◆魚町大火・かねやす百貨店火災(1952年)

 1952(昭和27)年11月30日、午前5時57分のことである。

 福岡県小倉市(現・北九州市)の、魚町市場の屋根から炎と煙が上がった。発見したのは、現場から800メートル北西の望楼にいた勤務員である。彼はすみやかに通報し、ただちに消防隊が出動した。

 火災現場の「魚町市場」は、現在で言うところの「北九州の台所」、旦過(たんが)市場のあたりである。もともとこの地域は商業地域として賑わいのある場所だった(※当時の「魚町市場」という名称が、「魚町」の「市場」の通称だったのか、商業地域の公的な名前だったのかは不明)。

 しかし商業地域と言っても当時はあまり洗練されてはおらず、木造バラック造りの建物が密集しているような場所だった。1952(昭和27)年11月といえば、サンフランシスコ平和条約が発効してまだ日本が主権を回復したばかりの時期である。戦後の復興はまだ端緒についたばかり。急ごしらえの店舗は珍しくなかったということか。

 とにかくそんな場所での出火である、延焼は免れない。火炎は木造のバラック街を瞬く間に呑み込んでいった。早朝だったので、付近に全く人がいなかったのは不幸中の幸いだった。だが見方を変えれば、それで現場での発見通報が遅れたため「大火」になったとも言える。先述の望楼勤務員以外からの通報はなかった。

 この火災が、「魚町大火」として語り継がれることになる。そして、その焼け方がひときわ目立ったのが、現場に建っていた「かねやす百貨店」だった。

 かねやす百貨店――。これは、小倉市で史上二番目に開業した、由緒ある百貨店だった。

 その創業は江戸時代、文久年間に遡る。当初、創業者は米穀の取り扱いや金の目利きをやっていたらしい。その後慶応年間に魚町へ移り呉服商を始め、一族は長州戦争や明治維新などの動乱にもめげずに商売を続けてきた。

 そして、かねやす百貨店が建てられたのが1920(大正9)年3月のこと。最初は木造四階建てだったが、その後1936(昭和11)年11月に完成した新館は、当時としてはまだ数少ない鉄筋コンクリート製の耐火造だった。最初の木造四階建てを旧館とし、隣接する旧館と新館はひとつの建物のような形になった。これは、当時の小倉では最も高い建物だった。

 百貨店としては、井筒屋や菊屋と並ぶ代表的百貨店だった。老舗としての信頼感もあり、営業成績も順調だったようだ。

(なお、在りし日の建物や街並みはこちらで観ることができた)
http://isisis.cocolog-nifty.com/i/2016/07/post-1445.html

 さて火災発生当時、かねやす百貨店は、密集するバラック商店に隙間なく取り囲まれる形になっていた。このため、まず木造の旧館に延焼した。室内温度の急激な上昇により、こちらは「瞬時に」燃焼したという。

 消防隊が到着した時には、すでに市場全体が火の海。ちょうど、周囲の商店や百貨店にも火炎が拡がり始めたタイミングだった。

 火炎は強烈で、消火のために建物へ進入するなんてとてもムリ。そうこうしているうちに、かねやす百貨店の新館にも火の手が及んでいく――。耐火造の建物も、これほどの規模の火災では被害を受けるなという方が無理な話で、炎は各階へどんどん拡大した。

 ちなみに、かねやす百貨店、防火設備はどうだったのだろう? これは残念ながら赤点だった。防火シャッターがあれば、旧館から新館への延焼を防げたかも知れない。また防火区画がきちんと定められていれば、階段が煙突状態になって上階へ燃え広がることもなかったかも知れない。

 一方で、「消火」設備はきちんと整備されていた。もっとも、防火査察の際に夜間警備員の増強を勧告指導されていたにもかかわらず、火災当時は建物は無人だったので、実質持ち腐れになってしまったわけだが。

 こうして、かねやす百貨店は火炎に包まれた。そしてさらに周囲の木造バラック店舗にも延焼し、この火事は「大火」となったのだった。

 鎮火したのは、火災発見から2時間後の午前8時である。死亡者こそ出なかったものの、被災した建物は全部で51戸。このうち魚町市場では店舗22軒が全焼、2軒が半焼した。またかねやす百貨店の関係者も5人が負傷している。

 火災の原因は、完全には特定されていない。とりあえず出火場所は、魚町市場内の、かねやす百貨店に隣接する屋外通路のごみ箱と推定されている。当時はルンペンや泥酔者も多くいたし、たぶんそいつらの仕業だろう。たぶん煙草のポイ捨てだろう。そんな感じの結論でまとまったようだ。

 なお余談めくが、この火災現場のお隣である魚町三丁目の「魚町銀天街」では、2014(平成26)年2月6日に火災が発生し7棟が全焼、4棟が半焼した。テレビなどでもけっこう騒がれた気がするが、年配の方は、60年以上前に四丁目で起きた火災を思い出したのではないだろうか(なお2022(令和4)年4月19日には旦過市場でもまた火災が起きている)。

 さてかねやす百貨店だが、社員の努力により、火災から2週間後には営業再開したというから大したものだ。建物が全焼して真っ黒焦げになったのに、どうやって営業したのだろう……?

 しかし長くはもたなかった。2年後の1954(昭和29)年10月には閉店し、その後破産している。由緒ある地元企業だったが、ここに約100年の歴史に幕を下ろすこととなった。

 現在は、新館の建物が雑居ビル「ワシントンビル」として利用されており、中にはドラッグストア、カフェ、事務所などが入っているそうな。

 もうひとつ余談だが、実はこの建物には戦争遺構が残されている。防空監視哨である。戦時中、小倉市には、西日本最大級の兵器工場(小倉陸軍造兵廠)があった。それで周辺一帯が米軍の標的にされたため、近隣でも屈指の高層建築だったかねやす百貨店の屋上が、防空のための見張り場所に選ばれたのである。

 この防空監視哨、戦後長らく忘れられていたのだが、最近になって戦争遺構として「発見」されて注目を浴びた。資料の説明を読むと「この防空監視哨は……隣の立体駐車場などから見ることができる」と書いてあって、なぜかおいそれとは見せてくれないらしい。シャンシャン並みの扱いである。

【参考資料】
特異火災事例
「敵機見つける防空監視哨、今もビル屋上に 北九州中心街」(asahi.com2011年8月15日)
コトバンク「魚町商店街火災」
黒崎そごうメモリアル
◆ウィキペディア

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◆ロックハート熱気球墜落事故(2016年)

 2016(平成28)年7月30日のことである。

 時刻は、アメリカテキサス州の現地時間で午前6時58分。スカイダイビングセンターから一機の熱気球が出発した。乗員は、パイロットが1名と乗客が15名である。青と紅白で彩られ、サングラスをかけたにこちゃんマークが描かれた、カラフルで大きな熱気球だ。

 ところが、これが墜落した。

 時刻は午前7時40分頃。墜落場所はロックハートという地域で、テキサス州の州都オースティンから南へ約50キロほどの地点だった。検索すると現場写真が見られるが、だだっぴろい農閑期の畑か草原のような場所である。英語版ウィキペディアでは「マックスウェル州の合併されていない地域」とあった。

 ロックハートは、レンガ造りの建物が多く景色のいい街だそうな。墜落した熱気球もオースティン周辺を観光するプランで遊覧飛行していたというから、全体的にきっと風光明媚な地域なのだろう。それにしても、人のいる場所に墜落しなかったのは不幸中の幸いだった。

 墜落の直接の原因は、火災だった。どうやら飛行中にゴンドラから出火したらしい。

 ルクソールでの墜落事故と違って、このロックハートの事故は、現場の写真でも気球の球皮そのものはほとんど燃えていないように見える。なので、おそらくゴンドラ部分で起きたトラブルが主な原因で墜落したのだろう。

 午前7時44分には緊急サービスに連絡が入り、墜落したゴンドラの捜索が行われた。

 これは、事故から間もなく、郡保安官事務所から出された声明である。

「現時点では、事故の生存者はいないものと思われる。事故現場に救急隊と保安官事務所職員が到着した時、火災は熱気球のゴンドラ部分で発生したように見えた。」

 事故の調査には、アメリカ連邦航空局(FAA)と運輸安全委員会(NTSB)も乗り出した。さらに連邦捜査局(FBI)までもが参戦するなど、大変な騒ぎになった。

 これほどの騒ぎになるのも無理はなかった。死者16名というのは、記録で見る限り熱気球事故としてはアメリカ史上最悪である。さらに言えば全世界規模で見ても第2位だ。テロの可能性…とまで言うのは大げさすぎるかも知れないが、当局が事態をかなり重く見たことは間違いなかった。

 さて、FBIによって、事故の残骸から14個の携帯電話やスマホが回収されるなど、現場では証拠物件が押さえられた。NTSBはこの事故を「大事故」に指定し、調査が続けられた。

 目撃者や関係者の証言も集められた。おそらく飛行中にだろう、銃に似た二度の破裂音があった…とか、気球は30分ほど連絡が途切れていた…とか、もろもろの情報を総合して出された結論は「送電線への接触による火災」だった。

 情報に乏しく、火災が起きてから墜落するまでの詳しい経過はよく分からない。とりあえず資料の文章のニュアンスからして「送電線に接触→ゴンドラで火災発生→ゴンドラ燃え尽きる→電柱に衝突→そんなこんなで操縦不能→墜落」みたいな感じの流れだったのではないかと思われる。

 ではなぜ、送電線に接触したのか。

 その原因は「パイロットの判断ミス」で片付けられたようだ。墜落直前、熱気球は霧や雲の上を飛行し続けており、気球の下に障害物があっても発見や回避は困難だったという。だいぶ危険な状況だったのだ。

 ちなみにこのパイロットは、事故を起こした気球遊覧飛行を企画した会社の社長だった。彼はうつ病とADHDを併せ持っており薬も服用していたのだが、熱気球の操縦に際して診断書は必要なかったらしい。彼のそんな病状も、判断力低下の原因と見なされたようだ。社長を失ったこの企画会社は、8月には操業を停止した。

【参考資料】
熱気球で起こった恐怖の事故10選
AFPニュース
PIXLS 
めら☆そく
◆ウィキペディア

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