◆ヒルズボロの悲劇(1989(平成元)年・イギリス)

 海外におけるサッカースタジアムでの群集事故は数あれど、突出して酷いのが「ヘイゼルの悲劇(Heisel Stadium Disaster)」と「ヒルズボロの悲劇(HillsboroughDisaster)」である。前者は別項でご紹介したので、今回は後者といこう。

(※ なおHillsboroughを「ヒルズバラ」と表記しているサイトもいくつか存在するが、ここでは「ヒルズボロ」で統一する。)

 大惨事となったヘイゼルの悲劇から4年後、1989(平成元)年4月15日のことである。イギリス中部イングランド、シェフィールドのヒルズボロ・スタジアムでは、FAカップの決勝戦が行われることになっていた。対戦するのはリヴァプールとノッティンガム。5万4千枚あったチケットは完売し、あとは15時の試合開始を待つだけという状況だった。

 先回りして書いてしまうと、事故はこのスタジアムの西側の応援席で発生する。そこはリヴァプールサポーターの専用席で、通称「レッピングス・レーン」と呼ばれていた。試合当日、このレッピングス・レーンには2万4千人のサポーターが訪れる予定だった。

 中には15時をまたず、正午頃には到着していた者もいたというから気が早い。どうせなら他のサポーターたちも、キックオフまでに分散して来てくれれば良かったのだが、そうもいかない。14時頃から、急に大勢のサポーターがドッと押し寄せた。

 交通事故の影響で臨時列車が遅れたとかなんとか、そんな事情があったらしい。押し寄せてきたサポーターには決して悪気はなかった。また、入場の際のルールとして、リヴァプールサポーターは必ずスタジアムの西側から入るべし、と決められていた(敵対するサポーター同士がかち合わないように、という配慮だったのだろう)。こういった条件が重なって、大勢が一か所に集まる結果になったのだ。

 さあ困った。試合開始まであと1時間ほどなのに、レッピングス・レーン側の入口付近は大混雑だ。しかも入場ゲートは7つしかなく、何千人ものサポーターをさばくには時間がなさすぎる――。

 ここで、スタジアムの構造について、ちょっと説明しておこう。

 リヴァプールの応援席「レッピングス・レーン」は2段になっていた。上は椅子つき、下は立見席である。

 たぶん、上が新幹線で言うところの「指定席」みたいなもので、下は「自由席」なのだろう。この上下2段の構造は、少なくともイングランドのサッカースタジアムでは標準的なものらしい(筆者はサッカーには疎いのでよく分からない)。

 問題は、下の立見用の「自由席」である。こちらは「テラス」と呼ばれており、チケットが買えなかったり、良い席のチケットを確保できなかったりしたサポーターが入ることになる。

 立見席なだけに、大勢の観客を収容できる。よってスタジアムにとっては大きな収入源でもあった。だが一方で、テラスの観客は酒をラッパ飲みして大騒ぎし、時には暴れながら試合観戦するのが常だったとか。

 悪いことに、当時の首相マーガレット・サッチャーはサッカーに全く関心がなく、むしろフーリガンという暴徒の温床としか考えていなかった。よって政策的には、テラスはサポーターを閉じ込めて監視すべき場所として位置づけられていたようだ。

 そのような背景もあって、ヒルズボロ・スタジアムのテラスは5つの区画に区切られていた。サポーターが暴徒化しても好き勝手に動き回れないように、金網や鉄柵を設置したのだ。当然フィールドにも勝手に出ることはできない。

 ここまでの説明を聞いて「なんだか檻みたいだなあ」と思ったあなた、正解である。テラス内の5つの区画は、本当に家畜檻(pen)とも呼ばれていたのだ。

 ここまでで、レッピングス・レーンの下の階とか立見席とか自由席とかテラスとか家畜檻(pen)とかいろんな呼び名が出てきたが、とりあえずここから先は「家畜檻」で統一しようと思う。

 もともとヒルズボロ・スタジアムは歴史ある由緒正しい施設で、いくつかの名誉ある試合の会場になったこともある。しかし寄る年波には勝てず老朽化も指摘されていたし、暴徒対策についても遅れを取っていた。実際、1981年4月11日にも、死者こそ出なかったもののちょっとした群集事故が発生している。「家畜檻」の設置すらも付け焼刃で、実際にはそれでも厳密な安全基準は満たしていなかった。

 ちなみに、当時の状況について、気になったのだがどうしても分からなかったことがある。リヴァプール用応援席「レッピングス・レーン」の2階、即ち椅子付き応援席がいつ満席になり、またその席のチケットを持っていた連中が、一体スタジアムのどこから入場したのか――という点だ。

「ヒルズボロの悲劇」において、事故が発生するのは家畜檻の方である。よって、本稿で語られるサポーターたちの動向などは、すべて家畜檻での事故発生に向かって収斂されていくと考えて頂きたい。余計なことかも知れないが、混乱を避けるために一応断っておく。

 さて、当時の状況に戻ろう。

 西側の入場ゲートでは、14時までには2,140人のサポーターが通過していた。家畜檻への入場者数は、予定では1万100人。よって残りは約8千人である。あと1時間で8千人なんて、本当に大丈夫なのだろうか?

 大丈夫ではなかった。14時15分にはさらに人混みが膨れ上がり、14時30分の段階で入場ゲートを通過できたのは4,383人。ゲート前の混雑ぶりはすさまじく、人混みの中で具合が悪くなるサポーターも現れた。

 ちなみにこの時、大きな暴動や騒ぎはなかった。なかなか入場できないためイライラが募るサポーターもいたものの、大混乱というほどではなかった。ただとにかく人の多さだけが問題だった。

 慌てたのは、警備をしていた警官たちである。ついさっきまで、場はわりと平穏だった。サポーターたちはスムーズに入場できたし、観客席にも空きがあった。それなのに、試合開始ちょっと前になってこれである。想定外だ。

「本部長、これはもう無理です。とても15時のキックオフには間に合いません。どうか試合開始時刻を遅らせて下さい!」

 現場の警官は、警備責任者に連絡した。この要請を受けたのはサウス・ヨークシャー警察のダッケンフィールド本部長である。しかし指令室にいた本部長はそれを却下した。

 この時の本部長の判断が、後で物議を醸すことになる。ウィキペディアを読むと、当時彼がいた指令室には、現場の状況が分かるモニターが設置されていたとかなんとか書いてある。なぜ要請を却下したのか? 状況を把握していなかったのだろうか? このへんはいまいちよく分からない。裁判のときに「当時は何も考えていなかった」という証言をしたという資料もあるので、単純にそういうことなのかも知れない。

 現場は動揺していた。増援を頼んで人混みの整理にあたるも効果なし。回転式の入場ゲートは順調に動いているのだが、とにかく人が多すぎる。14時45分の時点で入場できたのは5,531人である。残るは4千人、さあどうする。

 そこで現場ではこう判断した。

「まずい、フィールドではそろそろ選手入場だ。このままでは群集が騒いで怪我人も出るかも知れないぞ。仕方ない、出口のゲートも開放して、そこから群集を中に入れるんだ!」

 出口ゲートは、入場ゲートのすぐ横にある。現場の警官たちはダッケンフィールド本部長から許可を得てこれを開放した。待ちかねたサポーターたちはドッと入場し、家畜檻に向かって突入していく――。

 出口ゲートが開放されていたのは、わずか5分程度だったという。この5分という時間は、スタジアム内で選手入場が行われた時間帯とぴったり重なる。サポーターたちはこれに遅れまいと、一気に家畜檻に押し寄せたのだ。

 家畜檻が、鉄柵や金網で5つの区画に区切られていたのは先述した通りである。この5つのうち第3・第4ブロックがゴールのすぐ後ろにあり、サポーターたちはそこに集中した。このブロックの収容人数は1,600人が限界とされていたが、当時は3,000人ほどが詰め込まれたと言われている。

 すし詰めである。家畜檻の中の圧力が急激に増した。三方を金網で囲まれているので、逃げ場はない。前列の人々は圧迫されて失神。中には、金網の外の警官に助けを求めるサポーターもいた。

「苦しい、死ぬ! フィールド側の扉を開けて脱出させてくれ!」

 しかし警官は、家畜檻の中がそんなにひどい状況だとは思っていなかったようだ。フィールドに面する非常口があったにも関わらず、そこを開けてはくれなかった。人々の圧力でその非常口が開いた時、わざわざ閉めた警官もいたとか。一部のサポーターは、たまらず金網を乗り越えて隣の家畜檻へ脱出した。

 こんな状況で、とにかく15時には試合開始。キックオフから4分が経過したところで、リヴァプールのピーター・ベアズリーが放ったシュートがクロスバーに直撃した。……と言っても筆者はサッカーに興味がないので「それがどうしたの?」という感じなのだが、とにかくそれでサポーターは大興奮。ただでさえぎゅうぎゅう詰めの家畜檻の中で、群集のうねりが発生した。

 これが決定打になった。第3ブロック内の仕切りの鉄柵が倒壊し、大勢がバタバタと将棋倒しになったのだ。15時6分、試合は止められた。この頃には、警備の警官たちも、さすがに異常事態に気付いていた。

 家畜檻に残っていたサポーターたちも、余力がある者はそれぞれ避難を始めた。ある者はフェンスを乗り越えて隣へ移動。またある者は上階のサポーターに引っぱり上げられた。

 金網も切除。地獄と化していた家畜檻から、サポーターたちはようやく解放された。生存者は脱出し、怪我人や心肺停止状態の者が次々に救助される。最初、試合ストップの理由が分からなかった他の観客たちも、フィールドに続々と運び出される人の姿を見て色を失った。

 救急隊と警官も集まり、無事だったサポーターたちも救助に協力。スタジアム内の広告看板がタンカ代わりに使われ、負傷者が搬出された。しかしほとんどがこの時点では致命的なダメージを負っていたらしく、96人という最終的な死者数のうち、病院に収容されたのはわずか14人だった。

 ところで、少し先回りして書くが、この事故は責任の所在をめぐって約30年も裁判で争われることになる。2016(平成28)年8月現在でその大まかな結論は出ているが、それでも賠償などの決着はこれからになりそうだ。とにかくこの事故の裁判は揉めに揉めた。

 で、その理由は一体何なのか。実はそのきっかけは、事故当日にあった。裁判での喧嘩の火種が生まれた“その一瞬”があったのだ。松平アナ風に言えば「いよいよ、今日のその時がやってまいります」というやつである。

 事故の発生を受け、FAの最高経営責任者であるグレアム・ケリーとシェフィールド・ウェンズデイの関係者は、すぐさま指令室の警備責任者のところに足を運んだ。この責任者とは、先ほどから何度か名前が出ているダッケンフィールド本部長である。状況の説明を求められた彼は、こう答えた。

「リヴァプールサポーターが、入場ゲートを破壊して場内に突入したんです。」

 嗚呼、その時、事故史が動いた…(泣)彼は、責任をサポーターに転嫁したのだった。彼らの暴動をでっちあげて、警備態勢の不備については説明しなかったのだ。

 この後、グレアム・ケリーも、ラジオ局のインタビューでダッケンフィールド本部長の言葉をそのまましゃべってしまった。それが、警察の見解としてそのまんま放送され、事故の真相として流布していった。

 もっとも、この“真相”に人々が納得する理由もあった。4年前にはヘイゼルの悲劇が起きている。リヴァプールサポーターといえばフーリガンだ。「やっぱりまたあいつらか!」と思った人が大多数だったのではないか。

 ちなみに、リヴァプールサポーターの名誉のために補足しておくが、ヘイゼルの悲劇後、彼らが大きな騒動を起こしたという記録は(ざっと見た限りでは)存在しないようだ。ヒルズボロの悲劇が起きた年の4月には、「サポーター達が自重自戒を続ける」ことを条件に、UEFAはイングランドのサッカークラブの国際大会復帰を決定している。かなり自重したのだろう。

 ヒルズボロでの事故を受けて、しばらくの間はリヴァプール叩きが続いた。警察はダッケンフィールド本部長の出まかせをどんどん補強し、一部の雑誌は、警察が流したウソ情報を真に受けた記事を掲載。いわく、リヴァプールサポーターが救助活動にあたっている警官に放尿したとか、どさくさに紛れて犠牲者から財布を抜き取ったとか、そんなことを書き立てたらしい(この雑誌は、後に謝罪している)。

 一方で、責任の所在については疑問の声もあった。この時点で、最もしっかりした形で「悪いのはリヴァプールサポーターではなく警察だ」と言い切ったのが、事故調査を担当した控訴院のピーター・テイラーによる報告書である。この報告書は8月4日に発表され、事故は警察の失態が原因だと結論づけた。

 にもかかわらず、裁判は振るわなかった。かの国の訴訟の仕組みがよく分からないので細かい点は端折るが、証拠不十分で誰も彼も不起訴になったり、遺族がダッケンフィールド本部長とその助手の責任を追及するも、無罪になったり結論が出なかったり時間切れになったりと、まことに切ない結果になったようだ。

 もちろん、遺族は諦めない。彼らの活動と怨念は、事故から27年後にようやく実を結んだ。

 事故から20周年を迎えた2009(平成21)年。7人のメンバーからなる「ヒルズボロ独立調査委員会」が設立され、それまで未公開だった事故の全記録文書を再精査したのだ。その量たるやなんと45万ページ。彼らは2012(平成24)年9月12日に報告書を発表した。そこでは、当時の警察と救急隊が、かなり厳しく非難されていた。

 この報告書の内容は、大筋では、27年前のものと変わりなかった。新しかったのは、スタジアムの欠陥と救急隊の対応の不備を明らかにした点だった。それによると、適切な医療措置を講じていれば、犠牲者のうちほぼ半数の41人は救えた可能性があるとのことだった。

 これにより、ようやく再審の扉が開かれたのだ。

 新報告書の公開により大騒ぎになった。まず当時のキャメロン首相が謝罪。その他、いろんな関係者や関係機関の長が謝罪した。公的機関による、新証拠の精査もスタートした。

 それからさらに4年。2016(平成28)年4月26日、陪審団は評決を下した。この事故の原因は、警備責任者の悪質な業務上の過失にあったと認定されたのだ。

 たぶん、最終的な結論が出るまでに、大方の趨勢は決まっていたのだろう。判決が出るや否や警察が謝罪した。救急サービスも謝罪した。ついでに言えば、例のダッケンフィールド元本部長も裁判中に証言台に立ち、事故は自分(たち)のミスだったと全面的に認めている。

 余談めいてくるが、イギリスには死因審問という、日本人にとって耳慣れない司法制度がある。どうも不審死の場合、犠牲者の死因を徹底的に調べて、それを裁判の中心に据えて白黒をはっきりさせるものらしい。ヒルズボロの悲劇の審判で大きな争点になったのも、どうやらこの死因審問だったようだ。

 ただこの事故の場合、再審における逆転判決に対して死因審問がどれくらい直接的に影響したのか、部外者の素人である筆者にはその理屈がよく分からなかった。世間の認識として、もしかすると最初から結論ははっきりしていたのではないだろうか。ただ制度上、再審のためにはそのきっかけが必要だ。そのために死因審問の結果が活用されたのではないかと思う。

 もちろんそれは想像である。どのみちここでは深く突っ込まないので、興味のある方は独自に調べてみて下さい。

 ヒルズボロの悲劇の何が悲劇かって、死者が出たことはもちろんだが、警察の嘘の上塗りのせいでウン十年も揉めたのが、遺族にとっては何よりも悲劇的だったろう。しかも補償の問題や、当時の警察関係者への懲罰がどうなるかについても、それはこれからの話なのだ。ヒルズボロの悲劇は、「いつまで経っても最終的な決着がつかない」という悲劇的な形で、今も続いている。

 今後書くつもりだが、2010(平成22)年にドイツで起きたラブパレード事故や、2001(平成13)年に日本で起きた兵庫県明石市の歩道橋での事故でも、ヒルズボロ同様に関係者による資料の改竄、情報の隠蔽・誘導などが積極的に行われたフシがある。どうも群集事故というのは、どこも似たような経過を辿るものらしい。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
プレミア・ゴシップ B6通信
PremierMood-英国在住ライター原田公樹のプレミアシップコラム #196ヒルズボロの悲劇~23年目の真実
サッカー名言集
BBC news japan「1989年「ヒルズバラの悲劇」、96人圧死は警察過失が原因と」
スカパー!SOCCER海外サッカー世界のサッカーニュース/ヒルズボロの悲劇、当時の警察責任者が「ひどい嘘」をついたと認める
フットボールチャンネル 英スポーツ史最悪の悲劇から26年。警察が「ヒルズボロ」での誘導ミスを認める
Onlineジャーニー「ヒルズバラの悲劇」要因は警察の過失と認定―運命の「ゲートC」、開けたのは警察だった
◆ウィキペディア

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◆弥彦神社事故(1955年)

 格式ある弥彦神社の、おそらく最大の黒歴史である。

 越後平野西部の弥彦山(標高634m)の山麓にあり、弥彦山そのものを神体山として祀っているこの神社。古代から多くの人に親しまれ、万葉集にもその名が登場する。

 今回ご紹介するのは、ここで1956(昭和31)年1月1日に発生した惨劇である。近代以降の、本邦の群集事故の中では最大の死者数で、その数たるや他の群集事故と比較してもケタ違いというシロモノだ。

 一体、この由緒正しい神社で何が起きたのだろう?

   ☆

 1955(昭和30)年の大晦日から1956(昭和31)年の元日にかけての時間帯、弥彦神社は大勢の初詣客でひどく混雑していた。

 特にこの時間帯、参拝客が集中するのには理由があった。弥彦神社では1931~1932(昭和6~7)年頃から「二年参り」という参拝方法が推奨されていたのだ。

 普通、初詣は一度参拝すれば終わりである。だが二年参りの場合は、旧年と新年に一度ずつお参りをする。大晦日のうちに旧年中の無事を感謝し、そして次に、除夜の鐘を合図に新年の無病息災を願うのである。

 信仰心のない人にとっては「二度手間」にしか見えないやり方だろう。だがとにかくこれこそが、弥彦神社の名物とも言うべき参拝方法だった。だから、日付が変わる前後に初詣客が集中していたのだった。

 また、神社側としても、大勢の参拝者は大歓迎だった。戦後に公的保護がなくなって以降、神社の経営も楽ではなかった。神社周辺の旅館、料理屋、土産物屋からも、「もっと参拝者誘致を!」と要望が出ていたのだ。

 そんな状況の中、神社はさらにあるイベントを企画していた。餅まきである。

 これは去年も行われており、結果は大成功だった。じゃあ今年も…というわけで、神社は前もって交通機関にポスターを配布するなどして、大々的に宣伝していた。

 しかし、課題もあった。前年の餅まきでは、神社の拝殿から広場に向かって餅をまいた。その結果、餅を奪い合って土足で拝殿に上がったり、餅を入れた三宝を持ち出そうとする不届き者が現れたのだ。

 というわけで、今年は餅まきの場所を変更したい。どこがいいだろう?

 弥彦神社には、参道から石段を上ったところに「随神門」という正面入口がある。この門をくぐると、「斎庭」と称する拝殿前の広場に出る。前回、餅まきが行われた広場というのがここである。これは東西47メートル、南北29メートルで面積は136平方メートルとかなり広い。

 最初は、この広場にやぐらを組んで、そこから餅をまくという案もあった。だが経費がかかる等の理由から却下。代案として、門の両側にやぐらを組み、そこから拝殿の方に向かって餅をまくことになった。

 かくして1956(昭和31)年元日午前0時、花火を合図に餅まきがスタートした。

 拝殿前の広場には、数にして約8千名の参拝客が集まっている。そこへ、やぐらの上から約2千個の餅がバラまかれた。

 8千名である、これだけでも事故が起きそうなものだ。実際、ちょっとした混乱はあって、悲鳴を上げる者もいたというが、餅まき自体は3分ほどで無事に終了した。

 問題はここからだ。餅まきも終わり、群集たちは帰路に着いた。人混みが一斉に動き始め、密集状態のまま、随神門を出て階段へと進む――。これが0時5~8分頃のことだ。

 多くの人々が急いでいたであろうことは、想像に難くない。バスで来た人は集合時間があっただろうし、また列車で来た人も帰りのダイヤが気になったことだろう。

 ところがそこで、反対方向から、到着したばかりの別の参拝客の一団がやってきた。

 折悪しく、ふたつの集団は石段の途中でかち合ってしまった。これが現代なら、往路は階段の右側を、復路は左側を…という形で区別して誘導していたかも知れない。だが当時は、群集をそんな形できめ細かに誘導するようなやり方は一般的でなかった。

 お正月カウントダウンどころか、ここからは惨劇に向かってのカウントダウンである。衝突した群集は押し合いへし合い、お祭り気分で飲酒していた者は面白半分に押す。中に挟まれた人は、逃げ場を失って場は大混乱に陥った――。

 ここからは、現場に居合わせた人々の証言を挟みながら経過を見ていきたい。なお、証言の文章は基本的に参考資料からの引用だが、ここに掲載するにあたり手を加えている。

 まずは、その場に居合わせた人の証言。

「花火の打ち上げが終わって5~6分経ったかと思われる頃、石段の下の方から異様な叫び声が聞こえ始めた」――。

 おそらくこの時、群集の衝突が始まったのだろう。

 次は、餅まき終了後に随神門から出ようとした人。

「12時40分の汽車に乗ろうと、門を出た。だが、出ようとする人と、入ろうとする人が階段の最下段あたりでぶつかった。石段を上ってこようとする人の顔が、最下段から参道にずっと続いていた」

「前後左右ぎっしりで身動きできなかった。押されながら3、4段下りたが、いくらもがいても体は自由にならない。胸が圧迫され、息が止まったかと思われた」

 一方、参拝に訪れて、反対に随神門に入ろうとした人の方はこう証言している。

「石段の下までたどり着いたが、立往生になった。後ろから押されて2、3段上ったが、また立往生。石段の上の方の人は、全員が下を向いていた」

「石段の途中で、両方向からの人波がぶつかって動きが取れず、胸を押されて息苦しくなった」

 この石段は15段。全体の高さは2.5メートルあり、幅は7.74メートルと比較的ゆったりしている。勾配も約17度とゆるやかで、普通ならばなんの問題もない造りだった。そう、普通の状況ならば……。

 石段の途中では、群集の圧力に耐えられず失神する人が続出。証言の中には「石段の上から押す者が多かった」というのもあり、力の加わりやすい最下段のあたりでも失神者が現れたという。

 そして0時10~15分頃、惨劇が起きる。大勢が折り重なって石段の下にダーッと転落したのだ。以下は、落ちた人の証言。

「足が宙に浮いたまま、3段くらい降りたかなと思ったとたんに、一斉に前の方へのめってバターンと倒れた。私の下にはたくさんの人がいた。みんなが悲鳴をあげていて、私も意識不明になった」――。

「後から押されて足が宙に浮いてしまい、2、3段降りると前に倒れた。下にも倒れた人が重なっていたので、下へ落ちたという感じはなかったが、後ろからも倒れてくるので挟まれて苦しくなった。苦しい苦しいという声も弱くなってきた。石段の下の方には人が一面に倒れて死んでいた」。

 なんとか脱出できた者もいた。

「上と下の両方から押されて苦しかった。前の方の人がどんどん倒れて折り重なり、一緒に倒されて死ぬかと思ったが、石段から飛び降りて脱出した」

「石段の中ほどの人たちが折り重なって倒れた。すぐ足を抜いて参道の脇に脱出したが、なおも押し合いが続き、石段には次から次へと人が倒れていった。その凄さはなんとも表現できなかった」

「上からの人波に押されて、石段の下に倒れた。だが起き上がって林の中に逃げ込んだ。石段の上から10人ほどの人が一度に落ちるのを2回ほど見た」

「石垣のそばの木に登ってみると、石段の下のあたりで人が3、4人くらい重なって倒れており、1.2メートルほどの厚みがあるように見えた」

「石段の下のほうでは人が一面に倒れて死んでいた」

 これだけで「もうたくさん」と言いたくなる惨状だが、実は事故が起きたのはこの石段だけではなかった。

 随神門を出てすぐ、石段との間には、左右に踊り場のようなスペースがあった。広さはそれぞれ奥行き2.3メートル、幅8.3メートル。そのスペースに入れば、随神門と石段を行き来する人をやり過ごすことができるような位置関係である。電車の待避線のようなものと考えてもらえればいいかも知れない。

 だが、この時はとてもやり過ごすという状況ではなかった。むしろ石段で人の流れが詰まったこともあり、この左右の踊り場の方へ押しやられる形になった人が多かったようだ。

 ここで事故が起きた。

 左右の踊り場には、玉垣があった。神社独特の設備で、ベランダの手すりのようなものである。その玉垣が、断続的な群集の衝突によってそれぞれ崩壊したのだ。

 この崩壊は、石段で転倒が起きたのとほぼ同じ、0時10~15分頃のタイミングと見られている。玉垣には鉄骨などの支えはなく、ごくシンプルな石造り。横から大きな力がかかるのは「想定外」だった。

 むちゃくちゃに膨れ上がった群集は、支えを失って高さ2.5メートル下に落下した。やぐらの上で餅まきをしていた人は、経過についてこう証言している。

「石段の付近は混乱状態に陥り、左右に膨れ上がった人波で玉垣が崩れた。転落した人の上に、密集から避難しようとする人々が飛び降りて、全く手のつけようもない状態になってしまった」

 以下は、現場に居合わせた人の証言。

「玉垣と一緒に2.5メートル下の地面に転落した人の上に、さらに人々が飛び降りてきて、人の山ができた」

「3~4人が重なって倒れており、足にすがって助けてくれという。引っぱっても抜けないし、大勢の人が頭の上を踏んでいく状況だった」

「倒れた人の山は高さ2メートル以上もあり、下になった人が死んだ」

 人々は地獄を目の当たりにした。石段には転倒した人の山。その両脇には、転落した人の山――。

 群集事故で恐ろしいのは、一箇所でこうした惨事が起きても、狂騒にすぐさまストップをかけることができない点である。

 当時、現場では照明設備も不足していた。また多くの警察官が交通整理の方に割り振られており、境内にいなかった。このため混乱は午前1時頃まで30~40分間も続いた。

 石段の上が大混乱になったのを見て、神社側では門(おそらく随神門だろう)の入口に梯子を横たえるなどの措置を取ろうとしたという。だが群集の罵声と暴行に妨害され、これは失敗した。

 こうして、わずか数分間の混乱で124名が死亡、77~91名の重軽傷者が出るに至った。死者のうち102名が窒息死。骨折や外傷による死亡は3名にとどまったという(残りは不明)。

 午前1時を過ぎた頃から、警察、地元の青年団、消防団などが救助作業を開始。負傷者は病院へ搬送、遺体は神社の拝殿や拝観所、また小学校の体育館などに安置された。

 正月のめでたさも一転、とんでもない大惨事になってしまった。原因は一体なんだったのだろう? これは資料によっていろいろ書かれている。以下で、簡単に箇条書きにしておく。

1・雪が少ない元日で、外出しやすかった。
2・前年が豊作で、経済的に余裕のある家庭が多かった。
3・公共交通手段が大きく発達し、遠方からの参拝者も多かった。
4・約1万3千人の参拝者に対し、警備の警察官は16人と少なかった(前年の参拝者は約1万人。ただし別の説では去年が2万人、事故当時は3万だったとするものもある)。
5・警察官がほとんど交通整理に回されていた(参道の雑踏警備に3人のみ配置されていた、とだけ書いてある資料もある)。
6・境内は照明が不足していた。
7・二年参りの習慣のため、午前0時を中心とする時間帯に群集が集中した。
8・餅まきを、危険な石段の近くで実施した。
9・列車が延着した。
10・一方通行の規制をしなかった。
11・事前に警察から、ロープや手すりを設置する提案があったが、神社はやらなかった。
12・参拝客が、現場の横の入口を使わなかった(使えなかった?)。

 この事故を受けて、国家公安委員会は、警備にあたった新潟県警察本部の責任を検討。その結果、県警本部長が引責辞任し、幹部たちも戒告・異動処分を受けた。

 また弥彦神社では、正宮司と権宮司2人が引責辞職している。

 最高裁の判決は、1967年(昭和42年)5月25日に下された(判例集 刑集第21巻4号584頁)。原文は長いので、趣旨を簡単にまとめるとこんな感じである。

「毎年たくさんお客が来るんだから、これからは足りるくらいの警備員を配置しなさい。あと一方通行にするとか、雑踏整理をすること。それから餅まきをするなら、時間と場所とやり方を工夫しなさい。そして最後に、お客が安全に帰れるように注意して、誘導とかするように」。

 今の時代から見ると、ごく普通のことを言っている気がする。

 逆に言えば、現在では「ごく普通」と思われている群集整理の措置は、こうした大事故の黒歴史を経てようやく整備され、そして一般化していったのである。

 以後、弥彦神社では、今日に至るまで餅まきは実施していない。

 また、参拝ルートも工夫された。まず中央の参道から入って参拝し、帰りは両側の小道を使う。そして境内では、所轄の西蒲警察署が参拝者の整理を行っているという。

 この神聖な神社で、こんな事故が起きることはもう二度とないだろう。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

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