◆日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)

 日本カーリット株式会社という組織を、筆者は今日の今日まで知らなかった。

 それが、たまたまウィキペディアの爆発事故の項目に名前が出ていたのでチェックしてみたら、なんとまあ、れっきとした一流企業である。電気系化学品や電子材料などの製造販売を行なっており、持株会社のカーリットホールディングス株式会社は第1部にも上場しているそうな。

 ただその製造品目のラインナップを眺めてみると、自動車に搭載される発炎筒や産業用の爆破材料などといったものもある。なるほど。ここらへんに、爆発事故が起こりうる要素があるわけだ。

 そもそもカーリットとはある種の爆薬の総称のことらしい。1916(大正5)年の創業から、この会社はそれを中心的な品目として作り続けてきたのだ。

 さてそれで以上を踏まえて、1955(昭和30)年8月2日のことである。

 時刻は午前10時45分。横浜市保土ケ谷区仏向町1625にあった日本カーリット工場の第6填薬室で、火薬の充填作業が行なわれていた時だった。火薬に異物が混入し、それとの摩擦が原因で火がついたのである。

 どぼずばああああああん。

 爆発は一度だけでは済まなかった。同じ場所にあった600キロの火薬にも引火。もひとつおまけに、手押し車で搬送されていた400キロの火薬にも引火した。

 もっとも、何もかもが木っ端微塵になってしまったため誘爆の経緯は全く不明である。であるからして、先に書いた「どぼずばああああああん」がどの時点で発生したと言えるのかは定かでない。とにかく、遠くから見ていた目撃者によると爆発は複数回あったというし、工場内には百キロ単位であちこちに火薬があったという。だから全部連鎖して爆発したのだろうと推測されるだけだ。

 この工場は山間の土手に囲まれた場所にあったのだが、爆発によって土手はほぼ半分が吹き飛んだという。また100メートル離れたところにあった事務所は窓ガラスが粉砕、土砂が屋根に5センチ近くも積もった。

 そして爆発に巻き込まれた3名が死亡。負傷者は19名に及んだ。

 大惨事である。だが合計1トンもの火薬の爆発にしては、被害は比較的小さいほうと言えるだろう。それもそのはずで、現場の工場はこういった場合を見越してひと気のない山間部に作られていたのだ。

 この日は、ちょうど前日に、東京都墨田区の花火問屋爆発事故があったばかり。この日本カーリット工場の事故が、世間の注目を集めたであろうことは想像に難くない。

【参考資料】
◆ウィキペディア

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