◆生駒山コンサート事故(1999年)

 奈良県生駒山の上にある遊園地「スカイランドいこま」で発生した事故である。

 と言っても、この「スカイランドいこま」は当時の名称である。現在は「生駒山上遊園地」で通っており、もともとこっちが正式名称らしい。スカイランドというのは、開園70周年にあたる1999(平成11)年以降、しばらく使われていた愛称だそうな。

 ここで行われたロックコンサートで、事故は起きた。

 1999(平成11)年8月28日のことだ。大阪のFMラジオ放送局「エフエムはちまるに」の主催でコンサートが行われた。これにはSNAIL RAMPなど、十代の青少年に人気のある3グループが出演していた。

 会場の敷地は1,500平方メートル、収容人員は二千人。これに対し当時の観客数は1,500人だったそうだから、まあ人数的には特に問題はない。例によって、前日から徹夜で待機していた若者たちが、会場には詰めかけていた。

 主催者側も、スタッフや警備会社のアルバイト20人を配置していた(資料によっては40人とも)。ステージと観客との間は、奥行き2メートルほどの植木と、さらに鉄柵で仕切られている。うむなるほど、これなら、日比谷のコンサート事故のような事態は起こりにくそうだ。

 ただ強いて難点を挙げるとすれば、芝生の観客席が、ステージに向かって低くなる緩い下り勾配だった点だろう。もっとも、コンサート会場なのだからそういう造りなのは当たり前だとも言えるが、とにかくこれが仇になった点は否めない。

 時刻は13時。資料によると「4人組のロックバンドが一曲目の演奏を始めた」直後に、高校生たちが総立ちになったらしい。そして彼らはステージ前の柵に殺到した。

 で、お約束のすっ転びである。最初の1人に合わせて、約40人が悲鳴を上げながらバタバタと将棋倒しを起こした。

 こういうシチュエーションだと、1人が転んで、さらに後続の者がつまずいて折り重なる――というイメージが頭に浮かぶ。だが資料によると前方の人も巻き込まれたそうだから、下り斜面で後ろから押されたため、体を支えきれずまさしく「将棋倒し」になってしまった人もいたのだろう。下り斜面が仇になったと書いたのは、そういう意味である。

 この転倒で、せっかく設置された仕切りの鉄柵も、15メートルに渡って倒された。会場は騒然、痛い痛いと悲鳴があがる。最前列にいた女性が鉄柵に挟まれて足の親指を骨折するなど、計11名(女性10名、男性1名)が負傷した。

 以下は、巻き込まれた高校生たちの証言である。資料から引っぱってきたのだが、文字や句読点などは少し手を加えさせてもらった。

 高校生A
「前方まで人が詰めかけていたので、大丈夫かと心配だった。倒れた時は、人に挟まれて身動きできなかった」。

 高校生B
「開演前からすごい盛り上がりで、一曲目の演奏が始まってすぐに、男性が舞台に向かって走り、つられるように多くの人が動いた」。

 コンサートは約30分中断したのち、再開された。

 それにしても、死者が出ないだけラッキーだった感のある事故である。

 他のジャンルの事故と違い、群集事故というのはちょっと特殊である。どんなに過去の事例に学ぼうとしても、どんなに策を凝らしても、起きる時は起きるのだ。大勢の人間、斜面や突起物などの足場の状況、熱狂的な空気、他人につられての行動…。当研究室の読者は、どうか外出する場合はくれぐれもこういった要素に気をつけてもらいたい。

 コンサート会場で、大ファンだからといって熱狂したあげく怪我をしても、バンドのメンバーが喜んでくれることはないのである。むしろ事故が起きれば、そのバンドは活動自粛の憂き目に遭うか、あるいは30分後にはビミョ~な空気の中でコンサートを再開するしかないのだ。どっちみちイヤな話である。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆朝日新聞
◆ウィキペディア

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◆日比谷音楽堂コンサート事故(1987年)

 1987(昭和62)年4月19日に起きた事故である。

 東京都千代田区、日比谷野外音楽堂は多くの観客でごった返していた。パンクロックバンド「ラフィン・ノーズ」のコンサートが行われるのだ。3千席が、ほとんど十代の若者で埋まっていた。

 今の若い人は、ラフィン・ノーズと言われてもピンと来ないかも知れない。筆者もそうだった。

 このバンドは、かつて有頂天、ウィラードと並び「インディーズ御三家」と言われていた。大槻ケンヂや銀杏BOYZの峯田和伸、タレントで歌手の千秋などにも影響を与えたとか。

 筆者は筋肉少女帯は好きだ。だがロック史はよく知らないので、「へー」という感じだ。

 当時は、売り上げでも日本のロックグループの十指に入る程の人気だったという。反権力的なイメージで、「80年代のキャロル」と呼ぶ向きもあったとか。熱狂的なファンも多かったようで、事故当日は2日前から野宿して開場を待っていたファンもいたという。

 事故はこのコンサートで起きた。

 演奏開始は午後6時半(7時という資料も)。しばらくの間は、何事もなかったようだ。

 だが4曲目に差しかかった時のことだった。一部のファンが写真を撮ろうとした。これを見た後方のファンが、自分も前に出ようとした。そして、熱狂していた彼らは、ステージ上にまで上がった……。参考資料の言葉をつなぎ合わせると、経緯はそんな感じだったらしい。

 それにしても、ファンが「写真を撮影しようとした」ことが、なぜ「熱狂してステージに上がる」ことにまで繋がるのかよく分からない。筆者はちょっとしたライブ程度なら行ったことがあるが(パーキッツのやつだ)、コンサートというのはよく分からない。きっとそういう場の独特の空気というものがあるのだろう。

 こうして、将棋倒しが発生した。

 コンサートは中断。ラフィン・ノーズのメンバーが、後ろに下がるように客席に呼びかける。それで人の波は引いたものの、ぐったりしたファンが何人かステージ上に担ぎ上げられていた。

 さすがに演奏どころではない。コンサートは7時15分に中止となった。

 この日の夜、男女2名が収容先の病院で死亡。その後、重態だったもう一人の女性も死亡し死者は3人となった。全員が十代だった。負傷者は26人に上った。

 会場の警備は、一応それなりに行われていたようだ。当時の新聞の速報を読むと、80人の警備員が組織され、観客の誘導や周辺警備がなされており、さらにステージ裏にある詰所で3人の職員も警戒にあたっていた――とある。

 しかし現在、ネット上の情報を拾い集めると、当日は主催者側のスタッフが配置されていただけで、いわゆる「警備員」はいなかったらしいという話もある。

 ラフィン・ノーズは、この事故をきっかけに活動を中止した。

 パンクロックバンドという肩書きゆえだろうか、当時は「お前たちのせいで事故が起きたんだから責任を取れ」という趣旨のバッシングもあったようだ。活動を中止したというよりも、中止に追い込まれたと言えるかも知れない。

 現代の目線で見ると理不尽な気もするが、彼らが観客を煽った部分もあったのだろうか? 今となっては想像するしかない。

 その後は、ファンの希望で復帰して、解散したり活動を再開したり、メンバーがトラブルを起こしたりと、色々あったようだ。今も活動はしているみたいである。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
インディーズ御三家のひとつラフィン・ノーズが起こした事故と現在
Laughin' Nose伝説13 - So-net
ラフィン・ノーズHP
◆ウィキペディア

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◆松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)

 1961(昭和36)年1月1日、元日のことである。

 岩手県岩手郡松尾村(現八幡平市)の、松尾鉱山小学校でその事故は起きた。

 この日は午前9時から校内で新年祝賀会が開催されていた。例年、その後は映画会を開くことになっており、祝賀会が終了した9時30分頃には、児童たちが早く映画を観たい一心で廊下を駆けていた。

 会場は、学校から300メートル離れた場所にある鉱業所内の会館である。児童たちは外に出ようと、校門に近い西昇降口を目指していた。

 そして9時40分頃。彼らが2階の階段を下りたところで惨劇は起きた。

 きっかけは、階段を下り切った先頭の児童が、靴を履き替えるために立ち止まって腰をかがめたことだった。そこへ後続が押しかけたため、全体の流れが一瞬だけ詰まり、そのまま折り重なって倒れたのだ。

 後ろの方では何が起きたのか分からず、面白半分に階段の上から飛び降りる児童もいたという。こういうのが群集事故の恐ろしいところだ。

 教諭たちが駆けつけた時には既に10人が呼吸停止の状態で、13人が負傷していた(負傷は10人という資料も)。死者のほとんどは圧迫窒息死だったという。

 現場は、事故が起きてみると「なるほどこれは危ないわ」と納得してしまうような状況だった。この地域は豪雪地帯で、正月とあって校舎は雪に埋もれていた。そのため利用できる出入り口は限られており、その数少ない入り口の一つに児童が殺到した形だったのだ。

 また、現場の昇降口は暗かった。読者諸君は「雪囲い」というものをご存知だろうか。雪国では、建物や樹木が積雪でダメージを受けないように、板で覆ってロープでくくるなどして防護壁を作る習慣がある。現場の校舎でもそれが行われていたというから、おそらく窓などが覆われていたのだろう。咄嗟には状況が把握しにくい状態だったという。

 まして、子供たちは映画を楽しみにして廊下を走っていたのだ。薄暗い階段の下の状況などには思いが及ばなかったに違いない。

 この事故がどのように処理されたのかは不明である。

 ここから先は、この松尾村という地域について少し書いておきたい。事故災害ルポとして見ると完全に余談なので、興味のない方は読み飛ばしてもらっても大丈夫である。

 現場の小学校の名前からも分かる通り、この地域は鉱山町だった。その中心にあったのが松尾鉱山である。硫黄鉱石が採れるということで、当時は栄えに栄えた場所だったのだ。

 この鉱山が発見されたのは1882(明治15)年のこと。一時、その採掘量は「東洋一」とまで呼ばれるほどだった。

 さらに戦後、朝鮮特需で景気が良くなった昭和20年代には需要が増し、硫黄鉱石は「黄色いダイヤ」とまで呼ばれるほどになった。

 そこで、労働力確保の必要性もあって、松尾村は一気に整備された。公団住宅が一般的ではなかった時代だったにも関わらず、集合住宅は水洗トイレにセントラルヒーティング完備。また小中学校や病院も建てられ、福利厚生もばっちり。実に近代的な都市だったのだ。

 雪国東北の山間部で、当時こんな場所があったのか――。山形在住の筆者などは、資料を眺めてそんな風に驚いたものだ。実際「雲上の楽園」などと呼ばれたこともあったらしい。

 事故が起きた松尾小学校も、立派な鉄筋コンクリ製の近代的な造りで、最盛期は児童数1,800人に達したマンモス校だったという。

 だが人が増えれば、それだけ群集事故の危険性も高まる。群集というものの発生が近代特有の現象だと考えると、急速に近代化が進んだ松尾村という場所でこういう事故が起きたのは、暗示的だなという気もする。

 そして、この松尾村の「その後」である。

 そもそも、硫黄の採掘で栄えた鉱山町があった……などという歴史的事実そのものが、現代に生きる多くの人にとっては初耳か、あるいはすっかり忘れられた話に違いない。

 1960年代後半(昭和40年代)を境に、硫黄の価値は急落した。資源の枯渇、輸入の増加、需要減、そして安価に硫黄が生産されるようになったことなどがその理由である。国内の硫黄鉱山はどんどん閉山に追い込まれた。

 こうした流れで、松尾鉱山も1969(昭和44)年に強制的に閉山。翌年の1970(昭和45)年には住民も退去した。当時のアパートは現在は心霊スポットとして有名だそうだ。

 いくつかのサイトでざっと調べてみたが、事故の現場となった小学校は今は取り壊されたようだ。
 
【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆ウィキペディア

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