通過しようとしたのだが、なぜかそこへ梅田行きの下り急行電車がやってきて衝突してしまう。

 惨事はそれだけにとどまらず、間をおかずに、今度は反対方向から上り京都行きの急行電車がやってきた。これもバスと衝突し、バスの方の乗員乗客7名が死亡。電車の方も乗客16名が負傷した。

 さて、一番の問題は「なぜ遮断機が上がっていたのか」である。遮断機さえ下がっていればバスが踏切に進入することもなかったし、事故も起きなかっただろう。

 この踏切は、踏切警手による手作業で上げ下げする仕組みになっていた。で、警手の48歳男性はこう証言した。

「いつも列車の接近を知らせるブザーが鳴っても、電車が来るのが遅い。よってブザーが鳴ってから20秒ほど経ってから遮断機を降ろすようにしていた」。

 それでこの日もいつものようにブザーが鳴ってから約20秒待って、それから開閉機を下げるべく詰所を出たのだった。すると……

「すでにバスが踏切内に進入していた。遮断機を降ろす間もなく列車と衝突した」。

 さらに言えば、この踏切警手は、二度目にバスと衝突した上り列車のことしか頭になかったらしい。

 これだけだとちょっと分かりにくい。なぜ最初にバスと衝突した下り列車のことを失念していたのだろう? 普段から下り列車の存在を忘れていたのだろうか?

 筆者は、最初この事例を読んだ時、三河島事故や土浦事故のように最初の衝突が起きてから列車を停止する措置を取っていれば、衝突は最初の一回だけで済んだのではないか……と考えた。しかし上り・下り両方の列車が踏切に差しかかるまで20秒程度しかなかったのであれば、さすがにそんな余裕もないだろう。

 ほとんど知られていない事故事例だが、結構やばい二重衝突事故である。三河島事故が発生するのは、この三年後のことだ。


【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

◆長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)

 1959(昭和34)年6月5日に起きた事故である。この時期になると本当にツアーバスの事故が多いなあ。時代を感じる。

 事故に遭遇したのは、長野県上高井郡・小布施町の婦人会のメンバーたちだった。300人が5台のバスに分乗していくというかなり大がかりなツアーである。

 彼女たちは長野電鉄の貸し切りバスに乗り、公民館で主催している旅行へ出かけたところだった。行先は大町や松本城だったそうだが、事故ったのが往路だったのか復路だったのかは不明である。まあ事故が起きたのが午前8時15分なので、往路だとは思うが。

 現場は、北安曇郡美麻村千見の県道である。犀川の上流にあたる土尻川へ、一番先頭のバスが落っこちてしまったのだ。

 このバスに乗っていたのは、婦人会員61人とその子供が4人、そしてバスの乗務員が2人という取り合わせだった。18メートル落下し、5人が死亡している。

「原因は、不明です」(by裸のお姉さん)

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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◆岡山県福渡町バス転落事故(1959年)

 1959(昭和34)年5月23日に発生した事故である。

 現場は岡山県久米郡福渡町である。――って実はこれ、参考資料には「岡山の建部でバス転落」とあるのだが、現在の地図で見ると建部とは町であるらしい。実際の事故現場が建部町なのか福渡町なのか、手元の地図だけでは微妙に判別つきかねる。内容的には「現場は福渡町」と書いてあるので、このようなタイトルにさせて頂いた。

 で、さらに詳しく言うと、現場は福渡町の中心である川口という地区である。ここを走る国道で、津山市と真庭郡落合町に分岐する個所があるそうで、そこからさらに300メートルほど南下したあたりの川沿いで事故は起きた。午前11時40分、観光バスが6メートル下の旭川に転落したのである。

 このバスは芸陽バスで出していた2台のうちの1台で、鳥取県の三朝温泉からの帰り道だったという。乗っていたのは広島県竹原市の煙草耕作協会員だった。合計93人が分乗しており、このうち45人が乗った先頭のほうのバスが落っこちたのである。

 現場の道路は道幅が5メートルほどで、トラックとのすれ違いがあったのが運の尽きだった。多分カーブか何かだったのではないだろうか、トラックを避けようとして右へ寄りすぎてしまったのだ。これにより19歳のバスガイドの女性を含む5人が死亡、43人が負傷したのだった。

 てゆうか、人数が合わんのだが。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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◆京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)

 1958(昭和33)年6月10日のことである。

 場所は京都府亀岡市千代川町。国鉄山陰本線の八木~千代川間にある川関踏切で事故は起きた。

 時刻は15時28分。この川関踏切を京都交通の三台のバスが次々に通過しようとしていた。八木町なだけに『三匹のやぎのがらがらどん』を思い出す。

 この三台のバスには、八木町新庄発電所ダムを見学してきた亀岡市立亀岡小学校の五年生269人が分乗しており、当時は帰り道。最初の二台は無事に踏切を通過したが、最後の三台目がタイミングが悪く、渡ろうとした時には警笛が鳴っていたという。

 おそらく先の二台に遅れまいと焦ったのだろう、バスは警笛を無視して無理やり踏切を突っ切ろうとした。

 そこにやってきたのは園部発・京都行きの普通列車である。両者は衝突し、バスは20メートルの距離をズルズルと引きずられて田んぼ(麦畑とも)に転落し大破した。また列車も機関車と炭水車が脱線転覆、さらに客車二両も脱線している。目も当てられない。

 この事故で、バスに乗っていた児童のうち男子1名と女子3名が死亡。38名が重傷を負い、50名以上が軽傷を負った。

 裁判でどのように処理されたのかは不明だが、おそらくバスの運転手がなんらかの形で処分されたのは間違いないだろう。この事故、ウィキペディアでは鉄道事故の項目で紹介されており、そこでは「事故原因はバス運転手の不注意」とあった。そこまで言い切るからには何か根拠があるのだと思う。

 それにしてもバス事故なのか鉄道事故なのか、分類に迷うケースである。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
◆ウィキペディア

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◆和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)

 1958(昭和34)年11日に起きた事故である。あけまして…おめでたくない。

 事故が発生したのが午前1250分という真夜中で、いわゆる初参りのツアーに向かっていた人々が事故に遭遇したのだった。南海電鉄から出ていたこのバスは、「奈良県吉野郡野迫川村の北股」から高野山に向かっていたという。

 そしてこのバスが、「和歌山県伊都郡高野町南の天狗谷」で転落した。当時は霧がひどく、視界は1メートル程度しか利かなかったという。おまけに道路も雨で軟らかくなっており、バスは後部車輪から転落したのだった。さらに言えばこの道路の幅は2メートルで、しかもS字カーブだったという。おそらく難所なのだろう。

 転落した高さも90メートルとすさまじく、バスはこの崖を10回転もしたという。誰かが回転数をわざわざ数えていたのかやや疑問ではあるが、ともあれこの事故で9名が死亡した。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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◆高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)

 高知県の四万十市と土佐清水市の間に、伊豆田トンネルというのがある。これは平成6年に竣工したものだが、それ以前にも旧伊豆田隧道(ずいどう。トンネルのこと)というのがあり、これが閉鎖されたことで新しく掘られたものである。

 そしてさらに、旧伊豆田隧道が掘られる以前には、人々は「伊豆田坂峠」という場所を通っていた。これは今も山道として今も残っているようだが、幅は狭く車が一台通るのがやっとだという。

 1957(昭和32)年6月28日、その伊豆田坂峠で事故が発生した。時刻は午前9時、一台の団体貸し切りバスが転落したのである。

 このバスは足摺岬へ向かう途中だった。それで峠の山道を走っていたところ、背後からトラックが迫ってきて追い越しをかけてきたのだ。

 おいおい危なねえな、こんな道で追い越しかよ。仕方ないちょっと道を空けてやるか――。運転手はそんな風に気を利かせたのかも知れない。しかしこれによってバスは道の端に寄りすぎてしまい、しかも雨のせいで地盤が緩んでいたこともあり転落してしまったのだった。

 結果、5名が死亡。現場には今も地蔵が祀られているという。

 ところで、今回参考にさせてもらったホームページがあるのだが、それによると、この事故が起きた道路は今でも路線バスが走っているのだそうな。驚きである。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
ウェブサイト『高知県の旧トンネル・廃隧道一覧』

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◆神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)

 1958(昭和33)年8月12日のことである。

 場所は神戸市灘区、永手町。国鉄の六甲道駅寄りの八幡踏切というのがあるそうだが、そこを渡ろうとしていたバスが、快速列車と衝突したのである。

 バスは神戸市営のもので、衝突した列車は安土発神戸行きの下り快速列車。列車はバスの後部に衝突し、そしてなんとバスはゴロンと「1回転」して大破したのだった。

 バスが1回転して、元の形にちゃんと着地するのを想像するとちょっと笑っちゃうが、しかし笑ってはいけない。この事故で、バスに乗っていた4人が死亡した。

 筆者の印象なのだが、どうもバス事故の年表を見ていると、この年からやけに踏切での事故が増えている気がする。それまではバス事故と言えば「転落」が主だったし、もちろんそういうのはその後も起きている。だがしかし、以前と比べると明らかに、踏切でバスが事故に遭遇するケースが増加しているのである。

 考えてみれば、この時期はまさに高度成長期まっただ中。貨物の大量高速輸送と過密ダイヤが三河島事故や鶴見事故の遠因になったのと同様に、穏やかなバス運転が鉄道のスピードと合わなくなってきたのではないか。筆者はそんな風に想像しているのだが、いかがであろうか。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
◆ウィキペディア

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◆福井県武生市バス転落事故(1956年)

 1956(昭和31)年9月9日に起きた事故である。

 現場は福井県武生(たけふ)市、春日野町の国道8号線である。春日野トンネルというのがあるらしいが、そのトンネルの北口から武生寄り4キロメートルの地点で惨劇は起きた。午前6時、名古屋観光の観光バスが林に転落したのである。

 転落したその高さは70メートル。乗員乗客43名のうち10名が死亡した。

 この観光バスは、前日の夜に温泉巡りツアーで新岐阜駅を出発したばかりで、乗っていたのは愛知県の刈谷市と碧南市で募った観光客たち。予定では永平寺~片山津温泉というコースを楽しむはずだった。事故に遭遇したのは、全部で9台あったバスのうち6台目だった。

 運転手が操作をミスったのが原因だったようだ。そのミスの理由というのが「朝日がまぶしかったから」というもので、カミュみたいだ。

 ネット上で福井県史を眺めてみたところ、この事故を機として国道の改修要望が高まったのだという。だから、もしかすると事故原因は単純な操作ミスだけではなく、道路状況の悪さなどもあったのかも知れない。

 余談だが、ここまでバス事故の歴史を調べてきて、この武生市の事例に行き当たったところで「おっ?」と感じるものがあった。今までは小規模なバス旅行での事故ばかりで、観光バスが9台も出るほどの規模のバスツアーで事故が起きた事例というのはちょっとなかったと思う。

 戦後11年目で、時代も変わってきたのだろう。車内ギチギチの詰め込み型大量輸送で闇市に出かけるような時代は終わり、人々は観光バスに分乗してツアーに出かけるほどの余裕を手に入れたのだ。そしてこうした輸送状況の変化に対して、地方の道路は整備が追い付いていなかったのではないか。

 福井県ということでいえば、例の新・北陸トンネルの工事が始まるのがこの翌年のことである。田中角栄が総理大臣になるのはもっと先のことだが、「列島改造」という言葉が頭に浮かぶ。

 しかしいくら列島を改造しても、事故災害の根絶は難しい。いや、発生件数自体は明らかに減っているのだが、皮肉なことにハードやソフトが改善されればされるほど、いざ事故が起きてみると想像を絶する大惨事に発展することがある。黒歴史は続くよ、どこまでも。

 今回の事故の舞台になった武生市は、2005(平成17)年に越前市に統合されている。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
『福井市史 年表』

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◆北上川バス転落事故(1955年)

 まずはこの行程を見て頂きたい。

 花巻市出発(朝6時15分)
  ↓
 仙台市
  ↓
 松島見学
  ↓
 塩釜市にて一泊
  ↓
 塩釜市発(早朝)
  ↓
 三陸海岸
  ↓
 花巻へ戻る

 筆者は車を運転して遠出をする習慣というのがないので、一泊二日でこの行程をこなすのが「無理」と言えるのかどうかはよく分からない。

 ただとにかく、1955(昭和30)年という時代の道路状況を考慮すれば、事故の原因がこの「無理な行程」にあったのはほぼ間違いないようだ。

 というわけで、北上バス転落事故である。

 事故を起こした観光バスは、修学旅行の帰り道だった。先述の行程を済ませて花巻へ戻る途中の5月14日午後7時30分頃、小学生たちを乗せた状態で国道4号線から北上川へ転落したのである。

 この時バスに乗っていたのは、岩手県稗貫郡石鳥谷町(現・花巻市)の八日市小学校の6年生たち。北上川の支流・大堰川にかかる飯豊橋から落ちたことで12名が死亡、重軽傷者28名を出した。死亡者のうち4名が生徒たちで、残りは引率や付添の大人たちだった。

 事故の原因は、前からやってきた自転車をバスが避けようとし、それで橋の欄干を突き破ったことだった。まあ運転手のミスなのだが、しかし先述の「無理な行程」のせいで運転手も焦っていたのではないかとも言われている。

 どうも今も昔も、バス事故というのは運転手に過度の負担がかかったせいで引き起こされるパターンが多いようだ。

 この時代は、「修学旅行中の事故」が続発した時期でもあるらしい。有名な紫雲丸事故や、東海道線で起きた東田子の浦の列車火災事故などは、この北上バス事故と前後して3日おきに発生しているから驚く。これもシンクロニシティというやつだろうか。

【参考資料】
◆ウィキペディア

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◆三重県二見町バス転落事故(1954年)

 1954(昭和29)年10月24日に起きたバス事故である。先に書いた佐賀県の嬉野の事故からほんの2週間程度しか経っていない。

 場所は三重県度会(わたらい)郡、二見町の松下池の浦である。地図で調べてみたところ伊勢湾の湾口あたりらしい。

 午後2時10分、一台の三重交通定期バスが鳥羽を出発した。これは宇治山田行で、定員は70人。ところがこの時、車内には81人が乗っていた――。

 また定員オーバーである。

 ここまで多くのバス事故事例をルポってきたが、もう何度めであろう、このパターン。さすがの筆者もいい加減にしろよ~と声を上げたくなってくる。

 さてこのバス、資料によると、どうやら前方を走るオート三輪が邪魔で追い越しをかけたらしい。

 そこでバランスが取れなくなってしまった。追い越しのために右ハンドルを切ったはいいが、そのままバスは一回転して、池の浦の湾内にある入江へ転落したのだ。時刻は午後2時26分であった。

 そして高さは5メートル。これにより、バスの後ろの席の乗客が「下敷き」になった。バス内で他の乗客の下敷きになったのか、それとも外に投げ出されて車両の下敷きになったのかはよく分からないが、とにかくこれによって子供2人を含む13人が死亡したという。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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◆神通川バス転落事故(1956年)

 1956年(昭和31年)7月29日のことである。

 富山県中新川郡・立山町にある上東中学校では臨海学校が計画され、全校210人がバス乗り氷見市の島尾海岸へ向かっていた。

 バスは富山地方鉄道(通称富山地鉄)の貸し切りバスで、生徒と教師は3台に分乗。このうち、最後尾の3台目のものが惨劇に遭遇することになった。

 時刻は午前11時30分。富山市安野屋を流れる神通川を渡ろうとしていた時のことだ。バスの前方を1台の自転車が走っており、これを避けようとしたところ、勢い余って橋の欄干を突き破ってしまった。

 この橋の名は富山大橋。かつてここには木製の大橋がかかっており、それは連隊大橋とか神通新大橋とか呼ばれていた。しかし老朽化のため、昭和初期には鉄筋コンクリート製の橋がかけ直されたのである。

 ところが、である。なんという不運であろう、事故当時のこの橋は欄干だけがまだ木製だった。しかもちょうどこの時は、それを鉄製のものに作り変える工事の最中だったのだ――。

 というわけで、生徒59人と教師3名を乗せたバスは10メートル下の神通川へ転落。15歳の女子生徒2名が死亡し、60名以上が重軽傷を負った(記録によっては3名が死亡したともある)。

 これもまた、昭和30年代に続発した「修学旅行事故」の一種である。

 昭和29年には洞爺丸事故に相模湖遊覧船事故、そして翌年には紫雲丸事故と北上バス転落事故と東田子の浦の列車衝突事故が起きており、そして今回のバス事故が起きた昭和31年には、多数の高校生が巻き込まれた参宮線六軒事故も発生している。

 そういえば、筆者がかつて住んでいた秋田県には奇妙なサービスが存在していた。修学旅行に出かけた子供たちの安否を、テレビ局がニュースで随時知らせるというものだ。まだ学生だった筆者はそれを見て「変なの」としか思わなかったが、今思い出してみると、おそらくこれが原因だったのだろう。昭和30年代というのは、修学旅行も命がけという奇妙な時代だったのである。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
富山市郷土博物館ホームページ

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◆佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)

 1954年(昭和29)年10月7日に起きた事故である。

 現場は佐賀県の嬉野市。当時はまだ「嬉野町」だったようだ。温泉や隠れキリシタンの史跡などでも有名な地域である。

 朝の午前7時15分のことだった。嬉野町大船という場所で、国鉄の不動山線バスが15メートルの崖から転落したのだ。

 バスは、午前7時に皿屋谷駅を出発したばかりで、嬉野へ向かう途中だった。

 転落した原因は不明だが、当時バスには80人が乗っていたという。それでは何かの拍子でバランスが崩れればすぐ倒れるだろうし、また大惨事にもなるだろう。もともとかなり危うい状況だったのだ。

 この事故で13名が死亡した。ほぼ半数の6名が十代の若者だったというから、早朝から車内がぎゅうぎゅう詰めだったのは通学用か何かだったのかも知れない。

 慰霊碑は今もある。参考サイトによると、嬉野温泉から牛ノ岳という場所へバスで向かうと、大船-馬場入口のところで右側に見えてくるという。サイトで写真も見られるが、屋根付きで台座もしっかりした立派な慰霊碑である。

(追記)
 その後、本稿を読んだという読者の方からコメントを頂いた。サイクリングの途中でこの慰霊碑を見つけたという。今も造花が供えられており、大切に扱われていたそうだ。

【参考資料】

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◆愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)

 まず最初にお断りしておくが、これも極めて資料の乏しい事故である。

 愛媛県喜多郡長浜町は、地図で見ると、佐多岬半島から海岸線に沿ってず~っと北西に進んだあたりにある。山々の間を縫うようにして道路が海沿いギリギリを走っているが、事故はここで起きた。

 1956年(昭和31年)1月28日のことである。時刻は夜の8時。保内町という地域から出発した伊予鉄道のバスが、出海―櫛生間の道路を走って北西にある長浜町へ向かっていた。

 この時、伊予灘は時化ていたという。しかもウィキペディアによると、ここの道路は海沿いの断崖絶壁だそうで、事故を起こした路線バスは大荒れの伊予灘を横目に見ながら走っていたわけだ。原因は不明だが、このバスが海へ転落した。

 犠牲者は乗客と運転士と車掌を合わせて10名。もし定員オーバーするほど乗客がいたなら犠牲者はもっと多い気がするので、バス事故の定番である「定員オーバーでバランスを崩して転落」というパターンではなかったのかも知れない。

 その他のバス事故のパターンに当てはめて想像を巡らせてみると、夜間の走行による視界の悪さ、海が時化るほどの悪天候、あるいは道路状況が良くなかったか――そんなことが原因として思い浮かぶ。

 なお、当時の新聞では死者10名となっているが、ウィキペディアでは9名と記録されているのも奇妙だ。いろいろな点が不明なのだが、よく言えば想像力をかき立てられる事例である。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
◆ウィキペディア

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◆千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)

 先に書いた「埼玉県 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)」の項目にて、踏切番という職業をご紹介したが、今回もこの職業にまつわる事故である。

 1951(昭和26)年11月3日の出来事だ。

 場所は千葉県千葉郡二宮町(現在の船橋市)前原。総武線の津田沼~船橋間の東金街道踏切である。

 時刻は午前9時50分。ここを一台のバスが通過しようとしていた時に悲劇は起きた。ちょうどそこに御茶ノ水発、津田沼行き下り国電9100C電車が差しかかり、バスに激突したのである。

 衝突したのは船橋発千葉行きの京成バス(東京のバス会社)で、当時は運転手と車掌を合わせて30人が乗っていたという。この日は休日で天気もよく、子連れの乗客も多くいた。

 この激突の衝撃によりバスは80メートルほど引きずられた。そして10メートルの高さの土堤から転落し、乗客のうち6人が死亡したのだった。

 原因は実に単純な人為的ミスである。当時、この踏切を担当していた32歳の男性が、列車が来るのを完全に失念していたのだ。それで遮断機が上がっていたものだから、バスも安心して通過しようとしたのである。

 参考資料を読んでいると、この男性は「踏切警手」という名称で記述されている。少し調べてみたが、どうも「踏切番」と「踏切警手」は同じものらしいが、しかし踏切番は保線の仕事を引退した人がやっていたはずである(前掲記事参照)。この男性の32歳という若さはどういうことなのだろう。おそらくそれまで「底辺の仕事」だった踏切番の仕事を、若い国鉄の職員あたりが行うことになったのではないかと思うのだがどうか。

 もしこの想像が多少なりとも当たっているとすれば、やはりこのような遮断機操作システムは、当時からすでに無理があったということなのだろう。

 事故災害の記事を書いていると、短期間に類似の事故が集中して起きる「シンクロ事故」現象に出くわすことが多い。今回の事故もその一例である。そしてのようなシンクロ事故が発生する時というのは、社会のなんらかのシステムが、すでに耐用年数を過ぎていることを示している場合がほとんどなのである。

 ちなみに、これはそうしたシンクロ現象とは関係ないと思うが、この事故の起きた日付は既述の愛媛県宇和島バス火災事故と同じである。時刻まで接近しているから驚いてしまう。この日は日本の東と西で、それぞれ凄惨なバス事故が起きていたのだ。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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◆広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)


 広島県安佐郡(現在の安佐町)・飯室村(いむろむら)に存在する幕ノ内峠は、かつては人々にとっての「障壁」だった。

 とにかく道が悪かったらしい。あるのは粗末なただの山道ばかりで、それもカーブが多く交通の便が悪い。人々もこの峠は使わず、周囲の坊地峠や植松峠という場所を使用していたという。

(飯室村という村名と幕ノ内峠という場所の情報が、ちょっと検索した程度だと表示されないので想像で補うしかない部分もあるのだが)

 飯室村の人々にとっては、やり切れない話である。なにせ人が滅多に通らないから文化の交流も発展もない。明治時代になり、文明開化の波がどんどん地方都市に流れ込んできても、この峠の向こうに住んでいた人々はちっともその恩恵に預かれない。幕ノ内峠をなんとかしない限り、峠向こうの集落はいつまで経っても「隔絶された山村」「陸の孤島」「日本の秘境の地位に甘んじるしかなかった。

 当時のことを知る人たちは、幕ノ内峠の存在によって、峠向こうは10年から20年は文明から取り残された、と語ったという。

「よし、道路を整備するぞ!」

 現状に耐えかねた飯室村の村長が、このような声を上げたのが明治8年頃のこと。とにかく一にも二にも道路である。幕ノ内峠の悪路を改善しなければ地域の発展はありえない。村長は付近の集落にも連携を訴えて、山道の整備に乗り出した。

 とはいえ、実現には紆余曲折あったようだ。ブルドーザーもショベルカーもなかった当時のこと、技術的な問題もさることながら、農地を道路にされるのに反対する農民が竹槍で蜂起し反対運動を起こしたこともあったという。いやはや、ちょっとした羽田闘争である。

 そんなこんなで、ようやく幕ノ内峠に道路が作られたのが明治12年。計画を立ち上げてから4年の歳月が経っていた。

 この道路の全長は一里程度、メートルで言えば4,100ほどだったという。たかが4キロ、されど4キロ。全ての工事が人海戦術であった当時の人々にとっては、血と汗が滲む苦労の賜物であったことだろう。

 しかしこの道路も、昭和に入ると使い勝手が悪くなってきた。とにかく道があるぞ、ということで乗用車が通る。中には大型車もあるし、さらに台数も増えれば、これはもうお手製の山道では話にならない。

 そこで次に計画されたのが、峠にトンネルを通す事業であった。ここで、かつて山道を切り開くために協力し合った村々が再び手を携えることになる。村の指導者も代替わりした中、この工事には1億5千万の予算が注ぎ込まれた。

 おそらくこの山道、昭和に入ると単に交通の便が悪いというのみならず、さぞ事故も多発したのではないだろうか。なぜそう言えるのかというと、トンネル開削工事が進められる中で発生したのが今回ご紹介するバス転落事故であり、しかもその事故までの5年の間にも、すでに7件もの交通事故が発生していたからだ。

 バス事故があったのは1953(昭和28)年、8月14日のことだった。事故の規模としては、当研究室でご紹介しているものの中では地味な部類に入るであろう。だがこうした歴史的背景を知って改めて見てみると、その意味の重さを思わずにはいられない。

 時刻は午前12時15分のこと。70人の乗客を乗せた広島電鉄の大型バスが、幕ノ内峠にさしかかった時だ。極めてデリケートなハンドルさばきを必要とする七曲がりの山道の「魔のカーブ」でのことだった。あと400メートルほどで峠を越えるというところで、ハンドル操作のミスによってバスは転落したのである。

 八丁堀発、三段峡行きの予定だったこのバスは35~40メートルの高さの崖下へ転落。しかも、崖下にはトンネル工事の作業小屋があったというからゾッとする話だ。どうやら直撃は免れたようだし、また盆休みのため小屋自体も無人だったのだが、とにかくその点は幸運だった。

 それでも結果は即死者10名、重傷者38名、軽傷者21名という大惨事である。

 ちょうど盆の季節で、乗客のほとんどは帰省のためにバスを利用していた人々だった。現場には周辺地域の消防団員や機動部隊、さらには自動車会社の職員までもが駆け付け、救助活動が行われたという。

 トンネル開通によって「魔のカーブ」の危険性が解消されようとしていた、そんな矢先に起きた実に不運な事故だった。まるで、カーブに潜んでいた悪魔の断末魔のような惨劇だ。

 それでも――というべきか、それでなお、というべきか――幕ノ内峠のトンネル建設は極めて異例のスピードで行われ、ついに1年5カ月という短期間で完成。これが昭和29年12月1日のことで、これにより山道の危険は完全に除去されたのである。

 涙が出るような話である。筆者は「尊い犠牲」という言葉は、安易に使われがちなゆえにあまり好きではないのだが、このトンネル建設はまさしく「尊い犠牲の上に成り立っている」という言葉がふわしいと思う。生き残った者の努力があってこそ、死者は初めて英霊となるのだ。

 これまでにも、筆者は和歌山の事故や熊本の事故など、道路状況の劣悪さによって発生した事故のことをいくつか記述してきた。しかし、それらの事例を通して「垣間見える」という程度でしかなかった近代以降の地方都市の道路事情が、今回の広島の事故を調べたことで、ようやく少し分かった気がする。

「道路」というごくごく当たり前のありふれたものも、こんなにも多くの犠牲の上に成り立っているのである。そのことについて、我々はもっと思いを深くしてもいいと思うのである。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
ウェブサイト『亀山地域のあゆみ』

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◆福井市バス転落事故(1954年)

 時は1954年(昭和29年)1月26日のこと。

 事故が起きた場所は、福井県福井市、和田中町弁天である。

 参考資料によると、この現場は同じく福井県の足羽郡「酒生村」にある「稲津橋」という橋のさらに下流にある地域なのだそうだ。だからどうした、とも思うのだが、とにかくそう書いてあった。その位置関係になんの意味があるのかは不明である。

 朝の午前8時30分頃だった。福井県営のバスが、65人の通勤客を乗せて走行していた。上池田村の稲荷発・福井行きの始発である。

 ところがこのバス、一体なにを急いでいたのか、前方を走っていた車に対して猛然と追い越しをかけた。きっと「ちんたら走ってんじゃねえ!」という感じだったのだろう。だが1月といえばまだまだ冷えも厳しい。道路は9センチほど雪が積もっていた上にマイナスの気温で凍結しており、本当はちんたら走るほうが正解だったのである。バスはたちまちスリップし、ハンドルも利かなくなってしまった。

 さらにこの時の乗客数は65人。定員は42人だったというから無茶な話で、それではひとたびスリップすればブレーキは利きにくくなるだろうし、またバランスを崩せば元に戻れなくなるのも当然である。バスはあっという間に、3メートル下の川だか排水溝だかに落下していった。

 おそらく坂になっている土手で横転する形にでもなったのだろう、1回転半したという。

 死者は11人。中には車掌も含まれていた。

 問題は運転手が何を急いでいたのか、である。だがこの事故はこれ以上の詳細は不明で、とにかく雪道での無茶な追い越しといい定員オーバーの状況といい、「なにかあったんだろうな」と推測するしかない。話によると、当時の乗客の中には、翌日に高校の学力試験を受けるために10名ほどの中学生も乗っていたという。運転手が急いでいたのはそれと関係があるのかも知れないし、ないのかも知れない。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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◆愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)

 愛媛県で発生したバス火災である。

 前に札幌バス火災事故のことを書いたが、そこでは出火の原因は映画のフィルムであった。そして奇遇にも、今回お話しする事故はこれと同年に、しかも同じ原因で起きているのだ。事故史を眺めているとときどき見受けられる「シンクロ事故」である。

 時は1951(昭和26)年11月3日。一台の国鉄バスが、午前8時5分に東宇和島郡野村町を出発した。このバスは喜多郡大洲町へ向かうものだった。

 おそらく途中で乗りこんだ人もいたのだろう、20分後には乗客は62名に上っていた。このバスが具体的にどういう形態のものだったのかは不明だが、62名というのはやはり多すぎである。この事故の死者数が後述するようにべらぼうなものになったのは、そもそも分母が大きすぎたからだろう。

 なぜそんな人数になったかというと、途中で通過する貝吹村という場所で、当時、秋祭りが行われていたのである。よって乗客の中には子供も多くいた。

 まあこれは筆者の想像だが、親たちが「自分と子供を合わせて一人分」くらいの感覚で手を引いて乗りこんだのではないだろうか。これらの要素が、この事故では悲惨な結果を招くことになった。

 さて時刻は午前8時25分頃。この時、バスの運転席のそばには補助バッテリーなるものがあったらしく、それの上に映画フィルム19巻が積まれていた。これが発火したのである。

 発火の原因はなんだったのか、資料からだけだとよく分からない。ちょっと読むと「バッテリーの熱だろうか」とも思うが、補助バッテリーなら普段は使わないから発熱もするまい。もし本当にそうならフィルムは自然発火したことになり、なんかガソリンより危ないんじゃないか、これ。

 この火災の結果、乗っていた62名のうち33名もの人々が死亡した。

 33名という人数は、当研究室の読者ならばもはや大したものには思われないかも知れない。だがよく考えてみると、今だったら新聞の第一面に白抜き文字で掲載されるような大惨事である。しかも多くの子供が死亡し、2歳以下の幼児が6名もいたという。

 なぜ映画フィルムなんぞがバス内にあったかというと、これはもともと貝吹村の秋祭りで上映される予定だったのだ。持ち込んだのは野村町の映画館の映写技師とその助手で、タイトルは「男の花道」10巻と「おどろき一家」8巻、そしてニュース映画が1巻というラインナップだったという。

 まあラインナップはどうでもいいのだが、げにおそろしきはとにもかくにも映画のフィルムである。昔は映画を観るのも命がけだったのだ! 我々はテレビも映画もデジタル式のデータで観賞できるようになった現代社会をもっともっと喜ぶべきなのかも知れない。

【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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◆栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)

 悲惨でない死亡事故などない。

 ――ないのだが、やはり「楽しいはずの○○が一転して惨劇に」というのはより痛ましく聞こえる。だから遊園地の事故などは当研究室でもあまり扱う気になれないのだが(要するにマスコミがどんな文脈で報道するかという問題なのだけれど)、このバス事故もそういう痛ましい事故である。

 時は1951年(昭和26)年10月13日のこと。一台の観光バスが日光へと向かっていた。

 これに乗り込んでいたのは、群馬県碓氷郡秋間村下秋間――現在で言えば群馬県安中市に属する地域――の、婦人会の人々である。ちょうど稲刈りも終わった時期で、収穫祝いのイベントとして旅行中であった。

 これが、栃木県佐野市内に入り、両毛線の佐野-富田間の踏切にさしかかった時に惨劇は起きた。時刻は午前5時45分。走行してきた小山方面行の66列車と衝突し、7名が死亡したのである。

 当時、事故のあったバス車両の中では、乗客の女性たちが歌を歌って旅行を楽しんでいたという。痛ましい限りだ。

 それにしても分からないのは、そもそもなぜバスが踏切に進入したのか、ということだ。早朝だったため運転手が居眠りしていたのか、「列車は来るまい」といういい加減な判断があったのか、あるいは一緒に歌でも歌っていてうっかりしていたのか……。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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◆札幌バス火災事故(1951年)

 1951年(昭和26年)7月26日の出来事である。

 時刻は、昼過ぎの午後1時。札幌発、石狩行きの路線バスの運転席後部にて、突然火災が発生。乗客7人が死亡、32名が重軽傷を負った(資料によっては死亡者12名と書かれているので、後で増えたのかも知れない)。

 このバスは、北海道中央バス会社のものだった。運転手と車掌の他に46名の乗客が乗り込んでおり、札幌駅前の五番館(後の札幌西武)前を発車して30~40メートルほど走ったところで火災になったのだ。

 一体どうして、走行中のバスが突如として火事になったのだろう? 別項の横須賀トレーラー火災事故のように、ガソリンを持ち込んだ者でもいたのだろうか?

 その答えは今から述べる。実は、ここからがちょっとしたトリビアなのだ。

 この火災がこれほどまで大規模なものになったのは、なんと「映画のフィルム」のせいであった。石狩の映画館からの依頼があったとかで、当時、車内には映画フィルムが約20巻乗せられていたのである。

 昔の映画フィルムというのは、ちょっとした拍子に発火・あるいは引火してしまうほど危険な代物だったのである。以前、大日本セルロイド工場火災の項目で「意外な危険物」としてセルロイドをご紹介したが、これもなかなかのものだ。

 この事故で火災を起こしたフィルムは、バスに積まれる直前の約2時間ほど強い日差しにさらされていたという。それで加熱状態になったためフィルムそのものが摩擦熱で発火したか、あるいは何か別のものから引火したのではないかと思われた。

 こうした可燃性フィルム(ナイトレート・フィルム)は1950年代まで世界中で使われていた。おかげさまで、日本でも現像所や映画館ではよく火災が発生しており、例えば照明器具に接触しただけで燃えたという話もある。

 この恐るべき可燃性フィルムは1950年代初頭に生産中止となり、今では日本でも消防法によって危険物第5分類に指定されているという。ちょうど札幌のバス火災が起きた時期というのは、映画フィルムが安全なものに切り替わる過渡期だったのだ。

 もっともこの事故、死傷者が多く出たのはフィルムのせいばかりではない。車両の窓に破損防止の鉄棒が取りつけてあったり、非常時に脱出しにくい構造だったりしたため逃げられなかったという事情もあったようだ。この事故の影響もあったのか、直後にはバスの保安基準の強化も図られている。

 先述した通り、発火の直接の原因は不明である。煙草の不始末やバッテリーのリード線からの引火という可能性もあったようだが、とにかくフィルムの管理が杜撰だったということで乗務員が逮捕された。

 ちなみに同じ1951年(昭和26年)には、愛媛県宇和島でも映画フィルムの発火によるバス事故が発生している。なんとも嫌な偶然だ。

 で、偶然ついでに言えば、あの桜木町火災が発生したのもこの年である。あれも、火災が発生した車両から逃げることができずに大勢の死傷者が出た悲惨な事例で、その意味ではよく似ている。交通機関を利用するのも命懸け、そういう時代だったのだろう。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
日本映画学会会報第7号(2007年2月号)
ウィキペディア「北海道中央バス」

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◆天竜川バス転落事故(1951年)

 1951年(昭和26年)7月15日、午後1時頃のことである。

 場所は静岡県磐田郡浦川町川合の県道だった。一台のバスが道路から20メートル下の天竜川へ転落し、死者21~30名、負傷者4名という大惨事が発生した。

 この事故の経緯は、どことなく後年の飛騨川バス転落事故と似ている。きっかけは悪天候で、国鉄飯田線の浦山-佐久間間の列車が不通になったことだった。浦山で足止めを食ってしまった乗客を、2台のバスに分乗させて運んでいる最中の悲劇だった。

 2台あったうちの国鉄臨時バスのうち、1台が急カーブを曲がり切れなかったのである。しかも地盤が脆くなっていたのも災いし、先述の通り天竜川へ転落。その上当時の天竜川は雨で増水しており、水深も10メートルに達していたというから実に間が悪い。バスはたちまち流され、水没し、ずいぶん長い間行方不明だったそうで、発見されるまでには3年の月を俟たなければならなかった。

 さてこの事故、最初に「死者21~30名」というひどく曖昧な書き方をしたが、それは上記のように事故車両がしばらく発見されなかったこととも無関係ではない。とにかく何もかもが水没してしまったせいで正確な乗客乗員数も犠牲者数もまったく分からず、報道機関はそれぞれ勝手に「推理」を働かせて犠牲者数を報じたのである。

新聞記者「編集長、犠牲者数が分からないっす!」
編集長 「バカお前、当時バスは満員だったんだろ。定員プラス乗員2名てことで37人乗ってたってことじゃないか。生存者は何人だ? 7人? じゃあマイナス7で犠牲者は30人だな」
新聞記者「ええーマジっすか、それでいいんですか? 生存者9名なんて情報もあるっすよ。乗員ふたりも助かったそうですし」
編集長 「だったら死んだのは28人か。いや26人? えいくそ、ややこしいな」

 ――翌日――

新聞記者「編集長、国鉄の発表がありました!」
編集長 「おう、それで正確な犠牲者は何人だ」
新聞記者「死者2名、生存者8人、行方不明15人、乗車未確認10人だそうです!」
編集長 「よしじゃあ決まりだな。やっぱり定員35人ぶんか!」
新聞記者「でも名鉄局の事故対策本部は死者1人、生存者7人、身元不明の行方不明者23人って報告を受けてるそうです」
編集者 「身元不明の行方不明者って、なんか論理的におかしくないか? まあいいや。で、どの発表が正しいんだよ」
新聞記者「分かりません」

 ――翌々日――

編集長 「引っぱるなあ。で、今日の発表ではどうなった?」
新聞記者「国鉄によると死者2名、行方不明19名、行方不明1人だそうです」
編集長 「なんだ昨日とずいぶん変わったな」
新聞記者「警察は死者2名、行方不明26名、行方不明4人って言ってますね」
編集長 「もうどうでもよくなってきたよ」
新聞記者「まったく、マスコミなんていい加減なものっすね!」
編集長 「お前が言うな」

 などというやり取りがあったかどうかは不明だが、けっきょく本ッ当に最終的に収容された遺体は21名分。これは間違いないようだ。そして行方不明者はまあ7名というのが妥当なところらしく、犠牲者は28名ということでここでは「定説」としておこう。

 ついでに言っておくと、行方不明者のうちの2名は、後に発見されたバスの中から見つかっている。

 バスは不明、死者数は不明と、なんとも混沌とした事故である。

 現在は、現場になった道路の脇に「供養之碑」が建てられているという。

【参考資料】
◆各種ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/takeshihayate/14429335.html
http://yama-machi.beblog.jp/sakumab/2008/12/267-1436.html
http://63164201.at.webry.info/200904/article_13.html

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◆大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)

 読者諸君は「踏切番」という職業をご存じだろうか。

 何もかもが機械じかけで動く現代では信じられないような話かも知れない。昔は、交通量の多い踏切には「踏切番」という人がついており、ハンドルのようなものを回して手動で遮断機の上げ下ろしを行っていたのだ。そして白旗を振って列車を通過させるのである。

 そういえばドラえもんの秘密道具で、小さな遮断機のような形態のものがあったように思うが(「通せんぼう」だったか「ふみきりセット」だったか定かでないが)、たしかそれにはハンドルがついていたはずだ。子供の頃それを見て、なぜ遮断機にハンドルがついているのかと奇妙に感じたので覚えているのだが、今にして思えば、あれは「踏切番」がいた頃の遮断機をイメージして描かれたものだったのだろう。

 今回の事故は、その「踏切番」にまつわる事故である。

 時は1950年(昭和25年)12月18日に起きた。時刻は不明である。

 場所は埼玉県大宮市、土呂の原市街道という場所にあった東北線の踏切でのこと。大宮発、原市町行きの東武中型バスがそこを通過しようとしたところ、時速80キロでやってきた列車と衝突したのだ。

 この事故によってバスは200メートルも引きずられ、乗っていた13人が死亡した。当時乗っていたのは運転手と車掌を合わせて15人だったというから、ほとんどが死亡したのだ。情報の少ない事故ではあるが、バスは相当の衝撃を受けたものと思われる。

 衝突した列車は、郡山発上野行き122列車。詳細は分からないが、どうやらくだんの踏切番が遮断機の操作にもたついてしまったらしい。そこへバスがやってきて、遮断機の下り切っていないのをいいことに突っ込んでいった結果、大惨事となったのだ。当時このバスは発着時刻に遅れが出ており、運転手は焦っていたという。

 おそらくこの事故に触発されたのだろう、12月23日の産経新聞の朝刊には「危ない踏切の現状」という記事が掲載された。

 それによると、当時の踏切番というのは、多くの場合、家族と一緒に「踏切小屋」という小屋に住んでいたという。かつて列車の保線の仕事をしていた人が、年を取ってこの職に就くケースが多く「安月給」だった(※)。

(※)参考資料には「踏切番の仕事は安月給で勤続20年でも家族5人で手取り8000円」とあるが、現代の目線から見ると安いのかそうでないのかいまいちよく分からない。まず給与の相場が分からないし、家族全員で働いているのかも不明だし、金額も月給なのか年間手取りなのかが明示されていないからだ。

 また仕事内容も、なかなかの重労働だったと思われる。24時間勤務で2交代制、踏切では列車が近付いてくるとベルが鳴ることになっているが、鳴らないことも多かった。よって実際には立ちっぱなしで、列車が来るかどうかは肉眼で確認していた。

 そして多くの踏切番は、この仕事をしつつ内職も手がけていたという。

 こういう書き方はアレかも知れないが、踏切番というのはいわゆる「底辺の仕事」だったのだろう。

 もっとも現代は現代で、踏切ではなく駅のホームや駐輪場で、人材センターあたりから派遣されてきたと思しき「見張り」の方々をよく見かける。そこらへんは踏切番とはちょっと違うけれど、とにかく駅といい踏切といい、鉄道というのは常になにかしらの「見張り」を必要とするものなのかも知れない。

 いかん、踏切番の話をしていたら、バス事故よりも鉄道事故の話のようになってしまったな。

【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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◆物部川バス転落事故(1950年)

 1950年(昭和25年)11月7日のことだ。

 時刻は午後6時50分。場所は高知県香美郡美良布町、橋川野という地域である。国道195号線を走っていた国鉄バスが64メートル下の物部川に転落したのである。

 64メートルとは、また物凄い高さだ。

 これでタダで済むわけがない。33人が死亡、25人が重傷を負い、4人が軽傷を負う大惨事となった。遺体の引き上げや救助の作業もロープを用いざるを得ず、大変難航した模様である。

 事故原因はなんだったのかというと、これがまたトンでもない話で、よりにもよって「酒酔い運転」だったのである。事故当日は現場から西にある山田町で秋祭りが行われており、それで21歳の運転手も酒をかっくらっており、直前にはジグザグ運転を繰り返していたというから恐ろしい。乗客の中には、身の危険を感じて途中下車した者もいた。

「なんて運転手だ! いくら祭りでも飲酒運転するなんて!」

 とまあ、多くの人が思われるだろうが、どうも悪いのはこの若い運転手ばかりではないらしい。この事故が起きた大栃線というバス路線では、祭りに限らず飲酒運転が常態化していたようなのだ。

 事故当日も例外ではなかった。事故を起こした土佐山田駅~在所村間の路線の運転手は、全員もれなくアルコールが入っていたのである。「11月は秋祭り~で酒が飲めるぞ~♪」というわけだ。

 いつ誰が事故を起こしてもおかしくない状況だったのである。現に、運転手の酩酊ぶりがあまりにひどかったため1本遅らせてバスに乗ったところ、この度の転落事故に遭遇してしまった――という不運な乗客もいた。

 さらに、当時のバス内も尋常な状況ではなかった。このバスは高知市の官公庁や通勤者も多く利用しており、それに加えて当時は祭りの客もいたものだから車内は超満員、乗客数も限界の2倍を超えていたというからまるで買出し列車である。ちょっとでもバランスを崩せば一巻の終わりという状態だったのだ。

 こうやって当時の状況を見てみると、事故を起こした21歳の運転手は「ババを引いた」形だったということが分かる。

 事故後、彼は「発車の少し前にコップ1杯ほどの酒を呑んだだけで、日ごろ腕に自信があったので運転したが、こんな結果になって申し訳ない」と謝罪したという。これだけ読むと若気の至りという印象を受けるが、真相が分かってみると哀れと言うほかはない。

 地図を見ると、祭りが行われていた山田町からバスの終着点である大栃までは、物部川と国道はぴったりと並行している。乗車率200パーセントのバスが飲酒運転でこんな道路を走っていたのだから、これはまったく恐ろしいお祭りである。

 さてバスが走った国道195号線の脇の山腹には宝珠寺という寺があり、事故後にここの住職が現場付近に供養塔を建てている。ちょっとネットで検索すると写真を見ることができるが、地蔵菩薩と一緒に並んだなかなか立派なものだ。

 記録上は「忘れられた事故」ではあるが、限られた地域内でも、こうして地道に事故の記憶が受け継がれているのは喜ばしいことである。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆個人ブログ記事『重大バス事故の歴史』
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
◆高知県香美市『広報かみ』平成22年12月号
◆個人サイト『高知県香美市香北町お宮、お寺、お堂をめぐる』

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◆横須賀トレーラーバス火災(1950年)

 1950(昭和25)年4月14日のことである。

 場所は神奈川県横須賀市。もっと詳しく書くと、横須賀市林5丁目11番地の国道134号線でこの事故は発生した。午前11時30分頃、走行中の大型バスがいきなり火を噴いたのだ。

 このバスは京浜急行が運行する「トレーラーバス」と呼ばれる乗り物で、横須賀駅を出発して京急三崎口へ向かっていたところだった。火災発生時の乗客は50人ほどで、うち16~17人が即死した。『横須賀市史』では19人とも記述されているらしく、おそらく後で死者が増えたのだろう。

 生存者の証言から、出火原因はすぐに判明した。時代を感じる話で、乗客の一人が闇売りの目的でガソリン缶を持ち込んでいたのだ。これに、別の乗客がポイ捨てしたタバコが引火したのだった。

 当初、ガソリン缶には「こも」がかぶせてあった。また車内はなんとなくガソリン臭かったという。これに引火し、持ち主は慌てて缶を窓の外に捨てようとしたが、うまくいかず床へ落ちた。悪いことに車内は木造で、火炎はすぐに飛散した。

 当時、客車には車掌がいたし、運転席に連絡するためのブザーも設置されていた。しかし、半ば想像になるが、ガソリンによる火災となると火の回りもあっという間で、車掌も乗客もブザーを押す余裕がなかったのではないだろうか。運転手は火災に気付かず、火の車になったバスはしばらく街の中を走り続けていたという。

 通報を受けた警察、消防団、そして進駐軍が現場に駆けつけた。出火したバスはこの時すでに消し墨状態で、焼死者はもはや男女の区別も判然としなかったという。負傷者は、病院や交番や付近の民家に担ぎ込まれて治療を受けた。そして冒頭に書いた通りの犠牲者数となったのだった。

 ここまで被害が大きくなったのは、当時の交通・輸送の事情と、それにトレーラーバスそのものの構造にもその原因があった。

 ここで改めて「トレーラーバス」について解説しよう。あまり興味がないという方は、あとはすっ飛ばして本稿の最後の三段落だけ読んでいただければOKである。

 そもそもトレーラーバスとは何なのか。これは、運転席である先頭車両と荷台の部分が切り離せるようになっているタイプの「貨物牽引車両」の一種である。

 貨物牽引車両の具体例としては、セミトレーラーを想像してもらうと一番分かりやすいだろう。現在の日本の公道でも普通に走っている、運転席後ろの荷台部分に貨物を乗せて走るあのでっかい車だ。トレーラーバスもああいう感じで、先頭の運転車両が、車輪付きの客車や荷台をゴロゴロと引っぱって進むという乗り物だったのだ。

 今、筆者の手元には当時のトレーラーバスの写真がある。なるほど、犬の頭のようなボンネットトラック形状のトラクターヘッドが、電車の車両にしか見えない巨大な箱型の客車(トレーラー)部分を牽引しており、なかなかユニークな形である。

 現代の目線で見れば、ずいぶん変わった形態である。なんでこのようなバスが運行されていたのだろうか?

 終戦直後は、いかにスピーディに大量輸送を行うかが最重要課題だった。なにせ戦争により国土は荒廃し切っている。交通機関も同様だ。復興のためには少ない車両や船舶で多くの人や物を運搬しなければならないのに、戦時中の酷使と整備不良のため乗り物は何もかもボロボロで、しかも占領軍による物資統制のため修理もままならない。このような状況下で、バス製造業界は「大型化」という形で課題に応えたのだった。

 さっそく開発に乗り出したのが日野産業(現・日野自動車)である。当時の大久保正二社長が、アメリカ軍のトレーラートラックを見て閃いたそうで、旧日本陸軍が装甲車で使っていた「統制型」水冷6気筒ディーゼルエンジンとその改良型エンジンを流用し、トレーラートラックT10/T20型を開発したのだ。

 さらに、それをベースに1947(昭和22)年の秋頃には富士産業(現・SUBARU)がトレーラーバス製造を始めた。エンジン以外にも、軍用車両の部品がいろいろ使われたようだ。

 大量輸送時代のニーズに応える切り札の登場である。全長14m、出力115hp、100人乗り。輸送力は当時の一般的なバスの約三倍で、国鉄バス以外にも東京都や大阪、仙台、京都など主要都市の市交通局、さらには東急や小田急、京王、京阪、近鉄、西鉄などの鉄道系バス事業者がどんどん採用していった。

 トレーラーバスは、戦後の象徴と呼ばれてもおかしくない勢いでたちまち普及し、通勤通学客の大量輸送手段として全国で活用された。でかぶつの割に小回りが利くのも良かったし、フルエアブレーキのおかげで扱いやすく、巻き込み事故防止のため左ハンドルだったという。

 しかし、今回ご紹介した火災事故では、トレーラーバスの構造的欠陥が被害を大きくする結果になった。先述した通り、このバスは運転席にあたる車両が客車を牽引するスタイルで、両車は完全に分離している。よって、客車でトラブルがあっても運転手は気付きにくいのだ。火災発生後も、しばらくバスの運転が続いていたのはこのためである。

 その後、トレーラーバスは急速にその姿を消していった。歴史的には、単体型バス(運転席と客席が一緒の車両にある、今の形態に近いバス)の大型化が進んだことで、あまりにも特殊な造りだったトレーラーバスは次第に持て余されるようになった……と説明されているが、今回ご紹介した事故も間違いなく遠因の一つだっただろう。

 それでもしばらく需要自体はあったようで、1956(昭和31)年頃までは運用されていたらしい。10年という活動期間は長いんだか短いんだかよく分からないが、とにかくトレーラーバスは時代の徒花だったのだろう、記録もあまり残っていないという(補足になるが、今も西東京バスではトレーラーバスが運行しているらしい)。

 とはいえ、バスによる大量輸送をいかに効率よくこなすか……という課題は、時代を越えて今も引き継がれている。筆者も最近まで知らなかったのだが、令和の現代には「連節バス」というものがあるそうな。二台の車体が繋がることで倍の収容力を持つバスのことで、主要都市での運用が増えているという。これなんかは、トレーラーバスの子孫と言ってもいい気がする。

 また、ご紹介したこの火災事故は、関係法令の改正のきっかけにもなった。まずガソリン類を始めとする危険物を車内に持ち込むことが禁止され、さらに乗車定員が29人以上のバスには非常口の設置が義務付けられたのだ。この非常口は、今もバスに乗ると普通に見かける。

 しかし、その後も、バス内で危険物に引火して大事故に至るケースは後を絶たなかった。現在のように、人々が当たり前のように安全にバスを利用できるようになるには、もう少し時間が必要だった。

 現場には、事故発生から四か月後に「殉難者供養塔」が建てられた。バスを運行していた京浜急行の関係者が、今も慰霊法要に訪れるという。

【参考資料】
◆鈴木文彦『日本のバス年代記』グランプリ出版(1999年)
◆社団法人日本バス協会『バス事業100年史』(2008年)
◆佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◆ウェブサイト『乗りものニュース』「戦後復興を支えた「トレーラーバス」なぜ消えたのか 小回り抜群 100人乗っても大丈夫!」
◆ウェブサイト『知の冒険』
◆ウェブサイト『三浦半島へ行こう!』
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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◆熊本県松江村バス転落事故(1950年)

 1950年(昭和25年)2月11日のことである。

 事故が起きたのは、熊本県飽託郡松江村要江の梅洞堤という場所だった。

 この「梅洞堤」というのは、かつて熊本に存在した古い地名らしい。今では飽託郡そのものが熊本市に編入されたので完全に埋もれた形だが、とにかく当時は確かにそういう地区があったようだ。

 時刻は9時20分。この梅洞堤のカーブを、1台のバスが通過しようとしていた。

 このバスは九州産業交通というところで出しているもので、同県の玉名郡高瀬町を出発して熊本へ向かっているところだった。

 ただ実を言うと、このバス会社名も新聞によって諸説あるという。ある新聞では「熊本交通バス」とされているらしい。ただ「九州産業交通」と書いてある共同通信では転落したバスの写真が添付されるほど詳細な記事だったし、朝日でも同様の記述があることから、参考資料ではそちらが採用されている。よって当研究室もそれに準ずることにする。

 このバスの定員は35名。ところが当時は60名も乗車していた。詳しい資料がないので不明だが、なんだろう? 通勤ラッシュの時間帯でもないのにこんなにぎゅうぎゅう詰めだったというのは、何か理由がありそうだ。まあ今から見ると驚くほど交通が不便だった時代である。本数の希少なバスに大勢が乗り込むこともあったかも知れない。

 だがとにかく、このぎゅうぎゅう詰めが仇になった。定員をオーバーしまくっていたためバスは動揺し、ゆらゆらり。おいおいなんか危ないぞ、このバス大丈夫か?

 大丈夫ではなかった。乗客のものだろうか、当時のバス内には荷物が積まれていたらしく、これが運転手の腕に当たりハンドル操作を誤ってしまったのだ。

 そしてその場所が最初に述べたカーブだった上に、前夜の雨で地盤が緩んでいたから「ワッチャ~♪」である。13メートル下にあった養魚池へ転落、どつぼにはまってさあ大変。運転手や車掌ら22人が死亡、4人が重傷、27人が軽傷を負うという大惨事になったのだった。

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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◆和歌山県中辺路バス転落事故(1947年)

 事故の内容はとても単純である。

 1947年(昭和22年)6月28日、朝の7時10分。1台のバスが走行していたところ、道路で山崩れが起きていたのだ。前日は雨が降っており、それで山の地盤が緩んだものらしい。

 で、それを避けようとハンドルを切ったところ、滑って50メートル下の川へドボーン。5人が死亡した。

 面倒臭いのはここからである。一体この事故の発生地点がどこなのか、正確なところが不明なのだ。

 事故を起こしたバスは、和歌山県西牟婁郡(むろのこおり、とか、むるぐん、と読むらしい)近野村を出発した省営バスだった。そして当時の新聞では、事故が起きたのは「二川村高原の川合」とあるのだが、これは現在の「田辺市中辺路町高原」か「田辺市中辺路町川合」のどちらかを指すらしい。

 で、どっちなんだよ、という話である。

 どうも新聞記事を書いた人物は、高原と川合がごっちゃになっていたようだ。昔の新聞は、記者同士の電話による伝言ゲームや伝書鳩でもって情報をやり取りするしか手段がなく、このように地方ニュースに関しては情報がめちゃくちゃになることが珍しくなかったのである。

 手掛かりになりそうなのは、バスが出発した「近野村」と、それからバスが落下した「富田川」という名前の川である。近野村は現在の「田辺市中辺路町近露」であり、そこからとにかく富田川に隣接するような道路を走っていて転落したわけだから、地図を見るとその道路は国道311号線である可能性が高い。そしてこの311号線が通っているのは川合の方である。

 というわけでこの事故が起きたのは、「田辺市中辺路町川合」の国道と思われる。しかし慰霊碑があるという情報も特に見つからず、これ以上の詳細は不明である(※)。

 ちなみに事故が起きた道路はこの1週間前に開通したばかりで、しかもやはり昭和20年代には別のバス事故も起きており死傷者も出ているのである。どんだけ道路状況悪かったんだよと言いたくなる。どこに行っても当たり前のように舗装道路を走行できる今の時代がいかにありがたいものか、考えさせられる事例であろう。

 バス事故の歴史をざっと眺めていると、「道路状況の劣悪さ」「定員オーバー」「可燃物の出火」「運転手の疲労」などいくつかのパターンに分類することが可能なように思われる。

【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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◆北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)

 襟裳岬からみて、国道336号線を北西へ走っていくと、海沿いに平宇という地域がある。

 北海道様似郡様似町平宇――。

 今回ご紹介するのは、この町で発生した事故である。終戦直前のタイミングだったため、おそらく中央ではほとんど報じられることのなかった「知られざるバス事故」だ。

   ☆

 1945(昭和20)年3月21日のことである。

 お昼を少し過ぎた頃、一台のバスが、北海道様似村(現在の様似町)平宇の国道・省営自動車日勝線を走行していた。

 このバスは当時の鉄道省が運営していた、いわゆる省営バスである。営業が始まったのは昭和18年8月1日と、ついこの間だった。

 終点は、幌泉村の庶野という地域だ。地図で言えば、様似村から襟裳岬の北側を横断するルートである。

 さて、このバスの状態が問題だった。定員29名のところに、乗客乗員合わせて48人が乗り込んでいたのだ。完全に定員オーバーの鮨詰め状態で、まずはここからしてアブない雰囲気である。

 こんな乗車率になったのには理由があった。バスの運行時刻に遅れが出ていたのだ。

 少し詳しく書くと、もともとは、幌泉からの上りバスが本様似まで来て折り返して、それで下り便となり、幌泉行き日勝線旅客第5便に切り替わるというのが本来のダイヤだった。だがこれに遅れが出てしまったため、下りバスが急遽手配されたのである。この下りバスが途中で上りと出くわせば、乗客に乗り換えてもらうという手筈だったそうな。

 ではその上りバスの「遅れ」はなぜ生じたかというと、その原因は戦時中ゆえの物資不足にあった。当時はろくな燃料がなく、ガソリンよりもはるかに馬力の劣る「ガス」でバスを動かしていたのである。

 それでも、ガスボンベでも搭載していれば少しはさまになったかも知れない。ところがこの当時のここいらのバスは、車両後部で薪を焚き、そのガスで走行するという代物だったのである。いわゆる代用燃料車だ。

 この代用燃料車の馬力のなさといったらもう笑ってしまうほどで、バス会社の開業初日からしてトラックで牽引しながらエンジンをかけたほどだったという。また坂道では乗客が押すこともあったとかで、これではダイヤに遅れを出すなというほうが無理な話だ。

 とことん、モノが不足していた時代だったのだ。燃料の問題はさておいても、バスそのものも故障続きだったというから、こういっちゃなんだがもともと不良品というか粗悪品だったのだろう。

 このような事情もあって、ようやく準備された下りの代行バスに、待ちかねた乗客たちは我先にと乗り込んだのだった。人々の中には、出征兵の送別客も大勢いたという。

 これだけでも、いつ大事故が起きてもおかしくない状況である。だが問題は他にもあった。当時このバスには、当研究室の読者ならば「あ~あ」といいたくなるようなブツが搭載されていたのだ。

 そのブツとは、映画のフィルムである。

 どうもこの頃のバスは、こうした物品の運搬も請け負っていたらしいのだ。当時のことを知る方の話によると、法律で決まっていたかどうかは不明だが、限られた物品をバスで運ぶことは確かにあったという(また戦後の一時期も、手荷物程度のものならば切符を切って運搬することもあったそうだ)。

 そして、これは「こち亀」でも描かれていたことがあるが、戦前から戦後にかけて使用されていた映画のフィルムというのは、発火しやすい危険な素材でできていたのである。これの発火による事故事例は、当研究室でもいくつかご紹介してきた。

 このとき運搬されていたのは、35ミリフィルムが18巻。浦河大黒座から、幌泉の松川座へと運ばれる予定だった。

 フィルムは、平素は運転手の左横の位置に積まれ運ばれていた。だがこの日は先述の通り大勢の人がドッと乗ってきたため余裕がない。そこでこんなやり取りがなされた。

 駅の係員Tさんは言う。
「車掌さん、フィルムの積み込みをお願いしたいんですけど~」

 だが車掌のSさんはそれどろじゃない。
「あーもう忙しくて余裕ないよ! 運転手に積んでもらって!」

 この二人は女性で、しかもどちらも19歳という若さだった。物資どころか、みんな出征して人材も不足していたのだろう。
        
 一方、運転手は20歳の男性である。上位職なので「何やってんだ早く持ってこい」と声を荒げたか、あるいは女性二人の困っている様子に「オオ、どらどらもってこい持って来い」と様似弁で引き受けてくれたか……。

 ともあれ、運転席側の窓を通して、フィルムは受け取られた。そして積まれたのが運転席右横のバッテリーの上だった。

「なんでそんなところにバッテリーが?」

 その疑問はもっともである。そう、バッテリーは普通ならそんな場所にはない。このバスにおいても、本来ならば床下にあるべきものだった。だが当時は度重なる故障と修理のため、たまたまそこに裸で置かれていたのだ。

 また、フィルムの状況もよくなかった。普段は麻布袋で梱包されるところが、この時は映画ポスターでくるまれ、荒縄で十文字に縛られただけだったという。つまり熱を通しやすい状態でバッテリーの上に置かれてしまったのだ。

 この時の措置について、救出された車掌は後になって「先に新聞を積めばよかった」と回顧したという。「フィルムが安全な所に置かれたのを確認しないで『発車願います』と言って出発させた私が一番悪かった」――。

 こうしてバスは出発し、惨劇が起きたのは平宇を過ぎたあたりでのことだった。おそらく爆発音だろう、「大きな音」と同時に、フィルムが入れられていたブリキ缶が吹き飛んだのだ。梱包していた紙も燃え出した。

 わわわわ、こいつは大変だ! ――運転手は、慌ててフィルムを外へ投げ出そうとした。手掴みでやろうとしたのか、そのへんは不明だが、とにかくバスをきちんと停止させる余裕もなかったのだろう。ハンドルを取られてバスは横転、国道の築堤からはみ出すと、1メートルほどの高さを海浜に落下した。

 車内に乗客の悲鳴が響き渡る。さらに、横転のため脱出が困難になっていた車内では、発火したフィルムが蛇のように飛び散った。一部の乗客は衣服に着火し、たちまち煙が充満。この世の地獄である。

 鉄道事故の項目で安治川口ガソリンカー火災を紹介したが、あれと似た状況である。あのケースも、車両の横転に火災が加わったため大惨事になったのだ。

 事故を最初に発見し、通報したのは近くで遊んでいた子供たちだった。石蹴りをして遊んでいたところ、バスが黒煙を上げて燃えていたのだ。

 ただちに大人たちが駆け付け、救助活動が行われた。

 ちなみに、この事故の情報を筆者に提供して下さったIさんという方がおられるのだが、その奥様が当時現場にいたという。小学3年生で、第一発見者の子供たちの一人だった。救助活動の修羅場の中で立ち竦んでいたのを今でもご記憶されているそうだ。

 また、当時やはり子供だったIさんご自身も、病院での惨状を目の当たりにしている。そこは現場から4~5キロ離れた本様似の病院で、怪我人たちがかつぎ込まれていたのだった。その時の状況について、せっかくなのでメールで頂いた言葉をそのまま引用させていただく(文法的なところでちょっとだけ修正した)。

「太田、高田両病院の待合室、廊下はおろか玄関口まで30人の重傷者があふれ、爪や髪の毛の焼ける臭い、焼け焦げた衣服、熱さと痛さに耐えられず震え、痙攣を起こし、体を折り曲げてうめき声を発している阿鼻叫喚の惨状を記憶しております。」

 悲惨極まりない。たくさんのバス事故を紹介していると、事故事例それぞれの個別の悲惨さについてつい忘れがちだが、それを改めて自覚させてくれるような証言である。

 最初に火災に気付き、フィルムを投げ捨てようとした運転手も、ひどい火傷を負った。彼はそれでいながらも乗客の救助にあたり、翌日に亡くなっている。

 最終的には17名が死亡、13名が負傷した。国鉄の年表によっては死者13名と記録されているのもあるそうだが、これは死者が増える過程での数字だったか、あるいは負傷者数と間違えたか。

 さて、気になるのは補償である。

 一応、事故直後にはそれなりに支払われている。内訳は札幌鉄道管理局から50円、浦河駅長の名で20円、退院時の付き添い料が400円というものだった(被害者たちに一律に支払われたのかどうかは不明)。

 またさらに、それでは納得いかないと、10年後の昭和30年に被害者の一人が補償交渉を行っている。しかし国鉄様似自動車区に乗り込んだはいいものの「水掛け論」に終わってしまい、追い払われる形になってしまったとか。

 事故の情報をご提供下さったIさんも、またその周囲におられるという関係者の皆さんも、裁判が行われたという記憶はないそうである。

   ☆

 冒頭に書いた通り、筆者はこの事故のことをまったく知らなかった。中央の新聞で報道されていなかったためだ。

 だが一切報じられなかったわけでもない。Iさんから頂いた情報によれば、当時の北海道新聞の昭和20年3月23日付の記事で、「様似、幌泉間で満員自動車顚覆死傷者30名」という見出しで以下のように報じられているという。

「(札鉄局発表)21日12時50分省営自動車日勝線旅客第5便様似より幌泉方面に運転中車内に発火し急拠制動手配したるも右方にそれ高さ1メートルの築堤から海浜に横転し即死3名負傷者27名を出せリ、運転手は負傷したるも付近の部落民と協力救出につとめたるのち目下危篤状態にあり、原因取調中」

 記事にはさらに「5名死亡」という小見出しがあり、「右事故による重傷者は様似村太田、高田両病院に収容手当て中である死者次の如し」そしてその5名の住所と氏名が続いているという。

 よって、地元では知られているのだろう。「北海道の平宇でこういう事故があったよ」とIさんから指摘を頂いたのだった。これがなければ、筆者は永久にこの事故を知らなかったかも知れない。

 Iさんによると、赤旗新聞の付録として発行されていた「様似民報」に、この事故のドキュメントが連載されていたのだという。

 これは森勇二という郷土史研究家がまとめたもので、連載は1985(昭和60)年3月から2年に渡っていた。Iさんは図書館でそれを確認しながら当時の記憶を解きほぐし、筆者へ情報を提供して下さったのだった。

 ご協力頂いたIさんには、この場を借りて御礼申し上げたい。少しでも、事故の記憶の風化防止に役立てば幸いである。

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◆バス事故年表(参考)

 今では「バス」と呼ばれているあの乗り物は、かつて「乗合自動車」と呼ばれていた。また東京の市営バスも「円太郎」という名称だったことがあるという。

 さすがに「円太郎」ではその名称だけでバス事故のカテゴリーからはみ出してしまい、調べるのが難しそうだが……。

 「乗合自動車」という表記でのバス事故は、最も古いものでは大正時代まで遡ることが可能なようだ。ただしそれは人身事故で、それ以降になると昭和3年くらいのものに行き当たる(ただし未確認)。

 以下に掲げる年表では、報道されたものとしてはっきり確認されたものを記してある。細かく整理したわけではないので、年代の表記がごちゃごちゃしているが、ご勘弁頂きたい。いずれ段階を踏んで修正する予定である。

 おそらくバス事故というカテゴリーでこのようにまとめているのは当研究室が最初だと思われるので、筆者自身もこの年表を参考にしながら執筆していくつもりである。

【戦前】
1932年(昭和7年)1月3日
大軌(現在の近鉄)と奈良自動車バスの踏切衝突事故。死者15人

昭和8年4月23日
宮崎でバスと日豊本線衝突で7人死亡

1937年(昭和12年)7月12日
福島で常磐線と定期バスとの衝突事故で死者9人

1937年(昭和12年)10月18日
島根の坂本峠で省営バスの転落事故で死者11人

昭和15年5月26日
山梨の大月でバス転落、5人死亡

1942年(昭和17年)3月21日
兵庫で山陽本線と神姫バスの衝突事故で死者11人
 ※ただし詳細な記録は大手新聞にはなし

1942年(昭和17年)3月27日
宮崎の高岡で省営バスの転落事故で死者5人

1942年(昭和17年)9月7日
神奈川の川崎で東急(いまの京急)と京浜バスの衝突事故で死者9人
 
1942年(昭和17年)10月23日
東京の杉並区で帝都線(現在の京王)と日本無線のバスの衝突事故で死者5人

1943年(昭和18年)12月13日
新潟で信越線と中越バスの衝突事故で死者5人
 
1943年(昭和18年)12月14日
宮崎で日の丸バスの転落事故で死者7人
   
昭和19年4月7日
山梨の早川でバス転落、16人死亡
http://www.yy-net.org/blog/01099/blog/archive/2009/06/252046162220.html
(慰霊碑があるようだが、事故の仔細については不明)
 
昭和19年9月13日
山形の鶴岡でバスと羽越線衝突、7人死亡

1944年(昭和19年)9月30日
愛媛で宇和島自動車バスの転落事故で死者4人

【戦後】
昭和22年6月28日
和歌山の中辺路で省営バス転落、5人死亡

昭和24年5月7日
広島の加計でバス転落、12人死亡

昭和24年11月13日
仙台でバス転落、3人死亡

昭和25年1月4日
長野で犀川にバス転落し4人死亡

昭和25年2月11日
熊本の松尾でバスが池に転落、22人死亡

昭和25年4月14日
神奈川の横須賀でバス火災、17人死亡

昭和25年11月7日
物部川事故、33人死亡

昭和25年12月18日
埼玉の大宮でバス踏切事故、13人死亡

昭和26年7月15日
天竜川事故、28人死亡?

昭和26年7月26日
札幌でバス火災、7人死亡

昭和26年10月13日
栃木の佐野でバス踏切事故、7人死亡

昭和26年11月3日
愛媛の宇和島でバス火災、33人死亡

昭和26年11月3日(上と同日)
千葉の船橋でバス踏切事故、6人死亡

昭和28年8月14日
広島の安佐でバス転落、10人死亡

昭和29年1月26日
福井でバス転落、11人死亡

昭和29年10月7日
佐賀の嬉野でバス転落、14人死亡

昭和29年10月24日
三重の二見で海にバス転落、13人死亡

昭和30年5月14日
北上川事故、12人死亡

昭和31年1月28日
愛媛の長浜で海にバス転落、10人死亡

昭和31年9月9日
福井の武生でバス転落、10人死亡

昭和32年6月28日
高知の中村でバス転落、5人死亡

昭和33年6月10日
京都の亀岡でバス踏切事故、4人死亡

昭和33年8月12日
神戸でバス踏切事故、4人死亡

昭和34年1月1日
和歌山の高野でバス転落、9人死亡

昭和34年1月3日
大阪の新庄でバス踏切事故、7人死亡

昭和34年5月23日
岡山の建部でバス転落、5人死亡

昭和34年6月5日
長野の安曇野でバス転落、5人死亡

昭和34年12月2日
仙台でバス転落、4人死亡

昭和35年7月24日
比叡山でバス衝突転落、28人死亡

昭和35年12月2日
横浜でバス踏切事故、8人死亡

昭和35年12月12日
岡山の真庭でバス踏切事故、10人死亡

昭和35年12月26日
長野の松本でバス転落、4人死亡

昭和36年11月5日
京都の向日町でバス踏切事故、7人死亡

昭和37年10月17日
北海道の渡島で海にバス転落、14人死亡

昭和38年5月13日
岡山の久米で川にバス転落、5人死亡

長崎の北松浦でバス転落、9人死亡

昭和39年1月15日
岡山の倉敷でバス転落、4人死亡

昭和39年3月22日
奈良の高田でバス転落、9人死亡

昭和39年9月22日
長野の佐久でバス転落、6人死亡

昭和40年3月2日
和歌山の新宮で川にバス転落、8人死亡

昭和40年12月21日
栃木の日光で湖にバス転落、5人死亡
福岡の大牟田でバス踏切事故、5人死亡

昭和42年4月29日
新潟の長岡でバスとトラック衝突、6人死亡

昭和42年6月18日
富山の八尾でバス転落、7人死亡

昭和43年5月15日
山梨の韮崎でバスとトラック衝突、6人死亡

昭和43年7月14日
兵庫の姫路でバス踏切事故、7人死亡

昭和43年8月18日
飛騨川事故、104人死亡

昭和44年3月19日
岡山の玉野で池にバス転落、9人死亡

昭和45年8月29日
徳島の勝浦で川にバス転落、5人死亡

昭和45年11月3日
岐阜の高根でダムにバス転落、10人死亡

昭和47年8月9日
岐阜の揖斐でバス転落、10人死亡

昭和47年9月23日
長野の黒姫で川にバス転落、15人死亡

昭和47年11月25日
静岡の東伊豆でバス転落、6人死亡

昭和48年10月10日
岩手の江刺でバスとダンプ衝突、9人死亡

昭和49年3月7日
福島の三島でバス転落、8人死亡

昭和50年1月1日
スキー客送迎バスが長野県大町市近くの青木湖に転落、24人死亡、15人重軽傷(青木湖バス転落事故)

1977年(昭和52年)7月6日
長野県中野市岩井の国道で定期バスと乗用車が衝突、バスが3メートル下の草原に転落、68人重軽傷

昭和52年8月11日
山梨県甲府市の昇仙峡で観光バスが転落、10~11人死亡、35人重軽傷

昭和53年1月14日
静岡の湯ヶ島で地震によりバスに落石、4人死亡

昭和54年10月5日
北海道の深川でバス転落、6人死亡

昭和55年8月19日
新宿駅バス放火、6人死亡

1981年(昭和56年)10月19日
千葉県野田市の国道で通園バスにトラックが衝突、園児2人が死亡、10人が重軽傷

1982年(昭和57年)10月2日
静岡県駿東郡小山町の町道でセンターラインを越えた乗用車が対向のマイクロバスに正面衝突、2人死亡、14人負傷

昭和58年6月5日
岡山県上房郡の県道で兵庫県の老人会員16人が乗ったマイクロバスが約55メートル下の谷底に転落、5人死亡、12人が重軽傷

1983年(昭和58年)8月6日
群馬県群馬榛名町の国道406号で、マイクロバスと乗用車が正面衝突、1人死亡、20人が重軽傷

1983年(昭和58年)11月10日
山形県大蔵村の県道で旅館の送迎用マイクロバスが転落、酒田市の老人クラブ会員2人が死亡、23人が重軽傷

1984年(昭和59年)10月18日
群馬県伊香保町の県道で、東京都品川区の観光バスが道路わきの土手に衝突。車内旅行の会社員ら26人が怪我。

昭和60年1月28日
笹平ダム事故、25人死亡

【参考資料】
ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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◆玄倉川水難事故(1999年)

 1999(平成11年)8月14日。お盆休みのこの時期、神奈川県山北町の玄倉川で発生した事故である。

 神奈川県西部の丹沢山系には、深く削られた谷が多い。そこを流れる玄倉川は普段は流れも緩やか、かつ穏やかなものである。よってアウトドア大好きのキャンパーたちにも人気のスポットなのだが、しかしこの川には、知る人ぞ知るもうひとつの人格があった。ひとたび大雨になれば、たちまち増水し鬼のような激流に変わるのだ。

 その日の朝、神奈川県は豪雨に見舞われていた。前夜から接近してきていた低気圧の影響である。午前5時35分には、大雨・洪水注意報もいよいよ警報に切り替わった。

 そんな中、消防署に救助要請が入ったのが、午前8時4分のことである。内容はこのようなものだった。

「山北町、玄倉第一発電所先約100メートルの中州に、大人12人、子ども6人が取り残されています。孤立していて、徒歩では出られない状態です。お願いします」

 そら、来たよ! 消防隊員たちはさっそく準備を整え始めた。彼らは今日、こういう要請が必ずあるだろうと予測していた。レジャーブームの影響で、毎年この季節になると、やれ山から下りられなくなっただの、やれ川や海から脱出できなくなっただのとという事故が多発するのである。

 実際、昨夜の時点でも、すでに一件そうした救助事案があった。そしてその帰り道に、隊員たちは、キャンプ指定区域から外れた河川敷にいくつものテントが張られているのを目撃している。キャンピングカーもあった。いつ事故が起きてもおかしくない状況だったのだ。

 さあ出動である。大人12人に子供6人とは、また大所帯だ。やれやれこいつは面倒そうだな――などと思いながら救助工作車を走らせ、消防隊員たちは現場に向かった。

 外はとんでもない豪雨だった。今朝はいったん穏やかになったとみえた天候が、またしても荒れてきたのだ。途中で通りかかった橋などは冠水していたという。

 やがて隊員たちは現場に到着したのだが、そこで彼らは想像を絶する光景を目撃することになった。目の前にあったのは、見たことも聞いたこともないような状況だった。

 増水した玄倉川では、水が音を立てて流れていた。濁流、激流、奔流といった言葉が似合いそうな凄まじい勢いだ。そしてなんと、そのド真ん中で、総勢18人が水に流されまいと必死に踏ん張っていたのだった。大人の男女、子供、それに幼児もいる。

 どうやら、彼らは川の中州でテントを張ってキャンプをしていたらしい。そこで水かさが増し、身動きが取れなくなってしまったのだ。

 昔のギャグでいえば「じょ~だんじゃないよ~」である。シンプルではあるが最悪の事態だ。こんな濁流の中に飛び込んで救助を行うなんて無茶に決まっている。しかし、遭難者がなまじ手の届きそうな距離にいるだけに、「火勢がすごくて救助は突入は無理です」とも言っていられない。

 さあ、それではどうやって助けるか?

 のび太だったらきっとここで「ドラえもんヘリコプターで吊り上げてよ~」と泣きつくところかも知れない。だがそれは論外である。こんな大雨と雨雲と強風の中でヘリを出したら、たちまち二次災害だよのび太くん。だから、当時のテレビの報道映像でも上空から撮ったものは残っていないんだよのび太くん。

 では天候が回復するまで待つか? いやいや、そんな悠長なことも言っていられない。そこで次に出たアイデアは「梯子車を使う」というものだった。

 ただ、どうも筆者には想像がつかないのだが、この状況で梯子車でどう救助するのだろう? 吊り上げるのか、それとも梯子を水平に伸ばすという意味だったのだろうか? だがどのみち、それも却下された。現場周辺は路肩が弱く、救助用の車両が乗り入れるのは極めて困難だった。

 残る手段は、川の対岸へロープを張るというものだった。「救命索発射銃」という、これまたひみつ道具みたいな名前の器具で、救助用のリードロープを撃ち出すのだ。

 だがそのためには、隊員があらかじめ対岸へ回り込まねばならない。これが時間を食った。対岸へ回り込むための道はなく、隊員たちは豪雨の山の中、道なき道を探してさまよい歩く羽目になった。

 待っている隊員にとっては、これが非常に辛い時間となった。

「おいこら消防、なにやってんだ! 早く助けてやれよ!」

 心ない人たちもいるものだ。現場を見守っていた他のキャンパーたちは、黙って見てりゃいいのに、隊員たちに罵声を浴びせ始めたのだ。

 もっとも実際には、消防もこの間、完全に手をこまねいていたわけではない。隊員が対岸に到着するまでの間に、川に飛び込んでの直接救助を試みてもいる。だが激流には勝てず、転倒につぐ転倒を繰り返してあえなく断念したのだった。

 この様子を見て、見物人たちもさすがに黙りこんだという。

 その間に、ようやく対岸に隊員が到着した。

「よし準備万端整った、リードロープ発射!」

 しかし、一発目は対岸の樹木に引っかかって失敗。

「たいちょ~、なにやってんすか~」
「う、うむ今のは練習だ練習! 次、本番いくぞ!」

 だが残念ながら、二発目は一発目のロープにからまってしまった。それでも一応、張ることはできたようなのだが、これは水圧のために遭難者たちには届かなかったという(※注1)。

 さて、結論を先取りして言ってしまうと、ここから悲劇の瞬間までほとんど秒読み段階となるのだが、実はそこに至るまでの間がよく分からない。

 リードロープの発射は10時30分に開始されたという。だが、遭難者全員が力尽きて濁流に飲まれたのが11時38分のことである。ずいぶん時間が空いている。ロープの発射作業でそこまで時間がかかったのだろうか。

 『なぜ、人のために命を賭けるのか』という本によると――当研究室で「ザ・誤字脱字」と呼んでいる資料文献なのだが――最後に三発目のロープ発射があったことになっている。それが本当ならば時間がかかるのもむべなるかなだが、ただこの文献はたまにウソが書かれているので油断がならないのである。

 まあ細かいことはいいや。とにかく、結果は前述の通りである。11時38分、18人は力尽きて流された。

 当時、現場にはマスコミも押しかけていた。そのため、流される瞬間はテレビで全国中継された。

 だがまだ終わりではない。ちゃんと一命を取り留めた者もいる。まず、1歳の幼児が、流された直後に救助されている。さらに他にも大人3人と子供1人が奇蹟的に対岸に流れ着き、後に救助されたのだった。生存者はこの5人にとどまった。

 残りの13人はそのまま行方不明に。やっと全員分の遺体が見つかったのは、事故発生からほぼ2週間後の8月29日のことだった。

(※注1 ウィキペディアによると、この二本目のロープは「水圧と流木に妨げられて届かなかった」とある。だが参考文献『なぜ、人のために命を賭けるのか』によると、純粋に水圧でロープが切れたとされている。この本には、二本目のロープが一本目のロープに絡まったという失敗談は書かれていない)

   ☆

 この事故、誰が一番悪いのかというと、まあやっぱり犠牲となった当人たちであろう。死者を鞭打つつもりはないが、だがやはり事故発生までの経過を見ると、彼らが死なずに済むチャンスがいくらでもあったことが分かるのである。

 8月13日の午後から、現場付近には低気圧が近づいてきていた。さらに夕方には注意報が発令され、夜には土砂降りの大雨となった。

 犠牲になったキャンパーたちは、この時、もう玄倉川の中州でテントを張っていたのである。もともと、川の中州でキャンプをするというのはその道の人間にとっては禁忌行為だ。その上この夜は、上流のダム管理事務所の職員や警察官などが、水かさが増したら危険だぞと3回ほど警告をしていたのである。にもかかわらず、彼らは判断を誤りそこに留まった。

 現場の中州には、他にもキャンパーたちがいたようだ。だがこの時の警告によって、ほとんどが退避したし、また犠牲者グループの中でも、賢明な3名がそこで避難している。彼らは近くの車の中で一夜を過ごした。

 上流の玄倉ダムに貯水機能はない。よって、降雨量があまりに増せば放水しなければならない。だから管理事務所でも夕方以降に「水を流すぞ~」とサイレンを何度も鳴らし、実際に放流したのだが、それでも中州のキャンパーたちはどこ吹く風。水かさが少し増した程度なら平気の平左、であった。

 そして運命の8月14日。

 この日も、早朝の段階では問題がなかったようだ。

 7時30分頃までの間には、水かさも膝下くらいだったらしい。先に避難したメンバーや警察官が、それぞれ川に入ってテントの様子を確認に来ている。

 だがこの後、状況は一変した。上流の玄倉ダムではまた放流を始めていたし、天候も見る間に本格的な豪雨へと変わっていったのだ。水位はどんどん上がり、ついに8時には移動不可能となった。119番通報したのは、先に避難していたメンバーの男性だった。

   ☆

 ちなみに、この事故で救出活動を行った消防の面々は、当初は凄まじいバッシングを受けたという。電話での非難のみならず、テレビの評論家が余計なことを言ったせいですっかり悪者扱い。13人もの人々を見殺しにした役立たず、と罵られた。

 ところが、ある時を境にそれが180度変わった。

 事故が起きる前、警告に応じて避難した男性がいたのは先述の通りだ。その男性が、テレビでキャンパー側の非を認める証言をしたのである。そして同時に、消防や警官たちの当時の動きについても説明したため、消防の面々は今度はあちこちから称賛されたのだった。

 当時の消防関係者の一人は、この状況について「マスコミの威力を知り、マスコミの力で助かった」と述べたという。

 で、一方でこの事故の記録をネット上で調べていると、今度は犠牲になったキャンパーたちを「DQN」扱いする言説にけっこう行き当たる。DQNとはネット用語で「社会常識のない人たち」を指すそうな(テレビ番組『目撃ドキュン!』にそういう若者がよく出ていたため、ドキュン、をDQNともじって使うようになったらしい)。

 まあ、この辺りのエピソードは余談と考えて頂いて結構である。

 とりあえず余談ついでに筆者が思うのは、匿名性と感情に任せてあれこれ言うのは控えようよ……ということである。事故はいつだって、テレビの画面やネット上で起きているのではない。現場で起きているのだ。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社(2004)

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◆七里ヶ浜『真白き富士の根』ボート遭難事故(1910年)

  『真白き富士の根(もしくは嶺)』という曲がある。メロディーだけならば、耳にしたことがある人も多いだろう。今回ご紹介するのは、この元ネタとなった事故である。

 時は1910(明治43)年123日。惨劇は、12名の子供たちがボートに乗り込んで海に出たところから始まる。

 この12名というのは、神奈川県逗子開成中学校の生徒11名と、それに小学生1名という面子だった。彼らは「ギグ」と呼ばれる7人乗りの船を学校に無許可で持ち出し、ドウショウ(海鴨)撃ちをするべく出航したのだ。目指すは江の島である。

 海に出る直前には、地元の消防士が心配して声をかけている。

「おいお前たち、なにやってるんだ! 子供たちだけで危ないだろ!」

 ところがやんちゃ小僧たちは平気の平左。天気は明朗で波も高くないからと出発したのだが、おそらく沖で突風にあおられたのだろう、ボートは転覆して全員が海に投げ出されてしまった。

 当時の天候は穏やかだった。だが、彼らが遭難したと言われる七里ヶ浜の行合川の沖あたりは気象が変わりやすく、突風も吹きやすい場所だったのだ。

 彼らの遭難が判明したのは15時頃のことである。遭難した少年の一人が漁船に救い上げられたのだ。

 彼の体は冷え切っており、焚き火で暖めながら水を吐かせて人工呼吸を施した。だが彼は言葉を発することなくただ海のほうを指差すばかりで、それでようやく遭難が発覚したのだった。

 さっそく学校、警察、それに漁師たちが総出で残りの少年たちの捜索にあたった。この捜索活動には、学校の要請を受けて二隻の駆逐艦までもが出動した。トラブルに「軍」が出動するなどというとまるで外国の話のようだが、かつては日本でもそんな時代があったのだ。

 だが残念ながら、最初に救助された少年も含めて全員が帰らぬ人となった。遺体が全て発見されたのは、事故発生から四日後のことだった。

 この年の26日には、中学校で追悼の式典が営まれた。式典の際、冒頭で挙げた歌が鎮魂歌として披露されたという。

 もう少し詳しく解説すると、この歌はもともとは讃美歌だった。それに歌詞がつけられて『七里ヶ浜の哀歌』という鎮魂歌になり、しまいにはレコードまで売り出されるに至ったのだ。『真白き富士の根』というタイトルは、後年にこの事故を題材にして造られた映画の題名でもある。

 その後、1931(昭和6)年には七里ヶ浜の海岸に木製の供養塔が建てられたが、一度は朽ち果てた。

 そしてその後、有志によって新たに記念像が建てられたのが1964(昭和39)年のこと。この記念像の台座には以下のような文言が記されているという。

 みぞれまじりの氷雨が降りしきるこの七里ヶ浜の沖合いでボート箱根号に乗った逗子開成中学校の生徒ら十二名が遭難転覆したのは一九一〇年(明治四十三年)一月二十三日のひるさがりのことでした。

 前途有望な少年達のこの悲劇的な最期は当時世間をさわがせましたがその遺体が発見されるにおよんでさらに世の人々を感動させたのは彼らの死にのぞんだ時の人間愛でした

 友は友をかばい合い、兄は弟をその小脇にしっかりと抱きかかえたままの姿で収容されたからなのです

 死にのぞんでもなお友を愛しはらからをいつくしむその友愛と犠牲の精神は生きとし生けるものの理想の姿ではないでしょうか

 この像は「真白き富士の嶺」の歌詞とともに永久にその美しく尊い人間愛の精神を賞美するために建立したものです
改行等は筆者による)

 今の時代から見るとだいぶ時代がかった文体だが、当時の人々がこの事故をどのように受け止めていたかが読み取れる。「兄は弟をその小脇にしっかりと抱きかかえたまま」云々というのも本当のことで、遺体となって発見された少年たちの中には、弟を抱きかかえたままの格好の者がいたりして当時の人々の涙を誘ったのだ。

 こうした事柄のインパクトもあってか、この事故については「記念物」が実に多い。先述した記念像もそうだし、『真白き富士の根』もそうだろう。また開成中学校の敷地には1963年に「ボート遭難碑」なるものが建てられている。

     

 ただ、この事故は若者の暴走事故のようなもので、今の時代から見るとあまり同情の余地がないように感じられる。悲劇的な事故の話が美談にすり替わっているように感じるのは、おそらく筆者だけではないだろう。

 なぜ当時、犠牲者の少年たちはここまで英霊のごとく扱われたのだろうか。このあたりは、その頃の時代の空気に関する歴史感覚がないと、ちょっと理解しにくい。正直、筆者も完全には想像がつかない。

 歴史の話になるが、この疑問を考えるうえでヒントになると思われるのは、明治時代から戦前までの日本人の深層心理には、常に不安や哀しみが付きまとっていたのではないかという見方である。批評家の小浜逸郎は『日本の七大思想家』の中で、以下のような観点を打ち出している。

  後知恵的な言い方になるが、日本人の深層心理の中には、もともと、日本が後発近代国家であったこと、内政面での矛盾を未解決にしたまま、常に背伸びしながら近代化を進めたこと、開国に踏み切った後、西洋からも他のアジア諸国からも乖離した一小国家であることを深く自己発見せざるをえなかったこと、ナショナリズムの健全な発展の前に、国際的孤立を招くような性急な心拍数で軍事に偏向したナショナリズムを形成しなければならなかったこと、これらにまつわる深い哀しみが「予感」されていたのだ。

小浜逸郎『日本の七大思想家』 より

  この傍証として、有名な日本の軍歌は、ほとんどが士気を高める効果よりも「死」を予感させる哀調を帯びたものが多い、と小浜は述べている。

 こうした考え方がどこまで正鵠を射ているのかは分からないが、この論考を読んだ時、筆者はなるほどと思った。ならば、いわば暴走事故の形で命を落とした少年たちが英霊のごとく扱われたのは、哀しみを哀しみのままで終わらせまいとする時代の空気が作用したのかも知れない、と考えた。


【参考資料】
◆ウィキペディア
逗子開成中学校・高等学校ホームページ「真白き富士の根(連載)」

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◆夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)

 前代未聞のケースである。炭鉱内の火災を消し止めるため、坑内に取り残された安否不明の人々を「見殺し」にする形で水を流し込んだのだ。

   ☆

 1975(昭和50)年に出炭が始まった、北海道の夕張新炭鉱はまさに鳴り物入りの炭鉱だった。

 石油危機を背景に、エネルギー政策上の起死回生を狙って国も援助を注ぎ込んだのである。いわゆる「ビルド炭鉱」だ。最新の設備と規模の大きさは、斜陽化が進んでいた石炭産業にとっても、また夕張市にとっても大きな期待を寄せるに充分なものだった。

 国内最後の、最有望炭鉱――。そんな風に呼ばれもしたものの、労働環境は劣悪だった。夕張北炭鉱の坑内はもともと断層が多く、さらに地圧も高いので坑道の悪化が早い。さらに高温多湿で、気温が常に36度以上、湿度が100パーセント以上という地点も数多くあったという。

 よって脱水症状で倒れる者が頻発した。結果、生産はいつまで経っても計画を上回らない。しかし会社側は早く掘れ、もっと掘れと急き立てる。まあよくある悪循環である。目標である「年産2千万トン体制の維持」に貢献できなければ援助しないよ、という国の脅しもあったというから、会社側も必死だった。

 こうした利益優先、人命軽視の傾向の中で起きた事故である。経過を見ていくことにしよう。

 1981(昭和56)年10月16日、昼の12時40分頃である。昼休み時だった集中監視室で警報ブザーが鳴った。炭鉱内でガス漏れが発生したのだ。ここで言うガスとは、メタンガスのことである。

「北五盤下だ!」
「連絡を急げ、何人いる!?」

 のんびりしていた監視室が、瞬時に緊張に包まれる。

 北五盤下というのは、「北部第五区域」の地表約千メートルの地点を指す。そこからは来年1月より出炭する予定で、95人の作業員が7箇所に分かれて掘進作業に当たっているところだった。

 当時、坑内で作業をしていた電気係員の男性は以下のように証言している。彼は現場から少し離れた場所にいた。

「最初、耳鳴りがしたのでおかしいと思っていたら約5分後、太鼓のような音と地響きが数回続いた。排気側に逃げようとしたら炭塵が吹き付けてきたので、そばにあった救急バルブの中に頭を突っ込み、新鮮な空気を吸いながらガスの薄まるのを待った。

「午後3時過ぎ、ガスが晴れたようなので、仲間16人と斜坑から自力で脱出した。救急バルブは通常一人用だが、3、4人が一緒に頭を突っ込むなど、生きた心地がしなかった」

 坑道では、メタンガスは壁面の目に見えない程の小さな割れ目から突然噴き出してくるという。炭鉱夫たちはその前兆として、坑内に大きな音が響き渡るのを「やま鳴り」と呼んでいた。

 30年前の事故である。坑内と外を繋ぐ連絡手段は無線だけという、今の時代から見れば驚くほど不便な通信状況だった。炭塵で顔を真っ黒にした作業員達がエレベーターで地上に避難して来るたびに、安否確認のために集っていた家族達はどっと駆け寄ったという。

 だが同時に、タンカに乗せられ毛布をかけられた遺体も次々に運び出されてきた。

 監視室からは、坑内の全箇所に避難命令を発令。会社側では直ちに救護隊を出動させ、負傷者の救出に当たり始めた。

 最初のガス噴出から約10時間後たった午後10時20分の時点では、作業員160名中77人が脱出し、32人の遺体が収容されている。坑内にはまだ行方不明者、生存者、死傷者、救護隊の面々が残っていた。

 だが――

「坑内に煙が出た!」

 これが、坑内に残っていた救護隊員の最後の言葉となった。ガスに引火し火災が発生したのだ。

 この炭鉱では、機械の電気については保安対策上の対策が施されていたから、引火の原因は静電気であろうと言われている。直前まで生存が確認されていた15人も、救護隊10名も、ここで無線が途絶えたことで完全に安否不明になった。

 この後はもう、どうしようもなかった。坑内ではガス濃度や温度は上昇するわ、新たな小爆発は起きるわ、煙は噴き出してくるわで、まともな消火活動や救出活動などとても考えられないような状況に陥ったのだ。

 そんな中、会社側はさり気なく方針を「救助」から「鎮火」の優先へと切り替え、坑道への通気を遮断する作戦に出た。だがこれも大した効果はなく、鎮火のためには坑内へ水を注ぎ込む他に方法はないように思われた。

 実は会社側の社長は、かなり早い段階で「あまり手が付けられないなら水を入れることも考えている」と発言していたため、被害者家族の怒りを買っていたところだった。だがこうなってくると「注水作戦」もいよいよ現実味を帯びてくる。

 想像するだに憂鬱な話である。注水を許可する同意書にハンコをもらうため、会社の人々は家一件一件を回った。「注水を許可する同意書」とは言っても要するにそれは「見殺し許可証」みたいなもので、未だに家族が安否不明のままの人々にとってはたまったものではない。ひと悶着もふた悶着もあって、ようやく注水の段取りは整った。

 10月23日、午後1時半。サイレンが鳴り響く中、坑内への注水は開始された。雷鳴とみぞれの中での注水作業だったという。

 前夜の豪雨で夕張川の水は汚れており、赤茶けた水が海面下800メートルの炭鉱に注ぎ込まれて行く。1分間サイレンが鳴り響く中、夕張市とその周辺の住民達は、大人から子供までが黙祷を捧げた。

 この時、坑内に取り残されていた安否不明者は59人。注水と排水を交互に行った後、遺体がようやく全て回収されたのは、事故発生から163日後の1982(昭和57)年3月28日のことだった。死者数93人。日本の炭鉱事故としては史上3番目の規模である。

 注水という決断を下した当時の社長は、その後手首を切って自殺を図った。一命は取りとめたものの、その後人知れず退社したという。

   ☆

 ガス突出の直接の原因ははっきり分からないが、恐らくガス層を発破で破壊してしまったためだろうと言われている。当時の夕張は天気の変化も目まぐるしく、急激な気圧の変化でガスが出やすかったようだ。会社は平素からガス抜きの作業を怠って採掘を優先させていたというから、これは起きるべくして起きた大惨事だったと言えそうである。

 なんにせよ会社側への責任追及は免れ得ない。全ての遺族に対して弔慰金を払い、さらに裁判では原告側と和解したものの、和解金も払うことになった。

 だが刑事でも民事でも、会社側がそれ以上の責任を問われることはなかった。民事は今書いた通り和解に漕ぎ着けているし、刑事でも84年には証拠不十分で業務上過失致死傷の適用はならず、と結論づけられている。

 最終的に、夕張新炭鉱は閉山した。最後の遺体が回収されてからおよそ半年後の82年10月のことである。この鉱山を管理運営していた「北炭」は、その前には会社更生法を申請していたが、95年には管理していたほかの炭鉱も全て閉山となり倒産している。

 だがこの事故は、いち鉱山会社が人命軽視と利益優先のために引き起こした単純な事故、とは言い切れないところがある。

 普段からガス抜きの作業を行っていれば事故は未然に防げた――というのは事実その通りだと思うのだが、ガス抜きの穴を開ける1本のボーリング費用でも数千万円から一億円はかかるという。保安対策と採算性のバランスをどう保てばいいのかは極めて難しい問題であっただろう。しかし国は無駄をなくせ合理化を図れ、採算が合わなければもうお金貸さないよ、と迫ってくるのである。

 そう、問題は国の政策である。

 事故が起きる直前には、国は制度融資として200億円以上を貸し付けることを決めていたという。だがこの頃は国の政策も「脱石炭」へと舵切りがなされていた時代でもあった。事故後、最初は「再建可能」と見なされていた夕張新炭鉱だが、国は不採算の不良炭鉱として切り捨てにかかったのだった。手の平返しである。かくして生き残った炭鉱夫たちも職を失い、それをきっかけにして全国の「不採算炭鉱」は潰されていったのである。

 こうした国の方針を後押ししたのは、原子力の活用を推進する電力業界や鉄鋼業界の声であった。

 このように、国のエネルギー政策の変遷を背景として見ないと、この夕張新炭鉱事故の事故の相貌というのは分からないのではないかという気がする。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆朝日新聞
◆北海道新聞ウェブサイト
◆増谷 栄一『昭和小史 北炭夕張炭鉱の悲劇』彩流社

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◆歌舞伎町ビル火災(2001年)

 ここまで当「事故災害研究室」では、主として20世紀の日本の火災事例をご紹介してきた。それもいよいよここで一区切りである。

 今回書き記す歌舞伎町・明星56ビル火災が発生したのは2001年のこと。長崎屋火災からすでに10年以上が経過し、火災による大量死などというものはほとんど見受けられなくなった時代である。

 輝かしき新世紀。そう、この頃になると、大規模施設での大火災事故などというしゃらくさいものは日本国内では根絶されていたと言ってもいい。これはひとえに、法律の整備とその徹底した運用の賜物である。何百人もの火災死者という尊い犠牲を払って掴み取った、法治国家の勝利だった。

 だが、そんな勝利の凱歌に冷や水を浴びせたのがこの新宿歌舞伎町で起きた火災だった。

 この火災は、起きた出来事とその結果だけを見れば、それまでの火災と大した違いはないように思える。だがやはり、いま改めて火災の歴史の中で振り返ってみると、確かにこれは「火災の新世紀」の幕開けを告げる事例であった。

 昔ながらの商業施設火災の特徴を兼ね備えつつも、その後の火災は全てこの火災の相似形でしかない。そして恐らく、このタイプの火災は今も完全に乗り越えられてはいないのである。

   ☆


 この火災が発覚した経緯は、なかなか劇的である。2001年9月1日の午前0時59分頃、路上にいきなり1人の男が「降ってきた」のだ。

 そこは眠らない街・新宿歌舞伎町一番街のメインストリート。深夜とはいえ、行き交う人々にとってはまだまだ宵の口の時刻である。その男の出現は、さぞ多くの通行人を驚かせたことだろう。
「おいどうした。あんた大丈夫か」

 闊歩していた客引きもヤクザも売春婦も鮫島刑事も(注・歌舞伎町という街に対してかなり偏見が入っています)、思わずその男に駆け寄った。すると男はふらふらと立ち上がり、こう言った。

「火事だ。まだ中にお客さんがいるんだ。お客さんが……」

 そして目の前の小汚いビルに入っていこうとする。

 おいおい、なんかコイツ聞き捨てならないこと言ってるぞ――。そういえばそもそもこの男、どこから落ちてきたんだ?

 人々はそこで一斉に上空を見上げた。するとなんたることか、男が入っていこうとしているビルの3階から煙が吹き出しているではないか。

「やめろ、あんた行くな! ここでじっとしてろ!」

 人々は男を止めにかかった。

 言うまでもなく、これは半分想像で書いている。だが煙を逃れて落下してきた店員が、お客のために再びビル内に戻ろうとしたのは本当らしい。また、通りの人々が彼を引き止めたことも。

 半ば余談になるが、このビル火災の話は全体的に「不気味」である。迷宮入りになっているからというのもあるが、事件の背景を調べれば調べるほど、歌舞伎町の闇とでも言うべきものが感じられて気持ち悪くなるのだ。そんな中で、この火災発覚の経緯だけは、唯一どことなく人間味が感じられるエピソードである。

 さて。言うまでもなく、男が降ってきたこのビルこそが「明星56」だった。

 何が明星で何が56なのかは知らないが、それはまさに、我々が「歌舞伎町の繁華街の雑居ビル」と言われて即座に思い描くような建物そのものだった。1階は風俗無料案内所、2階は風俗店、3階は違法麻雀店「一休」、4階はキャバレー、地下にはカジノとクラブ。まったく夢のような建物である。

 しかしこの夜は夢どころではなかった。男の飛び降りがあった時点で、すでにビル内は地獄絵図の様相を呈していた。

 実はこれと前後して、建物内のキャバクラから消防に救助要請があったのだ。従業員の女性の訴えが記録に残っている。

「歌舞伎町なんですけど、火事みたいで煙が凄いんですよ、歌舞伎町一番街の●●(注:店名)です。早くきてください、出られない、助けて」

「火事です、今現場いっぱい、4階、もう避難できないんで、早く助けてください。10人ぐらい。お願い」

 痛ましすぎる。書き写しているだけでも胸が詰まる。この店の従業員と客は全員死亡した。

 火元は3階の麻雀ゲーム店だった。煙はあっという間にフロアに充満。階段は多くの物品で塞がれており防火扉も作動せず、4階も即座に煙で満たされた。火災報知器は誤作動封じのためにスイッチを切られ、さらに内装材で覆われていたという。これがホントの火災放置器…なんて冗談は口が裂けても言えない。

 この火災で助かったのは3人の従業員だけだった。彼らはビルの窓から飛び降りて一命を取り留めている。

 避難誘導は行われなかったらしい。否、とてもそんなことができる状況ではなかったというのが本当のところだろう。煙のみならず、建物内ではバックドラフトまで発生していたのだ。せまっ苦しく暗い雑居ビルの一室でそんなことになったら普通は逃げるだろう。

 それに歌舞伎町では、「火事だ」などという叫びはそれだけでオオカミ少年のたわ言として片付けられるのが関の山だった。誰かが叫べば酔っ払いの仕業、煙が出てくれば誰かのイタズラ、で済まされる空気があったようだ。これもまた一種の「構造的欠陥」であろう。

 通報を受け、消防車101台が到着。現場は騒然とした。

 消防隊員や消防団員361人が協力し、消火と救助が行われたという。

 その甲斐あってか火災そのものは2時間ほどで鎮火し、救助活動も2~3時間で完了している。しかし運び出された人々は例外なく心肺停止状態で、彼らは朝までに次々に息を引き取った。

 死者44名、怪我人は最初に脱出した従業員の3人だけ。まさに生きるか死ぬかの大惨事となった。

 火災の原因はなんだったのか? これについては、新聞やテレビで多くの憶測が飛び交った。火元になったガス管からはガスメーターが外れており、それは誰かが外したのではないか……とか、火災と前後して、爆発に遭遇したような姿で逃げていく男がいた……とか、あるいは火災に遭った3階の麻雀店に恨みを持っている客がいたとか、事故後に外国人からの犯行声明じみた怪電話があったとか、この手の噂話を挙げるともう枚挙に暇がない。

 結論を言えば、まず放火で十中八九間違いないだろう、というのが現在の通説である。下手人は捕まっていない。

   ☆

 この火災、一体どのへんが「火災の新世紀」の幕開けだったのか。

 それまでは、大勢の死者が出る火災と言えば、デパートやホテルなどの大規模施設で発生するものと相場が決まっていた。

 だが明星56は、そうした大規模施設の範疇に入るものではなかった。このようなこじんまりした狭いビルでも大人数が出入りすることがあるし、その状況で火災が起きれば大惨事になることもある――ということが、この歌舞伎町ビル火災では示されたのである。

 時代は変わった。デパートや高級ホテルなどの大規模施設ばかりが、大衆にとっての娯楽施設ではなくなったのだ。小規模な狭い空間で、少人数もしくは自分ひとりで楽しめる娯楽を人々は求めるようになっていった。居酒屋、カラオケ、ネットカフェ、漫画喫茶……。歌舞伎町ビル火災は、そうした場所でひとたび火災が起きればどうなるかを極端な形で示した先駆けの事例だったのである。

 ――というわけで、ビル関係者が逮捕されるよりも早い2002年10月25日、消防法は改正されることになった。

 内容的にどう変わったかというと、まず火災報知器の設置基準が厳しくなった。また消防署の取り締まり権限が強化され、同時に防火管理者の責任も明確化。その上、違反者に対する罰則も強化されたのだった。

 ひとことで言えば非常にキビシー! といったところか。

 もっとも、その後もこの手の「小規模施設の大火災」は頻発している。火災と法治国家の戦いは今も続いていると言えるだろう。

   ☆

 さて明星56であるが、その後の捜査で、テナント名義の又貸しが幾重にも行われていたことが判明(暴力団も関わっていたらしい)。一体誰がこのビルの本当の管理者なのか、特定するまでにはだいぶ骨が折れたようだ。

 ともあれ2003年2月には、ビルのオーナーとテナント関係者の6名が業務上過失致死で逮捕。5年後の2008年7月には5人が執行猶予付きの有罪、ひとりが無罪という判決が下された。控訴はなされていない。

 刑事での判決が出るまでの間には、民事でも揉めている。被害者の遺族がオーナーたちに損害賠償を求めたのだが、これは8億6千万円の和解金を払うことで決着した。

 これと歩調を合わせて、忌まわしき明星56も解体されたのだった。

【参考資料】
◆ウィキペディア
ブログ『裏の裏は、表…に出せない!』――「歌舞伎町ビル火災事件の闇」
防災システム研究所ホームページ

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◆長崎屋火災(1990年)

 子供の頃に事故災害のニュースを見て、「大量死の不気味さ」とでも呼ぶべきものを強烈に感じたことが何度がある。その中の一つがこの長崎屋火災である。

 これが発生したのは筆者が10歳の時。当時、家から比較的近い場所にも長崎屋の店舗があったせいか、とにかくこの火災は妙に身近で不気味なものとして感じられた。

 今からほぼ20年前、1990年3月18日のことである。

 兵庫県尼崎市神田中通4丁目(中央四番街)に「長崎屋尼崎店」はあった。どうも正式名称は「Big・Off長崎屋尼崎店」とかなんとかいったらしいが、とりあえずここでは長崎屋で統一する。

 ちょうど昼時の12時半頃のことだった。火元は4階のインテリア売場で、そこで売られていたカーテンがなぜか火を噴いたのである。

 店内ではたちまち非常ベルが鳴り響いた。

 過去の旅館やホテルの火災事例を見ていると、非常ベルを切っていたせいで火災に気付かず大惨事に至ったというパターンが多い。その点、長崎屋はちゃんとベルが鳴っただけマシと言えるが、しかし最初店員たちは気にもとめなかったという。実はこの店舗の非常ベルは以前から誤作動が多く、鳴動しても誰も信じてくれない「狼少年」状態だったのだ。

 ネット上で2005年の神戸新聞のコラムが公開されており、そこに火災の経過が時系列で記してあるのだが、非常ベルが鳴ってから実際に店員が火災を目にするまで5~6分もの時間がかかっている。この数分が命取りになり、火災はもはや手の付けようのない有様だった。

 以下は、当時の店員の証言である。

「連絡を受けて4階に上がると、商品のカーテンが燃えていた。このくらいの火なら消せるだろうと思ったが、突然煙が吹き上げ、煙があっという間に広がった」

 また別の店員によると、火災を認めた時にはすでに火柱が天井まで上がっていたという。通常、そのような状態になったらもはや一般人に消火は不可能で、逃げるしかない。

 当時の店内には58人の従業員と買い物客100人以上がいた。だがお客と従業員の多くは階段やエスカレーターを使って1階まで下り、無事に避難できた。また119番通報と店内放送も「きちんと」行われている。

 こうした店側の行動が功を奏したと言えよう、鉄筋5階建て・地下1階のこの建物において、4階から下では死者は1人も出ていない。

 問題は5階である。

 致命的なのはおそらく店内放送の不手際だろう。先に筆者は店内放送は「きちんと」なされたと書いたが、実はこの「きちんと」は火災が発生してから10分以上も経過してからのことだった。遅きに失したもいいとこで、火災の煙はものの数分で5階の逃げ道を塞いでいたのである。

 5階にはゲームコーナー、従業員食堂、放送室などがあった。当時、従業員食堂で昼食中だった清掃員Nさんはこう証言している。

「火事だ、という声が食堂に響いた。食堂には他に5人くらいいたと思うが、とにかく煙がすごかった」

 次に、隣の事務所に勤務していた女性従業員の話である。

「誘導の館内放送をした後、階段に出て屋上に上がろうとしたが、煙で廊下に出られなかった」

 また同じ5階にあったゲームコーナーは、この時は小中学生で賑わっていた。その中で1人で遊んでいた会社員は、「千円ぐらい遊んだところで煙にまかれ、気が付いたら病院のベッドだった」と後に証言している。

 煙に追い立てられながら、人々はこぞって従業員食堂へ逃げ込んだ。この部屋には大きな窓があり、人々は猛煙にまかれながら必死に助けを求めていたという。

 消防は4、5分で現場に到着している。最終的には梯子車が57台出動し、約300人の消防隊員が動員された。

 しかし現場は尼崎駅からほど近い繁華街である。ビル、酒屋、アーケード等がどうにも邪魔で、消火活動は難航したという。

 当初、消防隊員たちは突入を試た。しかし4階は既に猛火に包まれており入れない。自然、救出活動は外から行われることになり、隣の家具店の屋上から5階の窓に梯子を渡すなどの方法がとられた。先に証言者として登場した清掃員Nさんなどは、これでもって助け出されている。

 また、ゲームコーナーにいた子供達の中には、気丈にも窓から飛び降りて一命を取り留めたのが2人もいた。それに放送室は煙が入ってこなかったため、そこにいた女性従業員も無事に助け出された。

 それでも死者は15名に上った。全員が5階の従業員食堂で倒れており、ほぼ全員が窓際で力尽きるように連なっていたという。死因は全て窒息死。中には、ゲームコーナーに遊びに来ていた小学生の兄弟もいた。

 筆者は実際に映像を見たことはないが、レスキュー隊員が窓に手を伸ばした先で力尽きて倒れた女性もおり、それは当時テレビ中継で放送されていたという。何から何まで悲惨すぎる話だ。

 さて、いよいよ責任追及タイムである。火災がほぼ収まった16時頃には捜査本部が設置され、犯罪事件としての捜査が開始された。

 ところで、この建物には「マル適マーク」というものが授けられていた。
 このマークは、当時の防火基準をきちんと満たした建造物に与えられるものだった。よって、これがある以上は火災が起きても死者が出るなんてありえないはず……なのだが、現に15人も死んでいる。一体どういうことだ、と早速原因究明がなされた。

 4階から突然出火した原因は、今日に至るまで不明である。まあ火の気の有り得ない場所から突如として炎が上がっているので、放火というのが定説のようだ。

 だとするとやはり、建物の設備や従業員の火災対応が悪かったに違いない。それで調べてみるとああやっぱり……で、この店は避難通路や防火扉の前に荷物を山積みにしていたのだ。当事故災害研究室の読者であればもはや言うまでもないであろう、通りゃんせ通りゃんせ、ここは煙の抜け道じゃ♪ というわけである。 

「バブル経済の好景気で、避難通路にも商品の入った段ボールを平然と積み上げていた。防災より収益。客の命を預かるという意識に欠けていた」

 これは、元従業員の男性が新聞社の取材に対して語った言葉である。事故から15年ほど後のことだ。

 この、荷物を山積みにしていたことを除けば、この店の避難体制はなかなか優秀だったのである。防火訓練は半年に1回は実施されていたし、火災報知機、屋内消火栓、連結散水装置など防災設備も完備されていた。

 それに多少もたついてはいるものの、館内放送もお客の誘導も行われている。あとほんのちょっとだけ平素からの注意があれば大惨事は避けられた筈なのだ。まことに残念な話である。

 だが責任を店側だけに求めるのも酷であろう。この建物にスプリンクラーが皆無だったのも問題だった。当時の消防法でスプリンクラーの設置義務が課せられていたのは、延べ床面積6,000平方メートル以上の建物だけに留められていた。長崎屋は5,140平方メートルと、それに僅かに足りなかったのだ。

 15人という死者さえなければ、警報装置の故障や避難誘導のお粗末さまであげつらわれて被告らが有罪判決を食らうこともなかったかも知れない。事故から3年半後の1993年9月、被告席に立った元店長ら2人は禁固2年6月・執行猶予3年を言い渡された。神戸地裁尼崎支部でのことである。

 長崎屋尼崎店は無期限営業を余儀なくされ、そのままいつしか閉鎖・解体された。その後、2004年には跡地にマンションが建設されている。

 また2005年には放火についても公訴時効を迎えた。今では尼崎市に事故の面影はほとんどないが、事故のあった3月18日を尼崎市は防災の日として定め、商店街では毎年消防訓練を行っているという。

 また、大型商業施設で10人以上が死亡したのは大洋デパート火災以来ということもあり消防庁も法改正に乗り出した。スプリンクラーの設置基準を強化し、大型店は年2回以上の消火訓練を行うよう義務付けたのである。

 そしてこの火災は、2000年の「株式会社長崎屋」そのものの倒産の遠因にもなった。

 子供の頃、筆者の身近にあった長崎屋も今はもうない。そのかわり秋田や鶴岡に行った際にはあの看板を見かけたことがあり、火災事故を思い出すのと同時に懐かしい気持ちになったものだ。どういう匙加減なのかは知らないが、一部の店舗は残っていたり、長崎屋という名称を使わずに営業したりしていたようである。

 株式会社長崎屋は、このようにいったんは倒産したものの、後にはまた再建している。今はドン・キホーテの連結子会社という位置付けらしく、そのドン・キホーテでも火災死亡事故が出た時には、きっと長崎屋の従業員は生きた心地がしなかったことだろうと筆者は勝手に想像してしまうのだが……。

 まあとにかく、長崎屋には今後とも頑張って頂きたい。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆山形新聞
◆神戸新聞「検証「尼崎・長崎屋火災」」
◆消防防災博物館-特異火災事例

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◆大東館「山水」火災(1986年)

 ここまで数々のホテル火災や旅館火災の事例をご紹介してきた「事故災害研究室」であるが、それもどうやらここでひと段落となりそうである。宿泊客が何十人も死亡するような大惨事は、年表上ではこれが最後だ。

 静岡県伊豆町、熱川(あたがわ)温泉にあるホテル大東館は、本館「月光閣」と旧館「山水」、それにロイヤルホテルの3つの建物からなる大旅館であった。特に「山水」はテレビドラマ・細うで繁盛記に登場したことで、全国的にも高い知名度を誇っていたようだ。

 この「山水」は昭和初期に建てられた3階建ての古い木造建築で、延べ面積720メートル。古い建物である。そのせいで廊下が狭いとかきしみ音がするとか、また壁が薄いとか暖房が効かないとか、そんな苦情を宿泊客から受けることもしばしばだったという。それでもホテル側は、本館が満室の時はこちらのオンボロ旧館へ宿泊客を回していた。

 1968年(昭和61年)2月11日、この「山水」から出火した。

 最初に火災を発見したのは、夜間勤務をしていた従業員だった。待機中のナイトフトロントと夜警員の2名である。

 時刻は午前2時6分。宿直室でテレビを観ながら雑談していたところ、夜警員が不審な物音に気付いた。それでフロント係がガラスドア越しに外を見ると、山水の1階の南側の窓に、赤い明かりのようなものがあった。

 それは建物の中央にある、配膳室のあたりだった。フロント係がさらに外へ出て目を凝らしてみると、紛うことなき火事である。炎が上がっているのだ。

「火事だ! 俺は消火してくるから通報を頼みます!」

 フロント係は、夜警員にそう告げると、若干もたつきながらも消火器を2本取り出し、「山水」へ通じている地下道へと下りていった。

 地下通路を進んでいる途中では、ゴーッバリバリという火炎の燃え盛る音が聞こえてきたというから恐ろしい話だ。このフロント係、さぞ生きた心地がしなかっただろう。

 彼は間もなく山水の上がり口に到達した。だが廊下で聞いた音からも分かる通り、山水の火災はもはや宴もたけなわ、手の付けられない状態であった。さらに地下通路も煙で塞がれており、消火するのも命懸けときてはどうしようもない。フロント係はたまらず消火器を置いて引き返した。

「ああもう手が付けられないよ、とりあえず上司に電話だ!」

 多くの火災事例を見てきた読者諸君ならば「もっと他にするべきことがあるだろう」と突っ込みを入れたくなるところだろうが、とにかくフロント係は上司に連絡。その時に改めて山水のほうを見ると、見える範囲の窓は全部割れており、そこから炎が吹き出していたという。

 フロント係が電話でどのような指示を受けたかは不明である。だが彼は次に、とにもかくにもスイッチが切られていた火災受信機を操作した。このホテルの火災報知機は、誤報が多くて困るということで、例によって普段はスイッチを切られていたのだった。

「よし、これでお客様に火災を知らせられるはずだ!」

 でも作動しなかった。

 冷や汗タラリのフロント係は、次に非常用放送設備のアンプをいじってみる。しかしこれも動かない。

「あああ、どうすればいいんだ」

 まったく哀れなほどの動揺ぶりである。彼はアンプのスイッチを入れ忘れていた。

 そうこうしている内に、山水はもう炎に包まれていた。火炎は旧館のみならず本館にまで届きそうな勢いである。彼は、とにかく本館のお客だけでも逃がさなければ、と判断し火事触れをして避難誘導を行った。

 この火災、出火時刻は午前1時半頃と見られている。火事が発覚するまで実に30分もの時間を要していたのだった。しかも当時は乾燥注意報までもが出ており、火災時の対応について指導も教育も不充分だったホテルの従業員にとっては、もはや手に負えない状況だったのである。

 ちなみに消防への通報を頼まれた夜警員だが、電話の「ゼロ発信」というもののやり方が分からず、4回も通報を試みて失敗している。結局、最終的に通報したのは近所の焼肉屋さんだった。

 火炎は瞬く間に、山水と、隣接する従業員寮を呑みこんで行き、さらに隣の「熱川グランドホテル」も半焼。消防が駆け付けた時には救出活動など夢のまた夢という状況で、延焼防止と鎮火とで精一杯だったという。

 何から何まで手遅れだったのである。この夜、旅館の近所の人々は、宿泊客が助けを求める声などを一切聞いていないという。山水での死亡者のほとんどが客室で亡くなっていることを考えると、彼らは助けを求める間もなく、かなり早い段階で死亡したものと思われる。

 ただ静かに、不気味に山水は燃え落ちたのだ。

 皮肉なのは、大東館の本館(月光閣)は全く無傷だったことである。

 火災に気付いたフロント係が、山水での避難誘導はもはや不可能と判断したのは先述の通りである。彼は本館の宿泊者に対してのみ火災を知らせていた。だが結局のところ本館に延焼することはなく、一方の山水は宿泊客のほぼ全員が逃げる間もなく室内で死亡したのである。これを皮肉と言わずして何と言おうか。

 ちなみに「ほぼ全員」というのは、唯一、ひと組の夫婦だけが屋根伝いに脱出しているからだ。

 最終的は死者は24名。そして負傷者はゼロであった。この火災はまさに生きるか死ぬか、オールオアナッシングの恐るべきものだったのである。

 死亡者には、夫婦で温泉旅行に来ていた者、会社の同僚らでゴルフ旅行に来ていた者、大学のクラブ仲間で遊びに来ていた者など、様々な人がいたという。また、かなり前から大東館に予約していたにもかかわらず、本館ではなくオンボロ山水に部屋を宛がわれたという不運な者もいた。

 後の現場検証では、出火の原因は配膳室の壁の中にあったベニヤ板だと結論づけられている。ステンレス製の壁が長期間加熱されたことで、壁の奥のベニヤが蓄熱炭化しひとりでに火がついたのではないかというのだ。

 どうも素人には俄かに想像しがたい出火原因だが、読者の方からいただいた情報によると「低温発火」という現象が確かにあるらしい。

 裁判では、ホテル内の設備不良と宿泊客の死亡との間に因果関係があるかどうかで争われている。よって検察側としては、出火や延焼に関する事実の究明をしっかりしておく必要があったことだろう。

 火災がきっかけとなり、ホテル大東館の不正や体勢の不良は次々に暴かれていった。

 たとえば「適マーク」。

 これは防災設備などがしっかりしているホテルや旅館に与えられる称号で、これがあれば安全ということを意味する。大東館は本館はこのマークを受けていたが旧館の山水はそうではなく、その点を曖昧に誤魔化しながら経営していたフシがあった(ちなみにこの適マークは今は廃止されている)。

 他にも火災報知機が切られていたとか、夜間の従業員が少なすぎだとか、つっつかれるタネには事欠かなかったようだ。

 ただ設備全体を見ると、この旅館ではハード面での手落ちはあまりなかったように見える。考えうる限りの防災設備は揃っていたらしいし、あからさまな法令違反も無かった。火災が引き起こされたのは、完全にソフト面での過失が原因であろう。

 1988年には、このホテルの専務と、「名ばかり防火管理者」だった内務部長とやらが業務上過失致死で逮捕された。

 裁判は、少し揉めたものの、第一審にてあっさり有罪が確定している。

 実質的な経営責任者で、防火管理者として認められた専務には禁固2年の実刑判決が下っている。過去の宿泊施設火災の判例に照らしてみると実刑判決というのはなかなか重く、裁判官は「被告人に対してはその刑の執行を猶予する余地はない」と述べていた。

 その他、この火災に関しては「火災警報器が鳴動する状態であれば1名の犠牲者も出さずに済んだ」等、裁判所はかなり厳しく断じている。

 一方、内務部長は禁固1年、執行猶予3年の判決だった。

 ところでネット上での噂話を読んでいると、この2人の被告人が逮捕されたのは「シッポ切り」だったのではないかという説もあるという。この大東館、実質的には社長が旅館の経営管理を取り仕切っていたのだが、県議会との繋がりが深い人物だったから起訴されずに済んだのではないか、とかなんとか。

 当時のことはよく分からないが、この社長は火災直後に報道陣の前に姿を現して傲岸不遜な態度を取ったりもしていたらしい。議会との繋がり云々の真偽はともかく、そういう態度を取っていたのでは、まあそのように書きたてられるのもむべなるかな、であろう。

 そういえばこの火災は、先に書いた川治プリンスホテルや蔵王温泉観光ホテル火災のように、ホテル側と遺族が気持ちよく和解したような雰囲気があまりない。一応、裁判上裁判外ともに和解交渉が進められて、遺族には総額15億5760万円の和解金等が支払われたとはいう。だがそれで遺族が減刑の上申をするでもなく、むしろこの裁判では遺族感情は刑を課す根拠にすらされている。

 こういった事柄を踏まえて総合的に考えてみると、大東館の経営体質というのは反感を買われやすいものだったのかも知れないな、とも思う。

 さてこの大東館、その後も色々あったようだ。

 まず、火災の直後に数億円の費用を注ぎ込んで改装工事を行い、営業を再開したのは逞しい限りである。ただその時、消防に返上していた適マークを「早く寄越せ」とあの社長が催促したとかで、これもまたマスコミに叩かれている。社長、油断しすぎ。

 さらに、もらい火で半焼してしまったお隣のホテルだが、自分のところが改修できないままなのに大東館だけが営業再開したので頭に来たようだ。損害賠償を起こしている。

 この損害賠償の顛末がどうなったのかは不明だ。重過失によるものでない限り、こういう「もらい火」の火災は損害賠償の必要がなかったと思うが、この事例ではどういう判断が下されたのだろう。

 そんなこんなでなんとか延命していた大東館は、平成5年には火災の補償もひと段落し、翌6年には「ホテルセタスロイヤル」をオープンさせている。地上11階、地下1階、収容人数237名という一人前のホテルだ。

 だが平成6年くらいとなると、もうバブル景気も思い出話の域に入ろうとする時代である。その上伊豆沖地震の影響などもあり、売り上げは思うように伸びなかったとか。ついこの間の2009年には倒産し、民事再生法の適用を受けている。

 ホテルセタスロイヤルは、今でも熱川温泉に存在し営業を続けている。伊東温泉には大東館という名前の温泉旅館もあるが、これは無関係である。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆サンコー防災株式会社ホームページ
◆消防防災博物館「特異火災事例」
◆判例時報 1510号
消防庁消防大学校消防研究センター「低温発火とは」

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◆蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)

 筆者は山形県出身・在住なのだが、まさか蔵王温泉でこんな火災があったとは。ごく普通に驚いた。

 しかもこれが発生したのが3歳の時である。地理的にも時間的にも身近過ぎだ。

 ブログに事故災害関連の記事を掲載していると、「自分の地元でこんな出来事があったなんて知らなかった」というコメントを頂くことが何度かあった。だがこの火災に関しては、逆に筆者がそれを口にする立場である。

   ☆

 時は1983(昭和58)年2月21日のこと。

 山形県蔵王温泉2番地にある「蔵王温泉観光ホテル」には、当時86人のスキー客などが宿泊していた。

 雪国・山形県の2月と言えば最も積雪が多い時期である。スキー場に程近い温泉街にとっては、その冬最後の書き入れ時だったことだろう。

 さて深夜、午前3時30分のことである。

 2階の「はぎ」の間で寝ていた客は、奇妙な音で目が覚めた。パチパチと何かが爆ぜる音である。

 言うまでもなく火事である。ほとんど間をおかず、床の間の天井部分が膨らみ出して炎と煙が噴き出してきたからさあ大変、このお客は廊下に逃げ出した。

 すると今度は部屋の隣にあった便所までもが燃えている。紛う方なき火事である。この客は消火器で消火を試みたが、これは失敗した。

 一方、「すみれ」の間に泊まっていたお客も物音で目を覚まし、廊下に出たところで「はぎ」が燃えているのを見ている。このお客は慌てて1階フロントへ駆け下り、通報した。

 そんなこんなで、従業員も急いで消火活動を開始。屋内消火栓ホースで、中央階段から2階へ向けて放水を行った。

 だがそれも効き目がなく、むしろ火勢は増すばかり。従業員は1階玄関から外に出て、2階へ向けて改めて放水するという「撤退戦」を余儀なくされた。 

 で、言うまでもないと思うが、ここまでの消火活動で簡単に火が消えていれば、当『事故災害研究室』でネタにされるわけがない。残念なことである。

 そもそも最初から大惨事のお膳立ては揃っていたのである。読者諸賢は、ここまでの時点で、火災の時に当然あるべき決定的な「何か」が欠けていることに気付かれなかっただろうか?

 火災報知機である。

 誤報を防ぐためにスイッチが切られており、鳴らなかったのだ。

 オチを先に言ってしまえば、これは当火災で死亡した女性従業員によるもので、この事実により、裁判では経営者兼防火管理者であった代表取締役に禁固2年、執行猶予3年という判決が下されている。

 よって、火災の覚知や避難誘導は、全て人海戦術で行われることになった。ただしこれも統率の取れたものではなく、従業員が各自勝手に分担して、お客を部分的に避難させただけだった。多くの宿泊客は自力で避難している。

 初期消火も、避難誘導も、消防計画の中で定められたやり方からは程遠いものだった。

 延焼は強烈だった。この蔵王温泉観光ホテルは昭和4年に建てられた木造の建物で、ちょこちょこと改築は行われていたものの基本的な部分は建築当初のままだった。さらに強風という悪条件も重なり、あっという間に火炎に呑まれて行ったのである。

 こうなったら消防隊だけが頼りだ――。

 だがしかし、ここからの消火活動がまたえらく難航した。

 まず天候の問題があった。当時の蔵王温泉の積雪量は凄まじいものだった。4輪駆動車以外での現場への到着は不可能な上に、たとえ無事に到着しても今度は腰までの積雪のせいで身動きが取れないという状況だったのだ。

 その上、天候は雪と強風である。要するに吹雪で、気温そのものもマイナス10度まで落ち込んでいた。せっかく放水しても風で水は飛び散ってしまい、また建物にかかってもあっという間に凍結してしまったという。

 あげく、いったん放水を止めればポンプの方が凍る。これはいちいち湯で解凍しなければいけなかったそうで、消防隊の面々もきっと泣きたい気持ちだったろう。

 とどめに現場は平地ではなかった。

 積雪が踏み固められて凍結した状態を「圧雪」と呼ぶが、この圧雪が、傾斜地である地面を覆っていたから最悪である。あろうことか、消火活動の最中に転倒する隊員が続出したのだ。

 これが雪国での消火活動というものなのである。

 先に筆者は磐光ホテル火災の項目で「ここまで悪条件が揃った事例はちょっと珍しい」と書いたことがあるが、どうしてどうして、この蔵王温泉火災もそれにひけを取らない。

 しかし消防も諦めるわけにはいかない。まともな消火活動が駄目でも、とにかく被害は最小限に留めなければ――。隊員たちは火勢に押されつつも、近隣の建物への延焼の阻止に努めた。

 救助活動も難航した。

 そもそも、人命検索のために突入しようにも洒落にならない火勢のためそれも出来ない。また外で宿泊客の避難状況を確認しようにも、避難者と野次馬が吹雪の中でごちゃごちゃしておりそれも無理だったという。

 こうした混乱の中で、蔵王温泉観光ホテルはおよそ4時間半に渡って焼け続けた。山腹で発生したこの火災の様子は、50キロ離れた山形県西川町からも目視できたという。

 鎮火したのは翌朝で、最後の犠牲者の遺体が発見されたのは翌々日のことだったという。

 焼死者11名、怪我人2名。死者のうち1人は、ホテル経営者の家族だった。

 また火災の原因だが、2階のトイレにあった電気ストーブが発火したと見られている。コンセントが加熱したのだ。

 他の火災事例と同様に、蔵王温泉観光ホテルも防災設備の管理ミス、増築を繰り返したことによる迷路化、避難誘導などの不徹底が被害を大きくした原因だった。

 また「適」マークが与えられていたにも関わらず大火事になってしまった点などは、後の長崎屋火災や大東館火災などとも似通っている。

 裁判の結果は先述したが、損害賠償については事故後に迅速に交渉が進められたようだ。被告である経営者の態度は誠実なものだったらしく、会社所有の不動産や個人所有の財産を処分するなどして賠償のための資金を捻出している。そうして一部被害者の遺族から宥恕(ゆうじょ)を受けたこと等も考慮して、刑事裁判では執行猶予の判決が下されたのである。

 火災を起こした蔵王温泉観光ホテルは、今はもう存在しない。筆者も当時の新聞記事を参考に一度現場に足を運んでみた。温泉街の大通りから少し外れた高台に細長い敷地があって、コンクリ製の建物の土台らしきものだけが残っていた。

 温泉街は今もスキー客や温泉客で賑わっている。また、当時延焼の憂き目に遭った旅館などは今でも存続しているようだ。

【参考資料】
◆『火災教訓が風化している!①』近代消防ブックレット
◆『蔵王温泉火災概要』
◆ウィキペディア
◆消防防災博物館-特異火災事例
◆サンコー防災株式会社ホームページ

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