◆秋田市川尻山王体育館将棋倒し事故(1957年)

 1957(昭和32)年5月18日のこと。

 秋田県秋田市川尻にある、市営の山王体育館で起きた事故である。

 その日は、この体育館で人気歌手のショーが開催されることになっていた(この歌手が誰なのかは不明)。

 てゆうか、事故が起きた午後の時刻には、もう1回目の公演が終わったところだったらしい。それが午後1時20分頃のこと。

 問題は第2回目の公演である。

 この日の人の入りについて、主催者と警察は前もって打ち合わせをしていた。おそらく2回目の公演には6,000人ほどの人が来るだろう。事故を起こしてはならぬ――。

 資料を読んでいると、主催者と警察は、群集事故の防止のためにできうる限りの手を打ったようだ。

 まず、会場の体育館の正面入口8箇所のうち、左側の4箇所を閉鎖。そして右側だけを開放し、それぞれの入口の前に入場者を並ばせた。

 そうして、入場の際には警察官が誘導し、4列を2列に変える。その時に割り込みする不届き者がいないようにと、入口の両脇には長机を置いてガードした。

 さらにその長机の傍らには係員を配置。この人が、入場者から半券を受け取るわけである。

 体制は万全。もう、正午頃にはさっそく人が集まってきていたようだ。打ち合わせに基づき、4箇所の入口の前で4列に並ばせる。さらに列の随所に、警察官と整備員を配備。

 第1回の公演が終わる30分も前から、係員たちは群集に拡声器でこう呼びかけた。

「いいですか皆さん、割り込みした人は入場を拒否します。また、切符は一人一枚、各人で持つようにしてください。出入り口には敷居があるので、足元にはくれぐれも気をつけて下さい」

 ここまでやれば大丈夫だろう、事故なんて起きないだろう、って普通思うよね。

 だがしかし、それでも事故は起きる。考えてみれば、起きるまいと思っていても起きるから事故なのだと言えばそれまでなのだが、その原因が群集心理に取り付かれた脳たりんのせいなのだから実にやり切れない。

 てなわけで、残念ながら事故は起きた。

 午後2時に入場が開始。最初、人々の流れは順調で、最も前部の20人くらいまでは問題なく入場できたようだ。

 午後2時20分。ここで、後ろに並んでいた一部の人間がご乱心あそばした。係員の制止を振り切り、列を乱して入口に殺到したのである。

 あーあ。6,000人のうち、たったの20人が入場したばっかりなのに早速これだよ。

 場は混乱に陥った。そしてそのさ中、入口を通ろうとしていた一部の人が、長机の足や敷居につまずいて転倒。そこへ人々が折り重なり、7~8人が肋骨亀裂等の負傷を負ったのだった。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
災害医学・抄読会 2003/12/12
 

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◆和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)

 1957(昭和32)年2月6日のことである。

 時刻は午後6時。和歌山市民会館前の道路には、4列縦隊で500メートルにも及ぶ人の行列ができていた。街角を幾重にも折れ曲がる行列だったというから、ちょっと異様な光景である。

 理由は、会館でこの日開催されていた人気歌手の歌謡大会である(この人気歌手というのが誰なのかは不明)。

 資料によると、第3回公演の開場が午後6時からだったとあるから、この日はすでに2回の公演が終わっていたものと思われる。

 人々は午後1時頃からすでに集まってきていた。開場の頃にはその人数たるや6,000に達していたそうな。

 とはいえ、主催者側もそこは心得ていた。あるいは、前年の大阪劇場の事故の例に鑑みたのかも知れない。会館側・所轄警察署・興行者の3者は事前に相談しており、人々をきっちり並ばせた上で108人の警察官を配備する――などの措置を取っていた。

 ここまで読むと「たいへんよくできました」なのだが、それでもなぜか事故は起きた。

 開場し、隊列が進み始めて間もなくのことだ。行列の後ろの方にいた人たちが、「入場できないのではないか」と不安になったらしい。せっかくの整列を乱して、前へ前へと押し進み始めたのだった。

 これで2人の女の子が押され、胸部圧迫の負傷をした。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
災害医学・抄読会 2003/12/12

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◆大阪劇場将棋倒し事故(1956年)

 かつて、大阪市南河原町には、大阪劇場――通称「大劇」なるものが存在していたらしい。

 らしい、というのは、現在この劇場は存在していないからである。なんでも、日本ドリーム観光という総合観光企業が運営というか管理というか、そんな感じでやっていたようだ。

 このドリーム観光、ウィキペディアでざっと見てみただけでも、相当イケイケな企業だったことが分かる。大阪劇場だけを見ても、少女歌劇団や人気歌手の歌謡ショー、映画俳優の演劇など、かなり面白いことをやっていたようだ。

 で、こういうショー全般を「実演興行」という独特の名前で呼んでいたそうな。今回ご紹介する事故は、この実演興行にからんで発生した。

 1956(昭和31)年1月15日のことである。くだんの大阪劇場では、早朝から人の列ができていた。

 なにせその日の実演興行では、美空ひばりがやってくるのである。大勢の人がやってくるのもむべなるかな。劇場側ももちろん心得ており、行列整理のために柵を設けてロープも張って、列なす人々を2列に分けて並ばせた。

 午前8時30分に、切符売り場では出札が開始。しかし窓口が2つしかないため、行列は遅々として進まない。15分ほどでやっと600人をさばいたものの、その間にも行列はどんどん伸びていく。この時、行列の長さは200メートルをゆうに越えるほどだったという。

 それでも、記録を読む限りでは、目だった混乱はなかったようである。ただ、みんな若干イライラしていたのではないかな、と想像できる程度だ。

 これが一転して大惨事になったのは、ひとえにたった一人の不届き者のせいである。時刻は午前8時45分。事もあろうに、この行列の中に蛇の死体を投げ込んだ者がいたのだ。

 ひゃあ蛇だ。そんなもの、誰もお近づきにはなりたくない。並んでいた人々はびっくりしてそれを避けた。主体が群集なだけに、きっとエーリッヒ・フロムならこう言うことだろう。「自由からの逃走ならぬ、蛇からの逃走だね!」

 失礼。だがつまんない冗談をほざいている場合ではない。人々が蛇を避けた結果、人混みの中に隙間ができたのだ。そしてできるだけ列を詰めようとする動きがあり、その隙間に対して急に人が流れ込む形になった。

 ここで将棋倒しである。思いがけない動きにバタバタバタッと転倒者が発生し、その結果1人が圧死。9人が重軽傷を負う惨事になってしまった。

 この事故については、ここまでである。

 この手の群集事故は、少なくともこの頃は、大きな刑事事件として扱われることは滅多になかったようだ。だから犠牲者の年齢性別は不明であるし、肝心の、人混みに蛇を投げ込んだ者は一体誰なのか、という点についても以下同文である。過去の群集事故には、こういう後味の悪さ、歯切れの悪さがある。

 それにしてもこの事故、「人混みの隙間をできるだけ詰めようとして」という、何気ない動きから大惨事になったのだから恐ろしい話た。こういう心理は日常生活の中でもままある。車の行列で並んでいるとき、前の車がちょっとでも動くと、つられるように前に出てしまったりするものだ。だがそういう場合も気をつけなければいけないのである。

 ちなみに余談だが、この大阪劇場の管理会社として名前を挙げた日本ドリーム観光は、かの千日デパートの管理運営も行なっていたらしい。なんだか事故に縁のある企業である。似たような企業に白木屋があって、こういう形で他の事故とのつながりを発見したりすると、思わず「おう奇遇だね」と、友人にばったり出会ったような気持ちになったりするのは筆者だけだろうか。たぶん筆者だけだろう。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
『第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書』29章「国内で発生した主な群衆事故」
災害医学・抄読会 2003/12/12
 
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◆函館大火(1934年)

 函館大火――。この巨大火災についてお話しするにあたっては、白木屋火災と同様に、まずは寺田寅彦先生にご登場頂くことにしよう。彼が『函館の大火について』という文章を書いているのだ。

「昭和九年三月二十一日の夕から朝にかけて函館市に大火があって二万数千個を焼き払い二千人に近い死者を生じた。実に珍しい大火である。」

 ここで思わず「は?」と聞き返したくなるのは筆者だけではあるまい。なんだその「二千人」って。二十の間違いじゃないの? あるいは、多くても二百とかじゃなくて――?

 ところが間違いではないのである。正式な死者数は2,166名で、いくら大火とはいえ目を疑うなという方が無理な話だ。

 どうしてこうなった。一体この日、函館で何が起きたのだろう?

   ☆

 改めてご説明しよう。時は1934(昭和9)年3月21日のことである。場所は言うまでもなく、北海道の函館市だ。

 当時は、日本列島付近で巨大な低気圧が渦巻いていた。午前6時の時点ではまだ日本海の中央に腰を据えており、大きな動きはなかったのだが、これが午後6時頃には東北地方から北海道南部までの範囲に接近。猛烈な風を吹き募らせ始めたのだ。北海道では、最大瞬間風速39メートルを記録したという(ちなみにこの風速は、「身体を45度に傾けないと立っていられず、小石も吹き飛ぶ程」のものである)。

 函館でも、火災が起きる前からこの強風による被害が相次いでいた。家屋は倒壊するわ屋根は飛散するわ、あげく電線まで切れる始末で、すでにして街は滅茶苦茶だったのである。

 火災が発生したのは午後6時35分。函館市の南端の地区で一軒の住宅が半壊し、屋内にあった囲炉裏の火が風で散った。これが、街中に火をばらまく結果になったのだ。

 この辺りの経緯を、寺田はこう書いている。

「この時に当たってである、実に函館全市を焼き払うためにおよそ考え得らるべき最適当の地点と思われる最風上の谷地頭町から最初の火の手が上がったのである。」

 一応ひとつ書き添えておくと、筆者の手元にある資料では、最初に火の手が上がったのが「住吉町」となっている。寺田が文章を書いた時点ではまだ火災の全貌が明瞭でなかったそうなので、情報も整理されていなかったのかも知れない。

 まあでも、この直後に街全体が焦土と化した事実に比べれば、些細な記述の違いなどちっぽけなものである。函館市内で発生した炎は猛烈なつむじ風に乗って次から次へと燃え移り、街はたちまち火の海となった。

 しかしなんでまた、そんなに簡単に街が焼けてしまったのだろう?

 ここでまた寺田による説明なのだが、まず風の強さの問題があったという。火災の場合、風は強ければ強いほどいい。なぜならそれで吹き消されるからだ。だがこの時に函館で吹いていた風の勢いは、炎を消すほどでもない微妙なラインのものだったのだそうだ(筆者としてはどうも腑に落ちない説明なのだが、本当なのだろうか?)。

 それから第二の問題として、「延焼の法則」とでも呼ぶべきものがあった。

 大火の場合、発火地点からどのような形で延焼するかは、これはもうある程度は自然法則的に確定するものなのだそうだ。例えば江戸時代に発生した複数の大火の焼失地域を調べると、ほとんど決まって火元から「半開きの扇形」に延焼しているという。

 ではこれらの法則に照らし合わせてみた場合、当時の函館というのはどうだったのか。これについては寺田曰く、

「これはなんという不幸な運命の悪戯であろう。詳しく言えば、この日この火元から発した火によって必然焼かれうべき扇形の上にあたかも切ってはめたかのように函館全市が横たわっていたのである。……(中略)……要するに当時の気象状態と火元の位置とのコンビネーションは、考え得らるべき最悪のものであった」。

 とのことである。それにしても寺田先生、文章がノリノリだなあ。

 とにかくこんな理由もあって、火焔はみるみる拡大していった。先述したように烈風のため電線も切れており、街全体が停電している中での火災である。これもまた寺田の言う「最悪のコンビネーション」であろう。

 さらに、街全体に吹き付けていた風が時計回りにころころと進路を変えやがったせいで、延焼範囲はそっちこっちに及んだ。消防はこの火炎の流れに翻弄されながら、ほぞをかむ思いだったことだろう。

 函館市は、もともと風が強い港町である。よって昔から大火は頻発しており、変な言い方だがそれで「大火慣れ」していた部分もあったらしい。100や200の家が焼けた程度では大火とは呼ばない……という言い方はさすがに大げさかも知れないが、とにかくそういう感覚に加えて、消防施設や街並みが近代的になっていたがゆえの油断、というものもあったようだ。

 翌朝、ようやく鎮火した時には、街はまるで空襲の後のような有様だった。当時の写真がネット上でも結構見られるのだが、本当に爽快なくらいに何も残っていない。文字通りの焼け野原である。

 人的被害については、最初に述べた通り犠牲者が二千人にも及んだわけだが、これは火災のせいばかりでもなかった。避難した先の海岸で波浪に襲われて大勢が溺死したとか、避難先で百人近くが凍死したとか、気象による被害も大きかったのだ。

 ここまで来ると、ほとんど天変地異である。この日函館を襲ったのは大火というよりも、純然たる「自然の猛威」だったのだ。

 負傷者は9,485名、焼失家屋は11,105戸に上った。

   ☆

 これが世に言う「函館大火」である。

 先述した通り、函館で火災が発生すること自体は珍しいことではなかった。現に寺田も「この原稿を書いている時にまた函館で火災が起こった」という趣旨の文章を書いている。しかしそれら数ある火災の中でも大火中の大火、まさに「ザ・函館大火」と呼ぶにふさわしいものは、この1934(昭和9)年3月21日に発生したものなのだ。

 いくら忘れっぽい日本人でも、さすがにこの大火を忘れてしまえという方が無理な話だろう。函館では、今でも火災が発生した日には慰霊祭が執り行われているという。

 また、比較的最近のニュースでも話題にされていたことがあった。例の東日本大震災の後、函館の市民有志が被災地の子供たちへ児童書を寄付したのだ。

 実はこれは「恩返し」でもあるのだった。函館大火の直後、当時の函館図書館の館長が、被害に遭った子供の心を癒すためにということで、全国からの児童書の寄贈を募っていたのである。その結果、図書館・出版社・学校などから12万冊が寄せられたのだ。

 東日本大震災における函館市の支援は、これにとどまらない。例えば岩手の沿岸地域には舟を寄贈するなどしている。

 おそらく本州の人間にとって、函館大火は「忘れられた災害」でしかないことだろう。だが地元の人々にとってこの災害は、今でも生きた記憶として残っているのである。

 実は、筆者が本稿を最初にものしたのは、東日本大震災が発生するよりも前のことだった。その後、ニュースでこの函館市の支援活動を見た時には思わず目頭が熱くなったものだ。よってこうした記録も書き添えておく次第である。

【参考資料】
◆『寺田寅彦全集』岩波書店(1976年)
◆函館市消防本部ホームページ
◆ウィキペディア他

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◆大日本セルロイド工場火災(1939年)

 先に、白木屋火災の項目で「燃えやすいセルロイド」と書いた。

 で、セルロイドとは一体何なのかというと、これは合成樹脂の一種である。プラスチックの親戚というかご先祖様にあたる代物で、過去にはアニメーション作成でも使用されていた。「セル画」というのがそれだ。

 このセルロイドが、実はとても燃えやすいのである。現在では消防法上の危険物の一種と見なされており、その扱いには相当の注意を要するという。

 今回ご紹介する事例は、そのセルロイドのせいで発生した火災である。しかもその規模は、はっきり言って白木屋の比ではない。セルロイドの危険性ここに極まれり、開いた口も塞がらない大惨事をご覧あれ。

   

 1939(昭和14)年59日、午前923分頃のことである。

 場所は東京都板橋区、志村小豆沢(しむらあずさわ)。大小様々の工場が立ち並ぶ工業地域である。

 もともと、板橋区周辺というのは火薬にまつわる施設が多かった。例えば江戸時代には和光市の花火屋があり、江戸末期には高島平の大砲試射場があり、そして明治には下板橋の火薬工場があり……といった塩梅である。これがこの地域の伝統産業だったらしい。

 そして1939年といえば、二年前に日中戦争が勃発したばかり。小豆沢には、軍需生産にひと役買っていた工場も複数存在しており、大日本セルロイド工場㈱東京工場もそのひとつだった。

 火災のきっかけになったのは、この日工場に入ってきた一台の貨物自動車だった。

「まいどーっ! セルロイドの屑を持ってきました~」

 この時持ち込まれたセルロイドの屑が何に使われる予定だったのか、それは定かでない。とにかくここで、運転手がなんの気なしに煙草をポイ捨てしたからさあ大変。気が付くと、荷台の麻袋が火を噴いていた。中にはセルロイドが詰まっている。

「わあ大変だ、消せ消せ!」

 ところがこの日の風速は9メートル。しかも工場内の防火設備はお粗末そのものだった。一応、防火水槽も設置してあったが、あっという間に構内が火に包まれたので利用する暇もない。また悪いことに、当時の工場の多くは木造建築で、ほとんど為す術もなく火焔は飛び火した。

 その飛び火した先もまずかった。お隣の日本火工㈱は火薬や照明弾を製造しており、なんとこの日は火薬の加工品を露天で乾燥させていたのだ。当時は強風とはいえ天気は快晴で、天日干しにはちょうどいい環境だったのだろう。

 ポン、ポポン。最初は小爆発で済み、工員たちが消火活動を行なう余裕もあったようだ。

 だが、この直後に大量の火薬に引火したことで、この火災は最終的に「戦前四大火災」の一つに数えられる程の大惨事となったのである。

 大爆発を繰り返すこと三回。この時の爆発音は東京市内全域に響き渡り、爆発と共に照明弾があちこちに飛散するお祭り騒ぎになったという。

 消防隊が駆けつける。しかし、水利もとんでもなく悪かった。消火栓は近くの中山道に点在していたのだが、これは火災現場からはあまりにも遠すぎた。付近には河川もなく、少し離れたところに自然水利を求めるべく、ホースを63本も延長した消防隊もあったという。

 想像するだにやるせない話だ。モタモタと63本ものホースを接続している間にも火災は拡がる。当時の消防隊員の気持ちや如何に。

 火災現場では、飛び火が留まるところを知らなかった。周囲の複数の工場からも続々と火の手が上がる。

 特にひどいのが大日本軽合金㈱への延焼で、ここには大量のマグネシウムがあった。マグネシウムは燃えやすい上に、水をかけても消えない。むしろ水によって激しく燃焼するため、火災においては化学消防の技術を要するのである。

 ようやく鎮火したのは午後五時のことだった。

 爆発の範囲は半径500メートルの範囲にまで達し、うち150メートル以内は、なんかもう、空襲が一足先にやってきたような状態だったという。死者は32名、負傷者245名、全焼88戸、半焼6戸、焼失面積は10,890平方メートルに及んだ。

 この火災への対応で出動したのは、板橋警察署と隣接警察署、警視庁特別警備隊それに「赤羽工兵大隊」「近衛一連隊」そして各憲兵隊などだった。また事後処理においても東京市の「社会局」と「市民動員部」なる組織だか部署だかが、被害者に対して弔慰金や見舞金を出したそうだ(時代が時代なので、見たことも聞いたこともない組織名ばかりである)。

   

 セルロイドは当時から危険物と見なされていた。1938(昭和13)年9月には「セルロイド工場取締規則」が定められるなど、現場での厳重な管理が求められていたのである。

 だが、それでもセルロイドによる火災は頻発していた。現場ではルールが必ずしも遵守されていなかったか、あるいはルールが現実に合っていなかったのだろう。

 またこの頃は、重工業を中心とした軍需産業が大盛況を迎えていた。時代の要請に追われて急ピッチで生産作業が進められていた現場では、色々と無理もあったのではないか。

 例えば、この年の31日には大阪の枚方(ひらかた)陸軍倉庫でも火薬庫が大爆発し、800家屋が全焼、死者10名・行方不明者38名という事故が発生している。また翌年には西成線(今のJR桜島線)で、工業地域への出勤者を乗せた列車が脱線転覆するという惨事が起きており、これは国内の鉄道事故史上ではトップクラスの死者数である。

 事故災害のことばかり調べていて気付いたことがある。この、昭和10年代から東京オリンピックまでの数十年間というのは、驚くほど多くの日本人が人災で命を落とした時代だったのだ。

 考えてみれば、例の戦争だって敗戦した以上は国家レベルでの過失・人災、つまり事故災害だったと言えなくもないわけで、なるほど大量死の時代だったのだなと思うのである。

【参考資料】
ウェブサイト「消防防災博物館」
『東京の消防百年の歩み』東京消防庁(1980年)


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◆白木屋火災(1932年)

 記念すべき――なんて枕詞は不謹慎に違いない。だが事実として、日本で最初の高層建築物火災である。この白木屋火災について、寺田寅彦は「火事教育」という文章の中でこう記している。

「旧臘(きゅうろう)押し詰まっての白木屋の火事は日本の火災史にちょっと類例のない新記録を残した。犠牲は大きかったがこの災厄が東京市民に与えた教訓もまたはなはだ貴重なものである。」

 時は1932(昭和7)年12月16日、午前9時15分頃のこと。当時の東京市日本橋(現東京都千代田区)にあった「白木屋百貨店」で火災が発生した。

 この白木屋百貨店は、地上8階地下2階という高層ビルである。火の手が上がったのは、4階の玩具売場からだった。

 原因は電球のスパーク。男性社員がクリスマスツリーを修理していたところ、飛び散った火花が大量の玩具に燃え移ったのだ。この頃の玩具には燃えやすいセルロイドが使われていたせいもあり、火はあっという間に燃え広がった。

 時代が時代なので、防火扉やスプリンクラーなどという気の利いたものも存在しない。火炎も煙もたちまち建物を舐め、白木屋の上階は程なく猛煙と熱気に包まれた。

 この時の状況について、寺田はさらにこう書いている。

「実に幸いなことには事件の発生時刻が朝の開場間ぎわであったために、入場顧客が少なかったからこそ、まだあれだけの被害ですんだのであるが、あれがもしや昼食時前後の混雑の場合でもあったとしたら、おそらく死傷の数は十数倍では足りず、事によると数千の犠牲者を出したであろうと考えるだけの根拠はある。」

 ちなみにこの「予言」が見事に的中した事例が、白木屋火災の約40年後に発生した太洋デパート火災である。さすがに数千の犠牲者とまではいかなかったが、死傷者は確かに白木屋の数十倍に及んだ。

 さて、白木屋火災における最終的な死者数は14名に上った。この中には、火災を発生させた男性社員も含まれていた。

 さらに細かく死者の内訳を見ると、8人が女性である。彼女たちは6~7階の高層階から落下して死亡しており、その際の状況についても記録が残っている。少し詳しく見てみよう。

 まず、8名中3人は投身によって死亡した。うち2人は大の仲良しだったそうで、煙に追い詰められたところで名を呼び合って投身したという。ちょっと百合の世界めいたお話だ。

 また、どうも真偽のほどは定かでないのだが、当時の野次馬の中には「激励」して投身を促したアホがいたらしい。寺田はこれを「白昼帝都のまん中で衆人環視の中に行われた殺人事件」と憤りを込めて呼んでいるが、もしこれが本当なら、飛び降りで死亡したもう1人の女性というのはこれだったのかも知れない。

 また死亡者のうちさらに3人は、帯などを結びつけて命綱を作り、それで脱出しようとしていたという。だが煙にまかれるうちに手を離してしまい、結局転落した。

 さらに2人は、ロープを使って避難を試みた。だが1人は途中で建物のブリキにひっかかって落下。もう1人は不運にも火災の熱でロープが焼き切れたという。

 そして最後の1名は、雨樋を伝って脱出したが途中で力尽きたのだった。悲惨な話だ。

 最終的に、白木屋百貨店は4階から8階までが焼けた。大火事である。ポンプ車は29台、梯子車も3台出動したというから、改めて火災の規模の大きさが分かる。

 おそらく、当時の消防はこれほどの高層建造物での火災は想定していなかったに違いない。防災システムが時代に追いついていなかったのだ。無事に救出された人々も、多くは自力で脱出したか、あるいは消防隊員の軽業で辛うじて助け出されたという。

   ☆

 さて。

 ちょっと話は変わるが、白木屋百貨店の火災と言えばすぐに「女性の下着」を連想される方も多かろう。「近代以降の日本で、女性が下着をつけるようになったのはこの火災がきっかけだった」という都市伝説があるのだ。

 いわく、当時の女性たちは和装が主であった。よって腰巻を着用することはあっても、今のパンツにあたるような下着をつける習慣はなかった。死亡した女性従業員たちは、地上にいる野次馬から自分の陰部を見られるのを恥ずかしがったためロープから手を離し、それで転落死した……と。

 これがきっかけとなり、女性がズロースもしくはパンツを着用する習慣が始まったというのである。

 だが実際のところは先に書いた通りである。「野次馬から覗かれるのを気にして転落し死亡した」という女性は一人もいなかったのだ。

 これはどうしたことだろう。一体、この都市伝説はどこから生まれたのだろうか?

 この謎については、井上章一が『パンツが見える。羞恥心の現代史』の中で解明を試みている。井上の検証はかなり緻密で徹底したものだが、あえてかいつまんでまとめると以下のようになる。

① 高層階の女性たちは命からがら脱出したはずで、覗かれることを気にする余裕はなかったと思われる。だが比較的低い階の女性たちは、迅速に避難することよりも、覗かれることを気にするだけの精神的な余裕があったかもしれない。それがごっちゃになったのではないか。

② 当時の白木屋責任者が、事件後に「死者が出たのは下着をつけていなかったせいだ」とコメントすることで、さり気なく責任逃れを図っている。これが誇張されて後世に伝わったのではないか。

③ 白木屋火災に関係なく、当時は女性の服装が和服から洋服へと移行し始めた時期だった。それは単なる流行だったのだが、たまたま白木屋火災があったので話が結びつけられたのではないか。

④ 「ノーパンの女性が恥じらいのあまり転落死した」というエピソードは印象に残りやすい。なまじ性にまつわる事柄なだけに、尚更である。

 ――とまあ、こんな具合である。

 筆者も、この「白木屋ズロース伝説」の真相はこんなもんだろうと思う。女性たちが恥じらいのあまり悲劇の墜死を遂げたなどというのはあまりにドラマティックで、かえって現実味が感じられない。作り話であろう。

   ☆

 ところで白木屋だが、これはもともとは江戸時代から続く呉服屋の老舗で、大名や奥方なども利用する由緒正しい大企業だった。

 しかし昭和に入ってからはこのように火災が起きたり、一部の強欲な実業家から株を買い占められて乗っ取られそうになるなど、その後はけっこう苦労している。

 そんな経過があり、最終的には東急グループに吸収され「東急百貨店日本橋店」としてしばらく営業していたが、1999(平成11)年にはこれも閉店し、ついに創業以来350年の歴史に幕を閉じている。

 ちなみに少し補足すると、白木屋を乗っ取ろうとした強欲な実業家というのは横井秀樹のことである。後年に大火災を引き起こしたホテルニュージャパンのオーナーだった人物だ。この人も、なんだかやけに火災に縁のある人生である。

 火災、都市伝説、いわくつきの実業家との関係……。どうも白木屋というと、こういう奇妙なエピソード満載のヘンなお店、というイメージが真っ先に湧いてしまう。

 完全に余談だが、これも付け加えておくと、1926(大正15)年9月23日に脱線転覆事故を起こした「特急列車一・二列車」が

【参考資料】
◆井上章一『パンツが見える。――羞恥心の現代史』朝日選書(2002年)
◆『寺田寅彦全集』岩波書店(1976年)
◆ウィキペディア他

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