平将門の怨霊によって引き起こされた火災――だそうだ。
官庁街と言えば今では霞ヶ関だが、戦前は大手町に存在していた。
そして、いわゆる将門の首塚は、現在も大手町に存在する。つまり昔は官庁街と首塚が同居していたのだ。
そんなことを踏まえつつ、1940(昭和15)年6月20日のことである。
もともと、この日は将門の没後千年目という曰くつきの日だった。当時の東京市内はとんでもない悪天候で、人災が多発していたという。
まずは水不足である。この1940(昭和15)年というのは水道局始まって以来の渇水を記録した年でもある。大手町のみならず、市内では初めての時間給水が行われていたという。
そうかと思えば、この6月20日という日の天候は豪雨で、夜間はもはや視界が利かないほどの降りっぷりだったという。雨は降るのに渇水とはこれ如何に。
あげく、落雷も多発した。豪雨と足並みを揃えて関東地域にカミナリ様が来襲。市内でもほうぼうで火災が発生し、消防も大忙し。夜になっても約80台の消防車が出動していた。
これが将門公の怨念の力なのか…。
さて官庁街である。怨霊の猛威が荒れ狂っていた22時1分、大手町の逓信省航空局(※1)の煙突に雷が落っこちた。避雷針は壊れており、役に立たない状態だったという。
この雷が水道管を伝わり、建物の羽目板に火をつけた。当時、この辺りにあった庁舎はどれも関東大震災直後に急ごしらえで造られたものばかりで、防火設備も何も整備されていなかった。さらに屋内にはガソリンや石炭などの燃料も貯蔵されており、なるほどこれでは燃える。たちまち炎に包まれた建物から宿直員は命からがら逃げ出した。
避難するのに精一杯で、火災報知器は押されなかった。そして先述の豪雨で見通しが悪かったため、望楼勤務員(※2)による火災の発見も遅れた。こうして通報は遅れに遅れた。
もっとも、仮に通報がすばやく行われたとしても、対応は難しかっただろう。当時、消防は相次ぐ落雷被害のためてんてこまい。猫の手も借りたい状況だった。
官庁街が炎に包まれていく――。
よりによってこの時の風速は7.3メートル。向かい風なら、人間は歩けなくなるほどの強さである。
これを僅か3時間で鎮火させたというから、消防も大したものだ。出火場所が皇居に隣接していたというのもあり、消火活動は本気の本気で行われたに違いない。
鎮火したのは、日付も変わった午前1時のことである。
焼損面積は2万422坪(6万7,558平方メートル)。およそ3時間あまりで大蔵省、企画院、中央気象台、厚生省、東京営林局、神田橋税務署などの21棟が全焼した。
犠牲者は2名。どちらも警防団員で、殉職だった。負傷者も107名に上った。
復旧作業は迅速に進められた。日中戦争真っ只中、資材の不足も著しい時代である。それでも焼け落ちた官庁街の建物は、それぞれ鉄筋コンクリートかもしくは木造の準防火作りに生まれ変わっていった。
また、建物と建物との間には大きく空間を作り、防火水槽、屋内消火栓、火災報知機、避難階段も設置された。現代の視点で見れば「えっ今までなかったの?」という気もするが、どうも官庁というのは特別で、建築物に関する法律がそのままでは適用されなかったらしい(今はどうだか分からない)。官庁向けの建築基準法にあたるものが示されたのも昭和26年のことで、「官公庁施設の建築等に関する法律」(官公庁営繕法)の公布によって、これらの建物はやっと「燃えなくなった」のである。
当時の自然の猛威は、ひょっとすると本当に将門公の怨念のなせる業だったのかも知れない。だが被害がこれほどのものになったのは、純粋に防火設備の不備のせいだった。
次に将門公の祟りが起きるのは、没後千年と百年目にあたる2040年あたりだろうか。今度は平穏無事に済んでほしいものである。
(※1)逓信省(ていしんしょう)……戦前の日本で、郵便や通信を管轄していた中央官庁。大まかに言えば、今の総務省、日本郵政(JP)、日本電信電話(NTT)の前身にあたる。
(※2)消防署の監視職員。
【参考資料】
◆消防防災博物館
◆ウィキペディア
◆国書刊行会『写真図説 日本消防史』
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